ヴィヴィがその日の夜遅くに練習から屋敷に戻ると、私室のデスクの上に小包が置かれていた。近寄って差出人を見るとカレンからだった。どうやらバイク便でその日の内に届けてくれたらしい。
ヴィヴィはもう寝ているかもしれないカレンに一応『さっそく送ってくれたんだね! 感謝!』とメールを送ったが、秒速で返事が返ってきた。
『絶対にクリスには見つからないでね!? 万が一見つかっても、私から借りたって言っちゃだめよ!?』
何故カレンはクリスに知られることをそんなに嫌がるのだろう。といってもクリスは少女漫画なんかに見向きもしないだろうが。
ヴィヴィは『神に誓って約束する!』と送信すると、小包をデスクの引き出しに入れて鍵をかけた。そして取りあえず汗を流そうとバスルームへと向かった。
お風呂から上がってさっぱりしたヴィヴィは、寝室に鍵をかけるとカレンの小包をベッドの上で開いた。
(なになに……「ケモノ男子にご用心!」「社長と秘め事」「先生、ないしょだよ?」「禁断の果実」……)
「凄い題名ばっかり……」
表紙も普通に男女が寄り添っているものもあれば、服のはだけた女の子の下着に手を添えられている過激なものまである。
漫画を読んだことのないヴィヴィは、そのうちの一冊を手に取る。そしていつも少ない時間で本を読めるようにと体得した速読の力を発揮し、わずか五分で百五十ページ程のそれを読み切った。
「わぉ――」
ヴィヴィの口から思わず感嘆の声が漏れる。
読んだ感想はずばり、「自分と同年代の中高生ってこういうことに興味があるんだ」だった。今日読んだ「ケモノ男子にご用心!」はモテモテ男子に目をつけられた地味な優等生がイヤイヤ言いながら体の関係を結び、男子を好きだという自分の気持ちに気づくという内容だった。そして、
(やっぱりセックスは気持ちいいものとして書かれるんだね……)
カレンが言っていた「ペニスをあそこに入れられると気持ちいいの!」という言葉が現実味を帯びた。
(ふうん……お兄ちゃん、気持ちいいことしたいから、あの人としてたんだ……)
「…………ふうん」
ヴィヴィの中には納得したのに、何か一方で釈然としない気持ちが残る。でもそれが何なのかは分からない。
「ま、いいや。寝よ〜っと」
ヴィヴィはそう言うとコミックを持って寝室を出ると、デスクの引き出しにしまって(カレンが五月蠅いから)鍵もちゃんと閉めて就寝した。
次の日は「社長と秘め事」を。その次の日は「先生、ないしょだよ?」を読破したヴィヴィは、その翌日に登校すると直ぐカレンを教室の隅に連れて行き、
「社会人って、いっつも会社であんなことしてるの?」
「せ、先生が!! 生徒と――っ!? 理科室で、あわわわ……」
とカレンにとっては新鮮な感想を述べていく。
恥を忍んで自分のコミックを提供したカレンは、ヴィヴィのその成長ぶり(?)を生暖かく見守っていたが、ふと気になって質問する。
「ヴィヴィ。で、セックスについては分かってくれた?」
「うん、好きな人に触れられると気持ちいいんでしょ? それに人前でしたり話したりする事でもない事も分かった。でも――」
「でも?」
「ん〜……なんか現実味、ない?」
ヴィヴィは片頬に人差し指を添えて可愛く首を捻る。
「確かにね……私達にとってはセックスよりもまず、彼氏を作ることのほうが課題よね……」
なぜかガックリとしたカレンをヴィヴィは不思議そうに見ていたが、暫くしてカレンの腕に自分の腕を絡ませてくっ付いた。
「私達まだ中学生じゃない? ヴィヴィは彼氏を作るよりも、カレンやクリスと遊んでるほうがきっと楽しいと思うの!」
ヴィヴィよりも十センチ背の高いカレンは、そんな可愛い事を言って上目使いに見上げてくるヴィヴィをしかと胸に抱きしめた。
「うん! ヴィヴィ! 私もそれでいいっ! …………暫(しばら)くは――」
