小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第2章 朱き夏の章

第18話<黒い女>





「…………ねこ……」

 意識同様、朦朧とした視界で捉えたものを、取りあえず声に出してみる。そしてその声を自らの耳で捉える頃には、周囲の状況がはっきりしてきた。

「……!」

 だらしない顔をした猫……の、ぬいぐるみ。それを、自分はぎゅっと抱き締めていた。起き上がってみれば、他にも気付く。ベッドの上の自分を取り囲むようにして、十数体のぬいぐるみが座っている。
 こんな悪戯をする人間の心当たりは、一人しかいなかった。
 マチルダは時計に目を向け、溜息をつく。既に日も暮れたが、予定していた仕事の殆どは出来ていない。いつ頃意識を失ったのかははっきり分からないが、随分と長く眠ってしまった気がする。そして身体の重さから考えるに、その通りなのだろう。

(せめて……今からでも……)

 身体に力を入れ、足を動かす。ベッドから下りると、スリッパに足を突っ込んだ。たったそれだけの動作なのに、ひどい倦怠感がまとわりついてくる。ベッドの柱に手を置き、立ち上がる事さえ出来れば、あとは壁伝いに洗面台へ来ることも出来た。
 蛇口を捻ると、金属製の口から水が流れ出す。すっかりこの便利さに慣れてしまった、と、ぼんやりとした頭で考えつつ、掬い上げた水を顔にかける。冷水の刺激で、意識が徐々に覚醒してきた。
 タオルで顔を拭い、枕元の眼鏡をかける。視界と共に、意識は更に明確となる。片手で髪に櫛を通しながら、片手でクローゼットを開け、メイド服を引っ張り出した。

(……よし)

 着替えを終えると、姿見の前に立ち、確認する。異常なし、いつも通りだ。

(行かないと)

 部屋のドアを振り向くのと、ノックの音が響くのは、ほぼ同時だった。多少動揺しつつ、背筋を伸ばすと、マチルダははっきりと返事をする。

「どうぞ」
「失礼しまーす」

 恐る恐る、といった様子で、ドアの隙間から若草色の髪が覗く。さながら、母親の機嫌を窺う子どものように。そして空色の瞳が入室した途端、少年は慌ただしく駆け寄ってきた。

「ちょっと、マッチィ! 駄目だって、寝てなきゃ!」
「マチルダ、です。その呼び名は止めて下さい」

 眼鏡の位置を直しながら、マチルダは冷静な声で訂正する。レンズの奥の瞳には、厳しさがあった。その視線が、アクセルの後ろに続く少女を見据える。

「テファ。勉強は終わったの?」
「あ……その……」

 ティファニアは俯いた。答えられずにいると、マチルダの溜息が落ちる。

「毎日きちんとやっていれば、普通にこなせる量の筈よ。なのに、何でそれが」
「まぁまぁ、テファも、マッチィのことが心配で……」
「貴方は黙っていて下さい。そもそも、私の体調は何の理由にもなりません。したい事があるなら、すべき事を終わらせてからにしなさい」

 アクセルの助け船も、容赦なく撃沈された。俯き、悲しげな表情のまま部屋を出て行くティファニアを追おうとした彼は、足を止めてマチルダを振り返る。

「その……やっぱり、厳しすぎるんじゃないかな? 僕も、テファにお兄ちゃんって呼んで欲しいし」
「…………」
「まだ小さいんだし、テファにわざわざ仕事なんてさせなくても」
「口を出さないで下さい」

 突き放すような口調に、思わずアクセルは押し黙る。
 マチルダが彼に敬語を使うようになった頃から、彼女のティファニアに対する態度も、厳しさを増していた。もう床を共にすることも無ければ、共に湯船に浸かることも無い。

「ベル君。貴方は、甘やかすことしか知りません。そんなにテファを我が侭な娘にしたいんですか?」
「…………」
「このぬいぐるみもそうです」

 マチルダは自分のベッドを示す。鶏や兎、狐など、多種多様なぬいぐるみ達が転がっていた。

「何故、こんなことを?」
「……その……」
「テファの誕生日にも、同じことをしていましたよね? テファなら喜ぶでしょうが、私はもう、ぬいぐるみで遊ぶ年齢ではありません」
「あ、遊ぶとかじゃなくても、ほら、見てて優しい気持ちになったりとか……」
「つまり私は優しくない、と」

