小説『獣医禁書』
作者:深口侯人()

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そして、いよいよ最終決戦の日が近づいてくる。
しかし、辞めるに当たり、考慮すべき事案がもう一つあったことに気付く。
僕が担当している継続患畜の事である。
本来ならば、次の担当者にこれまでの経過やこれからの治療方針、オーナーの志向や患畜の性質などをしっかり伝え、担当が変わってもスムーズに診療が行われるように取り計らわなければならないのだ。
ところが、普通に辞める場合は残る獣医師にゆっくり引き継ぎをすればいいのだが、僕の場合は退職を申し出たその日に辞めるので引き継ぎの時間などあったものではない。
一瞬、どうしたものかと困ったが、よく考えてみれば、幸いにも残る獣医師は”汚物”1人である。
“汚物”は、僕が診療した患畜のカルテも診察時間終了後に一通り見ている(というか、失点が無いかを厳重に監視している)ので、ほとんどの患畜の大体の経緯は把握しているはずである。
また、そうでなくても、カルテという物はそれを見ればおおよその経過が分かるようになっているので、治療にはほとんど支障が無いはずだ。
とはいえ、オーナーの志向や患畜の性質はカルテでは伝わらないし、やはり直接診てきていないと感じ取れない部分もあり、そういった面ではどうしてもオーナーや患畜にも迷惑をかけてしまう事になる。
またしても僕は、自分の保身のためにオーナーや患畜をないがしろにしてしまうのだ。
心にゆとりができてもそこは変わらない。
僕はホントに臨床獣医師失格だ…。

まぁ、そんな獣医師として致命的な性格はもう諦めるとして、せめてもの償いにこれまで以上に丁寧にカルテを書いておく。
そんな感じで、辞めるための準備を水面下で着々と進める中、診療が一段落している時に何も知らない” お見通し野郎”が機嫌良さそうに囀る。

“汚物”「いや〜、先生、最近ホントに優秀になってきたよね〜。病院の事も色々任せられるようになったし、診察の腕も結構上がってるよ〜。僕の指導が良いからかな?なんちゃって(笑)。先生にはこれからも副院長として頑張ってもらわないといけないし、診察が落ち着いた時期に特別休暇でもあげちゃおうかなぁ〜。何だったら、研修後もうちの病院でずっと働いてくれても良いんだよ、ハハハハハ。」
(何だ、コイツ?気持ち悪いぞ!?まさか気付いて…はないよな。それだったらコイツが、こんな穏やかでいられるわけないもんな…。ただ、機嫌が良いだけか?)

“汚物”には、たまにこういう時があるのだ。
何か悪い物でも食ったんじゃないかと心配になるような優しい時が。
“汚物”も一応人間であるらしく、ごく稀に非常に機嫌が良い時があるのだが、そんな時にこんな似つかわしくもない褒め言葉を何の脈絡もなく言い出すのだ。
怒鳴り過ぎた後とかに、言い方が白々しく、棒読みの、形式的な言葉で褒められる事はよくある。
「これで「飴と鞭」の“飴”をあげたんだから、さっきの“鞭”の分はチャラですよ」的な感じのやる気の無い褒め方なら。
しかし、今回のような本心からそう思っている感じの、気持ちがこもった褒め方をするのはとても珍しいのだ。
普段、酷い扱いを受け続けていて、たまに優しくされると「まさか」って感じだがグッとくる。
比較対象である普段の状態が世間一般の水準に比べて悪過ぎる事をつい忘れて、「この人は本当は良い人なのかも。」と思ってしまうのだ。
「不良が捨て猫に優しいと良い奴に見える」とか「暴力男にハマる女性の心理」とかに見られるギャップ効果というやつか。
まさかこのタイミングで優しくされるとは予想だにしておらず、動揺して「意外に良い人なのかもしれないけど、本当に裏切っていいのか?」と決意が揺らいだりもする中、”汚物”が見事なファインプレー。
やっぱり、最終的には辞めたい気持ちを後押ししてくれる。

