#1 新生活?
◇◆敦彦◆◇
思わず身悶えしてしまいそうなほど冷え切った室内は、春であることを連想させないぐらいの冷気が立ち込めていた。通り過ぎたはずの冬がなんらかの力で弾き返され、日本列島に舞い戻ってきた――ようにさえ思えた。
それでも春であることは変わりなく、気象庁によれば、すでに春は到来しているはずで、そろそろ暖かくなってもおかしくない――らしい。
そんな春先――。
暦でいうところの四月上旬――。
春眠、暁を覚えず、というように、いつにもまして布団の中が心地よく感じ、今朝はなかなか起きられなかった。春休みという休暇が終わりを告げるためか、周りの景色が慌ただしくなってきたというのにだ。
新学期、新学年、新社会人、新入生――。
ピカピカの言葉が騒ぎ立てられ、街から静寂をかっさらっていく。春というのはそういう季節だ。街を歩けば、「春休みが終わるぞ!」という哀憐とも憐憫ともつかない叫び声が、四方八方から聞こえてきそうだ。「新生活に身構えろ!」と。
そのようにして町の景色が喧騒に包まれていく中、僕はベッド上、窓に向かってあぐらをかき、修行に励む前の僧侶よろしく、きゅーっと精神を落ち着かせていた。これだけ騒がれている世の中で、冷静沈着である僕だけが泰然自若な態度で、春の到来を待ち構えている。
そうなのか?
いや、そうではない。
僕は僕なりに、新しく始まるであろう新生活、今春から加わる新要素に緊張しているのだ。新要素というべきか、元いた者が元いた場所に帰ってくる、それだけのことに過ぎないのだが、僕にとっては大きな問題であり、その“元いた者が元いた場所に帰ってくる”という些細なことで、生活スタイルが百八十度転換してしまうといっても過言ではないだろう。
そんな憂慮がある。気恥ずかしさもある。
だからこそ、精神統一をして心が乱れるのを抑えているといったところか。
「明日から始まる新たな学年をどのようにして迎えようか」とか、「今日の昼食はなにを食べようか」とか、「カーテンの下が少し汚れているので買い換えようか」とか考える余裕もなく、むしろ、そんな些事はどうでもよし、と感じてならないほどの切実なできごとが、数時間後に僕の身に降りかからんとしている。
急きたてる心臓の動きを意識的に沈静させようと、呼吸を止めたりとしていた。もちろん、そんな行為が実を結ぶわけがなく、酸素不足により逆に心拍数が高まっていく。それでも息を不規則なリズムで吐き出し、頑なに目をつぶる。
ここで、どさと音を立てて、ベッドに誰かが乗っかって来たかと思えば、すぐ隣から声が届いた。そして、母が好きだった花、ルクリアの香りが室内いっぱいに広がっていく。これは“彼女”が放つ香りだ。
「ご主人様! ご主人様ってば!」
僕の肩を揺さぶりながら耳元近くでかしましく騒いでいるのは、黒髪ツインテールにゴスロリ調といった奇抜な格好をしている、見た目、年端もいかない少女。実年齢は僕よりも上らしいのだが、彼女が年上然としている姿を目撃したことは一度たりともない。
彼女の胸元には可憐なリボンが付いており、着用しているノースリーブの肩口から、陶器のように白く滑らかな素肌が覗けている。春を迎えたばかりの服装にしては薄手だ。思えば二月の時からこの格好だった。本人いわく、寒くはないらしい。
大きな眸に、ほんのり赤みが差した頬。
この一見、現実的なものとは思えないデフォルメのかかった顔をした小娘の名は、沙夜という。
では次に、どうしてこんなデフォルメーションキャラクターが僕の部屋に存在しているのか、という話を明記していこう。
一口にいえば、単純な話だ。二か月前より、僕と沙夜は共に生活をしている。共に生活するというのは、同じ部屋で起き、同じ時間を過ごし、同じ部屋で眠る――ということだ。つまり、――同居生活と呼ばれるものである。
だが、同居生活といっても皆に羨ましがられるような、結婚だとか、同棲だとか、そういうことではない。断じてない。
高校二年を迎えたばかりのこの僕が、女の子と同棲しているなど、現実的に考えて、ありえない話である。大体、沙夜という少女は“憑きもの”なのだ。空想的に考えてもありえない話なのだ。
極力、話が飛躍しないよう心掛けるため、ここで一度、補足説明を付しておくことにする。
憑きものとは、一般人が認識できない生き物の総称をさす。極言してしまえば、他の動物と大した違いのない、ただ、“一般の人間に見えない生物”だけだ。
憑きものが一般の生命体と異にするところは、一般人が認識できないことを除き、大きく分析して、三点ある。
まずひとつ、憑きものに食事はいらない。妖力を得て生きていく。
そしてひとつ、憑きものは名の通り、人に憑依することができる。
最後のひとつ、憑きものは道と呼ばれる妖力を使った能力を発揮することができる。
たったその三点だけだ。それら以外は、他の生命体と変わらない。それぞれの詳しい話はひとまず割愛させていただく。