【第3章】
【第五話 パーリア教の裏側】
聖水の効力は、退魔の力と体力の回復だ。教皇の体調の不具合が呪いによるものであれば、聖水だけでもかなりの回復が見込めたはずだった。しかし質のいい聖水が有名なこの街で、ブルーアがそのような手を使うはずもなく、ルダが言うように毒によって引き起こされた疾患ならば聖水だけでの回復は見込めなかった。しかし教皇の体力を少しは取り戻せるはずだ。
教皇の療養している小屋へたどり着いた二人は、さっそく教皇に聖水を飲ませた。身体を横に向けるのをフリッツが手伝い、少しずつ小瓶から飲ませてやる。教皇は意識がおぼろげな様子で声すら出さないものの、聖水を飲んだ後は心なしか少し楽になっているように思えた。今は定期的な寝息を立てて眠っており、苦しさに眉間に皴を寄せることもなくなっている。
「さてと。問題はこれからどうするかだけど」
ルーウィンは教皇の寝ているベッドの脇にある椅子を引き寄せ、足を組んで座った。フリッツは難しい顔をして考えている。
「掴ったルダを連れ戻しに行くのは難しいよね。でもそうしないことには、なにをしたらいいかわからないよ。ぼくたちには、この街やパーリア教会についての情報がなさすぎる。ルダを助けようにも、このまま教会に潜入するのはいくらなんでも無理があるからね」
「さすがにこんな状態の教皇をたたき起こして、っていうのは無理だしね。まあ、まだ日暮れまでに時間があるわ。情報がないなら集めればいいじゃない」
それはそうだ、とフリッツは納得する。情報がないのなら街に出向き、仕入れて来ればいいだけのことだ。しかしルダを助けるのに有効な情報が手に入るか否かの確証はなく、いささか不安ではある。
フリッツはちらっとルーウィンの顔色を窺った。機嫌は悪くなさそうだ。続けて教皇の方に視線を走らせる。ここは一つダメ元で言ってみようと、フリッツは口を開いた。
「あの、提案なんだけど、どちらかここに残らない?」
「はあ? 少しでも情報集めなきゃいけないときに、あんた何言ってるの」
フリッツはちらと教皇を見た。
「聖水で落ち着いたみたいだけど、やっぱりこのまま教皇様を一人きりにしておくのは心配で。なんならぼくが残る。悪いけど、ルーウィンは街に行ってきてもらえないかな」
「なに? 自分は足休めてあたしだけ動けっていうの?」
それは最もなセリフだった。もちろん、フリッツにそんなつもりは毛頭ないので、あわてて首を横に振る。
「そう言うなら、ぼくが行くからルーウィンはここに残ってくれないかな。どっちがいい?」
「…じゃあ、残る」
彼女にしては珍しくやや間があって、ルーウィンは答えた。その顔は不服そうだったが、仕方がないと割り切ってもいた。
「あたしが一人で街中うろうろするのは、また厄介なことになりそうだし。万が一ここに僧兵が来ても、少しならなんとかできるしね。ただし、遊んでちゃだめよ。役に立つ情報をがっつり持ってきなさい。ロクな話しか聞けなかったら承知しないからね」
「ありがとう、ルーウィン」
自分のわがままを受け入れ、託してくれたことに対して、フリッツは頑張らなければと思った。ルーウィンはため息をつく。
「こんなときに、あのツリ目はどこでなにやってんのかしら。いったい、なんのための魔法使いなんだか」
パーリア教会に忍び込み、ルダを奪還する。そのための情報収集だ。
教会のことは教会の関係者に聞くのが一番、なのだが、いかんせんそれは無理な話だった。大聖堂も周辺にはさらに厳重な警備が配置され、僧兵がうろうろしている。一人に話しかけようものなら、不審がってすぐに別の僧兵が駆けつけてくる。
やはり直接の関係者はだめだ、では間接的に教会のことをよく知っている人物を探そうと、フリッツは街へと急いだ。しかし街のそこここにも僧兵が控えている。自分はまだなにもしていないんだ、顔も割れてないんだと言い聞かせ、フリッツは手と足を同時に出しながら僧兵の前を通り過ぎる。これからしようとしていることがわかれば、ただでは済まないだろう。
フリッツは街の住人で、パーリア教会に詳しく、かつそれを教えてくれるという人物を探し当てた。フリッツはその人物の話を聞くことで、パーリアについての知識を着々と得ていた。
