小説『不揃いな勇者たち』
作者:としよし()

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【第8章】
【第七話 帰郷】

 南大陸南部、フラン村。

 村はもうすぐ刈り入れや収穫が始まるところだった。村にたった一本しかないメインの通りを歩くと、見知った顔の村人たちが忙しそうに働いている。
 親しく付き合っていた何人かの村人が、久しぶりだな、どうしていたんだと畑から声をかける。フリッツは微かに笑い、手を振った。

 この空気、この匂い。藁と、家畜と、土の香り。
 胸いっぱいに吸い込んだら、一緒に入ってきた藁も吸ってしまったようで思わずむせ込んだ。それを見て、向こうのほうで農夫たちがからかうように笑う。しかし、それも別に嫌ではなかった。
 ここはこんなにも心地が良い場所だったのかと、フリッツは帰ってきた喜びを全身で感じていた。

 フリッツの足は、迷うことなくフランの冒険者ギルドへ向かった。
 実に半年ぶりだ。以前は畑仕事の助っ人などの依頼を求め、またはマルクスの使いのため足しげく通っていた場所だった。
 ガーナッシュのギルドには失望し、その他のギルドにはルーウィンが同行できないという理由であまり足を踏み入れることはなかった。フラン村のギルドを目の前にして、こんなにもギルドらしいギルドは他にないと、フリッツは小さな小屋を見上げた。

 一見すればただの民家。しかしそこには手作りの、フランギルドと書かれた看板が下がっている。
 昔からこの冒険者ギルドに顔を出していたフリッツではあったが、まさか自分が旅立つことになるとは考えていなかった。
 そして、こんな気持ちでここへ戻ってくるなどとは、思ってもみなかった。

 フリッツは質素なドアに手を掛け、深呼吸をする。ギィと軋む扉を押し開く。
 一階はそのまま進めば管理人の住居で、ギルドはその下だった。地下に続く薄暗い階段。少しの埃っぽさと、葉巻の煙。
 フリッツはゆっくりと降りていく。

「……おやおや。こんな時間に誰かと思ったら。フリッツちゃんじゃないか!」

 カウンター越しに声を上げたのは、ギルドの管理人の母親だった。
 フリッツは老婆と目が合うと微笑んだ。

「お久しぶりです。たった今帰ってきたんだ」
「体重が増えたのかい? 足音が全然違うから、気づきゃしなかったよ。前はトントンと軽やかなもんだったからね。さあさあ、座って座って」

 管理人の母親に促されるままに、フリッツはカウンター席に腰掛ける。

「出発の時はすまなかったねえ。息子に怒られちゃったよ。旅の勝手もわからないあたしみたいな素人が、色々と持たせるもんじゃないって」
「ヘルメットは申し訳ないと思いながら置いていっちゃったもんね。でも、あの時渡してくれた不眠症の薬はすごく役に立ったんだよ」

 フリッツは差し出されたホットミルクに口をつけた。その睡眠薬で盗賊団を解散させたことは、口にしなかった。
 カウンターの奥ののれんの向こうから、人のやってくる気配がした。その人物は、フリッツを視界に入れるなり声を上げる。

「フリッツ! フリッツじゃないか!」
「ご無沙汰してます、トーマスさん」

 フリッツはホットミルクを置き、管理人に会釈した。
 フランギルドの管理人トーマスは、顔を明るくして手放しに喜んだ。

「本当に久しぶりだなあ!! どうしたんだ、もう兄さんは見つかったのか?」

 その言葉を聞き、フリッツの表情は途端に凍りつく。
 それはトーマスにも、彼の母親にも、すぐにわかってしまった。
 フリッツは口を開くことができなかった。

 兄さんは見つかったのか。
 その問いに対する答えは「いいえ」だ。

 そうならそうと言って、この話は終わりにしてしまえばいい。
 そして今まで自分の見てきたもの、聞いたもの、感じたことを話せばいい。しかし、今のフリッツにはそのどちらもできなかった。

 結局都まで行っても兄さんは見つけられなかったんだと、嘘をつくことも出来ず。かといって、旅の話をする気分にもなれなかった。
 この道中に楽しい思い出など、あったのだろうかとさえ思える。
 今は何も思い出したくなかった。ただただ、後ろめたいだけだった。
 兄のことも、ルーウィンのことも。ラクトスとティアラのことさえも。

