スケーターの朝は早い。
ベッドサイドの目覚まし時計が五時にその長針を合わせる一秒前、ヴィヴィはふかふかの羽毛布団の中からにょきっと伸ばした腕でアラームが鳴る前にボタンを押した。うつ伏せでベッドに突っ伏したままのヴィヴィは、そのまま微動だにしない。
「…………………」
(眠い、寒い、しんどい――)
冬の三重苦を頭の中で呟くのは毎朝の日課。これが夏だと、眠い、暑い、しんどい――に変化するだけ。
けれど数十秒後、ヴィヴィはおもむろにむくりと起き上がると、ぺちっという音を立てて自分の白い頬を叩き覚醒した。
細いけれど適当に筋肉の付いた長い脚を下してベッドから降りると、素早く手を動かして手早く朝の支度を済ませる。朝は一分一秒が惜しい。ちょっとでも早くリンクに行って練習をしたいのだ。
(今日こそはコーチが「ぎゃふん」と言っちゃうようなステップ、踏んじゃうんだからっ!!)
ヴィヴィはジュニアの世界女王だが、もし今シニアの世界の放り出されたらジャンプでは確実に他を圧倒するが、ステップやスケーティングのスキル、表現力においては若干見劣りする。経験年数の浅さという明らかなハンデがその一因であるからだ。
そのことを毎日のようにコーチ陣に言われ続けているヴィヴィは、今日こそやるぞと気合を入れる。頭の中ではロッキーのテーマが流れ、アドレナリンが吹き出して確実に目が覚めた。
ふんふんと鼻歌を奏でながら私室から出ると天井の高い長い廊下を抜け、階下の広い玄関ホールに出る。そこには既にスポーツウェアに身を包み準備万端の双子の兄クリスがソファーに座って待っていた。その傍に立っていた双子付きの執事・朝比奈が、軽い足取りで階段を下りてきたヴィヴィに気づき目礼する。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう朝比奈、Good morning クリス」
ヴィヴィがクリスの傍まで近づくと、クリスは立ち上がりヴィヴィを軽く抱き寄せその金髪にキスを落とす。
「morning ヴィヴィ」
そのまま連れ立って黒塗りのベンツに乗り込むと、助手席の朝比奈から渡されたiPadでそれぞれの昨日の練習をチェックする。自分のスケーティングを一歩引いて見つめなおし、修正点を確認することをコーチから義務付けられているのだ。
車はすぐにリンクに到着し、朝比奈に鍵をあけてもらい中に入る。途端に冷気が頬を撫でる。その冷たさで頭がさらにクリアになり、二人はトレーニングルームでストレッチをするとスケート靴を履き、氷の上に立った。
六時前の朝一のリンクは製氷され、輝いている。ヴィヴィはこの綺麗なリンクに自分の滑った軌跡が描かれるのが好きだった。ちょっとした優越感に浸りながら一通りアップを済ますと、コーチから出されている課題をこなす。
(オープンモホーク……クローズドモホーク……スウィングモホーク……)
頭の中で両足の動きを確認しながら踏むが、ついつい前傾姿勢になってしまう。これでは美しくない。さらにもっとエッジを深く倒さなければレベルを取れない。何度も何度も反復して地味なステップの練習を重ねる。決して楽しくはないが、それしか上達の近道はありあえないのだ。
時間を忘れてもくもくと滑っていると、隣からジャッと氷の削れる音がする。音の方向を見ると美しいランディングでジャンプを跳んだクリスの姿が目に入る。十三歳だかすでに身長が百八十センチ近いクリスのジャンプは迫力がある。
壁の時計を見ると終了予定時間が迫ってきていた。ヴィヴィは軽く膝を屈伸すると、ジャンプの練習を始めた。
一時間半の朝練を終えてシャワーを浴びると、リンクに併設されているカフェで朝比奈が用意してくれていた朝食を食べ、双子は車で学校へと向かった。
「おっはよう! クリス、ヴィヴィ」
「テレビ見たよ〜!」
校門をくぐると同時に、同級生や上級生に英語で声を掛けられる。下級生達は遠巻きに双子を見つめて何事かをささやき合っている。それぞれに朝の挨拶をしてクラスルームへと向かうと、そこでもクラスメート達に昨日のテレビのことを言われた。
ヴィヴィは紺色のダッフルコートを脱ぐと、白シャツと紺地に赤色のラインが入ったタータンチェックのワンピースの制服姿で自分の席に着席する。クリスもダッフルコートを脱いでロッカーに片づけると、ヴィヴィの前の席に座った。男子の制服は白シャツに女子と同色のタータンチェックのネクタイとパンツ、紺色のセータもしくはトレーナーと普段はカジュアルだ。唯一、式典や期末考査の時には男女ともかっちりとしたジャケットの着用が義務づけられている。
「そのうちヴィヴィ達も他のスケーターみたいに、テレビに出まくるんだろうな〜?」
ヴィヴィの親友のカレンが二人を見比べながら言う。ちなみに彼女は百パーセントイギリス人だ。両親が大使館員で日本に派遣されたため、ここに通っている。
「う〜ん、どうだろう? でもシニアに上がって結果残して、なおかつ人気が出なければそうでもないんじゃないかな?」
ヴィヴィは首を傾げてクリスに話を振るが、クリスは先ほどからずっとヴィヴィのほうに向かって座り、机越しにヴィヴィの長い髪を無気力にいじっている。
「ん〜……ヴィヴィと一緒だったら、出るけど……」
「けど?」
歯切れの悪い返事を返すクリスに他のクラスメイトが突っ込む。
「けど、正直……面倒くさい……」
そう気だるげに答えたクリスは眠そうにヴィヴィの机に突っ伏した。
「贅沢な!! そのうち可愛いアイドルや女子アナに、直に会えるかもしれないのに!」
クリスの返事に周りにいた男子生徒たちがヒートアップして騒ぎ出す。けれどクリスから帰ってきた答えは、
「基本、興味ない……」
という味気ないものだった。
「はぁ……こいつ女子にモテるのにシスコンだもんな〜、もったいなすぎる」
「ヴィヴィ、彼氏作るとき、絶対苦労するぜ」
そう、ヴィヴィはブラコンだが双子の兄のクリスもそこは似たようで、自他共に認めるシスコンだった。しかしヴィヴィの匠海に対するブラコン度合は、親友のカレン以外には知られていない。ヴィヴィは乾いた笑いを零しながら、目の前のクリスの猫っ毛を細い指先で梳いてごまかした。