小説『Forbidden fruits ―禁断の果実―』
作者:ゴニョゴニョ()

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 サンクトペテルブルクを飛び立ってからの七時間――ヴィヴィは文字通り爆睡していた。いつも睡眠時間の短いヴィヴィにしては寝すぎてしまい、頭がかなりぼうとする。

 フラットになるビジネスクラスのシートからのっそりと上半身を起こすと、隣のクリスを見やる。クリスもすやすやと寝息を立てて眠っていた。ヴィヴィはクリスの腹部でくしゃくしゃになっていたブランケットを彼の胸まで掛けてなおしてやると、暗がりに浮かぶそのあどけない寝顔を見て小さく微笑み、またシートへと横になった。

 照明の落とされた機内の天井を見つめていると、ふとヴィヴィの脳裏に数日前の記憶が蘇える。






 匠海に誰にも披露したことのないFPを見てもらったあの日――「もう、遅いから帰ろう」と促されたヴィヴィは、急いでストレッチをして帰り支度をした。リンクやストレッチルームの電気を消して駐車場へと続く裏口へと向かったヴィヴィは、自動ドアのところではたと立ち尽くす。

「あれ……朝比奈……?」

 ここ一週間、ヴィヴィが終わる時間に朝比奈が車で迎えに来てくれていたが、今日はその姿が見えない。袖をまくって腕時計を見ると、いつもの時間から二十分経っていた。

(車、混んでるのかな――?)

ヴィヴィは「タクシーを呼んで一人で帰る」と朝比奈に電話しようと思い、鞄の中の携帯電話に手を伸ばす。その時、目の前に一台の黒いBMWが滑り込んだ。

 助手席側のウィンドウが開き、運転席から身を乗り出して顔を出したのは匠海だった。

「ヴィヴィ。乗って?」

「お兄ちゃんっ――!?」

 驚いて立ち尽くしてしまったヴィヴィの様子に苦笑した匠海は、サイドブレーキを引くと運転席から降りて助手席のほうへと回ってきた。

「何をそんなに驚いてるの?」

「えっ!? だって、お兄ちゃん、免許取ったなんて一言も――!」

 灰色の目を真ん丸にしてそう発したヴィヴィに、匠海はしらじらしく「そうだった?」と返す。そしてヴィヴィの手から鞄とスケート靴が入った袋を取り上げるとトランクを開いて放り込み、ヴィヴィのために助手席のドアを開いた。

「ほら、乗って?」

「え……、う、うん」

 ヴィヴィは促されるまま助手席に体を滑り込ませる。車の種類など分からないヴィヴィだが、これは世に言うスポーツカーなのだろうと思う。黒い流線型の洗練されたボディーに、いつも乗っているベンツとは比べ物にならないくらい低い車高。車内はシックな革張りだった。

(……いつの間に……?)

 匠海が当然のように運転席に収まると、ヴィヴィはぽかんと匠海を見つめる。

「これ、お兄ちゃんの車――?」

「そう。ダッドに出世払いの借金をして買ったんだ」

 頷いた匠海は、愛おしそうに革張りのハンドルを指先で撫でる。そして何かに気づいたようにヴィヴィのほうを振り向くと、いきなりヴィヴィに接近してきた。体を倒して助手席のシートに右手を添えた匠海は、ヴィヴィの目の前まで上半身を伸ばす。

(な、何――!?)

 心臓がどくりといきなり大きく波打つ。

 暗くて静かな密室の空間に五月蠅いヴィヴィの鼓動が響いてしまうのではないか、とありえない心配を咄嗟にしてしまう。

 目の前には見慣れない匠海のネクタイ姿と、薄暗い車内でも分かる男らしく突き出た喉仏。触れ合っていないのに、匠海の体からはヴィヴィを焦がすほどの熱が発せられているかのように、熱く感じてしまう。

 思わず目を瞑ってしまったヴィヴィだったが、数秒後、しゅっと何かを引っ張る音がした。

 恐る恐る瞼を開いたヴィヴィの目の前には匠海の姿はなく、胸と腰に感じる違和感。

「え……?」

 思わず小さな声を上げてしまったヴィヴィに、運転席へと戻っていた匠海が「シートベルト」と呟く。

「あ……」

 自分の体に視線を落とすと、シートベルトが巻かれていた。抱きしめられると勘違いしてしまった自分に、ヴィヴィの白い頬がかっと朱に染まる。けれど車内が暗いので匠海には気づかれなかったようだ。

「まったく! いつまで経っても、手のかかるべーべちゃんだな〜」

 そう言いながらも優しい瞳でヴィヴィを見下ろして金色の頭を撫でなでしてくる匠海に、ヴィヴィはドキドキしながらも言い返す。

「べっ!? ヴィヴィ、べーべちゃん(赤ちゃん)じゃないっ!!」

 母のジュリアンやクラスメイトにはよく「お子ちゃま」とからかわれるヴィヴィだったが、匠海はそれを通り越してBABYだ。ヴィヴィは唇を尖らせると、ふんと窓の外に顔をそらした。