 カウンターを見つめたままのフリッツの肩に、トーマスは軽く手を置いた。
 フリッツは弾かれたように顔を上げる。そこには非難の色などなく、顔色の優れないフリッツを心配しているだけのトーマスと母親が居た。

「話したくないなら、話さなくていいさ。俺にはわかる。今のお前とあの頃のお前とじゃ、顔つきが全然違う。きっとおれには想像もつかないようなことや色んなものを外で見てきたんだな」

 フリッツ自身は気がついていなかったが、旅をする前と今とでは確かに顔つきも体つきも変わっていた。
 眉を下げ、困ったように笑っていただけのあの頃とは違う。頬は少し引き締まり、相変わらず身長は伸び悩んでいたが腕や脚は力強くなっていた。そしてその表情に陰りがあるのを、トーマスは見逃さなかった。

「母さん、ちょっとあっち行ってろ」
「はいはい、男同士の話ってやつかねえ。お邪魔虫は向こうへいくよ」

 母親はあっさりと承諾すると、ひょこひょこ歩いてのれんの向こうに姿を消した。
 トーマスはカウンターに身を預け、息を吐く。

「冒険者に憧れてこの村を飛び出して、結局この村が一番だって帰ってきたおれとはちょっと違うみたいだな。まあ、久しぶりに帰ってきたんだ。師匠のところでゆっくり休むがいいさ」
「……ありがとう」

 フリッツはカップの取っ手を握り締めた。相変わらず硬い表情のままのフリッツを見て、トーマスは葉巻に火をつけた。

「せっかくなんだ、もっと嬉しそうな顔しろよ。今年のフランの収穫高は上々だ。麦の実りも、果実の成りも好調。じきにうまいパンとうまい果実酒ができる。それを楽しみにゆっくり過ごすといい。これから農繁期だ、忙しくなるぞ。また若者が街へ出て行ったからな、収穫にお前の手を借りたいと思う家もあるだろう。さあ、これから忙しくなるな!」

 トーマスは葉巻を咥えながら、満足げに言った。それを聞いて、フリッツは小さく笑う。

「今ゆっくりしろって言ったばかりじゃないか。それにもう、ぼくも手伝うことになってるし」
「はは、本当だ」

 フリッツが少しでも笑ったのを見て、トーマスはほっとした様子だった。
 話し出しさえすればこっちのものだと言わんばかりに、トーマスはカウンターから身を乗り出してきた。

「修練所へは今から帰るんだろ?」
「うん。師匠のところよりも、先にここへ顔を出しちゃった」
「おお、そりゃ嬉しいねえ」

 フリッツは冷めてしまったカップに口をつける。トーマスは、逆さまにして水を切ってあったカップを手に取り拭き始めた。

「お前が居なくなったもんだから、あのじいさん、ちょくちょく村へ出てこざるをえなくなっただろ? やっぱり偏屈なじじぃだが、なかなかひょうきんだ」
「ひょうきんといえば聞こえはいいけど、そんなにかわいいものじゃないよ。師匠の恐ろしさがわからないなんて、トーマスさんもまだまだだね」
「こいつ、言うようになったな!」

 フリッツは笑った。こうして昔の顔なじみとたわいのない会話をしているのは、なんとも心安らぐものだった。
 トーマスの話す事柄はどれも些細なことばかりで、大した話ではなかった。あの家の爺さんが転んで足を悪くしたとか、あそこの家にはようやく赤ん坊ができただとか、林の奥に鈴なりに成っている苺を子供たちが取りに出かけて行くのだとか、そうした話ばかりだった。しかしそれらのどうでもいい話が、フリッツには心地よかった。

 当たり前の日常が、ようやくフリッツのもとに戻ってきた。そんなふうに感じた。
 そうして色々と話しているうちにフリッツの気持ちも軽くなってきた。
 カップの中身もなくなり、日が傾きかけたのを階段に落ちる光から読み取り、フリッツは腰を上げる。

