小説『 「俺は死んでいない」』
作者:ドリーム(ドリーム王国)

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 前編

 横田一夫は学生時代から、ワンダーフォーゲル部に所属していた大の山好きである。
 妻との間に6歳になる和義と三ヵ月後に生まれる予定の子を楽しみにしていた。
 「貴方、もう今回だけにしてよ。いくら山が好きでも、心配する私の身になってよ」
 「ああ、分かっている啓子。これも仕事の内なのだと言えば、方便に聞こえるだろうが、
お得意さんに山好きが居て、プロ級の人と一緒なら安心だと言われ断れなかったんだ」
 「分かっているわ。でも貴方のようなベテランでも、崖崩れで石に当たって大怪我を
した事があるじゃない。だから心配なの……」

 心配する妊婦の妻と子供を残し、横田は山梨県南アルプス市にある標高3,193mの山。
 富士山に次ぐ日本第二の高峰、北岳に登ったのは、今から5年前の平成13年夏の事であった。
 6人のパーティーで半分はお得意様の3人、一人は会社の同僚、そして学生時代からの仲間で親友
でもある吉野だった。
 6月26日朝8時、バスで夜叉神峠を出発、大唐沢出合から歩き北岳山荘に14時到着
標高2900メートルにある北岳山荘からは頂上は目と鼻の先である。
 横田達パーティはここで一泊し、翌日早朝頂上を目差す。因みに山小屋といっても、ホテル並の
立派な建物である。一泊2食付7900円、素泊まり寝具ありで5200円寝具なしで4200円である。

 翌6月27日朝5時山荘を出発、5時50分頂上到達。その日の出の美しさは登った者にしか
分からない感動があった。お得意さんの三人は横田の手を取って感謝した。
 眼下に見えるのは雲の絨毯、そしてその上に浮かび上がるのは富士山の雄姿だ。
 満足した一行は、惜しみつつも下山する事にした。
 季節はまもなく夏を迎えるというのに、登山道には沢山の雪が積もっている。
 つまり最も危険なのは雪崩れと落石に注意しなければならない。
 今では素人でも登れるルートは何本かあるが、ルートを外れると危険である。

 山の天候は変わりやすい。下山途中で天候が悪化し空が暗くなって雷が鳴り始めた。
 横田は一時避難しようと、みんなに呼びかけたが、お得意さんの下園が見当たらない。
 みんなを非難させ横田は辺りを見渡しと、雪の間から顔を出した高山植物の写真を撮っていた。
 と、突然雷が近くに落ちたようだ。それと同時に落ちた振動で雪崩が発生した。
 横田は下園を助けようとしたが、迫り来る雪崩に二人共巻き込まれてしまった。
 それでも下園を助けようと、雪崩から遠ざけようと腰のベルトを引っ張り崖から遠ざけた。
 たが横田は雪崩と共に崖下に飲み込まれて行った。

 天候は荒れ、救助隊も救難ヘリも捜索に半日遅れたが、幸い下園は重症だが助かった。
 しかし横田の姿は何処にも見つからない。それから一週間捜索が行われたが見つからない。
 やがて捜索は打ち切られた。それでも諦めきれない家族やパティー仲間が独自で捜索したが、
ついに横田は見つかる事はなかった。
 横田の妻、啓子は悲しみの中で女の子を出産していた。
 「貴方……約束したじゃない。この子の顔も見ないで逝ってしまうなんて」

 それから3年の月日が流れ、周りは啓子に再婚を勧めたが、啓子はあの人は生きていると
断り続けたが、二人の子供を育てるには限界があった。横田に未練を残しつつも再婚に踏み
きったのであった。
 啓子を世話したのは横田に命を救われた下園だった。
 下園は責任を感じて、この三年間、色々と啓子の世話をして来た。
 それがやがて愛情に変わっても不思議はない。自然の流れかも知れない。
 過去に区切りをつけ、再び幸せを掴んだ筈の啓子だったが……
 そして二年、死んだ横田を忘れ掛けた頃、テレビのニュース速報を観て驚きの声を上げた。

後編につづく

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