小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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禁断の果実を食(しょく)すると、どうなるの?



――楽園を追放される?



――狂って、自らを律せなくなる?



――その味を忘れられなくなって、貪ってしまう?







 禁忌を犯した私は、禁断の果実に手を伸ばしてしまった。



 齧(かじ)ったら最後――もう、その運命(さだめ)から逃れることはできないのに――。











 東京都渋谷区松濤。

 BST(ブリティッシュスクール イン 東京)の創立五十周年を記念して増改築された講堂では、そのこけら落としとして在校生による演奏会が行われていた。

 このインターナショナルスクールは幼児の頃から皆、弦楽器や管楽器等の何らかの楽器を習う為、演奏のレベルは高い。

 しかしその管弦楽団をバックに浪々と奏でられる独奏は、明らかに他の者より抜きんでていた。

 装飾音符も鮮やかにハンガリー民謡を歌い上げると、束の間の静寂の後、存分にピチカートを多用して音を弾ませしっとりとした場の空気を一変させる。

 あまりにも有名な Allegro molto vivace の最後の音を響かせ弓を上方へ振りぬくと、その独奏者である少女はしばらく微動だにしなかった。が、やがてほうと息を吐くと弓を持っている腕を下し、観客に向き直った。

 広大な講堂に、しん――という音が聞こえそうなほどの静寂が広がる。

(………………………?)

 サラサーテのツィゴイネルワイゼンを弾ききった少女――ヴィクトリアは、ぽかんと口を開けて彼女を見つめる生徒やPTA達にこてと首をかしげて見せる。

 そのあどけない仕草に我に返った聴衆がワッと割れんばかりの拍手をしたのを確認し、額に汗を浮かべたヴィクトリアは満足そうにニコリと笑った。

 途端に辺りに英語やフランス語が飛び交う。

「ちょっ――!! ヴィヴィってあんなにヴァイオリン上手(うま)かったんだっ!?」

「勉強も出来て、スケートも出来て、その上音楽の才能もあるなんて――何者さっ!?」

「その上、驕(おご)ったところが全然なくて、あんなに美人なんだもんな〜〜」

 緞帳(どんちょう)が下りてしまってヴィクトリア、もといヴィヴィには全く聞こえていなかったが、演奏後の記念式典の間も、生徒達はざわざわと彼女の非凡さを囁いていた。







 ところ変わって、松濤の篠宮(しのみや)邸の一室――。

「ほら、もうちょっとだから、ヴィヴィ――。頑張って」

「え〜〜、もう、やだぁ〜……」

 ヴィヴィは学校では絶対に上げない様な情けない声を出す。

「やだじゃない、ちゃんと座って。後、三ページだけだから――」

 大きな飴色に輝くテーブルに突っ伏したヴィヴィに根気強く声を掛けている彼女の兄――匠海(たくみ)は、ヴィヴィの金色の頭を丸めたテキストでポスポスと叩く。

「……むう…………頑張ったら、チュウ、してくれる……?」

 ほんの少しだけ頭を起こしたヴィヴィは、百八十センチをゆうに超える長身の匠海を仰ぎ見る。その唇は可愛らしくつんと尖っていた。

「はぁ…………分かったから、ちゃんと座って?」

 我儘を言う妹に脱力した匠海はそれでも、しょうがないという風情でヴィヴィを励ます。

「ハグもよっ! ハグもつけてくれる?」

 がばっと上半身を起こしたヴィヴィは、嬉々とした表情で兄に詰め寄る。

「ああ――、だからちゃんとやりなさい」

「うん!」

 十三歳の少女にしてはやたら素直な返事をし、ヴィヴィは目の前の物理のテキストに取り組んだ。その数分後――、

「ほら、出来たよ!」

 ヴィヴィはそう言って顔を上げる。胸まである長く少し暗めの金髪がさらりと音を立てて流れる。

「じゃあチェックするから、ま――っ、ちょ、こら、ヴィヴィっ!?」

 待てと言う匠海を無視し、ヴィヴィは椅子を引いて立ち上がり、目の前の兄の胸に飛び込んだ。百六十センチのヴィヴィは背伸びをして匠海の首に縋り付く。

「お兄ちゃん、Love You〜〜!!」

 幼女のような甘ったるい声を出してじゃれ付く妹を抱き留めると、匠海は観念したように近くのカウチに腰を下ろした。

 ヴィヴィは兄の股の間に器用にその細い体を滑り込ませると、その長い右足に背を預け、広い胸に凭れ掛かる。

 匠海と二人きりの時だけのヴィヴィの定位置。

 物心ついた時からお兄ちゃん子のヴィヴィは匠海の腕の中が、一番落ち着いて安らいで大好きだった。

 一方、もう大学二回生で十九歳の匠海のほうは何度か妹本人に兄離れをするよう求めたが、やはりと言うかなんと言うか、ヴィヴィは全く聞く耳を持たず今に至っている。

「お兄ちゃん、約束のチュウは――?」

 まるで「ごろにゃん」という効果音が聞こえてきそうな仕草で、ヴィヴィは兄に縋り付くと上目使いで見上げる。

「はぁ………………」

 匠海はこれ見よがしに大きく一つため息を付くと、ヴィヴィを見下ろす。そして困ったような表情のまま少し屈んでヴィヴィのおでこにキスを落とした。

 柔らかな唇の感触を肌に感じ、ヴィヴィはくすぐったそうにその大きな青みがかった灰色の瞳を細めた。

(うふふ〜、気持ちいい)

