小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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『東京都西東京市・ダイドードリンコアイスアリーナから十六日よりお送りしております、全日本フィギュアスケートジュニア選手権大会、三日目の最終日。女子FPは最終グループの六分間練習が行われております。なんと言っても注目すべきは最終滑走者のヴィクトリア篠宮さん、十四歳。昨日のSPはシニアを含めた中での今季最高得点で折り返してきております。解説はソチオリンピック銅メダリストの鈴森明子さんをお迎えしております。鈴森さん――実は篠宮さんは先月行われたグランプリ ジュニア ドイツ大会から、FPの振り付けを一新したそうですね』

「はい。FPを初披露したグランプリ ジュニア トルコ大会の演技を見た振付師が来日して、振付を一新しました。私もヴィクトリアちゃんのホームリンクにお邪魔して拝見しましたが、もう圧巻の一言に尽きますね」

『と言いますと――?』

「発表されていますFPのテーマは『破滅へと導かれる少女』ですが、それを知った時――私は「早まったな」と思ったんです。というのもジュニアからシニアへ上がろうと準備している選手は、どうしても背伸びしたプログラムを望む傾向があるんです。『強い大人の女性』を演じたい――といった風に」

『ええ』

「当初のFPの振り付けもそのようなテーマでしたが新プログラムは更に難しいもので、今まで可愛らしくて軽やかなイメージのヴィクトリアちゃんからは、あまりにかけ離れすぎていていると思いました」

『そうですね、今までは“元気いっぱいなイメージ”ですよね』

「はい。けれど実際に演技を見て衝撃を受けました。トリプルアクセルをFPに二回入れているだけでも驚きですのに、先シーズンより格段に表現力が上がっています。なによりも不思議なことに、一見重そうに見えるこのテーマが、今のヴィクトリアちゃんにピタッとはまった様な振付なんです。トルコ大会の時はまだ若干滑り込みが足りていないようにも見えましたが、一ヶ月経った今、どの様に仕上がっているのか。私自身もとても楽しみです」

『なるほど。これはとても楽しみですね。そのヴィクトリア篠宮選手にインタビューをしております。こちらをご覧ください』





「まずはグランプリ ジュニア ファイナルへの出場の決定、おめでとうございます。」

 画面にBSTの制服を着たヴィヴィが映し出される。

「ありがとうございます」

 そう礼を返したヴィヴィの表情は、慣れないテレビカメラの前だからか若干こわばっていた・

「今シーズンはSPもFPもトリプルアクセルを飛ぶという決断をされていますが、プレッシャーはないですか?」

 インタビュアーの質問に、ヴィヴィは軽く微笑む。

「プレッシャーとかはないです。アクセルは自分が一番好きなジャンプなので、成功させて見ているお客さんにも楽しんで貰いたいです」

「そしてSPもFPも、今シーズンは今までのプログラムとガラリと印象が変わりましたね。その辺について聞かせてもらえますか?」

 過去、ヴィヴィやクリスへの質問はスケートに関することは少なかったため、ヴィヴィは背筋を伸ばし、言葉を選んで答える。

「はい。SPもFPも、今回は自分の好きな曲を使わせてもらいました。SPは振付師の宮田賢二先生から最初は駄目出しの連発だったのですが、音楽の背景を知ってそれを表現するいうことの大事さを教えてもらえました。FPは逆に音楽そのものではなく、音楽に乗せて自分の内面を表現するプログラムに、ジャンナ・モロゾワ先生に仕上げてもらいました」

 ヴィヴィはしっかりとした口調でインタビュアーを見つめて答える。

「なるほど、今回は両方とも新たな取り組みなんですね?」

「はい。先シーズンより成長した部分をお見せできるように頑張ります」

 ヴィヴィはそう言うと、微笑んだ。

「期待しています、頑張ってください」






『漆黒の衣装で登場、松濤国際SC所属、ヴィクトリア篠宮さん。SPは他を大きく引き離しての一位での折り返し。このまま全日本ジュニア二連覇なるか――フリーの演技です』