最後の一言はヴィヴィに聞こえぬよう、ぼそりと呟いたカレンだった。
その日もクリスとみっちりレッスンを受けたヴィヴィは、気分上々で篠宮邸の門をくぐった。ヴィヴィが即興で造ったエキシビジョンナンバーを、母と若干手直しして完成させたのだ。
私室に戻って手早く入浴を済ませてバスルームを出ると、驚いたことにリビングの白色のソファーに匠海が長い脚を投げ出すように座っていた。
「あれ。どうしたの、お兄ちゃん?」
ヴィヴィはしょっちゅう兄の部屋を訪ねるが、その反対は殆どない。あまりに珍しい匠海の行動にヴィヴィは尋ねる。
「うん、別に用事があったわけじゃないんだけど。ここ数日、ヴィヴィ達とあんまり顔合わせてなかったから……」
そう言えば朝はいつものように匠海が起きる前に家を出て、学校から帰ってきても宿題を終わらせてピアノとヴァイオリンをそれぞれ練習して、ディナーを取って直ぐにリンクへと向かってしまっていた。
しかも十二時前に帰宅しても、カレンから借りたコミックを早く読んでしまおうと寝室に籠っていたので匠海の顔をあまり見れていなかった。
普段なら何かとヴィヴィのほうが匠海にちょっかい出しに行くので、大体毎日顔を見れていたのだ。
(お兄ちゃん、ヴィヴィに会いに来てくれたんだ……)
思わず顔がにんまりしてしまう。
「お兄ちゃん、ヴィヴィに会いたかったんだ?」
思ったままを口にしたヴィヴィだったが、匠海にあっさりと切られる。
「いや、ヴィヴィだけじゃなく、これからクリスにも会いに――」
匠海が言い終わらぬ前に、ヴィヴィは匠海に駆け寄って飛びつきそうな勢いで匠海の首に縋り付いた。
「照れない、照れない♡」
全く聞く耳を持たないヴィヴィに、匠海は軽く嘆息すると妹の腕を解いて隣に座らせた。
「風邪はもう大丈夫なんだな?」
いつも通りのほんのりピンク色の頬に匠海が掌を添え、ヴィヴィの顔を覗き込んでくる。ヴィヴィはくすぐったそうに少し身を捩った。
「うん、すぐ治ったよ。それよりシャンプー変えたの! この香り、お兄ちゃん好き?」
ヴィヴィは乾かしたばかりの髪を指さし、兄に意見を求める。
「どれ……」
上半身を倒して隣のヴィヴィに匠海が近づく。後頭部に大きな掌を添えて軽く引き寄せられた瞬間、ヴィヴィの胸が小さく疼いた。
(……………?)
「……うん、爽やかで夏にぴったりのいい香り」
自分の訳の分からない反応にヴィヴィは内心首を傾げいていたが、匠海の返事ですぐにその疑問を頭から追い出した。
「好き?」
「そうだね」
「もう、好きって言って?」
「はいはい、好き好き」
駄々を捏ねる様に言い募るヴィヴィに、匠海は幼児にするようにポンポンとその金色の頭を叩いた。
「じゃあ顔も見れたし、ヴィヴィもそろそろ寝なさい」
匠海にそう促され、ヴィヴィは時計を確認する。
「あ、そうだ! カレンに借りた本、明日には返さなくちゃ」
確かあと一冊だけコミックが残っていたはずだ。
「カレンちゃん? 何借りたの?」
久しぶりに聞く妹の親友の名前に興味をひかれた匠海が聞いてくる。
「えっとね――。……内緒」
もう少しで口から本の内容が零れそうになったが、カレンにものすごい勢いで口止めされていたことを思い出し、ヴィヴィは言葉を濁した。珍しいヴィヴィの態度に、匠海がさらに興味を持ったようだ。
「何? 気になる」
譲らない匠海にヴィヴィは内心焦ったが、直ぐに名案を思い付き提案してみた。
「んっとね〜……じゃあ、お兄ちゃんがヴィヴィの唇にチュウしてくれたら、教えてあげてもいいよ?」
「―――っ ヴィヴィ……どこの世界に、妹の唇を奪う兄がいるんだ?」
目の前で何も塗らなくても艶々した唇を可愛く尖らせているヴィヴィの戯言(ざれごと)に、匠海はぐったりと脱力する。
「唇にチュウするのもダメなの?」
