#3 鍋焼きうどん
◇◆敦彦◆◇
鍋焼きうどんを作る時のコツは、自室のドアを開放しておくことだ。
ドアをもし、閉じたままにしてしまうと、完成した料理をキッチンから二階にある僕の部屋へ運んでくる際、両手がふさがっているので、ノブに手が届かない。必ずといっていいほど後になって「開けておけば……」と悔いる結果を招く。だから、ドアを開きっぱなしにしておく作業が、一番大事な工程だといっても決して大げさではない。
二個の鍋焼きうどん、それに一品添えて、昼食をセッティングしていく。
一応と――、自分の分も作ることにした。食欲がなかったので喉に通らないのではないかと予期していたが、不思議なことに料理をしているうちに食指が動いた。結局、食欲など気の持ちようで変わるものなのだろう。
万全と準備が整ったので、部屋の低いテーブルに置いた鍋焼きうどんに両手を合わせて、
「いただきます」といった。
「いただき? ます?」
すると、目前で慎ましく座っていた沙夜が僕の言葉を怪訝そうに繰り返して、大きなツインテールを揺らす。きっと僕が口にした、「いただきます」という言葉の意味がわからないのだろう。
「ずっと気になっていたんですが、『いただきます』ってなんです?」
この憑きものは、人間が一般論として蓄えている常識をほとんど知らない。
だが、それを一概に悪いことだとはいえない。これらの見識はこの間学んだ訓戒だ。
常識とは、人それぞれ別々のものを誇示しているのであり、なにか知らないことがある人に向けて、常識知らずだ、厚顔無恥だ、とけなしにかかるのは、ちょっと間違っている気がする。どちらかといえば、所持する常識に瑣末な違いがあるだけで相手を仲間うちから排斥しようとする、そんな考え方の方が愚かしい――と僕は受け止めている。
「とりあえず『いただきます』っていうんだよ。まあ、『ありがとう』みたいなものだ」
「なにに『ありがとう』なんですか?」
「えーっと、それは……」
本当は天の恵みにありがとうだったりだとか、農家の方々にありがとうだったりとか、この『いただきます』という言葉には色々な意が込められるのだが、目前の粗雑な作りをした鍋焼きうどんにそこまでのこだわりは見受けられないので、閉口してしまった。
なので――。
「こういうのは、気持ちの問題だ。なにはさて置き、感謝するんだよ」
そう僕がごまかすようにいうと、
「ありがとうございます」とだけ言葉にし、沙夜はがっつくように鍋焼きうどんを食し始めた。
「上手くなったじゃないか」
「ふぇ? なにがです?」
「いや、なんでもない」
初期のころはまるで覚束なかった箸使いは、今となっては手慣れたもので、宮本武蔵顔負け――とまではいわないが、器用に麺をすくい口に運ぶことができるようになっていた。箸の持ち方は多少間違っているけれど、それくらいはまあ、許容範囲内だろう。短期間でこれだけの上達をしたことに感心させられる。
だが、“食べ物を食べる”という行為にはまだ慣れていないらしく、沙夜が立てる、くちゃくちゃという耳障りな音が、テーブル付近で絶えることはない。これまで何度か注意したことがあるのだけれど、聞く耳を持たなかった。周りの人は沙夜の立てる音が聞こえないわけだし、そのままにしておいても差しさわりないような気がするが、やはり、僕としては直してもらいたいと思う。いや、マナーや礼儀以前に、単純に不快なのだ。
「ご主人様。これはなんですか?」
見れば、沙夜がテーブルの一点を凝視していた。視線が注がれた先には、小皿が置かれている。
「たまご焼きだよ」
それは鍋焼きうどんだけでは味気がない気がし、小皿に乗っけて一品添えることにしたものだ。
「たまご焼き、ですか。ふぁ〜、いい匂いがします。これも粗製乱造品ですか?」
「そせ……! バカいうな。真心こめて僕が作ったんだ!」
「ご主人様が?」
自分が作った料理を人に食べてもらうのは初めてのことだったので、固唾を何度か呑み込みながら沙夜の反応に注目する。それを彼女に気取られないよう口をつぐんだ。
「ふふ、ご主人様が、料理、ですか」
眉をひそめて、口元に微笑を湛えている。
「な、なにがおかしいんだよ!」
「えへへ、なんでもないですよ」
失礼な憑きものだ。
確かに僕は料理などしなかった。いつも、京子さんが不在のこの時間帯は、魔法のように作れる料理を主食としていた。添加物てんこ盛りの品々を、楽だからという理由だけで、平然と口にし、摂取することにも全くためらいがなかった。自分の身体のことなど、ちっとも案じていなかったのである。
だが、最近になって、それでは健康を害するのではないか、と考えを改めるようになった。そして連鎖的に、料理ぐらい僕にだってできるはずだ、と思い直したのだ。
それもまた、――二か月前。
やはり沙夜の影響か。
「じゃ――」
――ありがとうございます、と今度は僕に向けていい放った。
その後、沙夜はパクパクと玉子焼きを口に放って、瞬く間のうちに麺を平らげ、ずずずとスープを飲み、あっという間に鍋を空にした。
「美味しかったです! 鍋焼きうどんが美味しいのはもちろんのこと、ご主人様の手料理も負けないぐらいに美味しかったです!」
素直な感想に途端照れくさくなった。恥じらうのを隠すために、頬杖をつく。
「たく、もうちょっと行儀よく食べろよな。急いで食べる必要なんてないじゃないか」
「え! 知らないんですか? 料理というものは、冷めないうちに食べた方が美味しいんですよ?」
「冷えてた方がうまい料理だってある」
「あはは、まっさかー! あるはずがないじゃないですか。私を騙そうたってそう簡単にはいきませんよ、はい」
「あー……、今度食わせてやるよ」
「あ、そーだ! ご主人様、今度私に料理教えてくださいよ」
「はは、お前が料理?」
「いいじゃないですか。自炊というやつです、はい」
いつの間にそんな言葉を覚えたのだろう。僕は耳を疑った。自炊など憑きものにとって、無縁の言葉であるはずだ。
「気が向いたらな」
そういいつつ、最後の卵焼きの一切れを口に放り込んだ。真ん中の方はふっくらとしたできあがりだったが、端っこの方は焦げ臭かった。まだまだ、未熟だ。
そんな時、階下から小さな物音が聞こえた。
「あ……っ」
僕の身体が反射的に大きく跳ねた。
消え入りそうな音だったが、家の者ならばわかる。これは、何者かが帰宅した時に聞こえる音だ。
玄関の扉の鍵は外れている。彼女が帰ってくることを見越し、開けっ放しにしてあったのだ。
心臓をわしづかみにされたような感覚が襲いつけ、背筋がぞっと寒々しくなる。
「ご主人様、どなたか来たみたいですね。きょーこさんでしょうか?」
沙夜がこの時発した、『きょーこさん』とは誰ぞか、それは後々記載していくとしよう。
「お前はちょっとここで待ってろ」
“彼女と”沙夜を対面させてしまえば、ややこしいことになりかねない。
「はーい」
間の抜けた沙夜の返答を背に、僕は席を立ち、緊張に足元をからめとられながらも一歩一歩階段を下りた。そして、玄関から伸びる廊下に顔を出す。そのまま戸口の方へ視線を投げた。
そこに――間宵がいた。
初めて実感が湧いた。
ついに、妹がアメリカから帰ってきたのだ。