第十五話:お別れの日
扉の開く音がした。
「おかあさん、いる?」
「……歩?」
「うん」
ベッドに寝たままの姿勢で、渚は視線だけを動かして歩の姿を確認する。
やがて歩は小走りにベッドまで近寄ると、もう慣れてしまった手つきで脇にあるパイプ椅子を使い、そこに自分から腰掛けた。
「今日も、お見舞いにきてくれたんだね」
寝たままの体で渚は呟く。
その目は半分ほど閉じかけ、まだ眠気が残っているようにも見えた。
「うん。ちゃんと、まいにちくるよ。だからおかあさん、はやくげんきになってね」
「……そう、だね。早く、元気にならなくっちゃね」
「うん。そしたらまた、いっしょにすいぞくかんにいこう」
「……うん。約束、だもんね」
渚は小さく微笑み、歩の頭を優しく撫でた。
「あのね、きょうはおかあさんに、プレゼントがあるんだ」
「……プレゼント?」
「そうだよ。ほら……」
言いながら歩は、背負ってきたバックの中から筒状に丸めたそれを取り出す。
「あけてみて」
そう言って差し出された筒を、渚はしっかりと両手で受け取る。
ゆるく結ばれた紐を解き、一枚の画用紙を大きく広げてみた。
そこには
「……これ、この前の水族館で見た、クジラさんね?」
青と白を基調とした、空の海を泳ぐ白いクジラが描かれていた。
「うん。おかあさん、きょうはおたんじょうびでしょ。だから、ぼくからのプレゼント」
「……ああ、そっか。お母さん、今日が誕生日だったんだね。すっかり、忘れちゃってたよ」
言って、渚はもう一度微笑んだ。
「ねぇ、じょうずにかけた?」
歩は半歩ほど身を乗り出し、渚の顔色をうかがうようにそう聞く。
「うん、じょうずだよ。歩は、絵を描くのが、好き?」
「うん、だいすき」
そっかと渚が返すよりも早く、歩が言葉を続ける。
「だって、おかあさんがわらってくれるもん」
「……そっか。歩、お母さんのために、絵を描いてくれたんだね。ありがとう。何だかお母さん、元気が出てきた気がするな」
「ほんと?」
「うん、本当。歩は将来、画家になれるかもしれないね」
「がか? がかって、なに? どんなひと?」
「画家って言うのはね……色んな絵を描いて、その絵を見た人達を、幸せにしてくれる人のことを言うの。歩の絵は、すごく綺麗で、すごく優しくて、それに……すごく、あったかいよ。だからきっと、たくさんの人達を幸せにしてあげられると思うな」
「んー……?」
「あ、ごめんごめん。歩にはちょっと、難しかったかな」
「よく、わかんないや。でも」
「……でも?」
「ぼく、たくさんかくよ。おかあさんがげんきになるなら、いっぱいかくよ」
「……そっか。じゃあきっと、歩は世界で一番の画家になれるよ。だって…………」
そうさ。
そうに、決まっている。
だって、こんなにも……。
こんなにも、この胸は温もりに満ち溢れているんだから。
とうに鼓動を失ってしまったこの胸にも、その温もりは確かに伝わってくるのだから。
だから、もう。
「…………あのね、歩」
「なに、おかあさん?」
もう、きっと大丈夫だ。
「おかあさんね、ちょっと、寝不足なの。だから、ね……ちょっと、眠っても、いいかな……?」
「うん。ぼく、ここにいるよ。ちゃんと、おかあさんといっしょにいるよ。だから、だいじょうぶだから」
何も、心配なんて要らない。
「うん。ありがとう。じゃあお母さん、少し……休むね」
「うん」
この目を閉じてしまっても。
このまま、深く眠ってしまっても。
二度と、目覚めることのない眠りでも。
「…………ねぇ、歩……」
「なに?」
「……寝る前にもう一度、歩の描いた絵……広げて、見せてくれない、かな……」
「うん、いいよ」
歩は渚の手から画用紙を取ると、自分で両手いっぱいにそれを広げて見せた。
「はい」
そこに映っていたのは、あの日と同じ青と白の世界。
今日みたいなよく晴れた、どこまでも青く透き通るような空を泳ぐ、優しい顔をした白いクジラの姿だった。
「……うん、ありがとう。もう、大丈夫だよ……」
「もう、いいの?」
「うん。ありがとう、歩」
「うん」
「……ありがとう」
「……うん。おかあさん、どうしたの?」
「……ありがとう、歩。でも…………」
言いかけた言葉がわずかに震える。
消えてしまいそうなほどに小さく、そして細い声。
こんなに嬉しいのに。
こんなに温かいのに。
こんなに近いのに。
伝えたい想いは、伝えたい言葉は、伝えたい温もりは、こんな簡単な言葉一つじゃ全然足りないのに。
「…………ごめん、ね……あゆ、む……」
涙が溢れていた。
起き上がることさえかなわない体が、これほど恨めしかったことはない。
目の前にいる我が子を、この両手で抱きしめてやることさえもかなわないなんて、どれだけの不幸だろうか。
かろうじて動くのは、鉛のように重く、今はもうただぶら下がるだけの片腕だけ。
だから、必死に手を伸ばすんだ。
指先で触れられる距離。
今はそれさえも、永遠に届かない場所にさえ思える。
それでも、手を伸ばした。
そして、触れる。
確かな温もりに、包まれた。
そっと、頭を撫でる。
優しく。
包み込むように。
その温もりを、絶対に忘れないように。
溢れた涙が音もなく零れ落ちた。
それでも、最後まで。
最後の最後まで、笑っていようと、渚は強く強く思った。
視界がぼやけていく。
青と白の優しい絵が、目の前の世界がグチャグチャになっていく。
それでも、最後の言葉を紡ぐ。
「…………上手に描けたね、歩……」
「おかあ、さん…………?」
そして、滑り落ちる手。
それはまるで、糸の切れた人形のような動きだった。
「おかあさん……? ねぇ、おかあさん?」
歩は呼びかける。
だが、答えはない。
目の前の渚は、泣いていた。
泣きながら、しかしその表情はとても幸せそうに微笑んでいた。
二度と、訪れることのない目覚め。
世界はそれを別れと呼んだ。
それを理解するには、歩はあまりにも幼すぎた。
真夏の日差しが降り注ぐ、暑い夏の日だった。
セミの鳴き声が、昨日より少しだけ遠くに聞こえた日だった。
大切な人の、大切な日だった。
素晴らしい一日になるはずの日だった。
世界に一つ、消えない小さな傷が、深く刻まれた日だった。
渚は、微笑んだまま静かに息を引き取った。
夏の日差しと、産声のような涙の中で…………。