「ごちそうさま。そろそろ行くね、あんまりゆっくりしてると陽が暮れちゃうから」

 名残惜しくもあったが、いつまでもここでゆっくりしてはいられない。厳密に言えばフリッツの帰る場所はこのフラン村ではなく、まだ少し先の半洞穴の庵、マルクスの修練所なのだから。
 フリッツは立ち上がって荷物を背負い、トーマスに軽く会釈して階段に足を掛けようと一歩踏み出す。

「フリッツ」

 不意にトーマスに呼び止められ、フリッツは振り返る。

「お前が無事に戻ってきてくれて、おれも母さんも嬉しいよ」

 トーマスの口から発せられたのは、暖かい歓迎の言葉だった。
 確かに自分は、無事に戻ってきた。
 しかし、この後ろめたさはどうしたらいいのだろう。
 フリッツは微笑んだ。だがその笑顔も、貼り付けたようなものだった。

「大袈裟だよ。でも、ありがとう」

 心配そうに見守るトーマスをそのままに、フリッツはギルドの階段を上がった。
 以前も立てかけてあった盾に、影か映る。埃っぽくなった盾には、フリッツの知らない男が映りこんでいた。それが自分だと気がつくまでに、少し時間がかかった。
 眉が下がり、自信がなさそうなのはあいかわらずだが、以前よりもくすんでいる印象だった。それは盾が錆びたせいなのか、フリッツ自身が変わってしまったせいなのかはわからない。

 フリッツはギルドの扉を開けた。
 午後の日差しが、暗さに慣れた目に痛く突き刺さった。












 陽が沈みそうな頃、フリッツはようやくマルクスの半洞穴に辿り着いた。

 フラン村までの足取りは、軽いものだった。馬車を盗賊に襲撃されたことを思い出すと気が塞いだが、やはりもとの生活に帰れることを考えればその足は自然と進んだのだ。
 しかしフラン村でギルドに立ち寄り、いざマルクスの元へ戻ろうとなると、途端に足が鉛にでもなったかのような錯覚に襲われた。

 自分の居場所は、あそこにしかない。自分はあの場所へ帰るしかない。それなのに、どうして身体は、こころはいうことを聞かないのか。
 フリッツは半洞穴を目前に、ごつごつした道の途中で立ち止まる。そして我知らず手を胸に持っていき、シャツを強く掴んだ。

 何も、師匠に全てを話すことはないのだ。
 なぜ自分が帰ってきたかも。自分がなにをしでかしたのかも。
 自分とアーサーの結末も。何もかも。

 マルクスは、フリッツが拒めば、きっとそれ以上深くは聞いてこないだろう。面白半分で何か言ってはくるだろうが、フリッツが心の底から嫌がることを、彼はしない。実の両親よりも長い付き合いであるマルクスは、フリッツの扱い方などとうの昔に心得ている。

 しかし、師匠はきっと、すぐに見抜いてしまうだろう。あの瞳で見られると、嘘がつけない。
 瞳の底もこころの奥も、すべて見透かされてしまう。
 それは恐ろしいことだ。

 しかしフリッツに選択肢はなかった。師匠は至らない自分を嫌というほどよく知っている。
 今更みっともない自分をさらけだしたところで、師匠ならわかってくれるだろう。少なくとも、今日明日で行く当てのない自分を追い出したりはしないはずだ。

 その考えが、どれほど醜く恥ずかしいものか、フリッツにはわかっていた。
 自分がもう剣を見るのも嫌だといったら、師匠はどう思うだろう。
 そんな考えがずっとフリッツの中を巡っていたが、もう日が暮れる。
 どうしようもなかった。


 半洞穴の中は、オレンジ色に照らされて明るかった。そこから見渡す景色は、懐かしいものだった。
 眼下に広がり、人を寄せ付けぬ深い森。木々が密に生い茂り、それらは黒い影の塊のようだ。はるか遠くまで続く森の向こうにうっすらと見える山脈。西日が眩しく正視はできないが、その凛とした佇まいはあの頃と変わらない。
 一日の大半が日陰である半洞穴は、湿気を含んだ、しかし涼やかな空気でフリッツを迎えた。

