小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第三話:始まりの日に見た空の色は



 結論から言うと、歩が教えることなんてほとんどなかった。

 場所は戻り、再び美術室。
 とりあえず何かしら描いてみないと始まらないので、美里は持参したスケッチブックの一ページに簡単な下書きを描いていく。
 なぞる景色は、ベランダから見下ろす学校のグラウンドの一帯。
 炎天下の下だというのに、日陰に入りもせずに美里は絵を描くことに集中する。
 歩はというと、早くもうだるような暑さの中でダウンしかけていた。
 申し訳程度の日陰に身を隠し、少しでもこの直射日光から逃げるべく努力だけは惜しまない。
「……っと。こんなもんかな」
 そんな声が聞こえ、歩はぐったりとした感じではあるが体を起こす。
「どう? デッサンなんてのには程遠いと思うけど、とりあえず描いてみたの」
 差し出されたスケッチブックを受け取り、歩は額の汗を手の甲で拭いながら目を落とす。
「……あのさ、日下部」
「何?」
 わずかに悩んで、しかし歩はいっそうぐったりとした様子で言葉を続ける。
「これ、普通に俺なんかよりうまいんだけど……」
 溜め息と共に歩は吐き出した。
 描かれた下書きはかなり簡素なものではあるが、基本がしっかりと守られた綺麗な構図だった。
 点と線の使い方もバランスが取れていると思うし、遠近感もうまく表現できている。
 正直、ここで同じ景色を歩が描いてみたところで、結果は火を見るより明らかだろう。
 歩は別にプロではない。
 素人の延長で考えたら、それよりも少し先の場所に立てる程度の描力しか持ち合わせていないだろうと自負している。
 そんなちっぽけな自信さえも一撃で粉々に粉砕されてしまうくらいに、美里の絵は素人目に見てもよくできていた。

「やばい。本格的に立ち直れなくなりそう……」
 これが才能というヤツなのかと、言葉には出さずに歩はしっかりと思い知らされた。
 まぁ、そこまで大げさなほどショックを受けているわけでもないのだが。
 しかし、当の本人はそんな言葉はいらないと言わんばかりに
「そんなんじゃ、全然ダメだよ。水片の絵には、到底及ばない」
 迷いもせず、謙遜もせずに一言で美里は言い切った。
「そうか? 俺から言わせれば、その辺の美術部の連中なんかよりよっぽどしっかりできてるように見えるんだけどな……」
「それでも、ダメなものはダメ。私が描きたいのは、そういうものじゃない。風景画だからっていうのもあるかもしれないけど、そんなのは言い訳にしかならないもの」
「……厳しいんだな、自分に」
「そういうわけじゃ、ないけど……。とにかく、水片の絵にはまだ全然遠いって、私は思う。だって、何も感じないもの」
 そこまで言って、美里は何となく気落ちしたかのように肩を落とす。
 言い換えればその様子は、どことなくしょげているようにも見える。
 が、それはあえて口に出すことではないだろうと歩は思った。

「あのさ、聞いていいか?」
 だから、代わりに一つ聞いてみることにした。
「何?」
「何で、そこまで絵にこだわるんだよ? 別にこれが、夏休みの課題だからってわけじゃないんだろ? お前のそのこだわり方は、そういうのとは何か違う気がする。うまく言えないけどさ、何ていうか……成績とか、そういうのとは無縁なところにあるように聞こえるんだよな」
「…………」
 言い終えて、歩はしまったと思った。
 いくらなんでも直球過ぎる質問だったかもしれない。
 案の定、美里は歩の問いに対してしばらくの間口を噤んだままだ。
 その様子は歩の問いに対する答えを探しているようにも見えるし、用意してあるはずの答えを口に出すべきかどうかを躊躇っているようにも見える。
 時間にすればそれはわずか十秒足らずの短い間だったが、歩にはそれが永遠にも思えるほどの長い時間に感じられた。

