小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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『Victoria Shinomiya , From JAPAN』

 リンクにトルコ語と英語のアナウンスが流れ、ヴィヴィはジュリアンとアイコンタクトを取る。

「Smile ヴィヴィ!」

 ジュリアンはフェンスの傍でヴィヴィを送り出す時、いつも同じセリフを口にする。本当はもっと言いたいことや注意事項があるのだろうが、口にしたことはなかった。

 ヴィヴィはにっこりと笑うと、両手をフェンスに乗せたまま軽く屈伸してリンクへと飛び出した。

 今日からグランプリ ジュニア トルコ大会の女子のSPが始まっていた。

 グランプリシリーズといってもジュニア大会なので観客はまばら。それでもトリプルアクセルを飛ぶことで徐々に有名になり始めているヴィヴィには期待の表れか、大きな声援が送られる。観客に両手を上げて答えると十分時間を取って肩の力を抜き、ジャンプの軸を再確認する。

 時間が来てリンク中央でSPのポーズをとる。

 一瞬の静寂ののち、ドンという大きな衝撃が来る音が鼓膜を震わせた時、ヴィヴィの頭の中は驚くほどクリアだった。緊張も、グランプリシリーズの連覇というプレッシャーもない。ただ、今迄になく真剣に演技と向き合って取り組んだ自分の演技を見せたいという気持ちだけだった。

 そしてその気持ちのまま、トリプルアクセルの踏切を切った。





「Congratulations クリス、ヴィヴィ!!」

 クロージングバンケットで主催者が乾杯の挨拶をした後、ヴィヴィとクリスの周りにはたくさんの選手や関係者がお祝いの言葉を掛けに来てくれた。

「まったく双子で男子も女子もまた制覇しちゃうなんて。君達なんか魔術でも使ってない?」

 同じ大会にペアで出場していた成田・下城ペアは、そう言ってバンケット用に着飾った双子を見比べる。そういう彼らはジュニアでは最後のグランプリシリーズへの参戦で、見事銅メダルを獲得した。

「そんなわけないでしょ、達樹さん。私達が毎日リンクで罵倒されてるのは、達樹さんたちが一番よく知ってるじゃない。ねえ、舞ちゃん」

 ヴィヴィは大人っぽい黒いドレスに身を包んだ下城舞に聞き返す。

「確かに。今シーズンは毎日練習終了後はフラフラだったよね」

 舞がそう同意した時、母ジュリアンに呼ばれた。

 「なんでしょう?」と尋ねると、「ジャンナから電話よ」と携帯電話を渡される。ジャンナとはロシア女性の振付師で先シーズンからお世話になっている。今シーズンもFPは彼女にお願いしていた。

「Hello?」

 ヴィヴィがそう言って電話に出た途端、ジャンナがもの凄い勢いで捲し立てた。

「ヴィヴィ? 今週末、日本に行くからスケジュール空けておくのよ! FPの振り付けし直すわよ!!」

「ええ――っ!?」

 もうシーズンインして、すでに今日彼女の振付けたFPを初お披露目したばかりなのに「今から振付しなおす」と言われ、驚かない筈がない。

「あんなSP見せつけられて、私のプライドが許しません! もっと素晴らしいシャコンヌを創り上げるわっ!! じゃあね! あ、それと――ゴールドメダルおめでとう!」

 そう言うと電話は一方的に切られた。

「なんですって?」

「えっと……今週末日本に来て、FP振付け直すそうです」

「あ、そ」

「あ、そって。驚かないのですか?」

「負けず嫌いのジャンナなら、今のヴィヴィのSPを見せたら悔しがると思ったのよね。ふっふっふっ、思った通り」

 ジャンナは元ジュリアンの振付師でもあったので、彼女の負けず嫌いな性格を把握していたのだろう。そう言って悪代官のように笑ったジュリアンを、ヴィヴィはあっけに取られて見ていた。





