小説『【短編集】BARD Song』
作者:bard(Minstrelsy)

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【彼とアイツと初恋心】


 ひどい。
 いくらなんでもあんまりだ。
 知ってるハズなのに。
 大事なものだって分かっていたハズなのに!
 チカが校舎を飛び出したのは、五分前。飛び出す前、あんなに晴れていた空は今は土砂降り。季節が気まぐれを起こして遊んでいるのだろう。私をからかってるんだ、とチカは泣きながら感じていた。
 手の中にぎゅっと握り締めたそれは、雨と涙でぐちゃぐちゃだった。
 ひどい、ひどいよ!
 心の中で何度も繰り返した言葉を、チカはもう一度叫んでいた。


「え? チカってマツノ先輩が好きなの?」
「しーっ! 言わないでよ!」
 マツノは演劇部の先輩だ。
 去年の文化祭「演劇部の友達が出てるから」と見に行った劇で、チカはマツノを見たのだ。
 引き込まれる声。強い光が宿った瞳。指の先まで張り詰めた心。
 演劇なんて……とあまり乗り気ではなかったのに、気が付いたときには彼の演技に釘付けだった。
「チカ、あたしの演技良かったでしょ?」
「う、うん」
 彼女には申し訳なかったが、チカはマツノの姿しか覚えていなかった。
 劇が終わった後の笑顔。目が合った気がして、どきどきしていた。
 こんな気持ちは初めてだ。小学生の時に「○○君が好き!」と言っていた時の気持ちとは違う。彼のことを考えるだけで胸がどきどきする。顔が熱くなって、息が苦しくなる。学校で姿を見かけた時はぎゅうっと締め付けられているみたいだった。
 これが本当の恋なんだ。
 少女漫画のようにため息をつき続けるチカを、親友のカナが放っておくわけがなかった。カナが渋るチカから何とか話を聞き出したのが、二週間前のこと。
 カナには彼氏がいる。隣のクラスのリョウだ。付き合い始めたのは一ヶ月くらい前。よく一緒に帰っているところを見かける。仲が良くて羨ましいな、とチカは見かける度に思っていた。
 恋人同士なんて、チカには想像も出来ない。イメージしてみて、とカナに言われてしてみたものの、身体が熱くなって胸が苦しくなって何にも考えられなかった。
「そんなことじゃ、マツノ先輩と話出来ないよ?」
「だって、だって……」
 マツノのことを口にするだけで、何故か泣きそうになる。自分でも、どうしたら良いのか分からなかった。


 リョウが同じ演劇部だから、一緒にマツノに会いに行く。
 カナがそう言い出したのは今日のお昼休み。
「なっ、何、何言ってんの!?」
「リョウと一緒に帰るつもりだからさ。ついでに演劇部に寄ろうかなーって」
「でもっ……」
「だって、そうでもしないと渡せないでしょ?」
 カナはにやりと笑う。
 二日前。チカの様子を見るに見かねたカナが提案したのだ。手紙を書いたらどうか、と。
「それって、ラブレター?」
「メアドも知らないんだし。方法はこれしかないでしょ?」
「そうかもしれないけど……でも……」
 早く伝えてしまいたいと思う反面、まだこのどきどきした気持ちを持っておきたい。そんな相反する気持ちがチカにはあった。
「何も好きって言わなくてもさ、ええと、ほら、文化祭の演技が素敵でした! ていう感じでも良いんじゃないかな。リョウの話だと、ファンがいる先輩がいるみたいだし。マツノ先輩はどうか分からないけど……そんな感じでさ。きっかけだけでも、ね?」
 そうカナに言われて、何とか手紙を書き終えたのが昨日のこと。
 カナが言っていたように、文化祭でマツノを見たこと、その演技に魅了されたこと、また演劇を見に行きたいこと――好きだとは書かなかったけれど、精一杯自分の思いを言葉にした。
 間違いがないか読み返していくうちに恥ずかしくなって、封筒に入れてすぐにカバンにしまい込んだ。猫をあしらった可愛いレターセット。カナと一緒に買いに行ったものだ。もちろん、マツノに渡す手紙のために。
 ちゃんとあるか、取り出してみる。しまい込んだその時のままだ。見ているうちに書き上げた時の気持ちが蘇ってくる。
「……どきどきしてきた」
「まだ何もしてないじゃん!」
 そんなやり取りをしていた時のことだった。
「何だ、これ?」
 後ろからそんな声がしたと思った時には、チカの手のひらから手紙が取り上げられていた。
「少女趣味丸出し。似合わねぇ」
 マサキだった。隣の席になってから、何かとチカをからかってくる。
「かっ、返して!」
「へー? なになに? マツノ先輩へ?」
「ちょっと! やめなさいよ!」
 カナがマサキに怒鳴り、その手から封筒を取り返してくれた。
 少しよれてしまった封筒。頑張って書いたものなのに。チカは泣きたくなった。
「チカ? あんたねぇ! やっていいことと悪いことくらい分かんないの!?」
「うるせぇ。似合わねぇもんは似合わねぇんだよ!」
「何てこと言うのよ!」
 逃げ出したマサキを追ってカナが席を立つ。
 一人残されたチカは、涙をこらえるので精一杯だった。


