【第3章】
【第九話 迷いと決断】
さっそく、フリッツたちは追われていた。
最初はこっそり逃げおおせる予定だったが、そうは問屋がおろさなかった。ティアラ様を生贄として儀式の会場に連れて行くと、僧兵に扮したフリッツとダニエルとでかけあった。しかし真面目な僧兵は、侵入者もいたようだし二人だけでは心もとない、自分とあと数人も連れて行こうと言って聞かなかった。
そうこうしているうちに誰か来てしまう、強行突破しようとフリッツが木刀を出したところで、他の僧兵たちが来てしまったのだ。お陰で言い訳が一切できなくなり、フリッツ、ルダ、ダニエルの三人は全力で逃走するに至った。
「教皇の娘が逃げたぞ!」
「待てー!」
待てと言われて大人しく待つ人間が世の中のどこにいるのだろう。口々に叫びながら僧兵たちはしぶとく三人を追ってくる。教会の敷地の勝手を知っているダニエルはルダの手を引いて走り、その後ろをフリッツが追いかける。これだけの人数を一気に相手にするのはフリッツには無理があった。とにもかくにも、今は逃げの一手しかない。
そんな状況で、ダニエルの行く手に法衣を着た一団が現れた。
挟み撃ちになる。新たな追っ手が来たのかと、フリッツは覚悟を決めて木刀を握った。
しかしその一団はフリッツら三人を通り抜け、その後ろの僧兵たちに襲い掛かった。手にはそれぞれモップやら箒やらを持っている。多勢対多勢の構図は、そのままその場で抗争を始めた。フリッツはあっけにとられて思わず足を止める。ダニエルとルダが嬉しそうに笑うのを見て、フリッツはますますわけがわからなくなった。
「なにやってんのよ。もっと上手く逃げなさいよ、ばかねえ」
「聖職者対聖職者。こりゃ凄惨な戦いだな」
聞き馴染んだ声がして、フリッツは顔を輝かせた。
「ルーウィン! ラクトス! 無事だったんだね」
「当ったり前よ。あんたこそ本物のルダを助け出すなんて、いい仕事したじゃない」
褒められてフリッツは反射的に頬が緩んだが、それが気に食わなかったルーウィンに間髪入れず殴られた。フリッツは不条理な暴力に頭をさすりながら、はっとする。
「そうだ、ルダは! じゃなくて、本物のティアラさんは?」
「ここにおります」
ルーウィンとラクトスの後ろから、ティアラはフリッツに向かって微笑んだ。
そしてフリッツに歩み寄る。
「申し遅れました、わたくしがティアラです。この度はわたくしに代わり囚われていたルダを助けていただき、ありがとうございました。父に聖水を飲ませ、一晩様子も見ていただけたようで、その感謝は言葉に表すことができません。今まで嘘をついていたこと、どうかお許しください」
ティアラ改まって、深々とお辞儀をした。それを見てフリッツも「いえいえそんな」と言いながら頭を下げる。ルダがおずおずと歩み出て、ティアラはルダに駆け寄って抱きしめた。
「ルダ、本当にありがとうございました。不安だったことでしょう。あなたにこんな役割を押し付けて、わたくしはなんて人でなしなのでしょう。ダニエル、あなたにも申し訳ないことをしました。恋人を危険なことに巻き込んでしまって、本当になんと言っていいか」
「とんでもない。ティアラ様がご無事でなによりです」
そのやりとりと同時進行で、投獄されていた現教皇派とブルーア派の戦いは決着がついていた。
今まで狭い牢獄で過ごしていた恨み辛みを爆発させ、見事に現教皇派の神官、僧侶たちの圧倒的な勝利だった。神官たちはのびてしまったブルーア派の僧兵を手際よく縛り上げ、近くの茂みに押し込んでいる。
そんな様子を見て、怒った聖職者は怖いな、とフリッツは恐怖を感じた。
「ティアラ様! さあ、やつらは片付きました。積年の恨みを晴らしましょう。我らどこまでもティアラ様に着いて行く所存です!」
年長の神官がそう言って、「おーっ!」と威勢のいい掛け声が上がる。確かにこの人数で儀式の会場に詰め掛ければ、人々は何事かと思って目を見張るだろう。そうなれば、今のパーリア教会がおかしくなっていることにも気が付き、ブルーアの教皇就任も流れる可能性が高い。ここにきて、儀式を阻止できるかもしれないという希望がフリッツの中に湧いてきた。
しかし、ティアラは首を横に振った。
「あなたがたは、どこかへ身を隠していてください。ここからはわたくし一人で参ります」
その言葉に真っ先に声を上げそうになったフリッツだったが、それよりも先に神官たちが反対した。
「とんでもない! わたくしたちもご一緒しますぞ。ティアラ様お一人に辛い目は見せられません」
「危険です! あなたは儀式の生贄の身なんですよ。自らブルーアに近づくなんて、わかっているのですか?」
「わたくしたちも一緒に! 教皇様の無念を晴らしたいのです!」
神官たちは口々に叫んだ。辺りはたちまちけたたましくなり、ルーウィンは苛々しはじめ、ラクトスは呆れた顔をしている。フリッツはこの事態に眉を八の字にして見ていた。
