【第3章】
【第四話 聖水を求めて】
聖水は、街から少し離れた森の丘の泉にあるのだという。大聖堂の裏手に、泉へと続く細い参道があった。
しかしその入り口にはしっかりと僧兵が控えている。フリッツたちの侵入を予想したものではなく、基本の警備で門番が二人といったところだ。
「一部の尼しか知らない抜け道があります。こちらから参りましょう」
ルダは二人に目配せすると、少し離れた獣道から僧兵を避けて参道に入った。参道は緩い勾配になっており、泉に辿り着くまでにいい運動になりそうだった。その上り坂が始まるあたりに、質素で小さな小屋が立っている。ルダが不意に足を止めた。
「フリッツさん、ルーウィンさん。少しだけ寄り道をしてもいいでしょうか」
「これからって時に寄り道って、あんた大丈夫?」
ルーウィンの反応は最もだが、いささか彼女は言葉がきつい。ルダは申し訳なさそうに視線を下げた。
「教皇様の療養所、とは名ばかりの小屋があちらなのですが。教皇様のご様子を知っておきたいと。いえ、知っていただきたいと思いまして」
「いいわよ。ただし、手短にね」
「ありがとうございます」
ルーウィンが意外にも即答して、ルダは頭を深々と下げた。フリッツはほっとしたが、小屋に近づくと首をかしげた。
「教皇様がいるにしては、ちょっとおかしくない?」
ルダがそう言わなければ、ただの納屋だと思い通り過ぎてもおかしくないほど、それは粗末で小さな小屋だった。とても教皇のような地位のある人間がいる場所とは思えない。患っているというならなおさらだ。
「もう、見張りを置いても意味がないと思ったのでしょう。その代わり、警備は大聖堂周辺やティアラ様に集中しています。さあどうぞ、お入りになって」
病床の教皇に「看病する者」でなく、なぜ「見張り」を置くのか、フリッツには一瞬わからなかった。しかも「見張りを置いても意味がない」とは。しかし、ルダの言葉の意味はすぐにわかった。
簡素な小屋の中にはベッドほどしかなく、そこに老人が横たわっていた。いや、よく見ると老人ではない。衰弱しきってはいるが、まだ中年の、本来ならば働き盛りの頃の男性だった。
これではこの小屋から自力で脱出するなどということは出来ないだろう。起き上がることはおろか、寝返りを打つことすら困難な状況だ。こんなところにこんな容態で一人にされるくらいなら、いっそ警備の人間に見張られているほうがましかもしれなかった。
フリッツは黙り込み、ルーウィンは苦い顔をした。ルダは寝台に駆け寄り、ひざまずいて恭しく教皇の手をとった。小枝のようで、いまにも折れてしまいそうな腕だ。
「教皇様。お加減いかが?」
教皇はしばらく動かなかった。フリッツがまさか、と狼狽していると、教皇はゆっくりと薄い瞼を開けた。その視線は天井を彷徨い、二つ三つゆっくりと瞬きをした後ルダを捉えた。
「…ティ、アラ。もうにどと…思ってい、た」
ルダは息を呑み、フリッツとルーウィンは黙った。
「さいごに…まみえる、ことが…のも、…天の、思し召し。ほかの、みなは…」
教皇はもはや、ルダと自分の娘との違いも分からなくなっているのだ。その様子があまりにも痛々しいので、フリッツは立ち尽くし、ルーウィンは思わず目を背けた。
「みんな元気ですわ。なにも、変わりありません。ですから、教皇様はなにも心配なさらないで。ご自分のお体のことだけをお考えください」
「…いつも、すまない。昔から…お前には」
「そんなこと…!」
ルダは少し泣いているようだった。しばらくして、袖で涙を拭うと、気力をふりしぼって笑顔を作って見せた。頬は濡れているが、相手を慈しむような、なんとも言えず優しい微笑だ。しかしそこには切なさも入り混じっていた。
「これ以上喋られてはお身体に障ります。どうか、楽になさって。わたくしは、務めを果たしに参ります。力不足のわたくしをお許しください」
「…気を、つけて」
教皇はかすれた声をそのやせ細った喉から絞り出した。
「はい」
