小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 ≪中学生編≫

 開いた口が塞がらない、とはこの事。実際口は開いていないのだが、こんな例えを持ち出す程、その日のテレビ朝会を、私は信じられない思いで見つめていたのだ。何故なら、
『こんにちは。この度、藍浜中学校に教育実習生として来ました、氷見山心露です。担当は……えっと、そう数学!』
等と言葉を述べているのは、『彼』。そう、つい昨日私が出会った『時間屋』の、彼。
『世間一般の教育実習生なら、皆と一緒に学んでいきたいです! とか言うんだろうけど、生憎俺はそんなちゃんとした人間じゃない。だから、俺なりの言葉で挨拶させてもらおうと思う』
茶髪は変わらないが、黒縁の眼鏡をかけてスーツにネクタイ、受ける印象はかなり違うも、彼は紛れも無く『彼』だった。
『今、中学校生活や勉強、つまんねぇとかだるいとか思ってる子いるよね? そんな事無いよ、楽しさを知らないだけ。俺が全部教えるから大丈夫! 若い内に遊んどいた方が良いからねー。それから、俺には先生って付けなくていい。ほら、福沢諭吉も言ってるじゃん? 天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず……ってさ。対等で居ようよ』
そしてやはり、言っている事的にも彼は紛れも無く『彼』のようだ。あれでよく教師になれたものだな。
『まぁ副校長に怒られちゃうから、最後は模範的な言葉で締めようかな。皆と早く仲良くなりたいです! 見つけたらどんどん声掛けてくれ。宜しく!』
あの人懐っこい笑顔で、彼はそう言った。ああやって初対面の人間の警戒を解く。そして知らない間に心を溶かして隙間に滑り込む。そんな彼の手の内はもう知っている。……それで変われた事に感謝は、していなくは無いが。なんてこと事が無くは無い事も無い訳では無い。どっちだ。自分でもよく分からなくなってきたから、この辺にしておこうかな。それにしても、彼が教育実習生。それならば、昨日私に会った時、彼は私が藍中の生徒だと気が付いていたはずだ。それなのに何故言わなかったのだろう。何となく、悔しい。
「知里ちゃんっ、実習生の先生かっこいいねっ」
はしゃいだ声の主は優衣ちゃん。いつものほんわりスマイルで、後ろから身を乗り出してくる。
「え?」
「え? じゃないよ〜、かっこいいよねっ」
「そうかな……」
「う……。好みも人それぞれかぁ」
ふにゅ、と口を尖らせて不満げな顔。優衣ちゃん可愛い……。
「ちーちゃんは、どんな人がかっこいいと思うの?」
「私はもっと真面目な人がいいな。クールで無口で無愛想だけど実は優しい、とか」
「なるほどー。それもいいけど、あたしはやっぱり氷見山くんみたいに、明るくてやんちゃそうな人がいい」
「ふーん」
頷きつつ前を向こうとして、
「氷見山……『くん』!?」
何故くん付け!?
「うん。だって『先生』付けなくていいって言ってたよ?」
「いやまぁそう、だけど……」
「ほらちーちゃんも! せーのっ『氷見山くーん』!」
「それ一緒に言う意味あるの?」
ぐだぐだ感の否めない優衣ちゃんに、呆れながらも笑みがこぼれる。友達と、いや人と、今までこんなにも触れ合った事は無かったから。嬉しい様な、でも少しこそばゆい様な。これから慣れていけるのかな。この感じが、当たり前になるのかな。そうなったら、いいな。
「喋んのそこまでな、前向こう」
「!?」
突然ガッと頭を掴まれた。痛い! とゆーか担任こんなに手荒い事する人だったか!?
「あっ!」
優衣ちゃんが目を輝かせる。何だ? そして強制的に前を向かされた私は、その理由を知る。
「あー……」
「あれ」
黒縁に囲まれた茶色い瞳が、驚きの色を浮かべている。
「昨日ぶりだね、君。まさかこのクラスとは」
「昨日ぶり? ちーちゃん知り合いなの?」
「あ、君ちーちゃんってんだ。いやぁ、知り合いって程じゃ無いんだけど、昨日ちょっと話を聞いてあげたり、色々。ってかその仏頂面は何だよ。昨日の笑顔は何処へ」
「初めましてこんにちは。教育実習の先生でいらっしゃいますね。何故このクラスに居るんですか、消えて下さい」
「えぇ! いや何バックレてんの! しかも言ってる事、初対面に言うそれじゃ無いし!」
「あなたなんか知りません」
「おーい……」
「あの、氷見山先生?」
控えめに口を挿んだのは花澤先生。このクラス、一組の担任。大人しい女教師で、怒った所は見た事が無い。
「氷見山先生、生徒達に紹介したいんですけど、いいかしら」
「あー、わり……じゃなくてすいません、どうぞ」
また人の良い笑顔でそう返す。本当この人、何故教師になれたんだろうか。
「さっき朝会で挨拶された、教育実習生の氷見山先生。数学教師として、私が指導にあたる事になりましたから、基本一組の皆さんと接する事が多くなると思います」
「そーゆー事。宜しく!」
うわ……。これは一体何分の、いや何十分の、何百分の一の確率で、こんな事に。二つの何か言いたげな視線を右頬と背中に感じながら、私はあえて机に突っ伏して無視を決め込んだ。……特に理由は、無いのだけれど。

