その1 アズキ登場
【1】ふたりは新婚
庭なんだか野っぱらなんだか、境界の区別がつきにくい尾上家は、奥多摩にある。
裏山からは懇々と清水が湧き出し、都心より少し寒くて空気はうんときれいだ。
「ああー、もう! また荒らされてる!」
開口一番、庭先でぷうぷうと文句を言うのは、新妻・尾上加奈江(おがみ かなえ)。
顔は面長、目鼻立ちはひな人形の内裏様そっくりな細目がトレードマークだ。同年代の女性としては背が高く、手足も長い。痩身で女性的凹凸にはかなり乏しい。声は少し低めで、若い女性にありがちな舌足らずな甘え口調ではなく、しっとりと豊かに語る。
腰まで届く艶やかでまっすぐ伸びる緑の黒髪の持ち主で、普段はひっつめてまとめるか、三つ編みにしてひとまとめにしている。長い髪を垂らすことは滅多にしない。
表情は、家族ですら何を考えているのか感情が読めないと言われるくらいで、いつも平然として落ち着いて見られる。彼女の表情を読み取れるのは夫の政ぐらいだ。年齢より大人びて見られる彼女が子供っぽさを見せるのも政だけだった。
元々が末っ子、我が強くて気まま、そして一途だ。必要とあらば、火中の栗ぐらい平気で何個も拾ってしまう直情ぶりを発揮する。
彼女には解りようもないことだが、年を重ねるにつれて、女の色香をその身に纏わせるようになっていた。
切れ長の目を伏せ、うつむき加減で佇んでいる姿は、白百合のように清純で妖艶だ、と男子学生の人気を集めていた。
夫である尾上政(おがみ つかさ)と加奈江はまだ大学生。
ふたりは、つい先日結婚したばかり。できたてほやほやの新婚さんだ。
同級生であるふたりの出会いは中学生の頃にさかのぼる。
ほんの一瞬、遠くからお互いを認めただけ。名前も素性も知らないのだから、すれ違うそこんじょそこらの通行人となんら変わらない存在で終わってもおかしくなかったのに、同じ高校へ進学したところから、ふたりの人生は急速に近づきだした。
異性に疎く、奥手な加奈江と、複雑な家庭環境も手伝ってもっと異性に臆病な政は、不器用ながら恋を育み、齢を重ね、生涯の伴侶はお互いしかあり得ないと思ってからの展開は早かった。
時は1960年代も後半。学生運動やら若者文化やらが一気に花開いた時期で、奔放な同窓生達の中には学生結婚するものも少なくなかった。
「卒業するまで待てないのか」と言う双方の親・親族の説得に、「待てない」と断言して説得して押し切って。大学4年の中頃にめでたくゴールインした。
生活力ゼロの中、ぴよぴよとおしりに殻が付いたひよっこカップルのふたりは、新生活を始めたはいいけれど、新婚生活にはありがちな問題、つまりお財布の軽さに直面している。
お互いの親から生活費の援助を受けなくてもいいようにがんばりたいけど当面はムリ。家計の足しになるようにと始めた家庭菜園は、先住民である小鳥や小動物の洗礼とおちょくりにあっている。
つまり、芽が出る前に摘まれてしまっていた。
憤慨した加奈江が、つい、目を縁側へ向けてみれば、政がノートに何やら書いている。
「何してるの」
と覗き込んだ先には、
『カナが種まきゃ すずめがほじくる』
と題された1コマ漫画が、1ページを使って描かれていた。
面長の女の子(つまり加奈江)が、頭からギャグマンガのキャラクターのように怒りマークを出していて、足元には雀らしい小鳥がぴよぴよと行列を作っていた。
彼は近頃、主に妻の日々の反応を、1コマにまとめて描くのを日課にしている。
夫・政の今の身分は大学生で、かつ新進気鋭の書道家。周りの期待とはまったく絡まず、迎合せず、我が道を行く派だ。
中学生の初恋を成就させた政は(これは加奈江も同様)、妻以外の女性と交際した経験がない。加奈江一筋で、困ったことに嫉妬深い。彼女が同級生の誰それ(もちろん異性)と話しているだけで不機嫌になるくらいに。
つまり、加奈江を溺愛していた。
学業は上の中か下。身長も平均より少し高いくらい。どちらかと言うと身長のわりには中肉中背ととられてしまう。眉は太く、顔の造作ははっきりくっきりとして男らしい。
俳優か声優で通るくらいの良い声と語り口持ち主で、一般には無口で通っていた。しかし、加奈江は知っている、口舌鮮やかで論説に長け、大学教授である彼の父ですら時には舌鋒で負けてしまうこともあるくらい饒舌であることを。