ルダは最後に少し力をこめて教皇の手を握ると、すっと立ち上がった。そしてフリッツとルーウィンに目配せをした。その目には強い使命感が宿っているように思えた。
「お待たせいたしました。では参りましょう」
三人は教皇の静養所をあとにした。教皇の容態を目の当たりにし、三人はしばらく黙り込んだ。病床とはいえ、この扱いは尋常でない。フリッツはルダに尋ねた。
「ルダ。もしかして、教皇様が身体を崩されたのって、まさか」
ティアラは唇を噛んだ。それは彼女の初めて見せる表情だった。
「ブルーアが毒を盛ったのです。毒に蝕まれ、教皇様はあのように身体を崩されました。これが彼の所業です。少し前には、見張りの者もつけられていました。教皇様が逃げ出さぬよう、事実を外に漏らさぬよう。少し前に面会にいらした時は、お辛そうでしたがここまでではありませんでした。満足な看病も、受けられずに、こんなところに一人ぼっちで…」
ルダの声は次第に途切れ途切れになった。再び、しばしの沈黙があった。フリッツはどうしたらいいのかわからず、ルーウィンは慰めるでもなくルダが落ち着くのを待っていた。しばらくして、ルダは自ら落ち着きを取り戻すと、少し腫れた目でフリッツとルーウィンに向き直った。
「わたくしが、ブルーアが教皇に選ばれることに危機感を持っている理由が、わかっていただけたでしょうか」
正直、今まではフリッツもルーウィンもこの依頼にそこまで乗り気ではなかった。パフェの清算をするために付き合おう程度に思っていたが、事態はなかなかに深刻だ。
この街の指導者を選ぶための神聖な儀式を、よそ者の自分たちの手によってぶち壊すという計画にはやはり無理があるように思える。しかしながら、目の前のルダを見ると、せめて彼女の無念を少しでも晴らしてやりたいと思えた。
「うん。できるだけのことは、やってみるよ」
ルダは二人の顔を見て、深々と頭を下げた。
参道を進むと、モンスター注意のたて看板があった。
「えっ、モンスターも出るの? 聖水があるからには、安全な道のりだと思ってたのに」
聖水への道のりは安全の確保された聖域だと考えていたフリッツは声を上げた。
「むしろ逆ですわ。この道中の魔物は、聖水への試練なのです。なかなか簡単に手に入らないからこそ、聖水と呼ばれる所以なのですわ」
ルダがそういい終わるとほぼ同時に、ナッチュウとモコバニーがぴょんぴょんぽんぽんと追いかけっこをしながら道を横切っていった。ルーウィンはその追いかけっこを眺めて言った。
「あれが試練ねえ。まあ、あんまりモンスターに警戒する必要はなさそうだわ」
参道はすこし荒れているように思えた。教会関係者や参拝者が足しげく通っているわけではないようだ。
「以前はもうすこし信仰者の方の行き来があったのですけれど。最近は本当の信仰がおざなりになっているような気がしてなりません」
「でも、街は相変わらず賑わっていたよ」
ルダの不安を軽くしようと言ったフリッツの一言だったが、逆効果だった。
「ブルーアが来てからというものの、パーリアの街はより賑やかになりました。商人が増えて物で溢れ、聖水やお守りや護符が飛ぶように売れている。実際、教会の財源は潤っています。彼を支持するものがいるのは、そのことが大きいのです。
しかしあの露店に溢れるモノたちは、まがいものばかりでした。人々の祈りも、自分がより大きな利益を得たいという欲望に変わってしまいました。自身のこれからの幸せや、周りの人の幸せを願うものではなくなってしまったのです」
ルダはため息をつく。
「でも結構楽しそうだったわよ。しっかり仕事してるのには変わりないんだし」
「そこなのです!」
ルダは珍しく声を荒げた。ルダはずいっとルーウィンに詰め寄る。
「やはりわたくしのこのような考えは、もう昔のものなのでしょうか。街のみなさんはなんの不満もなく、わたくしだけがあの方のやり方に異を唱えているだけなのではないかと、時々思ってしまうのです」