 アナウンスで名前が呼ばれ、黒にシルバーの刺繍が施された衣装を身に纏ったヴィヴィがリンクに現れる。

 全日本ジュニアの会場は九割ほどの観衆で埋められていた。ヴィヴィと同じスケートクラブの子達が用意してくれた手作りのバナーや、先シーズンにジュニアに上がってから出来たファンのバナーも飾られている。

 それらを見つめながら精神統一したヴィヴィは、ふうと大きく息を吐くと優雅な予備動作を入れながら横を向いて両腕で頭と腰を抱きしめるポーズをとる。

『曲はJ.S.バッハのシャコンヌ……篠宮選手は「今の自分自身を見てほしい」と語ります。まずは冒頭のトリプルアクセル。決めることはできるか?』

「決めましたね。高さもありランディングも流れがある、高い加点の付くジャンプです」

『ここからさらに勢いをつけていきたい。二つ目のトリプルアクセルのコンビネーションジャンプ――』

「トリプルアクセル、トリプルトゥーループ。二つ目のジャンプも高さがありましたね」

「トリプルフリップ、ダブルループ」

『フライングシットスピン。これはポジョションや手の表現が工夫されていて、素晴らしいですね?』

「ええ、自分の感情に戸惑っている様子がよく表現されています。スパイラルシークエンスでも悩んでいる様を表現しています。足をこれだけ上げながらのこの複雑な振り付け――簡単そうに滑っていますがバランスがとても難しいです」

『演技は後半に入りました。トリプルルッツ――そしてトリプルサルコウ、ダブルループ、ダブルループ。三連続のジャンプも難なく決めました』

「トリプルトゥーループ。降りた後の手の振り付けもいいですね」

『そして最後のジャンプ――ステップからのダブルアクセル。高い! 見事すべてのジャンプを決めました。会場からは大きな拍手が上がっています』

『最後は狂い、破滅へと進んでいく様をストレートラインステップで表現しています。嘆き悲しむ表情から、最後は諦め、運命に全てを委ねるような達観の笑み――』

「曲の強弱のつけ方も素晴らしいですね――これ程の表現を十四歳の少女が滑れることが、正直、信じられません」

『ああ、スタンディングオベーションが起こっていますね。これは信じられないものを見せてきました、篠宮選手』

「はい。このプログラムなら十二月に招待選手として出場する全日本シニアでも、十分通用しますね」

「篠宮さんの得点――123.18点。総合得点――188.04点。現在の順位は第一位です」

『やりました! 篠宮選手。シーズンベストをまた更新して堂々の第一位。双子のお兄さん、クリス篠宮選手と合わせて、全日本ジュニア二連覇です!!』





「これは、また――すごい成長ぶりだな」

 日曜日の午後。

 篠宮家のライブラリーでは、全日本ジュニアを仕事の都合で観戦できなかった父の為に、皆で集まりソファーに陣取って録画を見ていた。

 番組が終わりテレビを切った父が、少し放心したような状態でヴィヴィの演技に感嘆の声を上げた――が、当の本人のヴィヴィはずっとテレビモニターではない方向に意識を向けていたために、父の賞賛に気付かなかった。

「ヴィヴィ……?」

 大きなクッションを膝に乗せてギュッとそれを抱きしめたまま反応しないヴィヴィに、隣に座っていた父が身を乗り出してヴィヴィの視界に入り込む。

「え……? あ、ごめんなさい……何?」

「何って……。お前の演技が先シーズンに比べ、格段に成長しているっていう話」

 困ったように笑ってヴィヴィの片頬をつねった父に、ヴィヴィは「いたた……」と大げさに反応してみせる。

「それはどうも、ありがとう」

 クッションに金色の頭をボスとぶつけてお辞儀して見せたヴィヴィは、感謝の意を述べる。

「俺は現地で見てたけど、離れたところにいてもあの“達観の微笑み”を見たときは、一瞬ドキッとしたよ――」

 父の隣――ヴィヴィの一つ向こうに座っていた匠海が、そう言ってヴィヴィのことを褒めた。

(……ほんと? お兄ちゃんが、私を見て、鼓動が少しでも振れるなんてこと……あるの――?)