「はいはい。じゃあ帰るよ」

 匠海は苦笑してそう言うと、サイドブレーキを下げて静かに車を発進させた。駐車場を出てスムーズに車の列に入ると、流れるような運転で家路を辿る。

「いつの間に、車なんて買ったの……?」

 一分後、腹を立てていたことなど忘れてヴィヴィが匠海に尋ねる。

「一ヶ月前。しかも免許を取ったのは二ヶ月前――でも安心しろ。俺は安全運転だから」

 一瞬「大丈夫かな?」と心配したヴィヴィだったが、その心配も匠海の運転を見ているうちに無くなった。

「クリス、羨ましがるよ〜。メカ好きだから」

「ああ、クリスは前から知ってる。車を選んでいた時にも、ディーラーに付いてきてたし」

 まさか自分だけ知らされていなかったとは思いもしないヴィヴィが、ぱっと運転中の匠海を振り返る。

「えっ!? ずるい〜っ!」

 自分も兄と一緒に車を見に行きたかったと拗ねるヴィヴィに、匠海が笑う。

「いや、ヴィヴィはFPの準備で忙しそうだったし。それに、ヴィヴィを連れて行ったらちょっと五月蠅そうだったし……」

「う、五月蠅くないもんっ!!」

「いいや、絶対五月蠅いはず……ピンクの車買えだの、この車は可愛くないだの」

「………………っ」

 確かに真実を突いている匠海の指摘に、ヴィヴィはぐっと詰まると何も言えずに頬を膨らませた。信号が赤に変わり、車が静かに停止する。

「悪かったって。だから『初めて』をヴィヴィにあげたでしょ――?」

 笑いを含んだ匠海の声に、ヴィヴィは内心首を傾げる。

(『初めて』……?)

「この車に乗せたの、ヴィヴィが『初めて』」

「え…………?」

「購入したのは一ヶ月前だけど、納車は一週間前だったんだ。だから今日ヴィヴィを乗せるまで、まだ誰も乗せたことはないよ」

 信号が青に変わり、匠海が車を発進させる。

「本当……?」

「ああ」

「じょ、助手席に他の人、乗せたこと無いの――?」

(麻美さん、も……?)

 以前ヴィヴィの前で匠海と抱き合っていた女性はそれ以来見ていない。どうやら匠海の彼女ではないらしいが、ヴィヴィはどうしてもこだわってしまう。

「助手席っていうか、2シーターだから助手席しかないけど……ヴィヴィが初めてだよ」

 前を見ている匠海の表情がふと綻ぶ。ヴィヴィはその横顔を食い入るように見つめると、きゅっと唇を引き結んだ。歯を噛み締めて湧き上がってくる自分の気持ちを押し殺す。そうでもしなければ、溢れ出そうだった。

(嬉しい……すっごく、嬉しい……)

 胸の奥がじんと熱くなる。他の人から見れば「何でそんなことで?」と思われるかもしれないが、ヴィヴィにはただの妹である自分を匠海が「初めはヴィヴィを乗せてあげよう」と思ってくれたことだけで、天にも昇るほど嬉しかったのだ。

「うふふ……」

 知らず知らず、ヴィヴィの唇から微笑みが漏れる。

「機嫌治った……?」

 すかさず突っ込んでくる匠海に、ヴィヴィはついとそっぽを向く。

「あま〜いっ! ヴィヴィも一緒に車選びたかったもん! だからまだ膨れているのです!」

 そう言って助手席の窓から外を睨んで腕組みをしてみせるヴィヴィに、匠海の苦笑が聞こえた。

(お兄ちゃん……大好き……)

 視線の先――流れていく東京の夜景を見ながら、ヴィヴィは心の中で呟く。






 星に願いをかけるなら

 君がどんな人だって構わない

 心から願う その気持ちは きっと叶うんだよ






 去年の夏。自分の心を持て余していたヴィヴィは、その歌詞を否定しながら車中から夜景を見つめていた。

 しかし、今は違う。

 愛しい匠海の隣で、幸福な気持ちで夜景を見つめている。

(目を閉じると、ほら――こんな明るい東京の夜でも、無数に瞬く星が見られる……)

 ヴィヴィはシートに深く背を預けると、瞼を瞑りながら幸せそうに微笑んだ。







 ヴィヴィが次に意識を取り戻したのは、篠宮家の長い廊下の途中だった。

「よくお眠りですね」

 どこからか朝比奈の押し殺したような声が聞こえる。

「ああ、睡眠時間三時間じゃ、爆睡もするさ――」

「…………っ! 知ってらっしゃったのですか?」

 匠海の返事に、朝比奈が驚いた声を上げる。

「し――。両親は気づいてないよ。俺は隣の部屋だから、ヴィヴィの帰りが遅くなったことくらい気づくさ」

(お兄ちゃん……気づいてたんだ……)

 ヴィヴィはぼうとする頭の片隅で、そう思う。

「申し訳ありません。私は止めないといけない立場ですのに――」

 小さな声で謝る朝比奈を、匠海が遮る。

「ヴィヴィが頼んだんだろう? しょうがないよ。この子にお願い事をされると何故か聞き入れてやりたくなるのは、誰だって同じさ……」

 そう言って苦笑した匠海は、ヴィヴィをギュッと抱き寄せた。

(…………え?)