女神様の降臨、パーリア教の興り、パーリアの街の歴史。
前の教皇のときは今ほど栄えていなかったが、皆心は穏やかだったこと。前教皇が病に倒れ、ブルーアが実権を握るようになってから街の雰囲気が徐々に変わり始めたこと。
パーリアは勝利の女神でもあり、大聖堂に足しげく通って恋愛成就を祈り続けたこと。それが叶って、親の反対を押し切り見事ゴールインしたこと。彼女とおじいさんの馴れ初めが運命的であったこと。
フリッツはメモをとりながら熱心にふんふんと聞いていた。
「それでね、おじいさんったらあたしに言うんだよ。きみは女神パーリアよりも美しい、って。やあねえ、
パーリア様となんて比べられたらあたしゃ月とスッポンだよ」
「おばあちゃん、若い頃きれいだったんだねえ。いや、今もきれいだよ」
「やあねフリッツちゃんたら、そんなこと言っても何も出しゃしないよ」
「もうお茶もお菓子ももらってますよ」
「あら、そうだったね。もっとあげようかねえ、ほれ、名物パーリア饅頭」
「わあ、おいしそう! いただきます!」
笑顔で真っ白な蒸し饅頭を頬張りながら、フリッツはあれれ、と思い始めていた。
話は確実に別の方向へと転がっている。実際のところ、フリッツはおしゃべりなおばあちゃんにつかまっていただけだった。
老舗の土産物屋のおばあさんから話を聞いていたのだが、熱心に聴いているうちに教会の話からおばあさんの話へと移り変わってしまったのだ。おばあさんのおかげで、フリッツはパーリアの街やパーリア教にすっかり詳しくなり、ガイドの仕事もできそうなくらいにまでなった。
しかしこのままで帰ればルーウィンに酷い目に遭わされることは目に見えている。
彼女の言う有益な情報でない上に、こうしておばあさんの世間話につき合わされていると知られれば、それはもう大変な雷が落ちるだろう。挙句茶をすすり、饅頭をごちそうになっていると知られたらなおさらだ。
おばあさんの話は子供たちの結婚式にさしかかろうとしていた。しかしフリッツはつい話を聞いてしまうので、おばあさんも気がよくなって次々と話し始める。
「でねえ、孫が言うんだよ。おばあちゃんはどうしてそんなにお肌がきれいなのって。そりゃあ毎日パーリア様に祈って、聖水の泉から流れてきたおこぼれで顔を洗っているからねえ。嫌でもきれいになるってもんさ」
「たしかに。おばあちゃんの肌、ゆでたまごみたいだもんね」
「まあフリッツちゃんたら。あんたぁ、奥からあれ持ってきな! とっておきのやつ。なに? 店閉めるって? いいじゃないか、それじゃあ家に入ってもらうかねえ」
おばあさんは店の奥、居住スペースにいる家族の誰かに向かって大声を上げた。さすがにそろそろまずいかなあとフリッツが思い始める頃には、完全に「じゃあ、ぼくもう行きます」と言うタイミングを見失っていた。フリッツはすでに二時間以上、おばあさんと話し続けていた。街はそろそろ店じまいで、露天商は片付けをいそいそと始め、店の主人はシャッターを下ろしている。夕闇に一番星が輝きはじめて、フリッツは内心どうしようと焦っていた。
「フリッツさん」
呼ばれて顔を上げれば、そこには昼に会ったミチルがにこにこと立っていた。
「探しましたよ。こんなところにいたんですね。おばあさん、フリッツさん借りていきますよ」
「あら、フリッツちゃんの連れかい? あんたもどうだい、晩御飯うちで食べていかないかい?」
ミチルは笑顔のままで答えた。
「嬉しいですけど、先を急いでいるもので。お気持ちだけでけっこうです、ありがとうございます」
「そうかい、引き止めて悪かったねえ」
「では」
にこりと微笑むとミチルは座っていたフリッツの腕を掴んで、風のようにその場を立ち去った。
「助かったよ。ありがとう、ミチル」
フリッツは胸を撫で下ろしてミチルに礼を言った。
「フリッツさん、おじいさんおばあさん受け良さそうですもんね。ずっとお話してたでしょ。あの人、この界隈じゃ一度掴ったら長いこと相手を放さないことで有名なんですよ。でもあれだけ楽しそうにしているところは初めて見ました」
フリッツは同年代にはさっぱりだが、高齢者にはよくもてた。自覚はあったが、それでも扱いに慣れているわけではなく、話の終わりを切り出せないのが前々からの課題だったのだ。