(兄妹でセックスはしちゃ駄目だって、知ってるけれど――)
それくらいのスキンシップは許されたっていいのでは? っとヴィヴィは心の中で思う。
「駄目――。絶対、駄目!」
頑として譲らない匠海に、ヴィヴィは肩を竦めて見せる。このままヴィヴィの部屋にいたらまた何を言い出されるか分からないと悟ったのか匠海はさっさと立ち上がり、ヴィヴィのリビングを通ってクリスの私室への扉を開いて行ってしまった。
「ちぇ〜……」
ヴィヴィは少年のようにそう呟くと、しょうがなくデスクからまだ読んでいないコミックを取出して寝室へと移動した。
クィーンサイズのベッドの真ん中に陣取ると、コミックを見つめる。
「禁断の果実――ねえ」
旧約聖書のアダムとイブからタイトルを取ったのだろうか――。
前の三冊はタイトルから内容が推測できたのだが、今回のはよく分からない。目次を見てみると数話に渡ったオムニバスの様だった。
まずはお決まりの、『生徒と教師の秘密の恋愛』
『婚約者のいる男性を愛してしまった女性の悲恋』
『お嬢様と執事の禁断の主従愛』
(え――っ!? 執事が仕えるお嬢様に手を出してどうするの? 首になっちゃうじゃない……)
うちの執事達は絶対そんな事しないだろう、とヴィヴィは確信しながらページを繰る。
そして、『血の繋がりのない義理の父と娘の背徳愛』
(………………)
その内容にヴィヴィは少なからずショックを受けた。血が繋がっていないとはいえ、この話の義父と娘は数年一緒に暮らしている「家族」なのに、男女の関係に至っている。
あれこれ考えながら読んでいるせいで、少しずつヴィヴィの速読のスピードが落ちていく。ちらりと時計を確認するともうすぐ一時になるところだった。ヴィヴィがコミックに視線を戻すとあと三十ページ程残っていた。
(明日にしようかな? カレンには悪いけれど――)
あと一話分がどんな内容なのかちらりと見たヴィヴィは、言葉を失った。
「え…………そんな……どうして……?」
知らず知らず、零れる声とコミックを持つ華奢な指が震える。
それは『血の繋がった兄妹の近親相姦』だった。
小さな頃から大事にしてきた体の弱い妹が、ある日同級生と恋に落ちる。自分だけのものと思っていた妹を他の男に奪われるくらいならと嫉妬した兄が妹を襲い、拘束した上で強姦した。
信頼していた兄からの手酷い裏切りにショックを受けて塞ぎ込んでいた妹のところに、彼氏がお見舞いに来る。キスをされそうになった時、妹の頭の中には兄のことがよぎり、キスを拒んで彼氏に別れを告げてしまう。
『どおしてっ!? どおしてこんなことしたの――っ!』
泣き叫んで兄に辛く当たる妹。
『初美…………』
贖罪として何も妹に言い返さない兄。
『お兄ちゃんが私を抱かなければ! そうすれば、こんな気持ち、気づくはずなかったのに――!』
『…………初美?』
訝しげに見つめる兄に妹はとうとう本音を口に出してしまう。
『あの日からお兄ちゃんの事しか考えられないの! 夢に、夢にまで出てきて私の中に――っ』
ぼろぼろと涙を零す妹を、兄は信じられない表情で見つめることしかできない。
『初めはショックばかりで嫌だったの……でもお兄ちゃんが必死に私を求めている顔を見ちゃったら、どんどん、どんどん心の中に入ってきちゃって――っ!!』
その言葉が言い終わらないうちに、妹は兄の胸の中に抱かれていた。
『お兄ちゃん……、私のこと抱いて? いっぱい愛して? もう誰も私の心に入らないように、お兄ちゃんでいっぱいにして!』
ラストは二人がセックスをして終わっていた。紛れもなく実の兄妹はいろんな体位で繋がっている。
結局最後まで読んでしまったヴィヴィは、ぱたんと音を立ててコミックを閉じた。
「………………」
信じられなかった。
近親相姦は罪ではなかったのか?