 遠慮がちに匠海を見つめたヴィヴィと、彼女の隣に座っているクリスを交互に見ながら匠海は微笑む。

「最近、周りからもクリスやヴィヴィのこと、根掘り葉掘り聞かれるようになったよ。二人とも可愛いって褒めちぎられる。兄としては鼻が高いよ」

 久しぶりに目にした匠海の笑顔に、ヴィヴィの目の下がほんのりと赤くなる。黙ったままのヴィヴィに代わり、クリスが「あんまり変なこと、言わないでね……」と兄にクギを刺す。

「変なことって、クリスがいっつもヴィヴィにくっついて離れない……とか?」

 悪戯っぽくそうクリスを挑発して匠海が破顔する。

「そうそう、スケ連(日本スケート連盟)に二人宛に手紙やプレゼントがいっぱい届いてるから、転送しますって連絡があったわ」

 と、母ジュリアンがまるで自分のことのように誇らしげに言う傍ら、ヴィヴィは鼻から下をクッションで隠して、一人物思いにふける。

(私……頑張ろう――お兄ちゃんに、もっと私を見てもらえるように。妹として誇りに思ってもらえるように。そして――)

 ヴィヴィは家族の楽しげな声に耳を傾けながらも、視線は広い庭へと続く窓ガラスに写った自分へと移す。

(私が、私自身に誇りを持てるように……自分のこと、好きになれるように――)






 十二月二十五日。

 世の中の大半の人が、大切な人と一緒に時を過ごしたいと思うその日――。

 ヴィヴィとクリスは朝の六時からずっと、各局のテレビ番組に連れまわされていた。現在夕方の五時を回ったところ。夕方のニュース番組に出演中のヴィヴィは、小さな顔に笑顔を張り付けながら頭の中では全く別のことを考えていた。

(私達、二十日(水)からずっと学校休んでるんだけどな……。今日も月曜日で学校なんだけどな……)

 双子の目の前では出演者用のモニターに、全日本選手権のお互いの演技のハイライトが流されている。正直、今日何回同じものを見せられただろう。少なくとも五回は見た――とヴィヴィは数えてみる。

 番組セットの足の長い不安定な細い椅子から転げ落ちないよう、ヴィヴィは背筋を伸ばしてあくびをかみ殺す。

「お互いの演技を振り返って、どうですか? まずはお兄さんのクリス君」

 この質問も何度目だろう。そんなに大雑把な質問をしないで欲しいと思いながら、クリスのほうを向く。ヴィヴィと同じスケ連のエンブレムが付いたジャケットを羽織ったクリスが口を開く。

「妹の演技は毎日隣で見ているので、日々その成長を把握していたつもりでしたが、本番になるとさらに肝が据わるというか――こんなに滑れたか? といつも驚かされます」

 いつもは言葉少なく寡黙なクリスが、真顔ですらすらとヴィヴィの演技の感想を述べる。久しぶりにクリスに「妹」と呼ばれ、なぜか少しこそばゆい。

「なるほど。土壇場に強いのですね。ヴィヴィさんはどうですか?」

「ええと……クリス――兄の演技はいつもながら、緊張と緩和の使い分けが絶妙だと思います。今回もジャズの音の拍子を的確に踏まえて演じているので曲との調和が高く、私も見習いたいと思います」

(まさにダッドの『英才教育』の賜物――(笑))