彼の美的センスは随所に発揮される。実際、観察眼は凄まじく、絵もすこぶる上手い。
その彼が描く漫画は、簡略化されている分ストレートに伝わる。
彼は平然と彼女をもてはやす。新婚さんならではの熱々振りもあるのだろうが、夫の妻びいきには面映ゆく、日々嬉しさも感じる加奈江も、今日はいつものように吹き出したいのを押さえて、わざと恐い顔をする。
「そこで見ているのなら、何か妙案とか出してちょうだい!」
「怒った顔もかわいい」
「ん、もう!!」
顔を真っ赤にして加奈江は頬を膨らませる。
「このままだと、いつまでたってもお野菜が育たないわ」
「うーん、それはいやだなあ」
ぱたっとノートを閉じて、政も言う。
何せ、加奈江は女のたしなみとしてずーっと実家の家事を手伝ってきただけあって、ひととおりのことは人並み以上にこなせる。
何より料理が美味い。和食・洋食・中華なんでもござれだ。
加奈江が嫁に出ると決まった時、実家である水流添家の面々は、娘の不在の寂しさより、彼女の手料理が食卓から失われることを惜しんだ。
加奈江が料理上手なことは、政は高校生時代から知っていた。
つきあい始めて日が浅いある日のこと。
当時、小食で昼ご飯をまったく食べなかった彼へ、加奈江はお弁当を作って手渡した。
受け取った当初、政は「いらない、欲しくない」と言ったけれど、加奈江はしょげるし、彼の為に作られたものを無下にも出来ず、
「今日だけ、一口だけ」
と言って渋々食べた政は、ひと口のはずが二口、三口と増え、結局弁当箱を空にし、その場で「明日も作ってくれるか」とぽつりと言った。
加奈江は「うん」と言って喜び、翌日には彼の為に前日と全く違うおかずを考えて作ってお弁当箱に詰めた。再び食べきり、弁当箱を返す時に、政は、またぽつりと小声で「明日も食べたい」と言った。
「美味しかった」と付け加えるのも忘れずに。
いつしか、加奈江がお弁当を作り、ふたりで食べる習慣ができあがった。それは高校を卒業するまで続き、大学進学時に彼女の弁当が食べられないことを政は残念がった。
つまり胃袋レベルで彼女が手がける料理に参っている彼としては、メニューとして並ぶであろう素材である収穫物の行く末を気にしないわけにはいかない。
「けど、相手からすれば、俺たちの方が闖入者だろう? どうしたものやら」
「そうなのよね」
うーん、と加奈江も腕を組んで言う。
「かかしでも立てるか?」
「何もないよりはましだろうけど」
屋根の高い家屋の庭先に、物干し竿と並ぶかかしは、さぞかしユーモラスだろう。
「わかった、何か作っておくよ」
「お願いね」
くるりと踵を返し、背を向けた彼女を、夫の手が抱き留める。
後ろからはダメだって言ってるのに。――逃げられないから。
朝っぱらから、もう!
文句を言いたいのに、耳元に彼の息を受けると駄目だ。
白い喉を仰け反らせて彼にもたれかかると、政は加奈江の首筋に唇を寄せ、軽く音を立てて吸い付いた。
開け放した縁側、訪ねる人はいないけれど、いくら何でも開放的すぎ、警戒感なさすぎだわ!
夫の腕の中でなるべく意識を正常に保とうと加奈江が努力していた時、居間の柱時計がぼんぼんと9回、時を刻んだ。
今日はアルバイト先に筆耕の納品をする日。
奥多摩の自宅から最寄り駅まで車を運転し、そこからは電車で実家近くのホテルへ、昨晩までに仕上げた品を午前中までに届けなくてはいけない。
洗い終わったばかりの洗濯物もまだ干してない。
「もう私、出なくちゃいけないから」
知らずの内にブラウスのボタンが2つ3つ外されていたのをあわてて直して、加奈江は身を起こした。
「まだ、時間なら大丈夫だろう」
「ううん、大丈夫じゃない。それに!」
すっかり身仕舞いを整えて、加奈江は言った。
「私、セックスはしないって言ったでしょ」
口にして、朝っぱらから何てこと言っちゃったのかしら、と頬を朱に染める。
けれど、毅然とした態度は崩さない。
「いや、それは、その……。悪かったって謝ってるじゃないか、あの時は……」
政も決まり悪そうに言う。
「とにかく!」
勢いだけ一人前に、加奈江は続けた。
「もう、二度とごめんですから、あんな思い!」
言うだけ言って、加奈江は「さあ、お洗濯物干さないと!」と奥へ引っ込んだ。