 再びアクセルは言葉に詰まる。そんな彼に構わず、マチルダは小さな溜息をついた。

「まぁ、どうでもいいですけど」
「…………」
「この館の内側なら、いいんです。しかしもし、街で貴方と出会ったテファが、貴方を兄などと呼んだら、言い間違いでは済まされません。テファが普通の人間ではないこと、お忘れではないでしょう」
「……うん」
「あの子の正体が露見すれば、世界が敵に回ります。貴方も、もっと徹底して下さい。それが一番いいんです」








 大きくなったとはいえ、ティファニアはまだジェシカと同じ年齢。前世で考えれば、小学校を卒業するかという程度の頃だ。

「……姉さんは」
「ん?」

 アクセルは首を傾げ、上目遣いで、向かいに座るティファニアを見る。少女が握る木筆は、ノートの上で休憩していた。

「やっぱり、私のこと、嫌いになったんでしょうか」
「そんな訳無いだろ」

 弱気な言葉を、アクセルは即座に否定した。

「ゲルマニアの諺にもあるよ。“手の冷たい人ほど心優しい”って……。マッチィも、テファのことが大事だから、厳しくしちゃうんだ」
「よく……わかりません」
「……テファ、今、何か食べたいものある?」
「え?」

 思い掛けない質問に、顔を上げた少女はあどけなく瞬きを繰り返す。暫くアクセルの笑顔を見つめていたが、やがてそっと視線を下げ、恥ずかしそうに呟いた。

「……ショコラ」

 アクセルは笑みを深くする。

「テファが食べたいんなら、僕は毎日だって作るよ。でもね、それが僕の悪いところなんだ。ケーキばっかり食べてると、ご飯が食べられなくなっちゃう。甘い物ばっかりだと、虫歯になっちゃうかも知れない。病気になっちゃったら、それこそケーキなんて食べられなくなる」
「…………」
「マッチィが厳しくなったなら、それはテファが大きくなったからだよ。もう一人前なんだから、我慢だって出来るレディなんだ。本当はマッチィも、テファに嫌われたらすごく悲しいから。だから、嫌わないであげてね?」
「……うん、そうですよね。姉さん、優しい人ですから。あの時だって……!」

 言いかけて、突然、ティファニアは表情を固める。そしてそんな時、アクセルは決して追求せず、聞こえなかったふりをする。
 何故なら“あの時”とは、アクセルと出会う前の出来事だから。
 結局、五年を経た今でも、マチルダはアクセルに出自を打ち明けていない。ティファニアも、口止めされている。こうやって、ごく稀に漏らしてしまう事があっても、それは無かったことになる。

 アルビオン王国の、モード大公と一族郎党の誅殺は、既に過去のものとなりつつあった。結局今まで、このイシュタルの館にアルビオンの気配が近付くことは無く、アクセルは一安心している。
 マチルダが打ち明けない理由については、色々と考えることが出来た。そこまでアクセル達を信頼していないのか、それとも巻き込みたくないのか。原作では、マチルダは怪盗フーケとして貴族の宝を盗み、金をティファニアに仕送りしていた。そのような行動を思うと、彼女にとってはティファニアが最優先であり、アルビオン王国への直接的復讐などという発想は無い筈だ。

(まぁ、平穏に暮らしてくれたら、それが一番かな)

 アクセルが追求してこないことに安心したのか、ティファニアは再び問題集を睨んでいる。その横顔を眺めながら、アクセルはふっと微笑んだ。

「そうだね、早く終わらせちゃおう。ケーキもあるし」
「でも、夜に甘い物食べたら……」
「大丈夫、今夜くらいはいいよ」
「……やっぱり甘やかしちゃうんですね」
「うん」








 地下四階の試験場にバルシャが立ち入った時、アクセルは子ヤギほどの大きさの岩に両手を当てて、目を閉じていた。

「…………」

 声を掛けず、バルシャは近くのテーブルに腰を預け、斜めに立つと、静かに少年を見守る。
 そのまま三分ほどが経過した頃、アクセルは手を離し、目を開け、振り向いた。彼の背後の岩は砂と化し、ざらざらと音を立てて崩れ去る。それにつれ、石像が出現した。

「やぁ」
「ええ」

 互いに短い挨拶を交わした後、バルシャは石像を眺める。翼で自らの身体を抱く、翼人か天使か……ともかく、女の石像だった。
 アクセルが自らの才能に未だ疑問を抱いていることこそ、バルシャにとって大きな疑問である。掌を当て、『錬金』の魔法を用い、岩を砂に変えた。石像を発掘するような方法で。その石像はもともと埋まっていたものではなく、たった今、『錬金』の魔法によって形成されたものである。
 アクセルの十本の指、そして二本の腕は、等しく杖。土メイジに尋ねてみても、彼の技術はあり得ないものだった。全ては、一つの魔法を複数の杖を用いて行うというアクセル特有の方法が、この繊細な魔法を可能にしている。
 いや、それ以前に、彼には芸術の才能があるのだ。絵画、文学、彫刻から、音楽、演劇まで……。その才能によって多大な利益が生み出されているというのに、アクセルはその才能を信じていない。ただの偶然だ、たまたまに上手く行っただけだと。