 小さいながらに実りのある畑と、そのあたりにほったらかされている鍬などの農耕具。かなり年季の入った選択竿。使い込まれた修練用のカカシ。薪置き場の薪はもう残り少ない。
 洞窟の奥には、小川と呼んでいいかも迷うほどの小さな流れ。粗末な納屋と、それよりもう一回りほどしか違わない掘っ立て小屋。
 半年前、フリッツのすべてはこの小さな世界の中で起こっていた。
 
 無条件に、ほっとした。帰ってきたのだと、こころから安堵した。
 その光景を見た瞬間、その時ばかりは臆病なフリッツもマルクスのことを忘れた。冷やされた半洞穴の空気を、胸いっぱいに吸い込む。
 自分は、本当に帰ってきた。
 
 しかし、すぐに気が重くなった。いつまでもここで突っ立っているわけにはいかない。
 マルクスに挨拶をしなければ。そして向かい合って、話さなければならないのだ。
 どんな顔をしたらいいのか、フリッツにはわからなかった。

 フリッツは、修練所という名の掘っ立て小屋の前に立ち尽くす。そしてその戸に手を書け、深呼吸した。だが、その手は動かない。視線は自分の手元を見つめたままだ。
 不意に、フリッツは背後から何かの気配を感じた。
 首を向けると、すぐそこに滝のような白髪を流した老人が立っている。

「うわっ!」

 あまりの至近距離に驚いたフリッツは声を上げた。

「久しぶりに戻ってきたと思えば、第一声がそれとは、まったく嘆かわしいものじゃ」
「し、師匠、いたんですか。居るなら声を掛けてくださいよ!」

 跳ね上がった心臓を押さえて、フリッツは目を見開いて非難の声を上げた。
 そこに立っていたのは、マルクス=アーノルドその人だった。
 相変わらず、真っ白で長く伸ばされた眉と口ひげと髪。曲がった腰と、右足を少し引きずっている。手には杖を持っており、一見すると魔法使いかと思うような風体だった。だが本人はれっきとした剣士であるから、世捨て人といったほうが正しい。

「ほれ、そんな出入り口でいつまでもぼーっと突っ立っているやつがあるか。とっとと開けんかい」

 マルクスに促され、納得がいかないながらも、フリッツは渋々戸を開けた。フリッツはしょっぱなから驚かされてしまったことで、完全にマルクスのペースに飲まれてしまった。

 戸を開けると、懐かしく、見慣れた修練所の一室が目に飛び込んできた。床はやや埃っぽく、窓もくすんでしまっている。自分がいなくなってからマルクスは掃除をさぼっていたのだと、すぐにわかった。
 しかし、マルクスほどの老人にたった一人で全てをぬかりなくこなせというのは酷な話だった。それに自分は腰の曲がったマルクスを一人残して旅に出たのだ、責められる立場ではないと、フリッツは思った。

 マルクスはひょこひょこと歩き、上座によっこいしょと腰を下ろす。フリッツも続いて入り、マルクスの正面に座る。
 フリッツは改めて、姿勢を正した。空気が、やや張り詰める。

 普段は砕けた会話を交わしているマルクスとフリッツだったが、これは合図だと気づいていた。
 本当の意味で、師と弟子として、向かい合う。形式的なものではあるが、時にはそれを重んじることも必要だ。マルクスとフリッツは、血の繋がった祖父と孫の関係ではないのだから。
 あくまでマルクスは師であり、フリッツはその弟子なのだ。

 フリッツは、背筋を伸ばし、口を開いた。

「師匠、ただいま戻りました。長らく留守にして、申し訳ありませんでした」

 フリッツは腰を折って頭を下げた。

「うむ、ご苦労じゃった」

 マルクスは一言、そう言った。フリッツはゆっくりと顔を上げる。
 するとさっそくマルクスは膝を崩し、姿勢を楽に崩して首を掻いていた。

「しかしその様子では剣の修繕は終わっておらんようだな」
「剣の修繕?」

 フリッツは思わずきょとんとする。マルクスは眉をひそめた。

「お前、さてはすっかり忘れておったな。確かにそれはわしからの餞(はなむけ)と言ったが、そもそもお前さんの剣を直すという務めはまだ終わっておらんのに」
「あれってまだぼくに頼んでたんですか? てっきりもういいのかと思って、今まで修理に出そうとすら思いませんでした」
「どこまで行ったかわからんが、腕のいい職人など道中いくらでもおっただろうに。まったく嘆かわしいわ」
「……すみません」

