小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

 第一話:夏休みの過ごし方



「いやいやいやいや。いやいやいやいやいやいやいやいや」
「そんなに大事なことじゃないから、十二回も繰り返さなくていいわよ」
「いやいやいやいや。そうは言いますけどね?」
 ずずずとコーヒーをすすりながら歩は続ける。

 場所は変わって、ここは駅から程なくの場所にある喫茶店。
 あいにくと天気は見ての通りの大雨ということもあり、平日の昼間にしては客足はまばらだ。
 店内には落ち着いた感じの空気が流れ、ゆったりとした曲調の音楽が流れている。
 そんな静かな空間の中ということもあってか、歩の声は本人が思っている以上に響いていたのかもしれない。
 店内の客の目が一度だけ集まるが、それらの視線はすぐに散り散りになっていく。
 が、歩はそんなことなど気付きもせずに
「無理。マジで」
 即答だった。
「何でよ?」
 これまた二つ返事だった。
「いや、だってさ。逆じゃね、普通?」
 歩は納得のいかない様子で美里に答える。
 まぁ、正直言って無理もない話だとは思う。
「学年トップクラスの成績のお前に、俺が教えられることなんて何一つないって。むしろ、夏休み最終日まで白紙予定の俺の課題を手伝って欲しいくらいだっつーの」

 美里が切り出した頼みというのは、他でもない。
「水片、私の課題手伝ってよ」
 たいして珍しくもない、学生の間ではよくありそうなそんな言葉のやり取りに過ぎなかった。
 ただしそれも、歩にとっては冗談か何かにしか聞こえなかった。
 いや、むしろ遠回しにバカにされている可能性まである。
 だってそうだろう。
 美里は学年でも一二を争うほどの学力の持ち主だ。
 よく言うところの天才というヤツである。
 一方、歩はと言えば……まぁ、世間一般に言うところのバカである。
 試験はいつも追試スレスレのボーダーラインのギリギリのところを泳ぎきるか、あるいは溺れて沈むか。
 どちらかというと後者の割合が多いのだが、こうして迎えた夏休みはどういう奇跡が積み重なったのか、期末試験の一夜漬けで見事にヤマが命中。
 追試のない明るい未来を手に入れることができたのだった。
 だがまぁ、そこはそれ。
 どこをどうひっくり返したところで学力の差は埋まらないだろうし、そんなことは歩本人だって言われなくても分かっている。
 だからこそ、喫茶店に半ば無理矢理連れ込まれて、面と向かって課題を手伝ってくれなんて言われたとき、歩は冗談抜きで飲みかけたコーヒーを勢いよく吹き出してしまいそうになった。
 悪い冗談にしか聞こえなかったのだから無理もないだろう。

「そんなことないって」
「いやいや、そんなことないことないって」
 何だか日本語がおかしくなっている気がするが、つまるところ歩はそれくらい動揺を隠せないでいるということだ。
「一体俺に何を期待してんのか知らないけど、絶対にないって。俺が日下部に勝てる教科なんて、それこそ一つもありゃしないって。いやまぁ、体力勝負なら希望はあるかもしれないけど」
 言いながら、歩はもう一度グラスの中の苦い液体を口に含む。
 そんな歩をよそに、しかしはっきりとした言葉で美里は言う。
「絵」
「え?」
 いや、シャレではなく。
「絵だよ、絵。水方、絵がすごくうまいじゃん」
「……絵って、お前……えー……?」
 しつこいようだが、シャレではなく。
「んなことないって。そりゃ、数学や英語に比べれば多少は得意ではあるけどさ。別に褒められたようなもんでもないし、才能なんて言葉には程遠いもんだろ」
 どことなく自虐的に歩は言う。
 確かに、小学校や中学校の頃から絵の評価だけは他の教科に比べて良かったというのは自覚はある。
 でもそれは、あくまでもその年頃の少年の作品にしては上手という、ただそれだけの評価だ。
 展覧会やコンクールで大きな評価を得たことは……実は数えるほどくらいはあったりするのだが、それだって別に大したことじゃない。
 大賞ではなく、入賞や佳作が関の山だったからだ。
 歩自信、自分のそれを才能だなんて思ったことは一度もない。
 世間一般に言えばそれは確かに才能なのかもしれないが、本人からすれば本当にどうでもいいレベルの些細なことだ。
 損得勘定でモノを言うつもりはないが、そのおかげで得をしたことだって一度もない。
 だからそれは、あってもなくても別にどっちでもいいもの。
 なければ人並だし、あってもプロというわけじゃない。
 だったら中途半端にあるよりは、まっさらなほうがいいと歩は思う。

