「寒っ……」
プルコヴォ空港に降り立ったヴィヴィは、ぶるりと華奢な体を震わせた。
ゴールデンウィーク初日、ロシア第二の都市――サンクトペテルブルクに振付のために到着した双子だったが、東京より五度ほど涼しい気候のために寒さを感じたのだ。
隣のクリスも寒そうに首を竦めると、ヴィヴィを見下ろして「大丈夫?」と確認する。頷いてみせたヴィヴィの目の前では双子の執事の朝比奈が車を手配するために電話をしており、双子の傍らにはNHKの三田ディレクターがカメラ片手に撮影していた。今回の旅行はこの四人だけである。
「ロシアに来るのは一年ぶり?」
三田の問いかけに、双子が頷く。
「去年振付に来た以来……かな?」
「今シーズンのグランプリ・ファイナルはロシアだから、今年は少なくとも二回は渡露することになるのかな……?」
クリスの問いかけに、ヴィヴィは
「グランプリシリーズを勝ち抜けたら……だけどね」
と困ったように笑った。
「その為には、素敵なプログラムを振付けてもらわないとね――?」
三田の問いに、双子は首肯する。
「どんなものになるか、楽しみ……」
と前向きな言葉を述べたクリスに対し、ヴィヴィの返事は重かった。
「……私は……最後まで諦めない――」
そう言ってぐっと唇を引き結んだヴィヴィは、サンクトペテルブルクの五月晴れした空を仰ぎ見た。
空港からリンクへと直行すると、挨拶もそこそこにジャンナはクリスのSP――ピアソラのアディオス・ノニーノを振付け始めた。
クリスは彼の希望通りの曲を使用することをジュリアンが許可していたため、ジャンナは前もって振付を考えていたようだ。淀みなく進む振付を横目で見ながら、二人と同じリンクでヴィヴィは流していた。
「………………」
(バースデーパーティーの後、ジャンナにサロメの演技映像をメールしたけれど……何の返事もなかった――)
『諦めない――』
そう言ったヴィヴィだが、結局ロシアに来てもジャンナを説得できる自信は半々というところだった。
(とにかく、一度、生でプログラムを見てもらおう――)
アップを終えたヴィヴィはクリスの曲が鳴るリンクの中、頭の中で曲を再現しながらサロメの振り付けを確認しだす。
暫くすると周りにいたスケーターやその付添い、コーチ達が次第にヴィヴィの滑りに吸い付けられるように注目し始めた。ヴィヴィは人口密度の高いリンクの中、器用に人を避けながらプログラムを滑っていく。
(やっぱり……しっくりくる――)
サロメを滑ると、自分が自分でないような感覚に襲われる時がある。自分に何かが憑依しているかの様に、ある意味心の中が『無』になる――。
世界レベルの期待の新星としてヴィヴィに向けられる周りの視線など、気にもならなかった。
そしてその一部始終をクリスの振付けをしながら観察していた、ジャンナの視線にも――。
数時間後。
クリスのSPの振り付けをあらかた終えた双子は、カフェでミルクティーを飲んで暖を取っていた。ジャンナはそんなヴィヴィを見つけると、ミーティングルームへと連れて行った。
「観たわよ……ヴィヴィのサロメ――」
ヴィヴィにソファーを勧めた直後、ジャンナはそう発した。
(………………っ)
「どう……でしたか――?」
ヴィヴィは恐る恐る、そう口を開く。
ジャンナにまで頭ごなしに「駄目」と言われたらどうしよう――その気持ちから薄い唇が震えそうになるのを、ヴィヴィは口を引き結んで耐える。ジャンナはそのふくよかな体をヴィヴィの向かいのソファーに沈めると、視線を宙に彷徨わせた。
「どうって……そうねえ……困ったわよ、とっても――」
「………………?」
(……困った?)