 とヴィヴィは心の中で付け足し、クリスを見てにやりとした。クリスも苦笑して返してくる。

「お二人のその笑みは何でしょうね? 気になりますが次の質問に移りたいと思います。今年はオリンピック前哨戦として日本国内でも激戦が繰り広げられていますが、お二人はそんな中で見事十四歳で並み居る先輩スケーターを抑え、シニアの全日本選手権を初制覇されました。勿論、十五歳に達していないので来年の世界選手権へは出場資格がありませんが、再来年の二月に行われる平昌(ぴょんちゃん)オリンピックへは出場資格を満たします。ずばり、本音をお聞かせください! お二人はオリンピックを目指していらっしゃいますか?」

(ああ、また来たか――)

 各局で必ず聞かれる質問に、ヴィヴィは心の中でげんなりする。きっと隣でいい子にしているクリスの心中も同様であろう。

 クリスは特に、勝ち負けにこだわらない性分なのだ。もちろん試合で優勝すればそれはそれで喜ぶだろうが、それよりもいかに自分が以前より成長しているか、進化できたか――そこを純粋に突き詰めているのだ。勿論それはクリスが誰よりもスケートを愛しているからに他ならない。

 だから再来年のオリンピックと言われても、クリスはピンと来ないらしい。

 そして、ヴィヴィはもっとピンと来ない。なんせ今は「自信を喪失した自分自身を見つめなおすために、スケートと真剣に向き合っている状態」なのだ。そりゃあ、無知で無邪気だった頃の自分は「ヴィヴィはママが取れなかった(ヒドイ……)金メダル、取ったげる!」と怖いもの知らずで豪語していたが――。

「僕は正直なところ、まだ何も考えていません。多分、妹もそうじゃないかな――ヴィヴィ?」

 正直に答えたクリスがヴィヴィに話を振る。

「私も、今はそれどころじゃないというか――目の前のことを熟(こな)すことで手が一杯です」

 オリンピックのことを「それどころ」と言ってしまった後、しまったと思ったが、まあ本音だしね……とヴィヴィは言い訳せずに口を噤んだ。

「これはまた意外なお返事でした。しかし、お母様の考えは違うようですよ。お二人にメッセージをお預かりしております。こちらを一緒にご覧ください」

 アナウンサーの突然のサプライズに、双子は顔を見合わせる。

(なんだろ……?)

 不思議に思ってモニターを見つめると、母ジュリアンが映し出された。バックは見覚えのある風景――昨日まで戦っていた全日本のリンクサイドだった。

(いつの間にこんなもの?)

『この度は双子でのアベック優勝、おめでとうございます』

『アリガトウゴザイマス』

 インタビュアーの祝辞に、ジュリアンが片言の日本語でにっこりと笑って答える。

『残念ながら世界選手権への出場資格はないために今回は出られませんが、来年への意気込みをお聞かせください』

『来年ハ、OLYMPICスィーズンデス。コレカラデキル限リノPotentialヲ身ニ着ケサセ、必ズ二人共OLYMPICニ出場サセテミセマスッ!!』

((はぁ――――っ!?))

 双子は心の中で叫び声でハモる。そんな事、今まで双子に一言も言ってきたことは無かったのに、コーチのいきなりの爆弾発言――。

「っという、お母様でありコーチのジュリアン先生のご意見でしたが、お二人、いかがですか?」

「「初耳です――!」」

 見事双子の以心伝心でまたハモって見せたヴィヴィ達に、スタジオから笑いが起きる。その後、あまり深く追及してこないでくれたアナウンサーに心の中で感謝しながら、ヴィヴィとクリスの出番は終わった。






 篠宮邸に辿り着いた時には、後一時間半で日付が変わろうという時間だった。

 いつもこのくらいの時間に練習を終えて帰ってくるので夜遅くに慣れている双子だったが、さすがに一日中慣れないテレビ出演を強要されてボロ雑巾のように疲れ果てていた。

 クリスに「お疲れ〜」と言って自分の部屋に戻った。私室のリビングには二メートル程のクリスマスツリーが飾られている。

 毎年自分でオーナメントやリボンを選んで飾り付けして楽しんでいたヴィヴィだったが、今年は朝から晩まで家でゆっくりできる時間がなく、執事の朝比奈が飾り付けてくれたようだ。可愛すぎない落ち着いたピンク色のベルベッドのリボンが、緑色の葉に映えて素敵だった。

