【第8章】
【第八話 サンクチュアリ】
フリッツは、疲れていた。
壁に背中をもたせかけて膝を抱え込み、そこに顔をうずめるようにしている。
こんなに手放しに泣いたのは久しぶりだった。
子供がよく地べたに倒れこんで手足をバタバタさせ、あらんばかりの声を出して猛り狂っているのを見ることがあるが、どこにそれだけの体力があるのだろうと不思議に思っていた。
なにもそこまで全身全霊をかけて泣くことないだろう、と。しかしその子供の気持ちが、フリッツには少しだけわかったような気がした。
もちろん、今までそのように泣いたことなどなかったし、おもちゃやお菓子が手に入らずに泣き叫ぶ子供と自分とは立場も状況も違いすぎる。だが、やり場のないどうしようもない感情の塊を発散するための手段であるということには違いない。
今ではすっかり体力を使い果たし、修練所の隅でじっとしていることしか出来ずにいた。
「なんじゃお前は」
「はい?」
おもむろに上から降ってきたマルクスの声に、フリッツは顔を上げる。
「土産も持たずに帰ってきたかと思えば、突然女子供のようにあられもなく泣き出しおって」
「……これでも色々あったんです」
フリッツはいじけたように視線を外した。
しかし気持ちが落ち着いたところに、女子供のようにと言われれば、さすがに自分のしたことが恥ずかしく思えてくる。泣いたことで、フリッツの中で膿んでいた感情たちは一時的に発散され、晴れ晴れとした気分までにはならないが、それでもかなり気持ちは楽になっていた。
鼻をすすって、一つため息をつく。そして、黙り込む。
フリッツの耳は少しずつ赤くなった。誰かの前でこんなに泣いてしまうのは初めてのことだった。もしかすると、子供の時より酷い泣き方をしていたかもしれない。そう思って、フリッツは一気にばつが悪くなる。
そんなフリッツの様子にはお構いなく、マルクスは姿勢を崩した。
「話なんぞ後にせい。お前が出て行ってからというもの、色々不都合があって大変じゃったわ。雨漏りしても修繕する者はおらんし、服がほつれても繕えんし、ちょっと生ゴミ溜めたらすぐ虫が湧きよる!」
自分を恥じている最中にそう言われ、毒気を抜かれたフリッツは大人しくその言葉を聞き入れた。
「……は、はあ。じゃあ、屋根の修繕からやりますか?」
「もうすぐ日も暮れる。それも後にせい。今宵は宴じゃ、支度に取り掛かれ」
「宴、って」
フリッツは泣き腫らした目を見開いた。とてもそんな気分にはなれないし、マルクスがそう言い出した意図も趣旨もわからない。
困惑するフリッツに、マルクスは言った。
「かわいい愛弟子が浮かない顔して帰ってきたんじゃ。旨いもの食べて、飲んで、寝る。それを勧めるくらいしかわしは出来ぬからのう」
「師匠……」
フリッツは表情を緩ませた。こんなにみっともなく情けない自分を、マルクスは彼なりに励まそうとしてくれているのだ。
しかし重要なことに気がつき、フリッツはすぐに神妙な顔つきになって訊ねた。
「その準備、全部ぼくがやるんですか?」
宴といっても、フリッツとマルクス二人でのことだ。とってあった保存食やら残り物やら畑からとってきた野菜やらを調理し、自分には汲んできた水、マルクスには残り僅かな酒を用意した。もちろん、あれこれ動き回って準備をしたのは他でもないフリッツ本人だ。
修練所の床に寝転がって白いひげを弄びながら「腹が減ったのう」「まだかのう」とぼやくマルクスに対し、「はいはい、もうちょっとですから」と適当にあしらいつつ、フリッツはてきぱきと動いた。 さすがに十年以上も使っている馴染みの水場では勝手もよくわかっているし、手に馴染んだ包丁や鍋などの器具は使いやすい。