 ほどなくして、美里の口が動く。
「……私さ、絵本作家になりたいんだよね」
 それは、突然すぎるカミングアウト。
 歩の答えを待たずに、美里は視線だけを逸らして言葉を続ける。
「小さい頃からの夢、ってわけじゃないんだけどさ。どっちかって言うと、つい最近になってそう思うようになったんだ。理由もすごく単純で、本当にバカみたいなんだけどさ」
「…………」
 歩は口を挟まなかった。
 その表情は見えないが、きっと美里は冗談でこんなことを言っているのではないということは、声の質で何となく分かったからだ。
「けど、私には読み手の心を動かせるような文章を書く力も、それを彩る絵を描く力もないから。結局夢は夢のままで、叶わないで終わっちゃうのかなって思ってた」
 思ってた。
 それはつまり、今はそうではないということ。
「思ってたんだよ。水片の絵を見る、あの日まではね」
 振り返り、美里は小さく笑いながら言う。

「まぁ、ぶっちゃけただの偶然かもしれなかったんだよね。その日、たまたま私のクラスの最後の授業が美術で、授業が終わった後に忘れ物してたことに気付いて、取りに来たの。そのとき、棚の中にあった絵が一枚だけ床に落ちてて、私がそれを拾った。その絵が、水片の描いたあの絵だった」
 言葉にしてみれば、たったそれだけ。
 本当にそれはただの偶然で、運命なんていうロマン溢れるステキな言葉でくくるには遠すぎる。
 だが、それでも。
「一言で言えば、衝撃だった。それくらい強烈に、私は水片の絵に惹かれてた」
「ば、何言って……」
 真正面からそんな言葉を投げかけられては、歩としてもどう受け止めていいのか分からない。
 少しニュアンスを変えてしまうと、それはまるで告白のようにも聞こえてしまいそうだからなおさらだ。
 この炎天下の下でも、その顔が赤いのは照れのせいであるのは言うまでもない。
「……何度も言うけど、そんなたいそうなモンじゃねーって。俺なんて、別に」
「それでも、さ」
 言いかけた言葉は、すぐに遮られる。
「きっかけにはなったんだよ。簡単に折れそうだったものを、支えてくれるくらいには。夢なんて呼ぶには程遠いものだったかもしれないけど、少なくとも私はそこで諦めることだけはなくなった。だから、水片には感謝してるよ。ありがとね」
 その言葉を受け、今度という今度こそ歩は美里から視線を外すしかなくなった。
 一体今、自分の顔の沸点は何度まで達していることやら。

「お、俺が感謝される理由なんて、どこにもないっての。変なこと言うなよ、俺はそういうキャラじゃねーっての!」
「そっか。でも……うん。それでも私は、水片に感謝してるかな」
「だから、やめろっつーの!」
 たまらず歩は勢いよく立ち上がり、ベランダから美術室の中へと逃げるように早足で移動する。
 が、口ではいくらそう言っていても、動揺した心はたやすく体の動きを制御できなくしており
「んが!?」
 段差につまずき、床の上に意味もなくダイブする。
 わずかに鈍い音がして、歩は額を押さえながら数秒間床の上でアスファルトの上のミミズみたいにのた打ち回った。
「あはは」
 それを見て、美里は笑う。
 指差して、思い切り笑う。
「面白いね、水片ってさ」
 それは、褒め言葉なのか。
 それとも単純に、バカにされているだけなのか。
 九割九分九厘後者であろうと思いつつも、歩は額を押さえて寝転がったままの姿勢で美里を見上げ、一言返す。
「……余計なお世話だ」



 日差しが暑い。
 文字通り、身も心も溶けてしまいそうなくらいに。
 ただ、それは本当に夏の太陽だけが原因なのかどうかは、定かではない。
 人のそんな気持ちも知らずに、見上げた空は苛立たしいほどに青く青く、どこまでも澄み渡っていた。
 こうして、二人の夏は始まる。
 いや、始まっていたというべきか。
 暑い日が続く、長くて短い物語の始まり。

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