(今年はクリスマスらしいこと、何も出来なかったな――)

 少しだけ淋しい気もしたがそれを上回る達成感があるので、ヴィヴィはまあいいかと思いながらバスルームへと消えていった。





 途中うとうとしながらなんとかお風呂を上がったヴィヴィは、喉の渇きをおぼえてペタペタとスリッパの音を立ててリビングへと戻る。備え付けの小さな冷蔵庫からガス入りのミネラルウォーターのペットボトルを取り出したヴィヴィは、振り向いた途端、掌からペットボトルを取り落した。

「おっ! お兄ちゃん――っ!? いつの間に――?」

 ヴィヴィはあまりに驚愕して一瞬叫びそうになったが、何とか堪えた。目の前の白いソファーには匠海がリラックスした様子で腰かけていた。

(あれ、こういう展開、前にもあったような――?)

 そう思いながら匠海を見ると、匠海はにっこりと笑う。

「二十分前から。ヴィヴィ長風呂だな。またお風呂で寝ちゃって風邪ひくんじゃないかと思って、あと十分待っても出てこなかったら、声かけようと思ってたんだ」

「…………っ」

 今のヴィヴィが入浴中に匠海に声をかけられたりしたら、焦ってバスタブに溺れそうになっていただろう。

「お、同じ失敗は、く、繰り返さないもん」

 バスタブにつかりながらうとうとしていたくせに、ヴィヴィは頬を膨らませてみせた。そして心の隅ではそんな自分に少しホッとする――前より少しは自然に兄に接せられうようになったと。

 L字型のソファーに匠海に変に思われない程度に、少し離れて座る。その時になって初めて自分の無防備な姿に気づいた。十二月とはいえ部屋の中は暖炉が焚かれているし、空調設備も整っているので寒くない。なのでヴィヴィはオフホワイトのバスローブ一枚だった。

 もう一度言おう。バスローブ一枚だけだった――下着類は一切付けていないのだ。

(寝室で着替えればいいと思ってたのに……)

 膝丈までのバスローブの裾を庇う様に両掌を置いたヴィヴィだったが、そんなことになっていようとはつゆ知らず、匠海はヴィヴィの顔を覗き込む。

「Merry X’mas!! ヴィヴィ」

「え?」

 いきなりの匠海の言葉に、ヴィヴィは首を傾げる。

「後五分で終わるけれど、一応まだX’masだよ」

 そう言って指をさした匠海の視線の先には、十一時五十五分を指し示した置時計があった。

「あ……本当だ。えっと、Happy X’mas お兄ちゃん」

 ヴィヴィは匠海を直視できず、少し上目使いで見てクリスマスの挨拶を返した。

(まさか、今年のクリスマスをお兄ちゃんと一緒に過ごせるなんて、思いもしなかった……)

 その事を間違いなく幸福と感じている自分に戸惑う自分がいながらも、一方で一瞬でも長く匠海と時を共有していたいという自分もいた。少し前のヴィヴィだったら、「自分はおかしい」と直ぐに自分を責めて殻に閉じこもっていただろう。

 しかし今シーズン、FPを滑るたびに醜い欲望を持っている自分も、迷い戸惑い右往左往している自分も「これも全部、自分なんだ」と少しずつ冷静に自分と向き合えるようになってきていた。

(だから、今はただ、楽しもう――お兄ちゃんと一緒の時間を……)

「ヴィヴィ、プレゼントは何がいい?」

「え……? 何?」

 突然振られた質問に、ヴィヴィは分からずに匠海に問い返す。

「ほら、今日X’masだろう。今年も二人は試合で頑張って楽しむ時間がなかったから、心優しい俺がプレゼントを用意してやろうと思って。クリスには昨日、メールしたんだけど――」