ジャンナの予想外の返答に、ヴィヴィは首を傾げて見せる。話にならないほど駄目な振り付けだったら、こんな返答はしないであろう。ということは、少なくとも「サロメ」には何かジャンナの心に響くものがあったのかと、ヴィヴィは期待を込めた瞳で彼女を見つめた。
そんなヴィヴィの必死な視線を受け止め、ジャンナは一瞬おいて苦笑した。
「ふふ……。本当に、真っ直ぐなのね、ヴィヴィは……。良くも、悪くも――」
「え……?」
悪くも――とはどういう意味だろう……と不安げな表情を浮かべたヴィヴィに、ジャンナは肩を竦めて見せる。
「ヴィヴィには『ジゼル』を用意していたの――」
「ジゼル……ですか――」
ロマンティックバレエの不朽の名作――ジゼル。
確かに物語前半の恋する幸せなジゼルを演じれば、コーチ達が自分に求める「笑顔で優雅なヴィヴィ」が見せられるだろう。
「ええ……。昨シーズンのヴィヴィを見てきて、今のヴィヴィには一番しっくりくると思ったの――」
ジャンナはそこで言葉を区切ると、真正面からヴィヴィを見据えて口を開く。
「『自分の幸せよりも、愛する人の幸せを考えて身を引くジゼル』が、『これからのヴィヴィ』には合うのじゃないかって――」
「………………っ」
ヴィヴィはジャンナの言葉に息を呑んで、彼女をその灰色の瞳で凝視した。
村娘のジゼルは青年貴族アルブレヒトの身分も知らず、無邪気に恋に落ちていた。しかしある日、アルブレヒトに婚約者がいることを知らされ発狂したジゼルは、元々心臓が弱かったこともありショックで命を落としてしまう。
森の中で処女の精霊・ウィリとなってしまったジゼルは、森でアルブレヒトがウィリたちに死ぬまで踊らされている場面に出くわす。
アルブレヒトは精霊ウィリたちに捕らえられ踊らされ、休むことを許されず力尽き命乞いをする。それを見ていたジゼルは精霊ウィルの女王――ミルタにアルブレヒトの命乞いをする。やがて朝の鐘が鳴り朝日が射しはじめ、アルブレヒトの命は助かり、ジゼルは朝の光を浴びアルブレヒトに別れをつげて消えていく。
つまりジゼルは愛する人を最後には守り、身を引いた少女――だ。
けれどヴィヴィが選んだのは、ジゼルとは対極にいるサロメ――自分を受け入れない男を力ずくで手に入れた少女。
(何故か、分からない……私はサロメに強く惹かれた――)
まるで、自分の行く末を暗示したかのように――。
「………………」
ヴィヴィの長い睫毛に縁どられた瞳がピクリと細動する。
(私……もしかしたら欲深くなっている――?)
前は兄に自分を『見て』ほしい……ただそれだけが望みだった――なのに、いつのまにか『オリンピックで金メダルを取れたら自分の気持ちを伝える』と気持ちが変化してきていた。
(抑えきれなく、なってきている……心の奥底の――自分でもその存在を知らなかった自我の強い幼い自分が「お兄ちゃんが欲しいの――!」と喚き始めている……)
自分の醜い欲求をコントロールできない……なんて愚かな自分。けれど――、
「決めたのね……自分の気持ちを貫き通すって――」
ヴィヴィの様子を見守っていたジャンナが、まるでヴィヴィの心を代弁するようにそう言葉にした。
(ジャンナには、全て……何もかも、お見通し――)
「はい……」
ヴィヴィのその返事は、掠れていたが決意を感じさせる強いものだった。
「そう……」
ジャンナはそう呟くと、口を噤んだ。大きなお腹の上で組んだ両手に、一瞬ぎゅっと力が加えられたように見えたのは、気のせいだろうか――。