 フリッツは視線を下げた。
 確かに、グラッセルにまで行けば腕のいい職人はたくさんいただろう。フリッツがここを旅立ったのはアーサーを捜すためだったが、そもそもの始まりはルーウィンに同行するついでに、錆びた真剣を修繕することだったのだ。
 そんなことはすっかり忘れてしまっていたフリッツに、マルクスの言葉は耳に痛かった。
 思いのほか沈み込んでしまったフリッツを見て、マルクスはため息をついた。

「まあ、よい。荷物を片付けるのは明日にでもせい、もう陽が暮れるからな。なんだお前は、遠出しておったのに土産の一つも持って来ずに。まったく、気が利かんのう」
 
 マルクスが小言を言っているが、フリッツの耳には入っていなかった。
 フリッツは自分の膝を見つめていた。その上に置かれた拳を、強く握る。
 唇を噛み締めて、フリッツは顔を上げた。

「師匠」
「どうせお前のことだからギルドの方に先に顔を出してきたんだろう、この薄情者め。トーマスのやつもいつまでも独り身で、まったく、だからあれほど早く嫁を貰えと言っておったのに」

 話を切り出そうとするとマルクスが言葉を被せ、フリッツは拍子抜けした。それも大事な事ではなく、どうでもいいような話だ。
 しかし、再び口を開く。

「師匠、実は」
「お前がいなくなってから、週に一度はあんなところまで足を伸ばすことになってしもうた。まったく、腰の曲がったじじぃには難儀なことよ」

「師匠、あの」
「あの食堂の定食はなかなかだな。しかし一人娘は隣村へ嫁いで継ぐ者がおらんらしい。あの店のグラタンがもう食べられなくなると思うとなかなか寂しいものだな。なんとかならんかのう」

「えっと、師匠?」
「そうそう。ちょっと前に村で穀物庫が荒らされてな。わしは当然無関係じゃが、皆で交代しながら見張っておったらしい。そうしたらその犯人が、その裏手の家の飼っておるブタじゃったんだと! 飼い主はさんざんな目に遭ったらしいが」

「……師匠!」

 フリッツは思わず声を荒げて立ち上がった。
 古くなった窓ガラスが、揺れる。振動で、わずかに床が軋んだ。

 マルクスは、黙った。流れる白い眉の下から、フリッツの様子を窺っている。
 フリッツは口を引き結んだ。肩を、拳を、脚を、震わせた。
 それは、怒りだった。

「……なんで訊かないんですか」

 フリッツは嗤った。
 いや、口の端がおかしく歪んでいるだけだった。そして声を張り上げる。

「なんで問い質さないんですか。なんで出て行けって言わないんですか。そんなに一人が寂しいんですか!」

 突如吐き出された脈絡のない言葉が、小さな修練所に空回る。マルクスの眉は、ぴくりとも動かない。
 フリッツの呼吸は荒かった。そして奥歯を噛み締める。
 言っていることが滅茶苦茶だ。それは自分でもわかっている。
 マルクスはフリッツがここへ帰ってきた経緯を知らない。しかしそれを、尋ねようともしない。
 それが逆に、フリッツには苦しかった。根堀葉堀聞いてくれたほうが、どんなに楽だったか知れない。

「ぼくは」

 フリッツは、咽から震える声を絞り出す。目が、瞳孔が開く。
 おかしなことなど何もないのに、笑っているような、泣き出しそうな、どちらともわからない感情が溢れ出す。どういう顔をしたらいいかわからずに、頬の筋肉が引き吊る。
 愉快でもないのに、咽の奥から笑いが漏れそうだった。

「ぼくは、逃げ帰って来たんですよ? 何もかも放り出して! 逃げてきたんだ。あなたに教わったことを活かせず、それ以前に、あなたから何も学び取れずに!」

 マルクスは、まだ口を開かない。
 フリッツは下を向き、唇を噛んだ。

「ぼくは、師匠ならぼくを追い返さないって、わかってました。ぼくの気持ちをわかってくれる、察してくれるって。そんなの、おかしいじゃないですか。なんでその通りにするんですか、どうして怒ってくれないんですか! こんな、ぼくみたいな……」
「出て行けと、言って欲しかったのか?」