「……『ミュゼオム』が無事に成功したようで、何よりです」
「今のところは、ね」

 バルシャの祝いの言葉にも、アクセルの返事は煮え切らない。彼は何故、ここまで自分に自身が持てないのだろう。

「予想を上回る集客力で、イベントも順調だとか」
「そう、それは嬉しいさ」

 アクセルは今度は石ころを拾い上げると、掌で包み込む。鉄、真鍮、銅、木……小石が様々な材質に変換されていった。

「でもね、やっぱりいたんだ」
「スパイですか?」
「そう」

 “傑作卿”という発明家の名声が高まるに連れ、アクセルが恐れていた問題も起き始める。既に世界的な注目を浴びる“傑作卿”に接触しようと、あの“博物公園”にも工作員たちが紛れ込んでいた。発見できなかった数は、発見できた数の何倍だろうか。
 その発明品の利益に与かろうとする輩なら、問題ない。しかし厄介なのは、“傑作卿”の発明品ではなく技術力に目を付け、それを軍事目的で利用しようとする存在だった。それはもはや“輩”などという言葉には当てはまらず、歴とした国家機関である。
 公式に“軍事関連の発明品、兵器は一切作製しない”という宣言を出してはいるが、それで片づきはしない。「あの国に先んじられるくらいなら我が国が」と、そのような発想が出てしまうのも当然だった。

「……まぁ、実際には作っちゃってるんだけどね? 武器とか」

 自嘲するかのように気弱な笑みを見せるアクセルだったが、バルシャは黙っていた。
 ゲルマニアからのスパイが三件、アルビオンからが二件、トリステインから二件、ガリアから四件。病的なまでのセキュリティの前に、彼等は全て手ぶらで帰還することになったが、それで終わりではない。アクセルは、恐れているのだ。ここまで話が大きくなってしまった事、そして、いずれ“傑作卿”の正体が自分であることが判明する事を。
 バルシャはアクセルの変化を感じていた。数年前との違いを。

(この人は何故……『ミュゼオム』を?)

 目立たず、騒がれずという基本姿勢は相変わらずだが、多少危険でも、利益の出る道を選ぶようになった。何の為かと言われれば、この『イシュタルの館』の為なのだろう。
 そもそも、本当に目立ちたくないというのならば、“傑作卿”を名乗って表に出たりはせず、このイシュタルの地下で、せっせと発明に励んでいれば良いのだ。

(やはり……そうか)

 昔の方が、彼は冷静だった。冷徹だった。
 しかし彼は、愛してしまったのだ。ボス・ナタンを。このイシュタルの館を。黒幕であることを止め、ナタンの部下としての自分を強く意識するようになった。

 それが良い事なのか、それとも悪い事なのか……それは所詮は、結果論でしかない。

 今、イシュタルの館はかつてない程の力を有している。協力関係にある組織を除外したとしても、その武力は揺るがない。既にその力は、ヤクザ組織としての範疇を超え、それでも尚成長し続けている。
 もういい、もう十分なのではないか……。
 いや、それでも彼は止まらない。例え国家を相手にしようが、例え世界中を敵に回そうが、問題なく渡り合えるほどの力を持つまで。もしかすると、それですら満足しないのかも知れないが。

「……うん、よし」

 アクセルの独り言が聞こえた。訓練は終わったらしく、彼は左肩をぐるぐると回す。何かを確認しているようだった。

「ゼナイドの一件、ですか」
「……うん」

 その名を耳にした途端、アクセルは苦虫を噛み潰したような顔になる。破壊された左の鎖骨は、ようやく、何一つ不自由しないまでに完治した。
 普通の傷ならば、ここまで時間はかからない。長引いた理由については、心当たりがあった。

(精神力……か)

 全ての人間が……いや、あらゆる知的生命体が、森羅万象が持つ力。それを用いて魔法を扱うメイジは、より激しくその影響を受ける。ゼナイドが与えた傷は、さながら呪いのように、アクセルの肩に取り憑いていた。治療薬や治癒の魔法を用いても、ゼナイドが込めた呪いが、その働きを大きく鈍らせる。