 まぁしかし、氷見山先生が教師になれた理由は、なんとなく分かった。彼は人をよく見ている。侮れない観察眼、というところだろうか。他人の警戒や緊張を解く術、群衆の中に溶け込む術、人心を掌握する術。今朝からこの昼休みという短い時間の間に、恐ろしいくらいのスピードで、彼は藍中での信者を確実に増やしているように思う。確かに、初めて出会った時にも、その片鱗は見ていた気がする。彼はいとも簡単に私の心理構造を読み取り、人生全てを懸けて隠してきた私の気持ちさえも、見破ってしまった。……悔しい。感謝しているはずなのに、私と対照的過ぎる彼を羨ましく思ってしまって、もやもやした感情が溜まっていく。そんな自分にまた、嫌な感情をもってしまう。悪循環だ。だから、頼むから、
「……私に構うのをやめて下さい」
「そっちが無視するからじゃん」
「ちーちゃん、氷見山くんが可哀相だよ」
「可哀相なのはむしろ私だと、そこの大人に自覚してほしいモノですが」
「さっきから酷くない? 俺ちーちゃんと話したいなぁ」
昨日は私の心の奥を見破ったのに、何故今は分かってくれない! わざとか? わざとやってるのか、この茶髪男は! 優衣ちゃんの目を盗んで、そっと彼の顔を見上げると、訝しげな表情に捕まった。何で?とでも言いたげだ。こっちが何で?だ!
「……話したいって、何をですか」
「おっ」
「話すとは言っていません! ただ参考までに、氷見山先生が一体私なんかと何を話そうとしていたのか、聞いてみたくなっただけですから!」
「意地張るなってー」
「張ってま・せ・ん!」
軽い調子の声にイライラしながら、ご飯を口に運ぶ。柔らかい事は百も承知だが、この状況でこれを力を入れずに噛めるかってんだ! いけない、言葉遣いがよろしくなかった。優衣ちゃんはというと、さっきから蒸しパンに顔を埋めてもぐもぐやりながら、私と彼を面白そうに見ている。まるで小動物の様。可愛い。女の子として申し分無い振る舞いである。と、そこへ。
「ゆいぴょーん、吹部の先輩呼んでるよー」
「あわぁ! こないだのミーティングすっぽかしたんだった!」
「こら優衣―、早く来なー」
「ご、ごめんなさいぃ〜! ちーちゃん、ちょっと行ってくるねっ」
「うん、いってらっしゃい」
慌てて走ってゆくその後ろ姿を見送って前を向くと、
「はわっ!?」
「『はわっ!?』だって、可愛い〜」
「ふ、振り返ったすぐ目の前に誰か居たら、驚くに決まってるじゃないですか!」
「どうどう、落ち着いて」
「……っ」
何処までも人の神経を逆撫でするのが得意な人だ。
「ってかね、そうじゃなくて」
昨日の様に、声のトーンが突然変わる。低く重みのある声。思わず身を硬くしてしまう。
「昨日の今日で、変わってる事はそこまで無いとは思うけど……どう? お父さんと話とかした?」
「いえ、それはまだ……」
父子家庭の為、働き詰めの父とはなかなか会える訳では無いので、とりあえず今朝メールを入れておいた。
『お父さんと、久しぶりに色々話したいと思います。土日でも良いので、時間をつくってもらえないでしょうか。』
我ながら、親子とは思えないくらいによそよそしいメールになってしまったが、それは仕方が無い。これからゆっくりと、修復してゆけばいいんだ。時間はたっぷりある。
「そっか。まぁお父さんはきっと、いつも君を気にかけてるはずだから、話し合いの場さえ設ければ、後はそんなに難しくないと思うよ」
「そうですね」
やっぱり分かっている。私が今一番心配な事に、さらっとフォローを入れてくる。
「でもなぁ」
机に突っ伏し、彼は上目遣いに私を見た。ふわりと――香水だろうか――柑橘類の爽やかな匂いが感じられる。
「まさか昨日の今日で友達ができてるとは思わなかった」
にこりと、また人の良さそうな笑みを浮かべて。私の胸の中を見通して。その笑顔を間近にして、私は彼に何か違和感を持った。
「あの、」
「ん?」
問いかけようとして、困った。あれ? これは何に対する違和感なのだろう?
「どうした?」
「い、いえ……」
開いた目に全てを射抜かれる気がして、目を逸らす。視界の端には吹奏楽部の先輩に、ペコペコと頭を下げる優衣ちゃん。氷見山先生が起き上がる気配を確認してから、私は再び前を向いた。
「話は戻るけど、」
残りのお弁当に箸を伸ばしかけた私の頭に、何やら感触。
「頑張ってるんだな、水谷知里(・ ・ ・ ・)ちゃん」
ぽんぽん、と頭を撫でられた事に気付いたのは、フルネームで呼ばれた事に気付いたのは、彼が教室を出て行ってしばらくしてからの事だった。

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