 昼休みの騒動のせいで気持ちは萎えかけていたが、カナが励ましてくれたお陰で何とか行く気になれた。
 演劇部の部室へ行くのは初めてだ。輪を掛けて緊張する。
「どうしよう……どう言えばいいの……」
「任せて! リョウに会いに来てるからさ、先輩達とも顔見知りなんだ」
「カナはすごいね……」
「最初は緊張したけどさ。リョウもいるし、先輩達もいい人ばっかりだし。それに……ほら、見学歓迎って書いてあるからね」
「そういうものなのかな」
「チカは考えすぎなのよ。行動しなきゃ! 何にも変わらないよ?」
「う、うん……」
 カナの言うことはチカにも分かる。けれど、分かることと行動することは違う。足が震える。喉もカラカラだ。
「ほら、行くよ! 失礼しまーす」
 チカの返事も待たず、カナは部室のドアを開けた。
 練習が終わったところなのか、部屋はくつろいだ雰囲気だった。
「いらっしゃい、カナちゃん。今日も?」
「こんちわ、先輩! えへへ……まあ、そうなんですけど」
「ラブラブねぇ。……あら、この子は?」
 カナと話していた先輩がチカに気付く。
「えっとですね」
 カナがチカを紹介しようとした時だった。
「何だ、やっぱり来たんだ」
 はっとしてチカが顔を上げる。
「……どうして」
 視線の先にマサキがいた。両腕に小道具を一杯抱えている。彼も演劇部の一員なのだろう。
「しまった……あいつも演劇部ってこと忘れてた……」
 カナが頭を抱える。
 そんな二人の様子を面白そうに眺めてから、マサキは奥に向かって声を掛ける。
「マツノせんぱーい! お客さんですよー」
 もぞもぞと幕らしき布の塊が動き、そこからマツノが顔を出す。
 全身の血が逆流したかのような衝撃。
「お客さん? 何の?」
 マサキがチカの方を見る。
「何でも、マツノ先輩にラブレター渡したいらしいですよ」
 逆流した血が凍り付いたみたいだ。それなのに、頭がかぁっと熱い。
「ラブレター?」
 マツノがチカを見る。目が合った瞬間、全身が燃えてしまいそうなくらいに熱くなった。
「私……私……」
 声が震える。
 マサキの言葉でマツノ先輩に知られてしまった。ぎゅっと手を握り締める。もう手紙は渡せない。
 恥ずかしいのか、悲しいのか、怒っているのか、自分でも分からない。ただ、涙だけが溢れてきた。
「ごっ……ごめんなさい……!」
 カナが声をかける間もなく、チカは部室から走り去っていた。


