「ヴィヴィっ、いい加減にしなさい! やる気がないのなら出て行って!」
早朝のリンクにジュリアンの厳しい言葉が轟き、ヴィヴィははっと我に返る。クリスを含め、一緒に練習している仲間達が何事かとヴィヴィを振り向いていた。
(あ、れ……私、今、何して――)
確か数分前まではスピンのポジションを調整していたはずだった。けれど、その後の記憶は――、
「私……すみませ――」
おたおたと弁解しようとするヴィヴィだったが、「ヴィヴィ、こっちへ来なさい」とサブコーチから呼ばれ、しょうがなくそちらへと足を向けた。
「今日はもう上がりなさい」
厳しい顔のサブコーチにヴィヴィが焦って口を開く。
「だ、大丈夫です。私、まだやれます!」
「集中できない時に無理に滑ったら怪我するだけだよ。いいから今日は上がってストレッチしてなさい」
サブコーチのもっとも過ぎる指摘にヴィヴィは言葉を詰まらせた後、静かに了承して氷の上から降りた。エッジカバーをはめて小さな観客席となっているベンチに腰を下ろす。
外から見たリンクは薄く靄(もや)がかかって見えた。もうすぐ夏だというのに梅雨が明けきらず湿度が高いのだろう。
(まるで私の心の中みたい……靄(もや)がかかって出口が分からない――自分の事が、解らない……)
あんな妄想に至ってしまったのは単なる気の迷い――そう自分に言い聞かせているのに、自分の心はざわざわと音を立てて彷徨い、理性がコントロールしようとするのに追いつかない。
匠海に合わせる顔がなかった。
実兄である兄をあんなはしたない妄執(もうしゅう)の相手にしてしまった事が申し訳なかった。
ヴィヴィは匠海を避けるようになった。タイミングの良いことに、期末試験が迫っていた。ヴィヴィは屋敷の中でも勉強を教えてもらうと言ってクリスの部屋に入り浸り、常に彼と行動を共にした。
無事試験を乗り切るとすぐに三日間のジュニア合宿が名古屋で行われるため、東京を後にした。ノービスの頃から毎年合宿に参加しているヴィヴィは、いつも出発日に「試合でもないのに、お兄ちゃんと三日間も離れるのやだぁ!」と散々ごねて周りを困らせていたが、今年は何も言わずに粛々と準備を進めるヴィヴィを、周りの大人達は「ヴィヴィも大人になりつつあるんだね」と呑気に見ていた。
けれど意識的に避けていても、家族なのだから必ずどこかで顔を合わす。名古屋から帰ってきた双子と母を迎え、家族でディナーの時間が設けられた。約二週間ぶりにまともに見た匠海は少し日焼けしていた。白くて並びの良い歯がいつもより眩しく見える。明日からもう八月だ、きっと誰かと海やプールへ繰り出したのだろう。
誰かと――。
(……誰、と……? 麻美さん、と……?)
「……………………」
機械的に食事を口に運んで咀嚼していたヴィヴィは、また自分が気にすべきでない事を考えてしまった自分を叱咤し、咀嚼し終えたものを飲み込む。味なんて感じる余裕すらなかった。
八月初旬はアイスショーへの出演を果たし、ヴィヴィは自分で初めて振付した When you wish upon a star を初披露した。周りの反応は上々だった。なんと日本スケート連盟の幹部も見に来ていたらしかった。
『可愛らしくて無邪気なヴィヴィに、ピッタリよ!』
『自分で振付したナンバーだからかな? 表現豊かに滑るようになったね』
周りからの賛辞にも、ヴィヴィは礼を言って曖昧に笑みを零すことしか出来ない。
星に願いをかけるなら
君がどんな人だって構わない
心から願う その気持ちは きっと叶うんだよ
(本当に――?)
栃木県日光でのアイスショーを終え帰宅の途につく車中、ヴィヴィは東京の煌びやかなネオンをドアに凭れ掛かって見るともなしに見ながら疑問に思う。
(本当に、私が『どんな人』だって、心から願えば願いは叶うの――?)