それは最終日直前の事…、犬の早期妊娠診断での出来事だ。
犬や猫の早期妊娠診断では、超音波診断装置を腹部に当てて診断するのが一般的だが、大抵の動物の体は被毛に覆われており、超音波が届きにくい。
したがって、診断前にバリカンなどで綺麗に毛を刈る必要があるのだが、不恰好に禿げてしまうため、オーナーには不評な事も多い。
しかし、腹部は元々被毛が薄い部分なので、毛が細い犬種などは超音波用のジェルをたっぷり塗れば超音波が届く事もあるのだ。
そして、今来ている妊娠畜はまさに毛が細い犬種であり、オーナーも「できれば毛を刈らないでほしい。」と希望している。
そこで、ジェルをたっぷりつけて装置を当ててみたのだが、残念ながら上手く見えなかった。
思ったよりも腹部の被毛が濃かったようなのだ。
仕方がないので、オーナーの了承を得て毛を刈る事にし、準備のために診察室を出る。
すると、その様子を見ていたらしき”汚物”が無言で近寄ってきて、いきなり僕の胸を小突いて…、いや、殴ってくる!!
そして、殴られた勢いでよろめき、一瞬何が起こったのか理解できず、頭が真っ白になっている僕を尻目に、ベテラン看護師に毛刈りバサミでの毛刈りを命じた後、僕を“拷問部屋”に呼ぶ。
もちろん、キレている。

“汚物”「お前、ふざけんなよ!!この後どうするつもりだったんだ!?コラ!!どうせ、バリカンで刈るつもりだったんだろ?そんな事したらバリカンが傷むじゃねえか!!ボケ!!なんでジェルをつける前に毛を刈らないんだよ!?オレはいつもそうしてるだろが!!このバカが!!もういい!!オレが代わるわ!!お前に任せるとロクな事がねえからな!!あーあ、ハサミで刈っても根元までは切れんぞ…。画像が見難くなるぞ…。これで診断ミスしたらどう責任取ってくれんだ?このタコ!!」

言いたい事はよく分かった…。
確かに、自分の力を過信して独断で”汚物”の方針とは違う診断手順を行い、失敗した点は非難されるに値するだろう…。
頼んでもいないが、やりにくい状態で診断を交代して迷惑をかけた事も謝る…。
だが、なぜ殴る。
殴られずとも、一度怒鳴られれば次からはやらない。
それぐらいの理解力と従属性はあるつもりだし、分かってもらえていると思っていた。
しかし、出てきた答えは問答無用の実力行使。
僕には弁明の機会すらも与えられなかったのだ。
また、もう一点気になるのが、「キレた一番の原因は何か」である。
病院の方針に従わなかった事、”汚物”に相談しなかった事、ジェルを多めに使った事、失敗した事、”汚物”やベテラン看護師に余計な手間を取らせた事、オーナーに無駄な時間を過ごさせた事、診断画像が見難くなった事…、思い当たる点はいくつもある。
しかし、ここでもう一度”汚物”のセリフに注目してほしい。
“汚物”が初っ端に言及しているのはバリカンについてである。
いの一番にバリカンが傷みそうな事の心配をしているのだ。
という事は…、そういう事なのだろう。
僕はそんな理由で殴られたのだ…。
「バリカンを壊しそうな行動」に対する罰が「殴る」というのは少々厳し過ぎる気もするが、ともかく、以上から導き出される結論は…、あまり信じたくないのだが、僕はバリカンよりも存在価値が低いと考えられている可能性があるという事だ。
もしもバリカンを壊していたら殺されていたかもしれない…、そんな気配すらあった。
所詮、研修医は奴隷なのだ…、ご主人様の持ち物を壊せば、命に換えて償わなければならない。
あなたは「1万円とお前の命なら1万円の方を選ぶ。」みたいな事を言われた事はあるだろうか?
そんな酷い事を言われた事がある人は居ないと信じたい。
こんな悲しい想いをするのは僕1人で十分だ…。

ま、久しぶりにテンションを下げられたが、そういえば僕はもう辞めるのだった。
人権を無視されようが暴力がエスカレートしてこようが、もうすぐ関わる事も無くなるので大して気にする事ではない。
逆に、殴ってもらったおかげで目が覚めて助かったし、もう情けをかけたくなるような出来事も起きないだろう。
これで辞めるための障害は全て取り払われた。
(とっておきのダメ押しというやつだッ!!)

“汚物”と僕との関係は  花咲く事は無かったけれど
それでも別れは寂しいけれど  さよならだけが人生だ!!

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