料理は、不器用ながらに何年もかけてフリッツがようやく習得したもののうちの一つだった。最も、ありあわせの食材である程度のものをこしらえるようになるまでには、常人ではあり得ないほどの切り傷や火傷を作ってきたのだが。
食事を用意し終え、フリッツとマルクスは膳を挟んで向かい合い、手を合わせる。それから、マルクスは一切物も言わず、すさまじい勢いで食事をかき込み始めた。
その勢いに、フリッツはあっけにとられてしまったほどだ。一人でいる間、よほど酷い食事をしていたのだろうかと、フリッツの心は少し痛んだ。
そんな感傷に浸っていると、マルクスが杯を突き出してきた。注いで欲しいのかと思いフリッツは酒を探そうとしたが、どうやらそうではないらしい。
すでに酒の注がれたものを、マルクスはフリッツに渡そうとしているのだ。
「さあさあ、遠慮はいらん。飲め飲め」
「……ぼくはこの後、片付けが待っているので」
未成年で酒が飲めないということよりも、フリッツはそちらの方が肝心だった。
マルクスはすでに酔っているのか、フリッツに杯を押し付けてくる。
「なんだ? 師匠の酒が飲めんと言うのか? 不逞の弟子め。臆病で不器用で、気も利かぬ。まったく、師匠の顔が見てみたいわ!」
その弟子の師匠は他ならぬマルクス自身なのだが。
しかしその言い草に、さすがのフリッツもカチンときた。ただ床にごろごろと転がっているだけのマルクスのために働いていた自分が、なぜそこまで言われなければならないのか。
「そこまで言うなら飲みますよ! 飲めばいいんでしょ!」
売り言葉に買い言葉だった。フリッツはやけになり、杯を奪い取るようにして口に運ぶ。咽を逸らしてごくごくと、灼ける液体を飲み干した。
そして次の瞬間、その場に倒れこんだ。
マルクスは顔を赤らめながらしゃっくりをし、一人で杯を掲げる。
フリッツはしまりのない顔を真っ赤に染めて、すでに寝息を立てていた。頬を床につけ、腕はそのまま、尻を突き出すように膝をついている姿は、滑稽以外の何物でもない。
「……相変わらず馬鹿みたいに酒に弱いのう。何度見ても笑えるわ」
マルクスは眠りこけた弟子の顔を見つめた。ぐいっと杯を傾け、飲み干す。
よっこいしょと腰を上げると、ある意味器用に寝ているフリッツの身体を支え、その場に仰向けにしてやった。そんなに身体を動かされても、フリッツは目を開けようともしない。
酒が回り、血色のよい顔をしている少年をマルクスは見やった。
「隈ができておる。頬もこけて。もう何日もまともに寝ていないようじゃ」
マルクスは隣の部屋から毛布を持って来ると、それをフリッツにかけてやった。
フリッツは寝返りを一つ打ったが、起きる気配はない。
「今日はゆっくりとおやすみ。せっかく帰ってきたのだから」
マルクスはたった一人の弟子に、そう呟いた。
夜、フリッツは目を覚ました。
灯はどこにもないが、なんとなく周りは見える。今宵は月が明るいのだろう。
フリッツは一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。しかしゆっくりと体を起こす頃には、頭もはっきりとしてきた。
懐かしい、空気、匂い。マルクスの修練所の床の上、フリッツは毛布にくるまって眠っていたのだった。
目をこする。近くに飲み食いしたあとがあり、そのままにされていた。マルクスの気配はない。