ついと視線を上げて夜空に星を探したけれど、地上の明るさに簡単に掻き消されてしまう微弱な星の光はヴィヴィの瞳には届かなかった。
ようやく取れた休暇を利用し、八月中旬の一週間――篠宮家はイギリスへと里帰りした。
父の実家のロンドンに三日間滞在し、母の実家のエディンバラに四日間滞在した。実家の近くにリンクのあるロンドンならともかく、いつもならエディンバラでの滞在中はスケートの練習をしろと言わない母だが、今年は毎日車で往復三時間かけてリンクへ行くことを双子に強要した。
クリスはいつもコーチである母の言う事を必ずきくが、ヴィヴィはそうでもなかった。
特に今回のようにオフなのに一年ぶりに折角会えた親族と離れてはるばる遠くへ練習をしに行かなければならないなど、今までのヴィヴィなら不満爆発だった。しかし「分かりました」とたった一言だけで母の命令を受け入れたヴィヴィに、さすがに家族は彼女に起きている異変を感じとった様だった。
明日エディンバラ空港から羽田空港へと帰るということで、母の実家では親族一同が集まってパーティーを催してくれていた。
お気に入りのパウダーピンクのホルターネックワンピースを纏ったヴィヴィは、大人達のテーブルとは少し離して設けられた子供達用のテーブルでいとこ達とディナーを取ると、サンルームへと移動してビリヤードやボードゲームに興じた。
既に日が落ち、室内はクラシカルなシャンデリアで暖かい光に満ちていた。
「あ! またクリスの一人勝ちかよ〜っ!」
テーブルサッカーゲームでクリスと対戦していたいとこのジョンが地団駄を踏んで悔しがる。いとこ達の年齢は上は二十五歳から下は五歳まで幅広かったが、ヴィヴィ達と同じローティーンのいとこが多かった。
ヴィヴィはクリス達男子の騒ぐ声を聴きながら、同い年の女子のいとこ――サラとファッション雑誌を見ていた。
「あ! これも欲しい。こっちのワンピも! でももっと痩せなきゃ着こなせないかな〜」
サラはそう言って自分の腹部をさする。チアリーディングをしているサラは十分スタイル抜群なのだが、ダイエットをしているらしい。
「え〜? 痩せる必要なんてないでしょ。メリハリがあってすごく羨ましいんデスガ……」
ヴィヴィは自分の凹凸の少ない貧相な身体を見下ろし、嘆息する。身長はまた伸びて百六十五センチでどうやら止まったらしい。
今度からは取った栄養が胸やお尻に行ってくれればいいが、とヴィヴィは心底思う。
「何言ってんの!? ヴィヴィは細くてもしなやかでいいんだよ。私だってなれるもんならヴィヴィみたいなスレンダーになりたいさ〜」
どうやら女子というのは無いものねだりが好きらしい。お互い顔を見合わせて苦笑する。
「お〜い、サラ。弟が“おねむ”みたいだよ」
他のいとこに呼ばれ、サラは「寝かしつけてくるね」と言ってヴィヴィの隣から立ち上がった。サラが七歳も年下の弟を重そうに抱っこしてサンルームを出ていくのを瞳を細めて見つめていたヴィヴィだったが、それと入れ替わりに長いディナーを楽しんでいた大人達がぞろぞろとやって来た。
壁に設(しつら)えられたアンティークの時計を見ると、もう十時前だった。そろそろ大人達にサンルームを明け渡たす時間だと察したいとこ達が、ゲームを終えてサンルームを後にしていく。ヴィヴィはサラが戻ってくるかもと思いここで待とうか迷ったが、視界の端に匠海を見つけ迷いなく席を立った。
「おやすみなさい」と皆に就寝の挨拶をしながらヴィヴィを待っていてくれたらしいクリスの傍に行くと、いきなり腕を掴まれた。
「クリスもヴィヴィももう十六歳なんだから、まだいいだろ?」
絡んできたのは母の兄、ダニー伯父さんだった。この人は底抜けに明るい。酒が入れば突き抜けて明るい。けれど酒が入るとあまり人の迷惑が考えられなくなる、ちょっと困った人だった。
「……まだ十四歳ですよ、伯父さん」
クリスがやんわりと間違いを指摘してこの場を逃れようとするが、伯父はがははと笑い飛ばす。
「何言ってんだ!英国(ここ)では五歳から飲酒出来るんだぞ」
確かにダニー伯父さんの言うとおり、英国において家庭では五歳から、バーやレストランではビールとリンゴ酒なら十六歳から飲酒が認められている。
「私達、その辺は日本人らしくしようかと――」
笑って誤魔化しながら拒否してみるが、周りの大人達から「お前達は3/4は誇り高き英国人じゃないか」と囃(はや)し立てられる始末だった。
目線で父と母に助けを求めるが、二人ともかなり泥酔して他の親族との話に夢中でこちらを見さえしてなかった。
(この両親にして、この親族あり――後で覚えといてよ、ダッド、マム!)