 その週末。

 日本に帰国していた双子の前に、ロシア人振付師のジャンナは本当に現れた。

「Hi!! クリス、ヴィヴィ。今日もプリティーね」

 年配のロシア女性特有のふっくらした体形のジャンナは、大きな体を揺らしながら双子の頭をそれぞれがしがしと撫で倒す。

「Hellow ……って言うか、本当に来られると思ってませんでした」

 ヴィヴが乾いた笑いを漏らしながらそう言うと、クリスも頷いて同意を示す。

「私は行くと言ったら行くのよっ! はい、お土産」

 ジャンナはそう言って双子に紙袋を押し付ける。中身は見なくても分かっている。ロシア名物――マトリョーシカだ。ジャンナは双子に会う時は必ず買って来てくれるので、屋敷には色々な種類のマトリョーシカが既に並んでいる。今回は何のマトリョーシカかと双子は紙袋をゴソゴソと覗く。

「ちなみにクリスのはプレイメイト・マトリョーシカよ。美女が一杯で嬉しいでしょ? ヴィヴィのはロシアの歴代大統領マトリョーシカよ」

「「……………」」

 双子が微妙な表情でそれぞれのマトリョーシカを見つめていると、ジャンナはヴィヴィの物を取り上げて中身を出していく。

「まずはプーチンでしょ? メドヴェージェフ、エリツィン、ゴルバチョフ、ブレジネフ、フルシチョフ、スターリン、レーニン、そして帝政ロシアへ遡り――ニコライ2世!!」

 ベンチにずらりとロシア最高権力者のマトリョーシカを「どうだ!」と言わんばかりに並べられ、ヴィヴィは引きつった笑みを浮かべる。

(ニコライ2世って、誰やねん――)

 思わず関西弁で突っ込んでしまったヴィヴィだった。

 その後、クリスのFPをチェックして休憩を挟み、ヴィヴィのFPの振付のやり直しの番になった。

「クリスの振り付けは'ほぼ′このままでいいわ。貴方は完璧だから!」

「どうも……」

 手放しでクリスを褒めるジャンナに、ヴィヴィがしょげる。クリスは要領も勘もいいから、なんでもそつなくこなすのだ。

「どうせ私は……」

「別にヴィヴィが悪いわけではないわ。私は『今シーズン、この選手はこんな感じで成長するんだろうな』と先を読んで振付をするのよ。でも今シーズンのヴィヴィは私の想像よりかなり先を行っていたのよね」

 クリスと別れた後、そうヴィヴィをフォローしたジャンナはベンチに腰かけると、隣に座ったヴィヴィをじっとその緑色の瞳で見つめる。その瞳は真剣で、今までの軽口を叩いている時のものとは全く違っていた。ヴィヴィはきゅっと気持ちを引き締める。 

「五月に振付けた時とは随分受ける印象が変わったわ。きっと、何かあったのね――?」

 ジャンナの思いも掛けない指摘に、ヴィヴィの華奢な肩がびくりと震える。彼女とは数時間前に再会したばかりなのに、ヴィヴィの変化を確実に見破っていた。ヴィヴィの顔から血の気が引いていく。

「ジャンナ……私、別に――」

「Non、何があったかは言わなくていいわ……。思春期ですもの、色々あって当然よ。ただ――」

 そこで言葉を区切ったジャンナは、ヴィヴィの瞳をひたと見据える。

「ただ?」

「今の貴女は私の創作意欲を掻き立てる『何か』を持っている――。だから私は忙しいスケジュールの合間をぬって、ここに来ました」

 ジャンナは売れっ子振付師だ。シニアの選手を何人も手掛けており、彼女に振りつけてほしい選手は列をなして待っている。双子は去年から『元々振付をしていた母ジュリアンの子供』ということで、ジュニア選手だけれど特別にオファーを受けてもらっていた。

「……………」

 ジャンナならではの最上級の褒め言葉に、ヴィヴィは目を見開いた。

「これから振付を一新します。ついてこれますね?」

 ジャンナが片目をバチンと瞑り自信満々に微笑んでヴィヴィを挑発すると、ヴィヴィは背筋を伸ばして「はい」と大きな声で答えた。

「ところで、ヴィヴィ――。ヴァイオリンやってるのよね? シャコンヌ弾ける?」

「へ?」

 ジャンナの突然の質問に、ヴィヴィは意図が見えずに間抜けな返事を返す。

「弾けるの?」

「えっと。一応」

 シャコンヌは中学一年生の頃にヴァイオリン講師から課題として出され、その魅力にはまったヴィヴィはその後もちょくちょく練習していた。

「じゃあ、行きましょう」

「ど、どこへ――?」

「ヴィヴィのおうち!」

 ヘッドコーチのジュリアンに「ヴィヴィ、借りるわよ?」と大声で叫んだジャンナに、離れたリンクの上で他の生徒を見ていたコーチは両腕で大きな丸を作って了承して見せた。

 その後、あれよあれよという間に車に押し込められて篠宮邸に連れて行かれたヴィヴィは、しょうがなく防音室へとジャンナを案内し、ヴァイオリンの調弦を始めた。

(最近忙しくて弾けてないんだけど、大丈夫かな――、っていうか、なんでヴァイオリンを弾かせるの?)