フリッツは腰を上げると、床に置かれているコップや皿やらを水場へと運んだ。裸足に床の冷たさが心地よい。
自分はまんまとマルクスの策にはまったのだと思った。フリッツが悩み、疲れている顔をしているのを見て、マルクスは酒を飲ませるという手段に出たのだろう。フリッツに無理にでも休息をとらせるために。
汲み置きしてあった水を桶から掬い、汚れた皿にかける。ふと視線を上げると、くすんだガラスの向こうに佇んでいる老人の姿があった。マルクスだ。
フリッツは蛾が炎に魅かれるように、ふらふらと外に出た。
風はない。背の低い、岩場にへばりつくように生える潅木に棲む虫たちの鳴き声。カカシも、畑の野菜も、今は静かに眠っている。
満ちた月はぽっかりと空に浮かび、少しの雲をまとっている。雲越しの柔らかな光が、このマルクスの半洞穴にも降り注いでいた。
マルクスは切り立った崖に向かって立っていた。その背中に向かい、フリッツは夢遊病患者のように歩む。
そして静かに、マルクスの横に並んだ。
「師匠は、人を殺したことがありますか」
フリッツは、遠くの景色を見つめたままで言った。風が吹いて、フリッツの髪を揺らす。隣に居るマルクスはフリッツの方を向くことはせず、彼もまた夜に包まれた世界を見つめた。
「人を、殺めたのか」
「……はい」
フリッツの言葉は、夜の黙(しじま)に浮かび上がる。
「剣士は死の感触がわかる。身体の組織を斬り、肉に刃が食いこむ感触が、嫌というほどな。そして至近距離で相手の死に顔を見る。苦痛に歪んだ、あるいは悲哀に満ちた絶望的な最期を。返り血を浴びて相手の血潮の温もりを知る。たった今自分が命を消したのだと、痛感せずにはいられない」
フリッツは俯いた。脳裏に、あの村での悪夢のような光景がよぎる。
「わしも最初は、手が震えたよ」
フリッツはそこで初めて、マルクスも人を殺めたことがあるのだと知った。
もしかしたら、彼が極力この半洞穴から出ようとしないのはそのためなのだろうか。自分を罰しているのか、あるいは制裁から逃げているのか。
しかし、今はそれを訊きたいとは思わなかった。
「わしはお前に、剣というものがなんたるかを教えなかった。多くの修練所では剣を手にする前に、淡々と弟子に説き、空で暗唱できる程その脳裏に刷り込むにも関わらず。わしがそうしなかったのが、なぜだかわかるか?」
剣を振るうこと。
その本質が力であることを知り、そして奪うことに繋がると知っていれば、あるいは。
「必要性を感じなかったのじゃ。強い者は強く、弱い者は弱い。確かに強い者のなかには、剣の精神を心得ておるものが多い。しかしどんなに残酷な者でも、非道な者でも、時に強いものは強いのじゃ。剣の心を知っておれば誰でも強くなれるほど、世の中はそんなに、甘くはない。心に決め、正義のため、まっすぐな芯が一本通った剣を振るう者が、剣になんの精神も美学も持たぬ輩に潰されていくのを、わしは何度もこの目で見てきた」
フリッツは相変わらず、崖の向こうの夜を見ていた。
「それにわしには、お前さんにそれを説く資格などなかった。お前さんは無用な殺生をしてはいけないことを、最初から知っていた。そんなお前さんに、このわしが何を言うことがあろうか」
そう、フリッツは知っていた。
命は尊いものだと。唯一無二のものだと。
いたずらに奪うべきものではないし、ぞんざいに扱うものでもないとわかっていた。
煩い虫一匹、殺さずに外へ追い払おうと躍起になった。捨てられた子犬や猫を拾ってきた。畑を荒らす鳥たちとの戦いに、エサ場を設けることで終止符を打つ、そんな少年だった。