隣のクリスに目くばせで「しょうがない、飲んでるフリをして隙を見て逃げ出そう」と訴えると、クリスは小さく頷いた。
コの字型のワインレッドの革張りソファーに大人達に囲まれて座らされ、執事が用意してくれたリンゴ酒が双子の前に置かれる。
(しょうがない。ちょっとだけ舐めて――)
フルート型の細長いグラスを取ろうと腕を伸ばした瞬間、後ろから誰かに手首を握って止められた。
「え…………?」
驚いて振り返るとヴィヴィの顔の直ぐ傍に、匠海のそれがあった。
「困りますよ、伯父様方。この子達はスポーツ選手でもあるのですから」
ソファーの背越しに後ろからヴィヴィの手を掴んでいる匠海が、そう言って大人達を諌(いさ)める。
「つまんないこと言うなよ〜、匠海」
と伯父達が笑う。
「それにクリスはともかくヴィヴィは見た目と違ってお子ちゃまなので、アルコールなんて飲ませたら大変なことになりますよ」
匠海のその言葉はヴィヴィの鼓膜を音の信号として震わせただけで、意味など理解できなかった。ただ握られた手首が熱くて。そこから火がついたようにどんどん熱を持っていく身体を、皆に知られないようにするだけで精いっぱいだった。
やっと匠海に手を離されたヴィヴィは皆にばれない様に小さく息を吐き出すと、高鳴り始めた心臓を抑えようと必死になる。
「そうなの? 今年は結構大人になったなと思ったけれど」
伯母の一人がヴィヴィにそう言って微笑む。
「そういえば、去年までは『お兄ちゃん、お兄ちゃん!』って匠海の周りをうろちょろしてたのに、今年はしてなかったな。もう兄離れしたのか?」
ヴィヴィの気持ちなど知る由もないダニー叔父さんはヴィヴィをからかってくる。
(もう、伯父さんったら。余計なことばっかり!)
「そ、そうよ。ヴィヴィはもう大人の女性になったんだもん!」
みんなの注目を集めてしまったヴィヴィは、薄い胸をそらして腰に両手を当てて何とか反撃する。
「は! ヴィヴィが『大人の女』? こりゃ面白いことを聞かせてもらった」
爆笑する親族達をヴィヴィは納得いかない瞳で見渡す。
(むう……そりゃあ、胸まっ平らだけどさっ!)
「じゃあ、そろそろお子ちゃまは解放してあげよう。Good Night クリス、ヴィヴィ」
やっと退室していいとお許しを貰えた双子は、それぞれ就寝の挨拶とまた一年後の再会を約束して席を立った。
階上へ上がりクリスと別れて宛がわれた部屋へと戻る。小さなアンティークランプを一つだけ灯した薄暗い部屋で、ワンピースが皺になるのも気にせずベッドに文字通り倒れこむと、ヴィヴィはぎゅうと手首をもう片方の手で握りしめた。
「どうして……」
(どうして自分はお兄ちゃんに、お兄ちゃんだけに……)
その先を思うことすら恐怖であるように、ヴィヴィは瞼を強く閉じる。
(何も考えるな……何も、感じないで……)
そうヴィヴィが自分に言い聞かせていた時、コンコンとドアがノックされた。ヴィヴィは今の心理状態で誰かに会って普通の対応が出来るとも思えず居留守を使いたかったが、鍵を掛けていないドアは外から開かれた。薄暗い部屋の中に細長い光が差し込み、それは徐々に幅を広げる。
「ヴィヴィ……? なんだ、いるんじゃないか」
廊下からの光で来訪者は逆光となり誰だか判別できないが、自分を呼ぶ声一つで相手が誰だが瞬時に分かった。ヴィヴィは心臓がざわざわとざわつき始めるのを必死にひた隠しながら、ベッドからゆっくりと上半身を起こして匠海に向き直る。
ゆっくりと板張りの床をこちらへと歩いてくる音がする。
「……お兄ちゃん……」
ベッドの隣まで来た匠海を見上げ、ヴィヴィが小さく掠れた声で来訪者の名前を呼ぶ。
「ヴィヴィ、もしかしてアルコール口にした?」
匠海の意外な質問に、ヴィヴィは小さく首を振る。その様子を見て匠海が自然にベッドに腰を下ろした。ぎしりというスプリングの音が静かな部屋にやけに大きく響く。ヴィヴィの体がビクと震えたが、部屋が暗いおかげで気づかれなかったようだ。
「そうか、良かった。俺が席を外している間に伯父さん達がまさか二人にアルコールを勧めるなんて思いもよらなくて。ごめんな……」
(そんな、お兄ちゃんが謝ることなんて、何一つないのに――)
ヴィヴィはそう思うのに、何か口にすると余計なことまで言ってしまうのではないかという恐怖で口を噤(つぐ)み、代わりに小さく首を振った。
そこで会話は途切れ、部屋には痛いほどの静寂が訪れた。
カチ、カチ、カチ、カチ――。