 膝の下と背中に回された腕の感触。

 凭れ掛かった頬に感じるスーツを纏った逞しい胸と、微かに香る匠海の香水の香り――。

(へ…………?)

 音だけを拾っていた朦朧とした思考が、徐々に覚醒してくる。

「可愛い寝顔だな――FPを踊っていた時の妖艶さは、微塵も感じられない……」

 そう言って苦笑した匠海の腕の中で、ヴィヴィはばちっと音がしそうなほど大きく瞼を開いた。

「あ。起きた……」

 ちょっと残念そうにそう呟いた匠海の顔を彼の胸の中から見上げたヴィヴィは、絶句した。

「なっ……!? えっ――!?」

 寝起きの掠れた声で小さく叫んだヴィヴィは、咄嗟に自分の置かれている状況を感じ取る。

(わ、私、お兄ちゃんにお姫様抱っこされてる――っ!?)

 ひいっ! とヴィヴィは心の中で悲鳴を上げる。

 確かにヴィヴィは細い。スケーターとしても華奢過ぎるくらいだ。しかしそれでも確実にアスリートとしての筋肉は備えている。つまりー―、

「お、お兄ちゃんっ! 下して! 私、重いから――っ!!」

 そう叫ぶとわたわたと匠海の腕の中で暴れる。

「落ちるから暴れるなって!」

 匠海にそう叱責されたヴィヴィは、驚いてぴたと暴れるのを止めた。

「ほんとに手のかかるべーべだ……」

 匠海は困ったようにそう呟くとヴィヴィの私室に入り、バスルームでやっとヴィヴィの体を下した。

「ご、ごめんなさい……」

 今まで匠海に声を荒げられたことなどなかったヴィヴィが、体を小さくしながら謝罪を口にする。

「怒鳴って悪かったって。明日は大事な日なんだろう? ちゃんとシャワー浴びて早く寝なさい。いいね――?」

「は、はい……」

 ヴィヴィの頭をポンと叩き背を向けてバスルームを出て行こうとする匠海の背中に、ヴィヴィは咄嗟に声をかける。

「あ、ありがとう……お兄ちゃん……」

 匠海は一瞬歩を緩めたが、小さく手を上げるとそのままバスルームを出て行ってしまった。








(で――結局次の日にコーチ陣に「サロメじゃ駄目」と言われ、ロシアに行き……今に至る……と)

 ヴィヴィは飛行機のシートの上でいつの間にか閉じていた瞼を開く。

 バースデーパーティーでは匠海はいつも通り優しい兄だった。

 ゴールデンウィークの間ロシアにいたヴィヴィは、匠海ともう五日も会っていないし声も聞いていない。

(早く、会いたいな……)

「ふう……」

 思わず漏らしてしまった溜息に、隣のシートで眠っていたはずのクリスが体を起こした。

「なんだ、ヴィヴィ……起きてたの……?」

 クリスはそう呟くと、腕を伸ばしてヴィヴィの後頭部に掌を添え自分へと引き寄せる。

「おはよ……」

 そう言ってヴィヴィの頬に小さくキスを落としたクリスに、ヴィヴィも同じく「おはよ」とキスを返す。

「よく寝た……あと三時間ほどで日本に着くね……」

 両腕を上げてう〜んと伸びをしながらクリスがそう呟く。ヴィヴィも腕時計で時間を確認して頷く。成田到着は時差の影響で出発日翌日の昼前だ。それからリンクへと直行し、コーチ陣の前で出来上がりほやほやのプログラムを滑って見せることになっている。

「………………」

(お、怒るだろうな……マム……)

 あれだけ「諦めない」と強気だったヴィヴィだが、やはりコーチ陣の助言を聞き入れず自分の希望を貫き通してしまったことに、若干の後ろめたさを感じてしまう。

「僕は好きだよ……ヴィヴィの『サロメ』……自信持って……?」

 不安そうなヴィヴィの表情に気付いたクリスが、ヴィヴィの頬を指先でさすさすと撫でる。

「ありがと……罵倒されるだろうけど……覚悟、決めるよ――」

 ヴィヴィはそう言って小さく笑うと、クリスも頷いてくれた。


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