競うことが嫌い。争うことが嫌い。
誰かが傷つくのも、自分が傷つくのも嫌だった。
しかし自分が傷つくより、誰かが傷つく方がもっと嫌だった。
そんな人間だった。それなのに。
「しかし、今は後悔しておる。やはり剣の道には、死がつきもの。それをもっと早くにお前さんにわからせていれば」
マルクスはフリッツの方を見た。
「斬った者の家族や本人の未来を奪ってしまったことに、心を痛めておるのか?」
フリッツは、口を開いた。
「人の命を奪ったことより、自分が人殺しになってしまったことの方がショックでした。それに気がついたとき、愕然としました。ぼくは人を殺したことが悲しかったんじゃない、自分が汚れてしまったのが悲しかったんだって」
そう口にした言葉を自分の耳で聞き、フリッツは改めて思った。
ああ、ぼくって最低な人間だ。
兄さんが漆黒竜団(ブラックドラゴン)だったことより、自分が人を殺した方が。
人の命の可能性が消えてしまったことより、自分の手が汚れてしまった方が。
そんなフリッツの考えを、おそらくマルクスは見透かしている。
マルクスはフリッツの思考回路など、とうの昔に知り尽くしているはずだ。マルクスは顔を正面に戻し、暗闇に向かって訊ねた。
「お前さんは、どうしたいのじゃ」
「……無かったことにしたい。あの村の人も漆黒竜団の男たちも、皆死ななかったことになればいい。ぼくはあんな目に遭わずに、あんなこともせずに。人殺しじゃない、ただの人畜無害なフリッツでいたい」
「でも、それは無理じゃ。それは言わなくてもわかっておろう」
フリッツは、それには答えなかった。
「お前さんがどこで誰を殺めたかは訊かぬよ。そこまで気に病んでおるのなら自ら出頭してもよいし、報復や制裁が怖いのなら、ここに隠れておればいい。まあ、鈍くさいお前さんが一人でここまで戻ってこられたのだから、殺したところで法の裁きが入るような相手ではないということは察しがつくがな」
「……路銀欲しさに、なんの罪もない村人や旅人に、手をかけたかもしれませんよ」
なぜそんなことを口にしたかはわからなかったが、気がつけばそんな棘のある荒んだ言葉が、自分の口から転がり落ちてきた。
しかしマルクスは動じなかった。
「お前さんがどうしてもそれを信じろといえば信じぬこともないが、そんなことをしたフリッツという人間は、最早わしの知る弟子ではないのだろうな」
自分の知る弟子ではない。
それはフリッツに、アーサーを思い出させた。
ぼくの知っている兄さんじゃない。あの時そう思ったのと同時に抱いた、恐怖と嫌悪。
「わしの知っている弟子のフリッツは、そんなことはしない。そんなことをするくらいなら、道端で餓死するのを選ぶような根性なしで間抜けな奴じゃ」
その言葉に、フリッツはマルクスを見た。
「どうしてそう思うのか、そんな目をしておるな。わしはお前さんという人間を知っておるし、お前さんが理由も無しに悪事を働くような人間ではないと言い切れる。これでもわしは、フリッツ=ロズベラーという人間を信用しておるのじゃよ。お前さんを、信じておる」
『信じている』
フリッツのこころは、揺さぶられた。
フリッツは、アーサー=ロズベラーを信じられなかった。
血の繋がった兄弟とはいえ十年もの空白があるのだ、仕方がないといえば仕方がない。だが、それで片付けられる問題だろうか。あの状況で信じられるはずがなかった。
それになにを信じろというのだ。
アーサーが誰も殺していないことを?
自分の知る、かつても優しい兄のままであるということを?
あの場で、あの状況で?