 心優しい俺――と自分で言ってのける匠海に、ヴィヴィは眉尻を下げて笑う。顔が綻ぶと、自然に気持ちも綻ぶ。若干身構えていたヴィヴィだったが、肩の力が少しだけ抜けた。

「クリスは何がほしいって?」

「睡眠時間」

 即答した匠海に、ヴィヴィは

(いや、それ、プレゼントできないから……)

 と心の中で突っ込む。

「で、ヴィヴィは――? クリスは男だし、あげたら喜びそうなものが大体わかるけれど、女の子は難しいからな〜」

 確かに自分も兄達にプレゼントを選ぶとしたら、きっと何が欲しいか想像できなくて迷いまくるだろう。ここは自分の欲しいものを素直に言って、匠海の手間を省かせてあげたいと思う。けれど――、

「欲しいもの……そうだな。今は何もない、かな……?」

 ヴィヴィは頑張って考えるのだが、頭の中には何も具体的な物が思い浮かばなかった。

「え、なにも? それはまた、無欲だな……」

 ヴィヴィがあれもこれも欲しいと言い出すと思っていた様子の匠海は、意外そうにヴィヴィを見返す。

「うん……せっかく聞いてくれたのに、ごめんね……思いつかないや。今年はスケートも順調だし――」

「だし――?」

 匠海がヴィヴィの言葉尻を拾って聞いて来るが、ヴィヴィは小さく微笑むと目を伏せた。

(一番欲しいものは、願っても手に入らないものだから。それが手に入らないのであれば、いっそ何もいらない――)

「ふうん……じゃあ、オリンピックの金メダルとかは?」

「え〜……。お兄ちゃんまで、そんなこと言わないでよ〜」

 今日散々根掘り葉掘り他人から聞かれたことを、家でも聞かれるとは思わなかった。まあ匠海は忙しいから、ヴィヴィが出ているニュースや情報バラエティ番組を見ている暇はなかっただろうし、同じことを聞いてしまってもしょうがないのだが。

「そんなこと? 普通、目指さない? オリンピックって」

「いや、だって……私、来季にシニアに上がる準備をしている段階だし……」

 困ったようにバスローブの裾をいじりながら、ヴィヴィが眉をハの字にする。

「っていうか、そのシニアの全日本選手権で優勝しちゃったのは、どこの誰?」

「………………」

(まぐれだもん、たぶん……だってシニアには凄い選手がいっぱいいるから。来期はそんなに簡単に優勝させてはもらえないよ……)

 やっとスケートと正面から向き合える状態になったばかりの今ヴィヴィには、オリンピックは重荷にしか感じられないのだ。

(でも……)

「私がオリンピックに出たら……お兄ちゃん、嬉しい?」

 単純に匠海がどう思っているのか、ヴィヴィは知りたくなった。

「そりゃあ、もちろん!」

(そうなんだ……お兄ちゃん、ヴィヴィがオリンピックに出たら、喜んでくれるんだ――)

「じゃあ、出る」

 気持ちは一瞬で固まった。

 あんなに嫌がっていたのが嘘みたいに、ヴィヴィは即決した。匠海がオリンピックで自分を見てみたいと思っているのだ。それを叶えるという事以上の高いモチベーションが、今のヴィヴィにあるだろうか。

「じゃあって――単純だな!」

 ヴィヴィの即答に、匠海が声をあげて笑う。大き目の口元に少し笑い皺が出るのが大人っぽい。自分は兄にはいつもこんな顔をしていて欲しいのだ。

「単純だもん」

 匠海に喜んでもらえる方法を見つけて、ヴィヴィは太ももに乗せた掌を見つめて小さくはにかんだ。

「っていうか、それじゃあ俺へのプレゼントじゃないか。俺はヴィヴィが欲しいものを聞きに来たのに」

 匠海が小さく首を傾けてヴィヴィを見つめる。切れ長のグレーの瞳の中にヴィヴィのシルエットが映り込んでいるのがよく分かった。

(お兄ちゃんが、今――私だけを見ている――)