 頭の中は疑問で埋め尽くされていたが、目の前のソファーに深く座ったジャンナと視線が合い、彼女が大きく頷いて見せたのでヴィヴィは腹を決めて弓を振り下ろした。

 シャコンヌと一概に言っても、少なくとも四名の作曲家により手掛けられている。

 その中でも最も有名で世界中のヴァイオリニストに愛されているものが、J.S.バッハのシャコンヌだ。正確には「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番ニ短調」の第五曲にあたるもので、曲名通りヴァイオリン一本で演奏する大変難易度の高い曲である。

 この曲では始めの八小節で主題が提示され、その後その主題の二十九もの変奏が続く。

 ヴィヴィは何度も弾いたこの曲を暗譜していた。瞼をつむり、オスティナート・バスと呼ばれる執拗なリズムに乗って、興奮が高まったり緩んだりを繰り返しながら徐々にクライマックスへと進んで行く――。

(そう言えば、この曲を一番最初に聞かせたのも、お兄ちゃんだったけ――その頃はまだ和音が綺麗に弾きこなせなくて散々な出来だったのに「良かったよ」と言って、あの大きな暖かい掌で頭を撫でてくれた――)

 匠海とは休暇のイギリスで肩に触れられて以来、スキンシップは皆無だった。

(あの大きな掌で、長い指で……私の髪に、頬に――、唇に、触れてほしい――)

 最後の変奏を奏でて十分程の曲を弾き終わると、ヴィヴィはゆっくりと弦から弓を離して腕を下し、瞼を開けた。

 一人、拍手を送ってくれている音がした。ヴィヴィの視界にリラックスした様子で演奏を聴いていたジャンナの姿が入る。しかし、彼女の両手は大きなお腹の上でゆったりと組まれている。

(え…………?)

 不思議に思い視線を彷徨わせると、ジャンナの斜め後ろに匠海が立っているのが目に入った。
「…………っ!?」

 途端にヴィヴィの心臓の鼓動が不整な波動を送り始める。

「ヴィヴィのヴァイオリン、初めて聞いたけれどなかなかの腕前ね。これはスケーターではなくてこちらの道に進ませたほうがいいのかしら?」

 ジャンナが悪戯っぽい顔で後ろの匠海を振り返る。

「いえ、ヴァイオリンはまだまだですよ。でも中学生になりたての頃に聴かせて貰った時よりは、格段に上達していますが」

 匠海はジャンナのお世辞に苦笑しながら答える。

「お、お兄ちゃん……いつの間に、入ってきたの……?」

 ヴィヴィは声が震えないように懸命に注意しながら匠海に疑問をぶつける。確かに集中して弾いていたがさすがに扉の開閉音ぐらいなら気づけたはずだ。

「入ってきたんじゃないよ。最初からいたの、ミキサー室に」

 匠海は笑顔で防音室の奥の一角を指さす。防音室には母のジュリアンがフィギュア用に曲を編集するための小さなミキサー室があった。小部屋になっているので、人がいても出てこない限り気づかないのだ。

「あ……そう、なんだ。邪魔してごめんなさい……」

 ヴィヴィは先客の匠海に気づかず勝手に演奏を始めてしまったことを謝り、急いでヴァイオリンを片そうとする。

「俺の用事は終わったから大丈夫だよ。じゃあ、ジャンナ。ごゆっくり」

 匠海はそう言うとジャンナに挨拶をして防音室を出て行った。ヴィヴィは無意識に強張っていた肩を片手で揉む。

「…………ふうん」

 静寂が下りた部屋にジャンナの小さな吐息が響く。ヴィヴィははっと顔を上げてジャンナを見ると、彼女は食い入る様にヴィヴィを見つめていた。が、やがてその視線を大きな瞬きをして遮ると、何事もなかったように話し出した。

