小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 久々に泣いた。声を上げて泣いた。泣き方なんて忘れてしまって、上手に泣けなかったけれど。それでも、泣きたいだけ泣いた。喉が詰まって、声が嗄れて、涙が出なくなっても、それでも気が済むまで泣いた。涙が出ていないのに泣いたと言えるのかは疑問だが。
「うわぁ、凄い顔。タオルとか無いの?」
「ありますけど……」
ようやく泣き止んだ私を見て、『時間屋』が大袈裟に顔をしかめる。そんなに酷いのだろうか、私の顔は。
「で、すっきりした?」
「まぁまぁです」
「あれ」
「でも、少しだけ気持ちが晴れました」
「お」
「……」
「……で?」
「何がですか」
「いや、この流れだと、何かしら俺に言う事があるんじゃないかな、と」
「何も言う事はありませんけど」
「素直じゃないなぁ」
「元々です」
「開き直るなよ」
この際開き直ってやる。何とでも言えばいい。
「もう少し、私の話を聞いてもらっても良いですか」
「ん、どーぞ」
くあ、と彼は欠伸をもらす。聞く気があるようには見えないけれど、素直に礼が言えない私の、せめてもの感謝の印として、話したいと思うんだ。
「母が居なくなった時、確かに私は母が怖くて、憎くて、居なくなってくれて嬉しいとすら感じました。でも、それからしばらく、母の居ない生活を送っていると、思い出すんです。楽しかった事ばかりを。変わってしまってからの母で無く、優しくて明るかった母を。幼い私に絵本を読んでくれた母、私の誕生日が来る度に、大きくなったと微笑んで頭を撫でてくれた母、学校で友達と喧嘩をして帰って来た私を、怒鳴りつけずに静かに諭してくれた母……」
それは、長らく忘れていた綺麗な思い出で。いや、忘れていると思い込んで消してきた、大切な思い出で。
「私がどんなに憎もうとしても、あの人は紛れも無い、私の、世界でたった一人の母親だったんです」
知っていた、分かっていた。だから、消した。悲劇のヒロインぶって、自分の痛みの原因を、母に擦り付けようとした。でも、それが間違った事だと、心の中では気付いていたんだ。
「だから、そんな風に母を憎む、卑しい自分を悟られたく無くて、周りの人と距離を置いたんです。私は強くて完璧で、人との繋がりなんて要らないからと自分に言い聞かせて、そんな人間になろうとして、できなくて」
もがいて、もがいて、もがき苦しんで。
「気が付いたら一人になっていました。でも、大丈夫だと言い張って」
我ながら、なんて強情で頑固な人間だったのだろうと思う。
「でも、あなたが全て見抜いてくれたおかげで、私は、これから少しずつでも変わっていける気がするんです」
さっきまでは暑苦しいとしか感じなかった太陽の光は、今は優しい温もりをくれている様に感じる。ここから見える景色は、全て鮮やかに色付き、私の心を弾ませる。それもこれも、『時間屋』のあなたのおかげだ。
「だーかーらー、そういうのいいから素直に言えっての」
「言葉遣いが悪いですよ」
「君が大人ぶり過ぎてんの」
「あなたは子供っぽいですよね」
「るせーよ」
彼がつま先で蹴飛ばした小石は、コロコロと転がって来て、私の足に当たって止まった。試しに蹴り返してみると、割と真っすぐに転がって、また彼の前で止まった。
「あとさ、俺が思った事も言っていい?」
彼が石を蹴る。
「どうぞ」
私がそれを蹴り返す。
「君のお父さんが、お母さんの事を咎めなかったり、事故に遭った時に文句を言わなかったりしたのは、さ」
転がって来た石をつま先で止めて、彼は私を見た。
「君に、憎しみを教えたくなかったからじゃないかな」
「憎しみを?」
「そう、憎しみを」
そしてまた蹴る。
「お父さんはきっと、君がお母さんを憎む事で、悲しみから逃げようとしてるのが分かったんだよ。だから、どうにかして君に、憎しむ事がいけない事だと教えようとしたんだ」
石は私の目の前で止まっている。
「と、俺は思うんだけど、どう?」
「……そう、ですね」
胸一杯に息を吸い込んで、
「本当、不器用な所が私とそっくりですねっ」
渾身の力で石を蹴った。ぽーんとそれは高く上がり、彼を飛び越して植え込みに落ちた。
「なんか嬉しそうじゃん」
「そうかもしれませんね」
軽やかにベンチから立ち上がる。今の私の心には、一点の曇りも無かった。何処までも晴れ晴れとした、清々しい気持ち。
「あれ、話は終わり?」
「はい。もう帰ろうと思います」
「そっか」
『時間屋』もブランコから立ち上がり、ぐぅっと伸びをする。そして腕時計をちらりと見ると、指を二本立てた手を、私に向かって突き出した。
「二時間十六分。二千百六十円。でも学生さんだからオマケして、二千円で良いよ」
……は? 今、何て? 二千円? 何が?
「ほら言ったじゃん、俺はこれを売ってるって」
そう言って指差すのは懐中時計。時間の狂った懐中時計。
「悩みとか、ストレスとかを吐き出す。そういう時間って意外に無いんだよな。だから、俺は、悩みのある人の話し相手になって、愚痴る時間をつくってあげるって訳。気分を新たにする『時間』を、俺は売ってるんだよ」
よく分かんない商売だろー? なんて言いながら懐中時計の時間を進める彼。よく見れば、懐中時計は動いていなくて、
「売った時間の分だけ、この時計の時間を進める。二十四時間に達したら、一日休む。そうやって、人と上手く接する為の修業、みたいな?」
そういう事らしい。待てよ、という事は。
「タイムスリップとかしないんですか?」
「俺、宇宙人じゃないんだけど」
「どうして私が呼んだって分かったんですか?ていうかそもそも、何で中学の近くに居たんですか?」
「ちょっと私用で……。それと独り言、スゴイ聞こえてたけど」
まさかあの時思ってた事全部、口に出ていたのか? 恥ずかし過ぎる! というか、そんな事より……
「お金を取るなんて聞いてません!」
「おー。だって俺言い忘れたもん」
「言い忘れでは済みません!」
「いやだって、そんな事言っても……」
「払えませんから!」
「うわぁ、変に話聞くから元気になっちゃったよ」
「それはあなたが!」
「まぁまぁ落ち着」
「落ち着けません!」
乱暴に鞄を肩に掛けて歩き出した私を、『時間屋』の声が追いかけてきた。
「一つ言い忘れたけど」
「言い忘れ過ぎじゃないですか」
「それは置いといて」
振り返ると、彼は優しく笑っていた。初めに会った時の、人懐っこい笑みとは違う、温かくて全てを包み込むような笑顔。あぁ、やっぱりこの人大人なんだと、改めて感じた。
「君は、色んな事に触れて、色んな思いをしてきてる。その経験は何一つ、絶対に無駄な物じゃない。それから、君が苦労している事を、薄々でも感じている人は居ると思う。少し周りに目を向けるようにしてごらん。きっと、君に歩み寄ろうとしてくれている人は居る。君は今までこんなに頑張ってきたんだ。絶対に、良い友達にめぐり会える。絶対だ」
その声を聞いている間、何故かまた、泣きそうになった。何故彼はこんなにも人の心を動かすのが得意なのだろう? どうして、今一番嬉しい言葉を、かけてくるのだろう? 涙が出そうなのに、自然と口元が緩んでしまう。泣きたいのに、笑ってしまう。でも、今なら、笑って言える気がした。
「色々、聞いてくれて……ありがとうございました」
心からの笑顔でそう返すと、彼は目を丸くした。
「やっと言ったなー」
「うるさいです」
「それに良いモノ見れたし!」
くるり、と背を向けて『時間屋』は歩きだす。
「仕事の報酬は、それで充分だ。まいどありー」
ひらひらと手を振って遠ざかる、その大きすぎる背中に、精一杯の感謝を込めて、私は深々と頭を下げた。夏の日差しは鮮やかに、全てを照らしていた。

