第四話:今はもう見えない、あの頃の景色
「ところでさ、ちょっと聞きたかったんだけど」
「ん?」
ペンを走らせていた手を一度止め、美里は訊ねる。
「大したことじゃないんだけど。水片はさ、どういうきっかけで絵を描こうって思ったのかなって」
「……んー」
美里の問いかけに、歩も過大を進めていた手を一度止めて顔を上げる。
「……いや、正直自分でもよく覚えてない。ただ、そんな他人に誇れるような理由があったってわけじゃない……かな」
「ふーん……」
「……何だよ、意味深だな」
「ああ、気に障ったなら謝る。ただ」
「ただ、何だ?」
「もしも前向きに絵を続けていたら、今頃は大物になっていたのかもしれないのかなーって。画伯とか呼ばれてたりして」
小さく笑って美里は言う。
「画伯、か……。うわ、似合わねぇな、それ」
「うん、私も自分で言っててそう思った。ごめん」
そんなどうでもいい話で、二人は小さく笑い合った。
これくらいの小声なら、今日は図書室から追い出されることもないだろう。
月は替わり、八月になっていた。
長期休暇中の学校というのは、もっと人気がなくて静まり返っているようなイメージだったのだが、どうやらそういうわけではないらしい。
部活に委員会にと、思った以上に忙しい生徒は多かった。
今も窓の外から見えるグラウンドでは、分かるだけでもサッカー部、野球部、そして陸上部の面々が汗を流しながら練習に励んでいる姿があった。
そんな姿を見ると、連中は青春というヤツを謳歌しているんだなぁと歩は思う。
とはいえ、それを見習って運動部に所属して輝く汗を流そうという気には全くなれない。
このあたりは、もともと飽きっぽくて長続きしない自分の性格をよく理解している歩らしい。
「さて、と」
言いながら、向かいの席に座る美里がぐっと背を伸ばした。
「今日はこのくらいにしましょうか。あんまり冷房のある場所にいてばかりでも、体に毒だし」
「ん、そうだな……」
机の上に広げたテキストやノート、プリント類をまとめ、鞄の中にしまいこむ。
「行きましょう」
美里のその声で、歩は席を立つ。
これから向かう場所は、いつものように美術室だ。
歩と美里がこうして学校で会うようになって、今日で三日目になろうとしていた。
大体はいつも午後になってから学校で合流し、まずは図書室で夏休みの課題に手をつけるのが日課になりつつあった。
信じられないことだが、思いのほか順調に課題は消化されている。
例年通りの夏休みからは考えられないことだ。
「この調子なら、あと一週間もあれば全部終わるでしょ」
さも平然と言ってのける美里ではあったが、歩から言わせれば奇跡にも等しい。
というか、まさか自分がまじめに夏休みの課題をこなしていくなどと、他でもない自分自身が誰よりも信じられない。
毎日のようにこれは夢じゃないかと自分の頬をつねってみるが、そこに痛みは確かにある。
信じられないという気持ちと、普段では感じ取れない謎の充実感。
だが、悪い気はしなかった。
少なくとも、ここ数日は充実した時間を過ごせているという実感が確かにあったからだ。
「いや、マジで日下部には感謝してる。いつになるかわからんが、必ず借りは返すよ」
「何言ってるのよ。勉強を手伝う代わりに、こうして毎日私の我侭に付き合ってもらってるじゃない。細かいことは気にしないでよ」
美術室へ向かう道の途中、二人そんな言葉を繰り返す。
図書室での勉強が終わった後は、こうして美術室に移動して今度は歩が絵の課題を手伝う。
これがここ数日の間での二人の日課のようなものになっていた。
とはいえ、ちゃんと口に出して文法や公式を教えてくれる美里とは違い、歩が絵に関して美里に教えることができるのはひどく漠然としている。
それはレクチャーと呼ぶにはあまりにもひどいものだったが、しかし美里は歩のその舌足らずな言葉をしっかりと聞いてくれている。
そこから得られるものなんて本当にわずかなものか、あるいは無いに等しいかもしれない。
けど、美里は真剣に受け止める。
歩の言葉の一つ一つを、言わんとしている何かを汲み取ろうとする。
それが歩には、少しだけ嬉しかった。
天才と凡人の間にあったはずの壁が、少しずつなくなっているような、そんな気がしたからだ。
もっとも、そんな壁なんて最初からなかったのかもしれない。
気にしていたのは歩だけで、美里はそうではなかったのだろう。
不思議な気分だった。
自分の中にある数少ないとりえの一つ……にすら含まれるかどうか怪しいものだ。
いいところそれは、素人にしては上出来というレベルのものでしかない。
少なくとも歩はそう自覚しているし、これまでそれをアピールしたこともない。
なぜなら、歩は…………。
気が付くと、ペンを動かす自分の手がぴたりと止まっていた。
ふと隣に視線を泳がせて見ると、そこには真剣な眼差しでペンを走らせる美里の姿があった。
歩はぼんやりと周囲を眺めてみる。
しばらくして、ようやくここが美術室なのだということを思い出した。
窓の外の向こう、遠くの空はうっすらとだが夕焼け色に染まり始めている。
壁にかかった時計に目を向ければ、時刻は四時半を少し回ったところだった。
もうかれこれ、一時間近くはこうして美術室にいることになる。
……眠ってしまっていたのだろうか?
声には出さず、胸の中で自分自身に聞いてみる。
美里と二人、美術室にやってきたところの記憶までははっきりしている。
その後から今までの記憶がやけにぼんやりしているのは、やはり居眠りでもしていたからなのだろうか。
もう一度隣にいる美里に視線を送ったところで、ふと目が合った。
「どうかしたの?」
ぼんやりとした様子の歩に、美里は訊ねる。
「あ、いや……悪い。俺、少し寝てたかも……」
「そう? そうは見えなかったけど」
「え?」
「水片、すごく真剣な目で何か考えてるみたいだったから。邪魔しちゃいけないって思って、声をかけないでおいたんだけど」
「……そう、か。ごめん」
「何で謝るのよ?」
「ああ、そっか……ごめん、って、あれ……?」
「……変なヤツ」
二度目の謝罪を聞いて、美里は小さく笑った。
そしてすぐにまた視線を手元に戻し、手の中のペンを走らせて自分の景色を描いていく。
その真剣な横顔を見て、歩は…………ひどく、嫌な気分を覚えた。
「……っ?」
理由は分からない。
ただ、ふいに頭の中で誰かの声が聞こえた気がした。
それも誰の声かは分からない。
確かに聞き覚えはあるはずなのに、どうしてか思い出すことができないのだ。
それは、ひどく懐かしい声で。
それは、ひどく温かい声で。
そして……ひどく、悲しい声だった。
瞬間、全身に正体不明の寒気が走った……ような気がした。
例えるならそれは、背中にいきなり氷の塊を入れられてしまったかのような……。
「っ!?」
手の中のペンが落ちる。
かつんと音を立て、床の上を転がっていく。
「……水片?」
すぐ隣で、美里の呼ぶ声がした。
それを聴覚では捉えていながら、しかし歩は反応することはなかった。
今頃になって、先程の言葉が脳裏をよぎっていく。
自分が絵を描き始めた、そのきっかけ。
記憶の引き出しの奥の奥、しまいこんだ想い。
だからあの日、歩は…………絵を描くことを、止めた。
そして、自らの意思ではもう二度と絵を描かないと、決めていた。
景色が黒に塗りつぶされていく。
一番描きたかった景色は、もう世界のどこにもありはしないのだと。
幼い心は、それを知ってしまったから……。