「ヴィヴィのシャコンヌ……悩み、もがき、立ち止まって――どうしていいか分からず、苦しんでいる……そういう風に聞こえたわ。聞けて良かった……。これで私のFPのイメージは固まった」

「………………」

(悩み、もがき、立ち止まって――どうしていいか分からず、苦しんでいる……)

 本当にその通りだと、ヴィヴィはジャンナの洞察力に舌を巻いて黙り込む。

「迷い戸惑い、狂い――、そして破滅へと導かれる少女」

「…………え?」

 スケートのプログラムのテーマにしてはあまりに重く、華やかなスケートには一見不釣り合いにも思えるそのテーマに、ヴィヴィは狐につままれたような顔をする。

「ヴィヴィ。私はフィギュアはいつも『美しさ、楽しさ、幸せ』だけを表現するもではないと思うの。その時の自分に近い感情……例えば『汚くて、暗くて、辛(つら)い』といったものを演じたほうが、よりその時の自分に相応しい――逆に言えば、『その時の自分にしか表現できないプログラム』になると思う」

「……………」

 ジャンナの説得力のある言葉に、ヴィヴィは次第に感化されていく自分を感じていた。

(無理して、笑わなくても、いいの――?)

「苦しいなら『苦しい』って言いなさい、ヴィヴィ。でももし言葉にできないのなら、スケートで表現してみたらどう?」

「ジャンナ……」

 ヴィヴィの顔がくしゃりと歪む。

(苦しい。辛(つら)すぎて、立場も場所も何も弁(わきま)えずにいっそ喚(わめ)いてしまいたくなる――。でもそんなこと、絶対に出来ない……)

 ヴィヴィは下していた両手をぎゅっと握りしめる。自分はこのまま暗闇に飲み込まれて立ち止まってはいられない、いてはいけない。ならばいっそ――。

 ジャンナは辛抱強くヴィヴィの答えを待っていてくれた。やがてきゅっと顔を引き締めたヴィヴィは、ジャンナをまっすぐに見据えて言った。

「宜しくお願いします――」


 


 その後リンクに戻ったジャンナは、新しい振付が脳から溢れ出して零れてしまいそうという風に、必死にヴィヴィの振り付けを施した。そしてたった数時間で新しいFPを完成させ、最後にヴィヴィに滑らせると満足そうな顔をして微笑んだ。

 このまま空港へ移動してアメリカへ振付のチェックに行くというジャンナを、ヴィヴィはリンク建物の玄関まで見送った。ジャンナの荷物を運んできたヴィヴィからそれを受け取ると、タクシー運転手に預ける。

「来てくれて、ありがとう、ジャンナ」

 ヴィヴィは心の底からの感謝を述べた。そんなヴィヴィの細い腕を練習着の上から握り、ジャンナが自分へとぐいと引き寄せる。

「シャコンヌはある説では、どうやらセクシャルな意味を持っていて、昔は公(おおやけ)の場では演奏を禁止されていたらしいの」

 ヴィヴィの耳元で小声でそう囁いたジャンナの意図することが分からず、ヴィヴィはその緑色の瞳を見返す。

「ヴィヴィ。貴女の演奏……“セクシー”だったわ――」

「――――っ!」

 目を丸くして絶句したヴィヴィを一瞥してギュッとハグしたジャンナは、さっさとタクシーに乗り込み、まるで嵐のように去って行った。

 後にはヴィヴィだけがぽつんと残される。後数日で十月になろうというのに晩夏のねっとりした熱気がヴィヴィの身体に纏わりつく。

(ジャンナには何もかもお見通しなんだ……私が何を思いながらシャコンヌを弾いていたのかも、私が今『何』を見ているのかも――)

「………………」

 自然と視線が徐々に下がっていく。ヴィヴィは暫くその場から動くことさえままならなかった。が、やがて白い頬を両手でぴしゃりと叩いて気合を入れると顔をあげ、自分の成すべきことを成す為にリンクへと足を踏み出した。   






※プレイメイト : 雑誌プレイボーイのヌードグラビアモデル達のこと。

※シャコンヌ : これの編曲バージョン、川井郁子さんの「ヴァイオリン ミューズ」を2011年度に村上佳菜子選手が使っています。


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