【プロローグ】
緑の村、カヌレ。村から少し離れた高台に、小さな子供が寝転んでいた。
春の頃で、まだ草が若く柔らかい。勢いのある夏草では、痛くて到底身を任せることはできないだろう。
この季節限定の野山の優しさを、男の子は全身で感じていた。彼の頬には涙の後があり、目は真っ赤で、瞼もぱんぱんに腫らしている。お気に入りの場所で、誰にも見られないようにわんわん泣いて、そして慰めてもらおうと男の子はやってきたのだった。
そして今はぐったり疲れながらも、小さな身体を投げ出して風に吹かれていた。泣くということは、思っている以上に体力を使うものだ。大声で泣いていたら、そのままあくびが出てきてしまったほどだった。悲しかったはずなのにあくびがでてしまった自分を恥じ、そして少しばかばかしくなった。
柔らかい髪は若草と同じ色で、明るい萌黄色だった。色も感触も似ている、と男の子は思った。このままこの草原に溶けていったら、どうなるだろう。ぽかぽかとした陽気が暖かく、男の子は目をこすりながら、そんなとりとめのないことに思いを巡らせた。
「こんなところにいたのか。探したぞ。頭が見えないんで、踏んでしまうところだった」
快活な響きの声に、幼き日のフリッツ少年は瞼を開けた。踏まれてしまってはいけないと、眠たいながらに
えいっと身体を起こす。草原からむくりと現れた小さな弟を見て、アーサーは笑った。
歳が離れているせいもあるが、似ている兄弟だね、などとは一度たりとも言われたことがない。アーサーは黒々とした深緑の髪を春の風になびかせて、トンネル座りをしている弟の横に腰を下ろした。
「どうしたフリッツ、そんなにむくれて」
アーサーは頬を膨らませている弟に訊ねた。
「ぼくには剣士はむりだって。きょうもヒーラーだったんだ。みんなぼくにやらせるくせに、笑うんだもん」
「そんなことだろうと思った。治癒師も立派な役柄なんだけどなあ」
一見ただの遊戯に過ぎない子供たちのごっこ遊びでも、次第に立ち位置というものが決まってくるから恐ろしい。そしてフリッツはいつも立場が弱かった。治癒師ならまだしも、やられるモンスター役や、荷馬車を引くロバの役が回ってくることもある。小さなフリッツはそのことを日ごろから気に病んでおり、それをアーサーも知っていた。
自分がそういう扱いをされる役回りであるということは、幼いフリッツのなけなしの自尊心をいつも傷つけた。大人にとっては大したことのないことでも、当の子供本人にしてみれば不名誉極まりないことで、そうした毎日が続くことは酷く情けない気持ちになるのだ。
「ぼくが弱虫だからいけないのかなあ。剣士はにあわないって言われるんだ」
それを聞いて、アーサーはフリッツの顔を覗きこんで問いかけた。
「フリッツは弱虫なのかい?」
フリッツは顔がくしゃりと歪んで、少し泣きそうになる。
せっかく涙が引っ込んだのに、とフリッツは兄を少し恨めしく思った。
「ぼくはすぐに泣くから。それに苦手なものや怖いものがいっぱいある。木登りがへたくそでしょ、かけっこも最後でしょ。かみなりも怖いし、父さんが怒るのも怖い。おばけも怖い。ヘビもいやだし、台所にたまにでるあの名前を言いたくない虫もいやだ」
自分で言葉にしてみると、ますます情けなくなって鼻がぐずぐずいいはじめた。
しかし、聞いていたアーサーはつい笑ってしまった。
「あれは兄さんも怖いよ。すぐに退治しなきゃね、母さんが怖がるから」
フリッツは鼻をすすった。
「にんじんとピーマンも食べられないし」
「この前食べられるようになっただろう?」
「あれはむりやり。やっぱりきらい、食べたくない」
フリッツは兄が好きだったが、フリッツがまじめに言っているのに、それを笑うのは良くないことだといつも思っていた。恨みがましくアーサーを見て、頬を膨らませる。
「おお、怖い怖い。そうか、確かにフリッツには嫌いなものや怖いものがたくさんあるな」
アーサーはぶすくれているフリッツの小さな頭に手をやった。
「でもね、兄さんはフリッツみたいなやつこそ、勇者になる素質があると思うんだ」
フリッツは兄の手を頭に載せたまま、兄の顔を見返した。
兄さんは変なことを言う、と思った。
困惑した眼差しで首をかしげる。
「ぼくみたいな弱虫が?」
「ああ、そうだ」
アーサーは力強く頷いた。
「フリッツには苦手なものがたくさんある。それは困ったことだ。でもフリッツはそれだけ、その困ったことを乗り越えていかなきゃならない。本当に自分が怖いと思うものを、努力して乗り越える。