「……全く、イヤになる」
「え?」
「認めたく無いけど、似てるらしい。僕とゼナイドは」

 物体に想念を込めて発明を行うアクセルと、攻撃に想念を乗せて放つゼナイド。考えれば考えるほど似ていて、それ故に相性は最悪だった。

「あー、もう、やだやだ」

 振り払おうとするかのように頭を振ると、彼はバルシャの方へ歩き出す。

「ベルさん、どちらへ?」
「風呂」
「私もご一緒します」

 バルシャがそう言った途端、彼は歩みを止めて固まる。しかしすぐに、無理矢理に取り繕ったような笑顔を張ると、

「そうだね、久しぶりに一緒に入ろうか」

 と、精一杯の虚勢を見せた。

(この人は、私のことまで気遣うのか)

 アクセルが一瞬停止した理由は、バルシャへの配慮だろう。女になりながら“貝殻紋”を羽織るバルシャを、女ではなく仲間として扱おうとした。尤も、それは大分にぎこちないものになってしまったが。

「……少し、意地悪が過ぎましたか?」
「バルシャぁ」

 小首を傾げて微笑む彼女に、アクセルは情けない声で抗議する。

「ご心配なく。私は全て納得した上で、自分から進んで、この身体になったんですから」
「……そうか」
「まぁ、本当に出来てしまうとは思ってなかった、というのも事実ですけど」
「むぅ。意地悪だな、全く。……ひょっとして、あれ? 昔、裏切り者って言っちゃったこと、まだ根に持ってるとか?」
「まさか。意地悪なのは、私がヤクザ者だからでしょう」

 斜め下から覗き込んでくるアクセルに、バルシャは再び微笑んだ。








 夜が更けても、ゼルナの東地区は眠らない。寧ろ起き出すかのように、活気に満ちていく。
 豪快、粗暴、下品な料理を提供する、正しくヤクザ者の為の店『転がる石ころ』亭も、非番の貝殻紋の男達や荒くれ達、そしてその他の下世話な男や女達で賑わっていた。

「いよぉしっ、セレスタン!!」

 酒が回り、すっかり赤くなった顔のアクセルが、左手にギター、右手に酒瓶を握り、声を張り上げる。

「……ぅおうっ!!」

 こちらも、完全に酔いが回った様子の男が、壁にもたれながら立ち上がった。彼の額の絆創膏を見たアクセルが、再び叫ぶ。

「どうした、セレスタン! その頭!」
「これはミシェ……ええっと、何でも無いっす!」

 ふらつきつつも、セレスタンは敬礼のポーズを取る。

「そうか、何でも無いか!」
「うっす!」
「そんじゃ行くぞっ、例の新曲!」
「よっしゃぁ!」

 店の前方にあるステージには、普段は女が立つのだが、今夜は違った。ギターを抱えたアクセルと、イシュタルの館でも屈指の歌唱力を持つセレスタン。二人が並ぶと歓声が上がり、男達が囃し立てる。ギターを掻き鳴らしながら、アクセルが叫んだ。

「この新曲をぉ、娼婦の守り神イシュタルとぉ、ボス・ナタンに捧げるぅ!」

 続いて、セレスタンがマイクを握った。

「ちゃんと聞けよっ、お前ら! んじゃ行くぞぉ! “雑用”のベルさんとぉ、この俺“昴星”のセレスタン! B&Cの新曲『First kill』!!」


<First killから始まる 二人の故意のDestroy
<この運命に魔法かけた 君が突然殺られた
<仇一つ殺れない夜 ありえないコトだよね


 バーカウンターの隅で、その黒い女は一人、静かに飲んでいた。髪も瞳も、服も靴も全てが漆黒。それでも陰気さを感じないのは、ニコニコと、笑顔を絶やしていないからだ。歌を楽しんでいるのか、昼間にいい事でもあったのか、それとも酒と肴が口に合っているのか。

「……なぁ、姉さん?」
「はぁい?」

 カウンターの向こうから店長が声を掛けてみれば、おっとりとした声が返ってくる。ひょっとしたら笑顔の理由は、元々がこのような性格だからなのかも知れない。

「アンタ、よそ者だろ? ここらじゃ見ない顔だし」
「そぉですよぉ?」

 酔っているのか、元々がこんな喋り方なのか、さっぱり分からない。唇をへの字にした店長は、豊かな髭に囲まれた顔をそっと、彼女に近付けた。

「余計な世話かも知れねぇが、若い女が一人で飲みに来るような店じゃねぇんだ、ここは。ここにいる女達も、皆男連れだ」
「そぉなんですかぁ?」
「……ああ。この店で朝まで飲むってんなら、大丈夫だ。穴という穴に無理矢理突っ込まれるのが好みなら、あんたの勝手だ。けどな、そのどっちでもねぇんなら、ほら、貝殻紋の羽織を着た男達がいるだろ? そいつらに頼んで、宿まで送ってもらえ」
「へぇ? あの人たちなら、大丈夫なんですかぁ?」