ティアラはすうっと大きく息を吸い込んだ。
「だ・め・だ、と言っているのが、わからないのですか!」
ティアラの大声に、神官たちはしんと静まり返った。皆が落ち着いたのを見て、ティアラは息を吐いた。
「あなたがたの胸の中には今、なにがありますか。どんな感情が渦巻いていますか」
ティアラは神官たち一人一人と目を合わせ、訴えかけた。神官たちは心の中を見透かされたようで、ぎくっとした後、皆一様にうなだれる。
「信じるものとは、信仰とは、争いを生むためのものではありません。そんなものになるくらいなら、ないほうがいいくらいだと、わたくしは思います。今のあなた方では、ブルーアに怒りと憎しみをぶつけてしまう。でも、それでは何の解決にもならないのです。わかっていただけますね」
その通りだった。
神官たちは、教皇やティアラへ狼藉や、自分たちへの仕打ちに対してブルーアを怒り、恨んでいる。このまま会場へ押しかけたところで、まともな抗議にならないのは目に見えていた。血を血で洗う、聖職者同士の紛争が目の前で起これば、信者たちはたちまち信じるものを見失ってしまう。
神官たちが沈痛な面持ちになっているのを見て、ティアラは固くした表情を少し緩めた。
「その感情がいけないというわけではないのです。父やわたくしのためを思ってくれてのことですもの、感謝します。しかしそれは、冷静な対話には必要のないものです。あなたがたに、その感情をまったく無視して対話することが出来ますか」
誰も何も言わなかった。今の彼らに、それは難しいことだ。母親に諭された子供のように、神官たちは大人しくなった。ティアラは微笑んだ。まるでこうなることが、最初からわかっていたかのようだった。 一人の神官が呟いた。
「転換期なのかもしれませんな。かつてのパーリアの教えは、もう人々に不必要なものなのかもしれません。何を選び取るかは人々の自由ですが、もし人々がブルーアのパーリア教を選んだとすれば」
「わたくしたちはどうしたらいいのでしょう」
若い僧侶が不安げな声で言った。若い神官はティアラを見つめ、その瞳は不安げに揺れている。ティアラは安心させるように微笑んだ。
「そんなの、決まっていますわ。難しく考える必要はないのです。あなたの神様を、ただ信じて祈ればいいのですわ。簡単なことでしょう? 各々の信じるものは、あなたがたが自由に選べばいいのです」
若い神官は恥ずかしさに顔を赤く染め、下を向いてしまった。ティアラはルダとダニエルに向き直った。
「二人も、皆さんと一緒に。今まで十分に手助けをしてもらいました。本当に、ありがとうございました」
「ティアラ様。ご無事で」
ルダがティアラの両手を握り、ティアラは頷いた。
フリッツやティアラたちが行ってしまったのを見届けて、若い僧侶は年長の神官に言った。
「わたしにはわかりません。たしかにパーリア様を信じておりますが、わたしにも生活があります。もしブルーアが教皇になりでもしたら、わたしとその家族はこの町から追放されてしまいます。そのことを考えるとわたしはブルーアを憎まずにはおれませんし、身を滅ばせばいいと思ってしまうのです」
その表情に良くない感情が浮かんでいるのを見て、神官は眉を動かす。若い僧侶は唇を尖らせた。
「ティアラ様のおっしゃることもわかります。しかし、やはり卑しいわたしたちの気持ちを無視した、結局ただのきれいごとなのでは」
「言うな、若造」
若い僧侶の言葉を、年老いた神官は静かに遮った。
「我々は確かに、パーリア様を信仰しておる。しかし他意はなくとも、そのことによって利害関係がでてきてしまうのは事実だ。だがあの方には、そのお考えが一切ない。それがあの方が純粋である所以で、あの方が囚われていた最大の理由なのだ」
若い僧侶は眉根を寄せ、首をかしげる。神官はそれを見て笑った。
「お前のようなひよっこには、まだまだ理解するには遠く及ばないようだな。歳をとると、あの純粋さが眩しくて仕方ないようになるぞ。純粋さ自体に力はない。一歩間違えば、行き過ぎた純粋さは人に疑念を持たせ、遠ざける要因になりかねない。しかし時に、人の心を揺さぶるほどの衝撃を与えることもある。いわば諸刃の剣なのだよ」
神官は息を深く吐くと、青く澄み渡った空を仰いだ。
参りましょうと言ったわりには、ティアラの足取りは重かった。それに気が付いたフリッツはティアラの様子を窺った。
その表情には迷いがある。とてもこれから、儀式の阻止をしに行こうとしている顔ではなかった。
「皆の前ではああ言いましたが。わたくしがやろうとしていることは正しいことなのでしょうか」
ティアラは唐突に呟いた。神官たちの前では説得に行くと宣言したものの、生まれた疑念はそう簡単には払えなかった。
もしかしたら、ブルーアのやり方が人々にとっての幸せなのだろうか?