「それで、知りたかったことはわかりましたか? わざわざ話しかけたからには、なにか情報が入用なんでしょう?」
フリッツは目を丸くした。ミチルは自分よりも年下なのに、よく観察しているし真意を見抜く。
「いや、わからなかったよ」
「フリッツさん、ひょっとしてお仕事ですか?」
「よくわかったね」
フリッツはまたも驚いた。
「だってなんだかそわそわしてるから。依頼を引き受けているんじゃありません?」
ミチルの勘の良さにフリッツは感心した。そんなフリッツの様子を見ていたミチルは、小首をかしげながらにこっと笑った。
「フリッツさん、ちょっと頼まれて欲しいことがあるんですが」
「依頼? だめだよ、今別件で手がいっぱいなんだ」
さすがに人の良いフリッツでも、いまルダのことを抱えているところにミチルのお願いは聞いてやれなかった。しかしミチルは粘る。
「依頼じゃないですよ、いたいけな子供のただの頼みごとです。商人として、ここにきたからにはなんとしてでも仕入れたい商品があるんですよ。でもぼくみたいな子供じゃ、取引している先に入ることも出来なくて。お願いします!」
「そう言われても」
顔の前で両手を合わせてお願いしてくるミチルに、フリッツは戸惑った。ミチルはちらとフリッツの顔色を窺い、あと一押しであることを悟る。
「では交換条件と行きましょう。フリッツさんの依頼に関して、有益な情報を提供します。それでどうですか? フリッツさんはパーリア教会について知りたいんですよね。それも公に知られているようなことじゃなく、教会関係者ならではの裏の事情が」
「なんでわかるの?」
ひょっとしてミチルは心が読めるか、今日一日のフリッツたちの行動を見ていたのではないかと思いそうになった。しかしミチルはそのまま言葉を続ける。
「ぼくが今お願いしていることは、フリッツさんの欲しい情報に直結する事柄だと思いますよ。それに教会の目の届かない範囲で、教会関係者に接触することができるかもしれない。どうですか? 騙されたと思って、話に乗ってみませんか?」
オレンジ色の残照が山並みの向こうに残る中、広がっていく夜の帳に星々が遠慮がちに瞬き始めた。フリッツはミチルに言われたように、一人で大聖堂の離れにある懺悔室の付近に立っていた。懺悔室が最近使われた様子はなく、窓口にはクモの巣が張っている。
フリッツはそわそわしはじめた。このままずっと突っ立っていては不審者と思われて通報されかねない。しかし幸いにも辺りに人影はなく、かといって誰かが現れる気配もないまま時間は刻々と過ぎていく。
(懺悔室の前でうろうろしてるだけでいいって言われたけど、本当かなあ)
フリッツが不安になり始めたその時、一人の男が暗闇から現れた。
「おい、兄ちゃん。そこのデコの広いあんちゃん」
「…ぼくですか」
フリッツは仕方なく認めた。やっと現れてくれて嬉しかったが、その一言で台無しになった。しかしここで返事をしておかなければ、話が先に進まない。
「こんな時間に懺悔室うろついてるってこたぁ、あんたもなんかやっちまったクチか」
暗い中で男の顔はよく見えないが、目玉がやけにぎょろぎょろしているような印象だった。いかにも怪しげな風貌で、フリッツは息を呑む。これはこのまま話を進めてもいいのだろうか、もしかしたら自分はとんでもないことに関わろうとしているのではないかという不安が胸をよぎった。
「赦されたいんだろ、んん?」
男は息が吹きかかるほどフリッツに顔を近づけた。息が葉巻のヤニ臭くて、フリッツは咽こみそうになるのを必死にこらえる。
「…許されたいです」
ミチルに言われたとおりの返事をした。男はにやりと笑う。金の差し歯がちらりと見えた。
「赦されるにはそれなりの対価が必要だ。持ち合わせはあるか?」
「少し、だけなら。三十万ラーバルくらい」
ミチルから渡されたものだった。本当に、ミチルの言うとおりの展開になったことをフリッツは内心驚いていた。男は金額を聞いて頷いた。
「その歳にしちゃ上出来だな。よしよし、付いて来い。お前の魂を、罪の意識から開放してやろう。女神様の名のもとにな」
男はフリッツを連れて、街のほうへと歩き出した。