フリッツはまだ、マルクスにアーサーのことを言えずにいた。言うつもりもなかった。
口に出せば、自分の罪を兄のせいにしてしまいそうになる。いや、実際そうしている。
あの場でアーサーに会わなければ、アーサーがあんなことになっていなければ、自分はこんな目に遭わず、こんな思いもしなかった。
フリッツはアーサーを恨んでいた。
フリッツをフリッツでなくしてしまった、きっかけとなったアーサーを。
フリッツが黙り込み、二人の間に沈黙が流れる。しかしそれも、夜に溶ける。
不意に、強い夜風が吹く。
マルクスはぶるりと身を震わせた。
「うう、夜の冷えは老体に染みるわい。わしはもう行くぞ」
そう言うと、杖をつき踵を返す。フリッツは何も言わず、応えもせず、ただそこに立っていた。
マルクスは、足を止めた。
「そこから数歩進めば、何もかも終わる」
フリッツの目の前には、崖。
その向こうに広がるのは、漆黒の世界。そして下には、暗黒の闇。
落ちればただでは済まないどころではない。待っているのは、確実な死。
しかしフリッツは、そんなことは考えてはいなかった。
死にたいのではない。犯した罪から、罪の意識から逃れたいのだ。
「足元にはくれぐれも気をつけよ。明日は屋根の修繕やもろもろをやってもらわねばならんしの。頭を冷やすのはいいが、身体と心を冷やすのは大概にしておけ」
マルクスは脚を引きずりながら、庵へと戻っていった。
フリッツは、立ち尽くす。闇を見つめる。
その上には、淡く穏やかな光を滲ませる月があることに気がつきもせず。
夜はまだ、明けそうにない。
朝。
フリッツは何事も無かったかのように目覚め、かつての、いつもの日課をこなしていた。
いつもどおり。それは今のフリッツにとって、こころを防御するための入れ物のようなものだった。
半洞穴の隅のほうで飼っている鶏にエサをやり、畑に水をやって野菜たちを目覚めさせ、雑巾を固く絞って修練所の床を磨く。窓とその枠の埃を拭きとることも忘れない。水場に立ち、リズミカルな音をさせて野菜を刻む。
この辺りで太陽は山並みから顔を出し、マルクスもようやくだらだらと布団から這い出してくる。おぼつかない足取りのマルクスを促し座らせ、手を合わせ、質素ながらも湯気の立つ、バランスの良い朝食を頂く。
いつもはこの日課の前に、必ず素振りをこなしていた。
しかしこの日、フリッツは剣を振るわなかった。マルクスはそれに気がついていたが、何も言わなかった。
そして陽が高く上る頃、フリッツは掘っ立て小屋の屋根に上っていた。足元には釘やら金槌やらが散らかっている。
「師匠ー! 屋根の修繕終わりましたよー」
下にいるマルクスに向かって、フリッツは声を上げた。
「ご苦労さん。もう昼時じゃ、降りて来い」
その言葉に、昼飯を作ってくれという意図を汲み取り、フリッツはやれやれと肩を落とす。
しかし気を取り直して、屋根の上に散らかした用具をひとまとめにし、降りようと腰を浮かせた。
「あ、わっ!」
お約束とでもいうのだろうか、案の定フリッツは屋根から転げ落ちた。派手な音がして、マルクスは思わず目を瞑る。地面に落ちたフリッツは涙ぐんで腰をさすった。
「あ痛たた……」
「なんとか受身は取ったか。しかし洗濯物が土まみれじゃのう」
そこには見るも無残な光景が広がっていた。フリッツは洗濯竿にひっかかり、洗濯物を巻き込みながら落ちてしまったのだ。
地面には土まみれになった衣服が散乱している。フリッツは地面に手をついたまま、がくっと頭を垂れた。
「うう……やります。洗い直します」
「まったく。お前はいつもやっとることはそれなりに出来るのに、たまにしかやらないこととなると途端にドジを踏む。どうせこうなると思っておったわ」
「だって、たまにしかやらないんじゃ身体が覚えられないじゃないですか。それにわかっていたなら、ぼくにやらせないでくださいよ」
フリッツは口を尖らせて反抗を試みた。