二人が黙り込み静寂が降りたミーティングルームに、廊下の足音や氷を削る音、話し声といった音が浸み込んでくる。そういった日常の生活が繰り返されている外界と、壁一枚だけ隔てたこの空間で繰り広げられている非日常的な会話のやり取りに、ヴィヴィは一瞬不思議な感覚を覚えた。
人の道に外れたことをしようとしている自分を、今までの中で一番肌で感じた時でもあった。
「軽蔑、しますか……?」
静寂を破り自嘲気味に小さく嗤ったヴィヴィに、視線を上げたジャンナがふと眉を潜めた。
「……軽蔑……? 私にヴィヴィのことをそんな風に判断する権利は、無いわ……。それにもし私が今『ヴィヴィを軽蔑する』と言ったとして、ヴィヴィの気持ちはそんなことで変わるの――?」
「………………」
「もし他人の評価で覆すことができるような『思い』なら、そんなもの――とっとと捨ててしまいなさい。そのほうが周りの幸せを守れるということぐらい、分かっているのでしょう?」
ジャンナの厳しい言葉に、ヴィヴィはぐっと喉が締め付けられたような気がした。
「………………」
(私がお兄ちゃんに気持ちを伝えなければ……お兄ちゃんを困らせることも、苦しませることもないだろう……。そして、私は自分の気持ちを告白することで、ダッドやマム、クリスを裏切ることになる――)
果たして今の自分に、周りを全て裏切り敵に回したりしてまで思いを貫く強い気持ちがあるのか――ヴィヴィは躊躇なく「YES」とは言えない自分もいることを知っている。
だからと言って、もう自分の中だけに兄への気持ちを抑え込めなくなっていることも――。
ヴィヴィは落としていた視線をゆっくりと上げると、ジャンナの瞳と視線を合わせた。
「今シーズン……サロメを演じながら、自分の心と向き合いたいと思っています。ただ今、確実に言えることは――」
ヴィヴィはそこで言葉を区切ると、ぐっと背筋を伸ばす。
「今の私は『ジゼル』よりも『サロメ』の魂のほうに共鳴している、ということだけです……」
そう言い切ったヴィヴィの表情を見つめていたジャンナの瞳には、一言では言い表せない色んな感情が浮かんでは消えていくのが分かった。ジャンナは数分ほど微動だにせずヴィヴィを見つめていたが、やがて大きく瞬きをすると「よっこいしょ」と言ってソファーから立ち上がった。
「さ。行くわよ……」
ジャンナがそう言って、座ったままのヴィヴィを見下ろす。
「え……どこへ……?」
ヴィヴィはジャンナがどこへ行こうとしているのか分からず、思わず聞き返す。
「どこって、リンクに決まっているでしょう? まったくヴィヴィの振付ったら、現行ルールを全く加味してないんだもの。無駄が多いし洗練されてないの!」
両脇に手を添えて苦笑いして見せたジャンナに、ヴィヴィの瞳がみるみる輝いていく。
「ジャンナ……それって――!?」
「ほらっ、早く立って! 時間は限られているのよ。さっさと『ヴィヴィのサロメ』をブラッシュアップするわよ――!」
両手をパンパン叩いてヴィヴィを追い立てるジャンナに、ヴィヴィはぱっと立ち上がるとジャンナの大きな体に飛びついた。
「ジャンナっ!! ありがとう! 大好きよ――!!」
ヴィヴィが飛びついてもびくともしなかったジャンナはポンポンとヴィヴィの背中を優しく叩くと、すぐにべりっと音がしそうな勢いでその体を引きはがした。そしてヴィヴィの華奢な腕を掴むと、ミーティングルームから出てずんずんとリンクへと向かっていく。
「コーチ陣が舌を巻いて唸る程のプログラムを作らないと、私がジュリアンに怒られるわ……。あの子、怒ると怖いのよね――」
そう言って肩を竦めて冗談ぽく呟いたジャンナの背中に、ヴィヴィは笑いながら「確かに!」と同意した。そして――共犯者となってくれたジャンナに、再度心の中で「ありがとう」と感謝を述べた。