ベッドサイドの時計の秒針だけが音を刻み続ける息苦しささえ感じる閉ざされた空間に、ヴィヴィの鼓動はどんどんと加速していく。
一分後――本当はもっと短い時間だったのかもしれない、静寂を破ったのは匠海だった。
「なあ、ヴィヴィ……俺、お前に……何か、した……?」
一つ一つの言葉を選ぶように匠海が発した事に、ヴィヴィははっと顔を上げ、匠海を凝視する。
ヴィヴィと同じ灰色の瞳には明らかな困惑が浮かんでいた。そして一度目を合わせたら、瞳を逸らさせない強さでもってヴィヴィを見下ろしてくる。一ヶ月ぶりにまともに匠海と見詰め合ってしまったヴィヴィは、途端に跳ね上がる鼓動と混乱した思考で、何を言い返せばいいのか分からなくなる。
「え……な、に……?」
ヴィヴィがやっと口にした言葉にもならない音の羅列を聞き、匠海はさらに身を乗り出してヴィヴィに詰め寄る。
「一ヶ月程前から、俺のこと避けてるだろう? 何か気に障るようなことした? 頼むから言ってくれ……ちゃんと謝るから」
「………………っ」
(お兄ちゃん……っ)
心底憔悴したような匠海の様子に、ヴィヴィの咽喉が詰まる。悪いのは匠海ではないのに、罪深いことを考えて匠海を避ければ全て解決すると逃げている、子供っぽい自分なのに――。
この人は妹である自分との事を、ここまで真剣に考えてくれていたのだ。
嬉しさなのか、悲しさなのか判別できないぐちゃぐちゃの感情がヴィヴィの舌を硬直させ、言葉にすることを阻む。ヴィヴィに出来ることと言えば、ただ必死に匠海を見つめ返して頭(かぶり)を振ることだけだった。
「言ってくれないと、分からないよ」
言葉を発しないヴィヴィの頑(かたく)なに見える態度に痺れを切らしたのか、匠海はホルターネックで剥き出しのヴィヴィの肩を掴んだ。
その途端、ヴィヴィの身体がびくりと大きく震えた。それを感じ取った匠海が、まるで熱いものにでも触れたかのようにとっさに手を放す。
「…………ヴィヴィ?」
驚きを隠せない表情で匠海がヴィヴィを見つめていた。
(やだっ! 私――!!)
今までなら何でもなかったスキンシップに過剰な反応を見せてしまったヴィヴィは、何とかフォローしなければと口を開き、乾いた笑いを発した。
「あ……あは。お兄ちゃんの手、冷たかったから、ビックリしちゃって……」
「悪い……」
ヴィヴィに触れた手を匠海がギュッと自分で握りしめて、謝罪する。ヴィヴィはふるふると首を振ると、咄嗟に思い付いた言い訳を口にした。
「お兄ちゃんは何もしてないよ。ヴィヴィはただ『お兄ちゃん子』を卒業しただけ――」
「……そうなのか?」
ヴィヴィの真意を測るように、匠海は妹の一挙手一投足を注視しているようだった。ヴィヴィは無理やり明るい笑顔を作り、大きく頷いてみせる。
「そうだよ。それにお兄ちゃんが言ったんじゃない――『いい加減兄離れしろ』って」
笑顔を張り付けて苦し紛れの言い訳をするヴィヴィの努力は実ったらしく、匠海は「そうか……」と呟くと、安堵の笑みを溢した。
「そうだよ。なんだと思ったの?」
可愛く首を傾げて見せると、匠海はやっと納得してくれたみたいだった。
「そうだな、そうだよな。ヴィヴィも来年には高校生になるんだし……兄離れくらいするよな」
そう自分を納得させるように呟いた匠海を見て、ヴィヴィは駄目押しをした。
「ヴィヴィ、好きな人ができたの。だから――」
「なるほどね。こいつ――現金だなっ!」
好きな男子が出来たからやっと兄離れする気になったのだと悟った匠海は、破顔してヴィヴィの金色の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。
「わっ! もう、やだっ! ぐしゃぐしゃ〜」
必死に自分を取り繕って可愛い妹を演じるヴィヴィをベッドに置いて、匠海は立ち上がった。
「じゃあね。明日のフライトで日本に帰るんだから、夜更かしせずにちゃんと寝ろよ?」
「は〜い。オヤスミ!」
「おやすみ」
匠海が扉に向かい廊下に出て行くのをヴィヴィは笑顔で見送る。
パタンという音を立てて閉じられた扉を確認した途端、上がっていた口角がゆっくりと下がる。
「そうだよ……ヴィヴィは、お兄ちゃん離れ、しただけ――」
静かな部屋に、ヴィヴィの掠れた独白が響く。
だから――、
(何も考えるな……何も、感じないで……そうしていたら、いつかきっと――)
ヴィヴィはベッドに倒れこむと、自分の肩を両手でギュッと抱きしめて自分にそう言い聞かせ続けた。