 マルクスの低い声が響いた。
 フリッツの言葉は、尻すぼみになって消えていく。

 自分の甘えた考えを殴り飛ばして欲しかった。
 立ち上がれないくらいボロボロになって、地面に膝をついて、そのまま倒れて。行く当てなんてどこにもなくて、優しく微笑みかける人も、救いの手を差し伸べる人も、誰もいない。そのまま腐って地面に溶けて吸われて、土になってしまいたい。
 そうすれば、こんなに醜く穢れた身で生きているより、ずっと何倍もましな物質になれる。

 しかし、自分はここへ帰ってきてしまった。

 浅ましい。そんなことは重々承知している。それでもフリッツの足は、ここへ来てしまった。
 ならばせめて、責めて欲しかった。どうして戻ってきた、何をしてきたんだと。
 しかし、マルクスはそうしない。それでは自分は、どうしたらいい? 己の身と心に積もった黒い塊をどうしたらいいのか、フリッツにはわからない。

 だからせめて、罵倒して欲しかった。
 そうしたら少しでも、罪を背負った気がして。
 許されるような気がして。

「おめおめと、死に損ないが今更ここへなにをしにきたというのだ」

 マルクスのその言葉に、フリッツは目を見開いた。
 否定の言葉。自分を、拒む言葉。

 フリッツは、まるで足元の床が抜けてしまったかのような錯覚に陥った。自ら望んだ、突き放されるための言葉。だがいざ耳にすると、フリッツの膨れ上がった感情はたちまち萎んだ。
 眉は心細く下がり、瞳は傷つく。顔が凍る。
 身体がまったく、動かなくなる。自分が一回りも二回りも、小さくなったような。
 そんなフリッツを見て、マルクスはため息をついた。

「ほら、お前はそんな顔をする。一丁前に、偉そうなことを言うもんじゃない」

 フリッツは膝から崩れ落ちた。膝を、掌を床につき、呆けたようにそうしていた。
 もはや怒りも苛立ちも消え去っていた。そこには己の卑小さを思い知った少年が一人、四つん這いになって床を見つめているだけだ。
 マルクスは、一歩踏み出す。

「お前は逃げ出してきた。そうしてここへ逃げ戻ってきたのは」

 マルクスは自ら膝をつく。フリッツは恐る恐る顔を上げる。床に崩れ落ちたフリッツと視線を合わせて、マルクスは口を開いた。

「……怖かったからじゃろ?」

 それは優しい、心から気遣うような声音だった。
 まるで大変な目に遭った子供に、怖かっただろう、もう大丈夫だと、祖父母が慰めるかのように。心配することなど、もう何もないというように。

 フリッツの目に、みるみるうちに涙が浮かぶ。
 そしてそれは頬と顎を伝う。

 なんて人間だ。
 自分はなんて醜い人間だ。
 フリッツの目から、涙が零れる。水滴が床に、落ちるかすかな音。

 怖いと思った。
 だから安心できる場所を求めて、無様な姿を晒してまで、転がるようにして南の果てへ、師匠の元へとやってきた。
 汚れたままの、フリッツの姿で。
 
 もうなにもわからなかった。
 何をすべきか。何を信じればいいのか。剣も人も自分も、なにもかも。
 忘れたかった。何もかもなかったことにして、元に戻したかった。

 それはなんと浅ましいことなのだろう。
 人の命を奪っておいて、無かったことに、元に戻したいだなんて。
 そうまでして自分が生きていく価値など、どこにもない。ありはしない。
 それでも、どんなに醜くても、浅ましくても、みっともなくても、フリッツは戻ってきた。

 生きたかった。今までのように。
 人畜無害なフリッツに戻りたかった。

 フリッツは泣いた。
 幼い頃のように。声を上げて。涙を流して。

 咽が潰れるほど、吼えた。

 





 しばし『泣き虫フリッツ』に立ち返った弟子を、マルクスはただ黙って見守っていた。




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