「……あった。欲しいもの……っていうか、願い事――」

 やっと要望を口にしたヴィヴィに匠海が尋ねる。

「お。何?」

「好きな人に、自分を『見て』ほしい……」

 身を乗り出して聞いてきた匠海に、ヴィヴィはまっすぐに視線を合わせて答えた。

「……イギリスで言ってた人?」

「うん」

 小さく頷いたヴィヴィだったが、匠海にはヴィヴィの意図することがよく分からなかったようだ。

「見てほしいって、振り向いてほしいってこと?」

「ううん。『見て』てほしい……ただそれだけで、いい――」

(それ以上を望んでしまったら、もう私はきっと――自分を保てなくなるから)

 余りにも無欲なことを言うヴィヴィに、匠海は少し心配そうな顔をした。

「う〜ん。よく分からないけれど、ヴィヴィから告白したら? 兄の俺が言うのもなんだけど、ヴィヴィ可愛いし、最近は大人っぽくなってきて綺麗にもなったし」

「……綺麗? 私が……?」

 匠海の予想外な評価に、ヴィヴィは大きな瞳を真ん丸にして驚いた。匠海はヴィヴィをからかった訳ではなかったらしい。ちゃんと頷いて返してくれる。

「うん。ほとんどの男共はヴィヴィから告白されたら、有頂天になると思うよ?」

「……それは、ないと思う」

 自信満々にそう言う匠海の言葉に、ヴィヴィは一瞬詰まり、そしてぼそりと溢した。

「どうして?」

「……分かるから」

 ヴィヴィの答えに納得がいってない様子の匠海が、両腕を上に大きく伸ばして「う〜ん」と唸る。

「そうかなあ〜? でも可能性を自分で狭めないほうがいいんじゃないか? 告白してみて初めて相手も自分を意識して、そこから好きになってくれることもあるだろうし」

 匠海のアドバイスは尤(もっと)もだとヴィヴィは思う。思うけれども――それは『通常』の恋愛の場合だ。

「………………」

(私は、相手が苦しむと分かっていて、自分の気持ちだけを押し付けるなんてしたくない……)

 沈みかけたヴィヴィの心に、ふと疑問が浮かんだ。

「そういえば、お兄ちゃんは?」

「え?」

「お兄ちゃんの『欲しいもの』って、なに――?」

 今まで、そんなことを聞いたことはなかった。ヴィヴィは末っ子で甘やかされて育ったからか、自分の事ばかりだったから。

「う〜ん。なんだろう、これといって特にないな」

 十秒ほど考え込んでいた匠海だったが、返事は予想外なものだった。

「なんだ……。お兄ちゃんも一緒じゃない!」

 ヴィヴィが破顔する。人のことを無欲と言っておいて、妹の欲しいものを先に探ろうとする匠海のほうがよっぽど無欲だ。くすくすと小さな唇から笑いが漏れる。

「あ、でもあった!」

 突然思いついたようにソファーの背もたれから匠海が身体を起こす。

「なに?」

 無欲な匠海が欲しがるものだ。きっとよほど手に入れたいものなのだろうと、ヴィヴィも興味深そうに匠海を覗き込む。しかし、匠海はヴィヴィのほうに人指さしを指した。

「ヴィヴィの笑顔」

「………………え?」

「ヴィヴィの能天気な笑顔を見てると、疲れて帰ってきても元気になる」

 匠海のあまりにも思いがけない返答に、ヴィヴィは一瞬何を言われたか分からなくなるほど驚いた。無意識にバスローブを両手でギュッと握りしめてしまう。

「………………」

(私……少しでもお兄ちゃんの役、立ててるんだ――)

 もしかしたら最近自分と距離を取ろうとしている妹に対する、匠海なりの優しさ故の返答だったのかもしれない。けれどヴィヴィの胸の中には確実に、ほんわりと温かい何かが広がっていく。その何かは、身体中にじわじわと浸透して、やがてヴィヴィは幸せに包まれた。