ひょっとしたら、人々にはもう女神様は必要ないのではないだろうか?
そんな考えが首をもたげ、ティアラは不安になっていたのだ。
「聖堂にいた女の子、覚えてる?」
フリッツが言い、ティアラは顔を上げた。
「あの子はちゃんと知っていたよ、パーリアの女神の心を。みんながみんな、そうじゃない。大丈夫、ティアラみたいに本当に信仰を続けている人はほかにも絶対にいるはずだよ。
それに今は良くても、このままじゃいずれたくさんのひとが悲しむことになるかもしれない。ひとが悲しい気持ちになったり、不幸になったりするのは、やっぱりだめだと思うんだ」
それは拙い言葉だったが、フリッツの言いたいことはティアラに十分に伝わった。しかし、彼女の瞳の底の不安はまだ消えていない。
「でも情けないことに、わたくし一人では儀式の会場までは辿り着けません。あなたがたの力を借りるしかありません。そうなれば、またあなたがたを危険な目に遭わせてしまう…!」
フリッツは首を横に振った。
「パーリアをなんとかしたくてぼくらを頼った気持ちも、危険な目に会わせて悪かったって思う気持ちもわかるよ。でも、それで本当にいいの? ぼくたちを巻き込んで恨まれるくらいの覚悟がなきゃ、きみのやろうとしていることは叶わないんだよ」
フリッツからそう切り出したことで、ティアラのなかの躊躇いが小さく萎んでいった。今の状況に疑問を投げかけることが正しいのか、フリッツたちを巻き込んでもいいのか。その躊躇いに、フリッツの言葉は答えを弾き出した。
ティアラは目を見開き、フリッツは頭をかいた。
「なんか偉そうなこと言っちゃったよね。ごめん、ティアラの気持ちは考えたつもりなんだけど」
ティアラは微笑んだ。
「いいえ。そんなことありませんわ。そこまでわたくしのことを考えてくださって、とても嬉しいです」
「あんた、巻き込まれたくないならそういうこと言うのやめときゃいいのに」
ルーウィンの言うことは最もだった。そもそもフリッツは大立ち回りをすることには反対で、争いごとも避けて通りたかったはずだ。
「だってティアラがずっと閉じ込められていたことを考えてたら、その間すごく辛かっただろうなって思って。本当はまだ僧兵と戦ったり追いかけられるのは嫌だけど。でも力になれたらって、思ったんだ」
本当は大きなごたごたに巻き込まれたくはなかったが、ティアラの力になりたいと思う気持ちのほうがそれを上回った。それに誰かに頼りにされるというのは心地よく、自分なんかを頼りにしてくれるのなら、その期待に出来るだけ応えたいと、フリッツは思ってしまったのだ。
「聖水も神器もブルーアの手中にある。どうする雇い主?」
ラクトスが具体的な疑問を投げかけた。
「わたくしが大聖堂前に赴き、儀式を阻止します。交渉をしてみます」
「できるのか?」
「わかりません」
ティアラは即答した。しかしその返事にもう迷いはなかった。ラクトスは口の端を吊り上げる。
「で、仮にその儀式の邪魔が上手くいった後、この街はどうなる? ブルーアは教皇にはなれない。そうなったとき、この街の全てを受け止める覚悟が、あんたにはあるのか?」
今までとは角度の違った問いかけに、ティアラは黙った。
覚悟。それは重い響きの言葉だった。
フリッツたちを巻き込む覚悟。ブルーアに立ち向かう覚悟。ブルーアの教皇就任を阻止した後の、混乱を鎮める覚悟。ティアラはブルーアが教皇にならないよう動くことに精一杯だったが、ラクトスはその先のことまで考えていた。確かに、儀式を阻止した後の混乱はどうやっても避けられないだろう。
「十数年軟禁されっぱなしの何も知らないお嬢様が、この街を治める頭になれるのかって聞いてるんだ。あんたにそれがなきゃ、突然頭を無くした教会もこの街も混乱を招くことになる。それとも、他に誰か適任者でも?」