「だいたい、もろもろの家事も危なげなくやるようになるまで一体何年かかったことやら」
「はいはい、どうせぼくは不器用ですよ、要領悪いですよ。自分で全部洗えますから、もうほっといてください。でも師匠には先にお昼作りますね、ちょっと待っててください」
フリッツはそう言うと、痛む腰に手を当てて立ち上がり、散らかった洗濯物を集め始めた。
不器用で、どん臭い。失敗ばかりのフリッツ。
旅立つ前の、いつものフリッツ。
当たり前の日常。
フリッツはため息をつく。安堵のためだ。
冒険も驚きも喧騒も、ここには何もない。この何もない半洞穴こそが、やはり自分の本来の居場所であったのだとフリッツは再認識した。刃物を手に振り回すなど、野蛮人のすることだ。
こうして穏やかに流れ行く時に身を任せ、マルクスに必要とされ、そうでない時は空を仰ぎ鼻歌を歌いながら時間を潰す。
こしらえた膳に手をあわせ、働き、眠り。一日一日が平和に過ぎ去っていくのを、ただ感謝する。それのどこがいけないのだろうか。
ここでは誰もフリッツを傷つけない。フリッツも誰も傷つけない。
自分とマルクスだけがいる。フリッツにとって、ここは聖域だった。
ここにいれば、惨めな思いをすることも、怖い思いをすることもない。
そのはずだった。
泥だらけの洗濯物はひとまず籠に入れ、炊事場に向かおうとすると、マルクスが待ち受けていた。
「お前のこれからについてだが」
唐突な切り口だった。フリッツは籠を抱えたまま、マルクスを見つめた。
「お前がどんな道を選ぼうとわしの知ったこっちゃない。ここから出て行くも良し。残るも良し。修練を続けるもよし。剣の道を棄てるも良し」
―――剣の道を棄てる。
その言葉に、フリッツの顔はわずかに翳る。フリッツの気持ちを察して、マルクスは微笑んだ。
「案ずるな。お前が剣を棄てても、すぐに追い出したりはせんよ。ただ畑仕事がいつもより増えるだけじゃ。次の門下生を集めるのに走りまわってもらうのもいいな、その世話もまかせよう」
門下生をやめる。しかし、このままここで暮らしていく。
マルクスは次の門下生をとって、彼らが一人前になるのをフリッツはサポートする。
そんな選択肢もあるのかと、フリッツは思った。
陰ながら誰かを支える。内気な自分にはぴったりではないか。
「前向きな選択肢の一つとして、破門という考えもあるがな」
「……破門」
聞き慣れないその言葉を、フリッツは口の中で転がした。
「まあ、身体を休めながらしばらくここでじっくり考えてみるがいい」
マルクスの食事も作り、自分も簡単なものを腹に収め、洗濯物を洗い直し干し終えたフリッツは一息つこうと半洞穴の端に向かった。
岩場が大半を占めている殺風景なこの場所だが、その中でも特に日差しの当たる場所というものはある。緑の柔らかい草が覆う野原で昼寝、というわけにはいかなかったが、フリッツは比較的なだらかな場所に腰を下ろし、そのまま背中を地面に預けた。
真上には半洞穴の岩の天上が目に入るが、少し横を向けばそこは澄んだ青い空だ。
大きな鳥が輪を描いて天を舞う。時折高らかな唄が聞こえる。
上を向いているが、半洞穴の岩場があるため眩しくはなく、しかし空気はぽかぽかと暖かい。涼やかな風が吹き、フリッツの頬を撫でる。
心地の良い昼下がりだった。
フリッツは目を瞑る。
『何があるのかわかりませんけど、頑張って決めてください。フリッツさんがどうしたいか、どうすべきか』
幼いながらに行商人になることを自ら選び決めた、ミチルの淡白な励まし。
『逃げたくないんです! この現実から。そしてなにより、わたくし自身の弱さから』
信念を貫く覚悟と、それに勇気と不安を孕んだティアラの叫び。
『だからあたしたちは、何を為すか、それが本当に正しいのかを考えなきゃいけないのよ』
人生初めての大立ち回りの後に、ルーウィンが瞳に強い光を宿して言った言葉。
「ぼくは、どうしたらいいんだろう」
フリッツはうわ言のように呟いた。