血の繋がった実の兄妹が恋に落ちることなどあるのだろうか?
「………………」
(お兄ちゃん、と……?)
あの日見た光景が脳裏に過(よぎ)る。
女の膣(なか)に深々と突き立てられ、何度も出し入れされる匠海の欲望。良いところを重点的に擦りあげられていやらしい蜜を滴らせる女の身体は、何故か抜けるほど白くそしてあまりにも華奢だ。
満足そうに匠海が見つめるその視線の先にあるのは、黄金色の髪をふり乱した――自分(ヴィヴィ)。
「あ、あぁ……お兄ちゃっ んんっ! …………あ、ダメ! あぁン」
匠海のものを受け入れてよがり狂うヴィヴィは必死で兄に縋り付くが、あまりに激しい責めに意識をやる寸前だ。
「ああ、ヴィヴィ。いいよっ すごい……締まる」
びくびくと胎内で脈打つ匠海を、ヴィヴィはキュウと締め上げてしまう。
「あぁっ!! お兄ちゃ――っ!!」
コンコン。
寝室の扉がノックされる音が鼓膜を揺らし、ヴィヴィははっと覚醒した。視界に穏やかな光に照らされた寝室が蘇る。
「お嬢様……、まだ起きていらっしゃるのですか?」
小さく呼びかけられた声は朝比奈のものだった。焦ってベッドサイドの置時計を見ると、もう二時前だった。いつの間に一時間も経っていたのだろう。
「えっと……電気消し忘れて、うとうとしちゃってた。も、もう寝るね――」
いつものように軽く返事をしたいのに、声が震えどもってしまう。それでも朝比奈は気づかなかったようで「お休みなさいませ」と声をかけていなくなった。
「……………」
ヴィヴィは息苦しさを感じ、無意識に息を止めていたことに気づいて吐き出した。その途端、先程まで自分が妄想していた事が頭の中にフラッシュバックする。
兄に縋り付いて肉欲に溺れる妹の自分――。
「…………っ」
(私ったら、なんてこと考えて――!!)
途端に顔から血の気が引いていく。
兄と妹の交わり――。
それは恐ろしいこと。
それは汚らわしいこと。
人間としての尊厳を真っ向から否定する、獣(ケモノ)同然の行い――。
ヴィヴィは自分の陰鬱な妄執(もうしゅう)に囚われそうになり、ぶるぶると激しく頭を振った。
(違う! 私はそんな過ちを犯すことを望んではいないもの――っ! そうよ。こんな漫画を読んでしまったから、だから変な事を想像してしまっただけ。きっとそう!)
ヴィヴィはコミックを手に取ると寝室を出た。まっすぐにデスクへと向かい引出しの鍵を開ける。他のコミックと元々入っていた段ボールに詰めると、透明なビニルテープで完璧に封をした。
まるで自分の中の汚いものまで封をして目を逸らすように。
(朝一で朝比奈に送り返してもらおう。私には必要ないものだもの――)
そう自分に言い聞かすと、少し気持ちが落ち着いた。ヴィヴィは大きく一つ瞬きすると、終身支度をするためにバスルームへと向かった。歯ブラシに歯磨きペーストを付けようとしたとき、下半身に違和感を感じた。
(生理、早まったのかな?)
ヴィヴィの予定は半月程先の筈だ。不思議に思い裾の長いナイトウェアをもぞもぞとたくし上げ、下着を確認する。
「………………」
もう言葉にならなかった。
ヴィヴィは汚らわしいものから直ぐにでも目を背けたくて、下着とナイトウェアを脱ぎ捨てるとバスルームへと飛び込む。
水圧の強いシャワーでぐちゃぐちゃになった頭の中を冷やすように温(ぬる)い湯を顔に浴びる。しばらくそうしていると少しだけ気持ちが落ち着いた。
(早く寝ないと――。あと三時間後には起きなきゃいけないのに)
ヴィヴィは手早く掌で自分の体を湯を使い清めていく。足の付け根に指先が届いたとき、明らかに水とは違う粘着質なものが触れた。
「もう……いや……」
ヴィヴィは激しい自己嫌悪に陥り顔をくしゃりと歪めると、滲んだ涙を拳でぐいと拭った。