膨らんだ風船がしぼんだように、ルダは突然しゅんとなった。
「先ほどの若い商人さんもああ言っておられましたし」
ミチルの言葉は最もで、確かに彼の言うことも正しい。パーリアの街は実際上手くまわっている。しかしなにか、妙に浮かれているというか、変に毒々しい部分がないわけではなかった。
売られているものはお土産としてつい手にとってしまいそうになるが、それらにちゃんとしたご利益やありがたみがあるかと問われれば、それはないだろう。街角には僧兵の姿も目立っていた。
それに先ほどの教皇の姿を見て、あそこまで追い詰めたのが本当に神官ブルーアの指示であるならば、そんな人間にこの街を託していいのかと不安に思う人間もいるはずだ。
ルダはきちんと考えているのだ。自分の行動が私怨からではなく、この街の未来を、パーリア教を良い方向に持っていくための行動でありたいと考えている。ルダはなにやら考え込んでいるらしく、しばらく黙り込んでいた。フリッツとルーウィンも黙々と勾配の続く道を進んだ。
かなり歩いて、ついに丘の上の泉に辿り着いた。
辺りには緑が生い茂り、泉の周りだけは少しだけ白レンガで人の手が加えられていた。パーリアのシンボルが彫られている。ルダは泉に駆け寄るとひざまずき、二言三言祈りの言葉を口にして泉の水を手ですくった。そしてそれを口に運んだ。
「お二人もどうですか? きっと身体の疲れがとれますよ」
泉の底からはこぽこぽと銀色に煌く空気の泡が生まれている。その周りを舞い上がりまた沈んでいく砂の動き。青々とした水草も水を掬うのに邪魔にならない程度に生え、水の流れにひらめいている。
道中の女神の試練とやらはなかったが、聖水と云われる所以はフリッツにもなんとなくわかるような気がした。ここはとても静かで穏やかな空気が流れている。聖堂の厳かな空気とはまた違う、心洗われるような爽やかさがあった。
水は冷たく、口に含むと甘かった。心なしか、体力が回復したように思えた。
「おいしいね! なんだか疲れが取れたような気がするよ」
ルダは胸から小瓶を取り出すと泉の水を掬い入れた。ルーウィンが上から覗き込んでいるのを察して、ルダは微笑む。
「教皇様の分です。これを飲んでもらえば、少しは楽になるはずですわ」
ルダは聖水を小瓶に汲み終わるとほぼ同時に、ルーウィンが小さく、しかしするどく声を上げた。
「誰か来たわ! 隠れて!」
三人は素早く近くの茂みに身を隠した。参道のほうから談笑が聞こえてくる。法衣がだんだん近づいてくるのを見て、ただの参拝者でないのがわかった。フリッツは息を呑む。
(あれはブルーア派の僧です)
ルダが小声で言った。今回の依頼の標的だ。フリッツたちへの依頼は、彼らが聖水を汲むのを邪魔することだった。僧兵たちは大きな桶をいくつか手にしていた。
「しかし、なぜわたしたちがこんなことをしなければならないのだ」
「なに、ブルーア様が教皇になられるまで、あと少しの辛抱さ」
神官や僧兵、数はざっと十人だった。ルーウィンがフリッツに目配せする。考えていたより、少し多い。
ルーウィンが茂みから矢を放って、相手が動く前に倒せるのは三、四人。フリッツが木刀で相手を出来るのはせいぜい二人。残りはルーウィンの近距離戦とフリッツの未知数の部分にかかっている。
仮にこの場で上手くいき、この十人を倒せても、聖水がなかなか運ばれてこないことに気を揉み、次の使いが送り込まれるだろう。そうやって次々と湧いてくる使いを、次々と気絶させていかなければならない。これはなかなか手間のかかる作業かもしれなかった。
とにもかくにも、この第一団をやっつけてしまわなければ先はない。フリッツは身構えた。僧兵たちが聖水を汲み上げる時か、あるいは汲み終わった時が頃合だろう。フリッツはルーウィンの合図を待った。しかし、ルーウィンはすぐには動かなかった。様子を見ている。
聖水を汲み上げる僧兵とは別に、もう一方で何か別の動きをしていた。
(あれは何? 何を流そうとしているの?)