フリッツはたくさんの怖いものに何度も何度も打ち勝って、弱虫フリッツの殻を破って、いつか誰よりも強い大人になれるよ。
本物の勇気を持った、本物の勇者になるんだ」
怖いものがたくさんあるから、本物の勇者になれる。その発想は、フリッツにとって雷に打たれたような衝撃だった。思わず口元が緩んだが、そう簡単にはいかないと首を振る。
本物の勇者になるには、その怖いことをいくつも、何回だって乗り越えなければならないのだから。
それができなければ、結局自分は弱虫フリッツのままで、今と何一つ変わらない。
「でもぼく、たくさんの怖いものに勝てるかなあ」
思わず弱音を漏らすと、アーサーはすかさずフォローを入れた。
「勝てるよ、フリッツなら。もうにんじんもピーマンも食べられる」
「でもぼく、弱虫で、勇気もないし」
アーサーは首を横に振った。
「勇気は最初から誰もが持っているわけじゃない。立ち向かおうとした者にだけ、手にすることができる力なんだ」
フリッツの涙はいつの間にかひっこんでいた。
兄の言葉はいつも優しく、フリッツを勇気付けるものばかりだった。
それは決して気休めではなく、アーサー の本心を言っているのだとフリッツも心のどこかでわかっていた。両親に肯定的な言葉を一つもかけられたことのない子供にとって、兄の言葉は宝物であり、陽だまりのように優しかった。
アーサーができると言うと、本当にフリッツもできてしまうような気がするから不思議だった。
フリッツのお腹がぎゅるると鳴って、二人は顔を見合わせて笑った。繋いだ手を一定のリズムで揺らしながら、高台から村への獣道を戻っていった。
帰り道の途中、フリッツはアーサーに尋ねた。
「兄さんにもある? 怖いもの」
アーサーはああ言ってくれたが、フリッツには当のアーサーはまったく怖いものなどないように思えた。
アーサーは勇敢でたくましく、すでに村一番の剣の使い手と言われていた。カヌレ村に剣士の数はそう多くないが、それでもアーサーの強さはあまりにずば抜けていた。
自分の兄が何かを怖がるところを見たことがないことに、フリッツはその時初めて気がついたのだった。
「うーん、あんまりないかな」
案の定の回答をし、アーサーは苦笑した。自分でも先ほどの話の信憑性がないと思ったのだろう。
フリッツは冗談で、アーサーの腿を軽くぽかぽかと叩いた。最初は笑いながらそれを適当に受け止めていたアーサーだったが、思い出したように声を上げた。
「でも、一つだけある」
アーサーはフリッツの頭を撫でて微笑んだ。
臆病な自分が、たくさん怖いもののある自分が、その分だけ勇者になる可能性を秘めている。
人より多く立ち向かい、人より多くの勇気を搾り出す。例えそれがどんなにささいでちっぽけなことでも、他の人は怖いと思わないようなことでも。
そうやって自分を何度も何度も乗り越えて、今日の自分を越えていく。明日の自分に繋げていく。
あの頃より、少しは強くなれただろうか。
あの言葉をくれた兄は、いまどこにいるのだろうか。
【第4章】
【第一話 享楽の都市】
峠を越えた一行は、享楽の都市クーヘンバームへと辿り着いた。
南大陸随一の都市と呼ばれるだけのことはある。
ラクトス曰く、腹の足しにもならない無意味なオブジェの数にその街の豊かさが現れるらしい。そのどれもが斬新なデザインが凝らされているが、美しいといえるものは数少ない。常人の理解を超える逸品も珍しくはなかった。
歩道と馬車道が段差で区切られ整備されている。しかしめったに馬車は通らないため、道は人々でごったがえしていた。
にぎやかな露店が立ち並ぶ通り、目がちかちかするような色で飾られた香の焚かれる怪しげな店、常に若者の歓声と罵倒で溢れている一角。華やかというよりは派手で、街はどこか毒々しい活気に溢れている。
しかし、ここでは多くの人々が外の世界を忘れることが出来るのもまた事実だった。
行き来している人間はほとんどが武器を持った者で、冒険者か流れ者の類だった。剣や斧や槍を持つ者が多く、決して鍬や鎌などの農耕具を肩にひっかけて歩いている者はいない。
一行は昼過ぎにこの街に到着し、今はそれぞれわけのわからないオブジェのひとつに腰掛けている。
「じっくり見ていきたいんだけどね」
「どうして? この前パーリアに行った時はあんなにはしゃいでたのに」
ルーウィンの呟きをフリッツが拾った。
フリッツはこの街の空気が合わないらしく、できるだけ早く立ち去りたいとこっそり思っていた。すでに喧騒で頭がくらくらしている。
ルーウィンはため息をついた。
「だってほら。ここ冒険者多いし。騒ぎになったらめんどくさいかなって」