 「おはよう」
朝、教室に入る時にクラスメートに挨拶をしてみた。
「……え? あ、うん、おはよう……?」
まぁ無理も無い反応だったけれど、私は変わると決めたから、大丈夫だ。それに、『時間屋』の彼も言ってくれた。
『絶対に、良い友達にめぐり会える』
絶対に。そう、絶対に。それにはまず、クラスメート全員の名前を覚えなければ。
「ねぇねぇ」
心の中で拳を握りしめていたら、腕をつつかれた。そこに控えめに立っていたのは、例の、ほんわりの子だった。
「あ、おはよう」
「おはよう。あのね、あたし前から水谷さんと、お話ししたいなーって思ってたの」
「え?」
私の名前を覚えてくれている。それに、私と『話がしたかった』?
「水谷さんあんまり皆と話したくないみたいだったけど、そういうの、ちょっと仲間外れっぽくて嫌だから……」
『君に歩み寄ろうとしてくれている人は居る』
『時間屋』の言葉が頭をよぎった。
「え、えっと、話しかけてくれて、ありがとう。申し訳無いんだけど、あなたの名前、覚えて無いんだ。教えてもらってもいい……かな」
その子は嬉しそうに笑ってくれた。
「いいよ、あたしも水谷さんの下の名前、知りたいな。あたしは、速水優衣」
「優衣ちゃん」
あの時の様に、自然と笑顔になれる。今日から私は、変わるんだ。

「私は、水谷知里。よろしくね」

   *

 「君は、社会のルールというものを理解しているのか?」
「しているつもりですが」
「どう見てもしていないだろう! なんだその馬鹿に大きなヘッドホンは! 職員室ではそういうものは外せ!」
「はあ」
『彼』は渋々と首に掛けたそれを外し、傍の机に置く。あまり反省はしていない様だ。スーツにネクタイと、格好こそきちんとしているものの、常識はあまり無いと、とれる。
「だいたいその茶色い頭も、ここにはふさわしくないだろう!」
「だから、これ地毛ですってば」
「信じられるかそんなの!」
そして『彼』の前に立つ『彼』の上司であろう男は、相当ご立腹。
「いいか? 君は、教育実習生と言えど、教師という立場の人間なんだ。子供達の手本となる様な行動をとってほしい。その上うちは中学校だ。中学生とは、色々な事に影響されやすい時期。そんな彼らを導く教師が、品行方正にしなければならないのは、分かるな?」
「大丈夫ですよ、俺……僕こう見えて、人と関わるの得意ですから」
「対人関係の事を言っているんじゃない! 身だしなみの事だ!」
怒鳴られても、『彼』は気にせず、にこにこ笑っている。
「そろそろ時間ですよね、放送室でしたっけ?」
「……あぁ。挨拶は考えてあるな?」
「はい」
ネクタイを締め直す『彼』を見ながら、『彼』の上司が腹立たしげに呟く。
「これだから社会に出た事の無い最近の若者は……」
「あ、副校長先生、俺……僕、ここに来る前は仕事してたんですよ」
「は?」
「人の悩みを聞く仕事を、ね」
ポカンとした顔の副校長に、『彼』は、小さく笑って見せる。
その手の中では銀色の懐中時計が、小さな輝きを放っていた。

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