 しかし、どうやら目の前の美里はそうは思っていないようで
「そんなことないよ。私、前に一度美術の授業で水方の絵を見たことがあるんだけど」
「は? いやちょっと待て。俺、お前とクラス違うじゃん?」
「美術の先生が見せてくれたの。他のクラスの生徒の作品だって言って。それがたまたま水片の絵だったってワケ」
「……いや、でもなぁ……」
 ずずずと、歩は複雑な気持ちでコーヒーをすする。
 いつの間にかグラスの氷はすっかり溶け、味は薄くなってしまっていた。
「……んで、どうしろっての?」
「どうもこうも。言ったとおり、課題を手伝ってほしいの。美術のね」
 夏休みの美術の課題は一枚絵の写生だ。
 風景画、静物画など、何でもいいから一枚の絵を仕上げて提出するというもの。
 テーマも特に指定されておらず、要するに何をどう描いてもいいということだ。
 とはいえ、正直それはそれで非常に面倒くさい。
 何かしらのテーマが与えられていればそれに沿って構図を考えればいいのだが、いざ何でもいいから好きな絵を描いてみろと言われても、そんな簡単に作業が進むはずがない。
 まぁ、そういう部分も含めて課題の一つなのだろうとは思うが、やはり面倒なことに変わりはない。
「……無理。俺、別に人にモノを教えるほど自分がうまいって思ってねーし」
 半分面倒くさそうに、もう半分はどこか困ったような具合で歩は言葉を吐き出す。
「それでもいいよ」
 が、美里はまたもや二つ返事で言葉を返す。
「別に、プロの定石を知りたいとか、基礎をしっかり学びたいとか、そんなんじゃない。私はただ、素直に水片の絵に感動して、だから水片に教えてほしいだけ。才能とか自信とか、そんなのは関係ない」
「……いや、そうは……言ってもなぁ……」
 いざ真正面からそう言われると、何と言うか非常に小恥ずかしくなってしまう。
 普段から他人に褒められたり評価されたりすることが少ない歩にとってはなおさらだ。

「……具体的に、何をどう教えればいいわけ?」
 それでも無下にはできず、とりあえず言葉を繋げる歩。
 その様子に、美里の目がわずかに輝きを増したような気がした。
「特には何も。ただ一緒に絵を描いてくれればそれでいいの。同じ景色でもいいし、そうでなくてもいい」
 美里の返事は簡潔だった。
 そしてこれこそが、美里が先程言っていたちょっと頼みたいことがあるということの内容だった。
「……んー」
 正直、歩は気乗りはしなかった。
 誰かに何かを教えるという経験そのものが、おそらく人生の中で初めてのことだったから。
 しかしまぁ、それでも。
 拝み倒すというほどでもないが、こうして真剣に頼んでくれる人間がいるのならば、それに応えてみようという気持ちにはなってくる。
 何もない自分にも、何かできることがあるというのなら。
 些細なことでも、やってみる価値くらいはあるんじゃないかと。
 そう思えるくらいにはなっていた。
 そう、思えるような気がした。
「……分かった。どこまでできるか分かんないけど、俺なんかでよけりゃ手伝うよ」
「マジ!?」
 と、応じるや否や、美里は椅子から腰を上げ勢いよく立ち上がる。
 その物音に、店内の客の目が一斉に二人に向かって集中する。
 が、当の美里はそんなことなど気にした様子もまるでなく
「じゃ、早速だけど明日。水片、何か予定ある?」
「え? あ、いや……別にないけど」
「じゃあ決まりね。とりあえず十時に学校の美術室に集合ってことで」
 歩むが言い終えるよりも早く、まくし立てるような口調で美里は続ける。
「水片、携帯の番号教えてよ。連絡くらい取れないとまずいだろうし」
「え、あ、ああ……」
 歩がポケットの中から携帯を取り出すと、美里はそれを素早く奪い去ってあっという間に赤外線通信でお互いの情報を交換してしまう。
「それじゃ、今夜にでもまたメールするから。何かあったらそっちも連絡ちょうだい」
「お、おう……」
「じゃ、また明日」
 それだけ言うと、美里はそのまま足早に店から出て行ってしまう。
 一人取り残された歩は、店のドアが鳴らすベルの音が鳴り止むまでの間、その場を動くことができなかった。

 やがてゆっくりと時間が動き出し、そして気付く。
 美里と携帯の番号を交換したことに……ではない。
「……あれ、ここの会計って、俺が払うのか……?」
 財布の中には帰りの電車賃しか入っていない。
 ここで二人分のコーヒー代を払えば、帰りの電車賃は消えてなくなる。
 そしてここから自宅まで歩いて帰るとなると、およそ一時間ほどの距離がかかる。
 外は今も雨。
 雨脚は多少弱まったものの、勢いが強いことに変わりはない。
 傘は当然、美里が持って行ってしまった。
「……おや?」
 何度考えたところで、目の前にはバッドエンドしか用意されていなかった。

-2-
Copyright ©ハルカナ All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える