「ちょっとお、今やるって決まったんだから蒸し返さないでよ。このツリ目」
ラクトスは畳み掛け、ルーウィンが不満げに声を上げる。ティアラは押し黙った。
「考えてないのか」
図星だった。ラクトスはその様子を見て、息を吐いた。
「ブルーアは確かに、ある意味では悪かもしれない。でもな、悪を挫くことが本当に正義とは限らない。正しいことは、人によって違うからだ。あんたのしようとしていることは、本当に正しいのか?」
フリッツは、ティアラの今までやティアラの気持ちを考えて協力するという答えを出した。そして教会の在り方を正し、考えを清め、より良いパーリアの未来のための答えだった。それはいわば『理想』だった。
しかし、ラクトスは違った。彼はティアラの行動がもたらすであろう結果が、果たしてこの街にとって『正しい』のかを問うものだった。その『正しさ』は酷く曖昧で、それはおそらく言っているラクトス本人もわかっている。しかしラクトスの言うことも一理ある。今現在、パーリアの街はなにはともあれうまく回っている。
この流れを乱し、人々に混乱を招き、指導者の不在という事態を引き起こすことは、果たしてパーリアの街にとって吉なのか凶なのか。『現実』に向き合った問いかけだった。
「確かに、おっしゃられていることはご最もです。わたくしは目先のことばかりに夢中で、先のことを考えておりませんでした。甘かったのです。しかし、わたくしの一生を懸けて、この街を混乱には陥れないことを、わたくしは女神様に誓います」
ティアラは口を開いた。
「わたくしは、ひとを不幸に追いやるようなことが平気で出来るあの方が神官に相応しいとは思いません。そのような方に、この街を、パーリア教の未来をこのまま黙って託すことなど出来ません」
その声音は重く、力強いものだった。これが彼女の本音で、元々の行動のきっかけになるものだった。
「これは私怨なのかもしれません。あの方が不幸に追いやった人間であるわたくしたちは、もしかしたら例外なのかもしれません。あの方はご自分を支援してくれる方にはお優しく、そうでないものには厳しくなさるのかもしれません。それでも」
ティアラはラクトスを見据えた。その目にもう一切の迷いはなかった。
「あの方が父にした仕打ちが、正しいことであるとは認めません。例え今後、あの方がパーリアを繁栄に導き、その障害であった父を取り除く手段であったとしても、これは正当化できることではないはずです。
隣人に悪意を向け、不幸に貶める者を、わたくしはこの街の指導者とは認めません。わたくしは、なにか間違っているでしょうか」
「感情論だな。それはあんたの行動を正当化する理由にはならない」
ティアラはまっすぐな視線をラクトスに向けた。二人はしばらくそうしており、フリッツは二人の間には火花が散っているような錯覚に陥った。
ラクトスは腕を組んでじっとしていたが、次に口を開こうとして、口の端を吊り上げた。
言い返す言葉は持ち合わせているが、敢えてやめておく、といった仕草だった。
「確かに、目障りな対象にいちいち手を下してるようなやつには、大衆を幸福にする術なんて持ち合わせてないだろうな。あまりにも大雑把過ぎて、根拠のない理由だが」
ラクトスはにやりと笑った。
「熱の入った答弁に押された。今回はおれの負けだ、あんたに手を貸してやるよ」
そこまで聞いて、ティアラの顔は明るくなった。
「最初から協力するって言いなさいよ、回りくどいわね」
「うるせえな。危険が伴う依頼なんだ、中途半端な覚悟で頼まれちゃ困るんだよ」
ルーウィンの嫌味に、ラクトスは舌打ちした。そのやりとりを見て、ティアラは思わず小さく笑った。
「ティアラ」
フリッツはティアラを見つめた。ティアラは口元を引き締め、頷いた。
「わたくしを、儀式の行われる広場へと連れて行ってください」