ルーウィンが呟いた。フリッツは目を凝らす。
(なに? ここからじゃよく見えないよ)
「お待ちなさい!!」
フリッツがよく見える位置に少し身体をずらした。すると茂みの向こうには、なぜか今さっきまで隣にいたはずのルダがいた。フリッツはわけがわからなくなって、ルーウィンの顔を見る。ルーウィンは首をがくりと落とし、頭を抱えていた。
「誰だ、お前」
「こいつじゃないのか、ティアラ様のお付の者が逃走していると手配があったじゃないか」
「というと、この方がルダ様か」
僧兵の前に飛び出したルダは憤っていた。完全に頭に血が上っている。いつの間にか、白い顔が真っ赤になっており、怒りにわなわなと身を震わせている。
「あなたがた、正気ですか? 神聖な泉にそのようなものを流すなどと! 僧侶の風上にも置けません」
「穢れを流せば、聖水は一時的に濁る。あなたたち側の人間に利用されてなにかと邪魔されないよう、予防線を張っただけだ。それにこれはただのモンスターの血だ、そんなに狼狽しなくても」
「ではそのモンスターの血は、どこから手に入れたのですか。こんなことをするために、あなたがたは無用な殺生を働いたというのですか?」
僧兵たちが聖水の確保と共に行っていた作業は、穢れを流す準備だった。この場合は、大量のモンスターの血だった。それをいち早く悟ったルダは、怒りのあまり飛び出していってしまったのだ。
「なんだこの女。頭おかしいのか? 聖水はともかく、モンスターなんてどうだっていいじゃないか」
「おかしくなどありません。おかしいのは、あなた方のほうです!」
ルダは声が上ずるほどに怒っていた。しかし彼女の意見は、次元の違う僧兵たちにはまったく受け入れられなかった。その上、逃げ出した教皇の娘のお付だということまで見抜かれてしまった。こうなってしまってはもう手の出しようがなかった。
少しでも動けばルダが出てきたことで警戒されている場所に、自分たちもいると知られてしまう。相手が一旦警戒を始めたら、たった二人で速攻を決めるのは不可能だ。ましてや今ルダは向こうの手の中にいる。人質になど使われればひとたまりもない。
ルダは抵抗していたが、ほどなく僧兵たちに捕まった。聖水も手に入れ、泉も穢した僧兵たちは、逃げ出したルダまで手土産にして参道を下っていく。しかし警戒は解いていなかった。何か少しでも変わったことがあれば、今にでも飛び掛っていきそうな様子だ。
泉から僧兵たちの姿が消え、フリッツとルーウィンは茂みから出た。
「ルダを追おう!」
フリッツは声を上げた。このままでは依頼がどうのよりも、ルダが危ない。
「待ちなさい」
「でもこのままじゃ」
焦るフリッツとは対照的に、ルーウィンは落ち着いていた。
「さっきのあいつら、ルダだとわかると言葉を直したやつもいたし、捕まえるときもそこまで手荒なやり方じゃなかった。教皇の娘の側近っていう肩書きは、伊達じゃないのかも。すぐにどうこうはされないでしょ。今あたしたちがやるべきことは、捕まってしまったルダに変わって、どう動くかということよ」
「…たしかにそうだね。ルーウィンの言うとおりだ」
こういうときの彼女の冷静さは、すぐに取り乱してしまうフリッツにとってかなりありがたかった。
「皮肉だけど、ルダが捕まったことで番兵の注目はあっちに向くし、警備も手薄になると思う」
「そうだね。でもどうするの?」
フリッツはルーウィンと顔を見合わせる。ルーウィンは少しの間難しい顔をして、あっと思いついたように顔を明るくした。
「このままやめちゃう?」
「前払いで料金貰っておいて? あの教皇様見ておいて?」
フリッツは白い目でルーウィンを見た。だよね、とルーウィンは深く息を吐く。どうやら本気ではなかったらしい。
「欲しくて貰ったんじゃないもの、押し付けられたの! あーもう、面倒くさいことになったわね」
「ルーウィン、これは」
フリッツは足元に転がるきらきらしたものを見つけた。小瓶だ。先ほどルダが教皇にといって、泉が穢れる前に採取したものだった。フリッツはそれを拾い上げる。
「とりあえず、教皇様のところに戻ろう。ルダが渡せなかった聖水を、教皇様に届けるんだ」
実はフリッツは教皇の容態がかなり気にかかっていた。
あんなに衰弱した人間を見たのは初めてで、衝撃のようなものが走ったのだった。どんなに地位がありどんなに徳を積んでいても、人間はこんなふうになってしまうことがあるのだと。同時に、年老いたマルクスを村外れの修練所に一人残してきたことが気がかりになったが、今はそれを考えている時ではない。
「そうね。教皇に聖水を飲ませるのが先決だわ」
ルーウィンも同意し、二人は教皇の療養している小屋へと急いだ。