 間延びした声で返答されると、眠気すら覚える。

「まぁな。少なくとも、女に無理矢理に手を出すことはねぇさ」
「へーぇ」

 聞いているのか聞いていないのか、彼女は相変わらずぼんやりとした声で頷いた。


<Over killまで待てない 二人の故意はDisaster


「……あの歌、ジャンルは何なんですかねぇ?」
「本人達はラブソングだって言ってるけど……いや、そうじゃなくてな。俺が言いてぇのは、もっと自分を大切にしろってことだ。こんな夜更けに、年頃のいい女が一人酒なんて……あんたみたいなのは、もっと上品な場所で、もっと早い時間に……」

 コップに水を注ぎ、差し出そうと振り向いた店主だが、女は消えている。一瞬食い逃げかと慌てた所で、銀貨が転がっていることに気付いた。
 首を傾げていると、声がかかる。

「どうかしたのか、店主」
「んぉ?」

 顔を上げれば、大男が立っていた。店主よりも、頭一つ分ほど大きい。

「ああ、スカロンさん。今来たのか。黒い姉ちゃん、出て行かなかったか?」
「私と入れ違いに、二人の男と出て行ったが……どうかしたのか?」

 店主の舌打ちに、彼は下ろしかけていた腰を持ち上げた。

「金を持ってる癖に、タダで女を抱きたいって馬鹿がいるんだ。多分、そいつらが……」
「わかった」
「オーナーにも知らせるか?」

 店主がステージの上のアクセルに目を向けるが、スカロンは首を振る。

「いや。二人くらいなら、私一人で十分だ」

 差し出された水を一息に飲み干すと、彼は踵を返し、半開きのドアから飛び出した。








 どんっ、と、勢いを付けて突き飛ばされる。彼女は路地裏の壁に身体をぶつけると、そのままへたり込んだ。

「痛いですねぇ。何するんですかぁ?」

 咎めているつもりなのだろうが、迫力など皆無だった。相変わらずの笑顔で、相変わらずのおっとりとした声。
 ザリッと、石畳と靴が擦れる。表通りのマジックライトの明かりが、僅かに二人の男を照らし出していた。

「さて、姉ちゃん」

 スキンヘッドの男と無精髭の男が、揃って路地の出口を塞いでいる。

「痛い思いをせずに気持ちよくなるか、気持ちよくなる前に痛い思いをしたいか。どっちだ?」

 娼館の増加は確かに性犯罪の抑制に繋がったが、それでもゼロになった訳では無い。金を持たない者や、強いコンプレックスを持つ者もいる。しかしこの二人は、そのどちらにも当てはまらない、女は金ではなく力で抱くという考えの者だった。

「……わかりましたよぉ」

 うっかりすればボタンすら留められないような女かと思えば、自分が路地裏に連れ込まれた理由と、今の状況くらいは判断出来るらしい。のろのろと立ち上がり、彼女は服のジッパーを下げると、ローブを地面に落とした。それだけで腰まで伸びる黒髪が解放され、彼女の身体を隠す物は無くなる。その体付きは、男達の想像以上だった。

「なんだ、下着も着けてねぇのか? とんだ淫乱だな」
「お前も遊びたかったんだろ?」

 夜食に自らの下拵えをさせると、男達は早速歩み寄っていく。裸体を晒す女は、相変わらず笑顔だった。

「実を言うと、そうなんですよぉ。私も……遊びたかったんです……」

 そこで初めて、彼女はその双眸を見開いた。その肉食獣の瞳を。

「もしもぉ、恨むならぁ……」

 笑った口には、白く鋭い牙が輝く。

「私をここに寄越したぁ……マムルートさんを恨んで下さいねぇ……?」

 食されるのは自分たちの方だと悟った男達に、既に逃げ場は無かった。



 一分後、スカロンが駆けつけたときには、既に女はおらず……。
 代わりに置き土産のように残されていたのは、血と臓物の凄惨な悪臭と、塵紙のように引き千切られた二人分の肉片だった。


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