 自然に笑顔が出た。今までの作り笑顔じゃなく、数か月ぶりに内から湧き出てきた幸福から来る笑顔だった。

「うん。いい笑顔」

 そう言って瞳を細めた匠海は、満足そうにそうに笑った。その瞳には紛れもなく妹に対する愛しさが宿っている。ヴィヴィのほうこそ匠海のそんな素敵な微笑みを見せられて、心臓が鼓動を速めていくのを抑えきれずに困ってしまう。顔も熱く、火照り始めているのが自分でも分かる。照れ隠しに、

「っていうか、能天気って!」

と両手を上げ、ぽかぽかと殴る真似をしながら突っ込んだヴィヴィだったが、その細い両手首はあっという間に匠海に掴まれる。そして気が付いた時には、ヴィヴィの全身は暖かいものに包まれていた。

(………………え?)

「捕まえた〜」

 頭の上から匠海の声が降ってくる。厚めのバスローブの生地の上から匠海の大きな手のひらを感じ取り、ヴィヴィはそこでやっと自分が匠海に抱きしめられているのだと自覚した。

「なっ!?」

 突然のことに小さく声を上げたヴィヴィは、さらにぎゅうと抱き寄せられる。視線に入るのは匠海の広い肩と襟足の黒髪だけ。抱き込まれたヴィヴィの両手には、時折トクトクと規則正しい匠海の鼓動が伝わってくる。

「最近ヴィヴィがつれないから、お兄ちゃんは淋しかったデス……」

 そう冗談めかして余裕で言ってのける匠海に、ヴィヴィの頬はさらに赤く染まる。

「お、お兄ちゃん! 前はヴィヴィから抱きついたら『兄離れしろ』って、い、嫌そうだったのに!」

 必死に何とかそう口にしたヴィヴィに、

「ヴィヴィからは駄目だけど、俺からならいいの」

と匠海はしれっと返した。

「な、なに、それっ!」

 傍若無人な返事を寄越した匠海に、ヴィヴィは「ずるいっ!」っと心の中で叫ぶ。自分から「兄離れしろ」と言ったのに、いざヴィヴィが離れていったら淋しくなって構いたくなったのだろうか。

「ヴィヴィ、お風呂上りでホカホカして気持ちいい。もうちょっとだけ、こうしてていい?」

「………………っ」

 初めてそんな風に甘えた声を出した匠海に、ヴィヴィの鼓動が跳ね上がる。

 こんなのはとてつもない反則技だ――こんなことをされたら、自分はもう『自分の気持ち』に気づかざるをえないではないか――。

「も、もう……ちょっとだけだよ……?」

 ヴィヴィは内から込み上げてくるものを必死に堪えながら、そう強がってみせた。匠海は「了解〜」と言うと、ヴィヴィの洗い立ての髪に顔を埋(うず)めてくる。心臓がぎゅうと押しつぶされそうなほど、苦しさを訴えてくる。

「………………っ」

(お兄ちゃんが、悪いんだから――)

 ヴィヴィはくしゃりと顔を歪ませて匠海の肩に埋める。そう、匠海が悪いのだ――そう人のせいにでもしなければ、ヴィヴィはまともでいられなかった。おずおずと二人の間に収まっていた両手を動かすと、匠海の広くて逞しい背中に腕を回してそっと手を添えた。

 その途端、匠海にさらに腰を引き寄せられた。二人を遮るものは己の服だけとなり、さらに体が密着する。

 そして、「ヴィヴィ」と呼ぶ、少し掠れた様な甘い声音――。

「………………!」

 もう、誰のせいでもよかった。

(お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん――っ)

 ヴィヴィは匠海の背に必死に縋り付く。匠海はそれを拒否することはなかった。堪えるように真一文字に結ばれたヴィヴィの唇が震える。




(もう、自分を騙せない。



私は、お兄ちゃんが『好き』だ――)







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