 やがて唇を離した匠海に「今度はヴィヴィがチュウしてあげようか?」とからかおうとした時、

 ピピピピピ。

 ヴィヴィのポケットに入っていた携帯電話が鳴る。

「あ、そうだった」

 ヴィヴィは携帯電話を取り出すと、匠海から少し体を離してカウチの前のテーブルの上からテレビのリモコンを取り上げた。

「あれ、電話じゃないの?」

 不思議そうに聞いてくる匠海に着信音ではなくてアラーム音だと伝えると、テレビの電源を入れる。五十インチの画面に『ISUジュニアグランプリ ファイナル2016 女子シングル・男子シングル特集』と映し出された。

「あ……」と呟いた匠海の声を背に聞きながら、ヴィヴィはテレビの音声に耳を傾ける。

『先週フランス・ニースにて行われましたジュニアグランプリ ファイナルですが、見事男子シングル、女子シングルとも日本の選手が金メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。先週の深夜に放送いたしましたところ、視聴者の方からの反響がとても大きく、今日はその二人の小さな金メダリストを取り上げます』

 女子アナがすらすらと原稿を読み上げると画面が切り替わり、リンクの上のヴィヴィが映し出される。

 jumping jack の演奏に乗せて鮮やかなピンクのリボンが付いた黒の衣装を身にまとったヴィヴィが、出だしで軽やかにトリプルアクセルを決めた。その高さと迫力に観客がわっと歓声を上げる。

『ヴィクトリア篠宮さんは日本人とイギリス人のハーフの父と、イギリス人の母を持つクウォーターの十三歳。日本国籍と英国国籍を持ち、日本スケート連盟に所属しています。長い手足と柔軟性を生かした演技が特徴的ですが、やはりなんと言っても注目すべきはそのジャンプ力――あの浅田真央選手以来、公式戦でトリプルアクセルを決めた唯一の選手で、浅田二世との呼び声も高い前途有望な選手です。そして――』

 そこで画面が切り替わり、リンクの中央でうつむいてポーズをとる少年が映し出される。音楽が鳴り始めゆっくりと上げられた顔はヴィヴィとよく似た整った顔(かんばせ)。

『男子シングルのメダリストはクリス篠宮さん――なんとヴィクトリアさんの双子のお兄さん。二卵性双生児ですがよく似ていますね。彼の武器も妹さんと同じく高い柔軟性とジャンプ力。今まで出場したジュニアの大会すべてで、四回転を成功させている素晴らしい才能の持ち主です』

 涼しい顔をしてやすやすと四回転ループを飛ぶクリスが映し出され、その後は君が代の流れる表彰式の映像が流れた。

『そこでFキャスではお二人の素顔に迫るべく、都内のホームリンクにお邪魔しました――こんにちは』

『こんにちは、初めまして』

 凛々しい笑顔のヴィヴィと少し表情の硬いクリスがハモリながら、練習着を着て女子アナのほうへと滑ってくる。

『わあ、本当にお人形さんのようなお二人ですね。今日は色々お二人のお話を聞かせてくださいね』

 その後数分それぞれにインタビューする映像が流れ、最後は二人で『三月の世界Jr、応援してください!』と元気よく言って双子の特集は終わった。

 リモコンでテレビの電源をオフにして匠海を振り返ると、彼は口元に掌を当てて驚いた表情をしていた。

「私、練習着の時、頭ボサボサだったね〜」

 おどけてみせたヴィヴィに匠海は無言で首を振る。

「いや、ヴィヴィもクリスも可愛かったし、しっかり受け答えしてた…………っていうか、びっくりした……なんかお前たちがいきなり遠くの人になったみたいで、なんというか――」

 そこで言葉を切った匠海の顔を、ヴィヴィは下から覗き込む。

「淋しい――?」

「う〜ん、ちょっとね」

 眉尻を下げてそう言った兄を目にして、ヴィヴィの胸はキューンと疼いた。

(……………っ! お兄ちゃん、可愛い!)

 その気持ちのまま、匠海の広い胸に飛び込む。

「ヴィヴィはどこにも行かないよ? ず〜っとお兄ちゃんと一緒にいるんだもん&amp;amp;amp;#9825;」

 まだ十三歳でスケート以外を学校か家でしかほとんど過ごしたことのないヴィヴィは、異性には全く興味がないお子様だった。先ほどのテレビの中でのしっかりした態度とは全く違う子供っぽい甘えたなヴィヴィを見て、匠海は深いため息をついた。

「まったくみんな、だまされてるよ――ヴィヴィはこんなに甘えん坊なのにな」

 そう言ってヴィヴィの頭をポンポンと撫でた匠海の胸の中で、ヴィヴィは小さくピンク色の舌を出したのだが、匠海は気づくことはなかった。

(お兄ちゃんの前だけだもん、ヴィヴィが甘えんぼになるのは――)

 ヴィヴィは兄の香りを胸一杯に吸い込むと、幸福そうな表情で瞳を閉じた。

 


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