 雨は通り雨だったらしい。いつの間にかやんでいた。
「あっ……」
 握り締めた手の中で、渡しそびれた手紙がチカと同じようにくしゃくしゃになっていた。もうどうすることも出来ない。捨ててしまおう、と辺りを見回してみても、ゴミ箱はどこにもなかった。仕方なく、制服のポケットにしまう。
 跳ね上げた泥で、靴もスカートも汚れていた。裾を絞ると水がしたたり落ちる。家に着くまでに乾くことはないだろう。
 気分も身体も最悪だった。
 マツノはチカをどう思っただろう。せっかくカナが応援してくれたのに、もう彼とは話せない。そう思うと、また涙が出て来た。
 ばしゃばしゃと水音が聞こえる。雨だれにしては大きい音だ。チカは顔を上げる。
「……何よ」
 カナかもしれないという期待は、目の前の仏頂面で消されてしまった。
「あっち行ってよ!」
 チカが今一番会いたくない人間だった。
「あんたのせいで……」
 そこから先は言葉にならなかった。せっかく止まった涙がこぼれてくる。しゃくり上げるチカを、マサキはただ黙って見つめていた。
「マツノ先輩から、これ、預かってきた」
 チカが少し落ち着くのを待って、マサキは封筒を差し出した。
「先輩から?」
 恐る恐る開いてみる。丁寧な字で書かれた、チカ宛の手紙だった。
 劇を見に来てくれて嬉しい、次も是非見に来て欲しい――そんな感じの内容だった。カナがうまく説明してくれたのかもしれない。冷え切った身体にミルクティーのような暖かさを感じる。
「……次、来月あるから」
「何が?」
「演劇の、地方予選。先輩が良かったら見に来て欲しいって。チケット、入れてあっただろ」
 封筒を覗き込んでみると、底の方に細長い水色の紙切れがひっかかっていた。マサキの言う通り、地方予選のチケットだった。
「……じゃ、渡したからな」
 仏頂面のまま、彼はチカに背を向ける。
「まっ、待ってよ」
 チカは思わず呼び止める。チカと同じ、泥だらけの靴と湿った制服。
「何で……」
「マツノ先輩に、渡せって言われたから」
「違う、違うよ。聞きたいのはそうじゃなくって……」
 マサキの顔を見る。
 チカは彼の頬が赤いことに気付いた。左頬だけ、不自然に。夕陽のせいじゃない。カナに引っぱたかれたのかもしれない。
「何で、あんなことしたの?」
 ポケットに手が触れる。丸まった紙の感触。
「……別に、何となくムカついたから」
 自分で聞いたくせに、彼の言葉に泣きそうになる。
「ひどいよ……」
 こう呟くのは何度目になるだろう。泣き顔を見られたくなくて、チカはうつむく。
「その手紙書いてるとき、先輩嬉しそうだったぜ。ファンが出来たって」
 吐き捨てるようにマサキは言う。
「だから、余計にムカつく」
 ばしゃばしゃと水音が聞こえる。今度は二つ。音の方を見ると、カナとリョウがいた。
「先輩に手紙、渡すのか?」
「……分かんない」
「渡すなら、俺のいないところで渡せよ。見付けたらまた邪魔するからな」
 カナが手を振っている。
「……どうしてそんなことするの?」
 チカはカナに手を振り返しながら聞く。
「見てると、ムカつくから。俺の方が先輩よりも……」
 何を言ったのか最後まで聞き取れなかった。聞き返そうとした時にはもう、マサキはチカに背を向けていた。カナが来る前に帰りたいのだろう。彼は避けるように走り去っていった。


 チカの顔を見るなり、今度はカナが泣き出してしまった。
「ごめん……ごめんね……。チカ、頑張って書いてたのに……」
「ううん、いいの。また書いてみる」
「チカ、ごめんね……」
 カナはチカに抱きついて泣いている。そんなカナが暖かくて優しい。自分も泣いていたのに、チカはカナを慰めるように声を掛ける。
「そうだ、手紙。先輩がマサキに渡してたけど、貰った?」
 リョウがマサキの去った方を見ながらチカに言う。
「うん。地方予選のチケットも……」
 ほら、とチカはチケットを取り出す。
「ホント? やったじゃん、チカ!」
 さっきまで大泣きしていたカナが太陽みたいな笑顔を見せる。
「あたしもリョウから貰ってるんだ。一緒に行こうよ!」
「うん!」
 リョウは裏方だから舞台には立たないらしい。演技は苦手だ、とリョウは笑う。
 そういえば、とチカはリョウに聞いてみる。
「あの……マサキ君は?」
「アイツ? あれでも主役なんだ」
「え? そうなの? マツノ先輩は?」
「主役じゃないけど重要な役」
「そうなんだ……」
 チカが初めてマツノを見た劇は、マツノが主役をやっていた。マサキが彼よりも演技が上手いとは思いたくない。けれども少しだけ、ほんの少しだけ、マサキを見てみたい。チカはそう思っていた。
 先輩よりもうまい。マサキはそう言おうとしていたんじゃないか。
「チカ、あんなことされたのに、アイツが気になるとかじゃないよね?」
「違うよっ!」
「でも、思いっきり引っぱたいたから、しばらくは大人しくしてるはずよ。また何かやったら、今度は引っぱたくだけじゃすまさないんだから!」
 そう息巻くカナに、チカは困ったように笑っていた。


 二人と別れてから、リョウは部室でのやり取りを思い出す。
 先輩は確かにチカに返事を書いていたし、マサキはカナに思い切り平手打ちをされていた。
 でも、あのチケットは。
 先輩が手紙に入れていたのはピンク色のチケットだった。手持ちを全部配ってしまっていたから、一般観覧席のものを入れていたはずだ。
 チカが持っていたのは、部員が配る特別枠のもの。リョウがカナに渡したものと同じだ。
 あのチケットは、もしかして。
 少し先のバス停に、ふてくされた影が一つ。
「……なんだよ」
「別に。チカちゃんが持ってたチケット、特別枠のだったぜ」
「……だからどうしたんだよ」
「別に。俺が見た時は一般だったからな。不思議だなぁと思って」
 リョウは足下に落ちていた紙切れを拾い上げる。
 くしゃくしゃに丸められた一般観覧席のチケットだった。

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