「あ、なるほどね」
フリッツは納得する。ルーウィンは、かの有名なギルド潰しのダンテのたったひとりの弟子だ。
ダンテとルーウィンがはぐれてしまった今、彼によってさんざんな目に合った冒険者達は腹いせにルーウィンを狙ってくる。
「これだけ人間がゴミみたいにいりゃ、誰もお前なんてわからないんじゃないか。自意識過剰もいいところだぞ」
「よくわからないけど、悪口を言われたのは確かね」
ラクトスの言葉に、ルーウィンが口元をひくつかせる。フリッツは二人をなだめにかかった。
「まあまあ。今日はさっさと宿を取って休もうよ。ここ最近ずっと野宿続きだったもんね」
「賛成です。まだ今日はお昼までしか歩いてないのに、もう足がパンパンです」
疲れにむくんだ足をさすりながらティアラも同意した。
このうるさい場所から離れ、ゆっくり身体を休ませたいということには全員の意見が一致した。重い腰を上げ、座り心地の悪かった謎のオブジェに別れを告げ、一行は宿屋へと向かう。
通りはなにかあったのかと思うくらいごった返していた。大して広くもない道に、多くの人が溢れているのだ。キャルーメルは道が広い割りに人間が少なく、パーリアは人が多い通りは限られていたため一本中に入れば進むのは楽だったが、この街はどこにでも人がいた。一行ははぐれてしまわないように塊になって人ごみを進んだ。
しかし、その中でふとティアラが足を止めた。
「どうしたのティアラ?」
立ち止まってしまったティアラにフリッツは尋ねる。ティアラの視線は一点に注がれていた。
「あれは」
ティアラが指したのは、店の中の、一つのゲーム機だった。モールたちがたくさんの穴の中から出たり入ったりしている。それを若者がハンマーで殴りつけるというゲームだ。
モールは地中に棲む、比較的大人しいモンスターだ。畑を荒らすこともあり、躍起になって追い払う農夫もいる。一般人でも簡単に捕まえてしまえるほど、温厚なモンスターだった。
地面の保護色として土色をしており、体は短い体毛に覆われている。地中ではものを見る必要がないので、目は退化していて無い。その代わり、尖った鼻の左右に三本ずつ長い髭がアンテナのように生えているのだ。長い身体を地上に覗かせており、地中に隠れた部分を目にした者はいまだいないという。
モールにハンマーがヒットすると、若者達は嬉しそうに笑う。狭い箱の中で、モールたちは懸命に逃げ回っていた。普通はモールをかたどった人形を叩くのだが、ここのものは本物だ。そのぶん爽快感はあるだろうが、ティアラにはいただけない光景だった。
ルーウィンが呟いた。
「モール叩きね」
「最近増えてるんだってな、本物のモールを使うのが。あんなの叩いて喜んで、ずいぶんとまあ暇人だな」
もっと他にすることないのかよと、ラクトスは踵を返した。
「とっとと行くぞ。こんな金使う場所に長居は無用。おい穀潰し、あいつらは」
ラクトスがちょっと目を離した隙に、フリッツとティアラの姿がなくなった。ルーウィンも「さあ」と首を傾げる。
「この人ごみじゃ探すの難しいわよ。どうする?」
ルーウィンが肩をすくめてみせた時だった。
「あなたがた、恥ずかしくありませんの?」
ゲーム機が置かれた一角で、突然少女の声が上がった。ルーウィンとラクトスの嫌な予感は的中した。
この涼やかな声音は、間違いなく同行している治癒師のものだ。
「案外すぐ見つかったわね。このまま見ないフリしようかしら」
ルーウィンが片手を頭に添えてため息をついた。そうしている間にも、人ごみの向こうで状況はますますこじれているようだ。ティアラが声を荒げることなど滅多にない。だからこそ余計にタチが悪い。
ティアラはこの旅始まって以来の剣幕で怒っていた。先日ラクトスと言い合っていた時以上の憤りだ。
「なんだあ、この女」
ゲームで盛り上がっていた若者たちもまた、気分を害されて不機嫌だった。
「どけよ。ゲームの邪魔だ。金は払ってるんだ、文句ないだろ」
「大有りです!」
ティアラは白い頬を赤くして、頭から湯気でも出そうな勢いだった。
彼女が熱弁している間に、フリッツはこっそりとゲームの裏側にもぐりこんでいた。幸運なことに(無用心なことに)鍵はついたままだ。カチャリと回して、そっと小さな扉を開ける。暗闇の中で、モールたちがうごめく気配が感じられた。突然光が差し込んできたことに驚いたようだが、フリッツが顔を覗かせると静かになった。
「おいで。そこの非常口から出るんだ」
モールたちはその意味を理解したのかそうでないかは定かでなかったが、速やかにゲーム機の暗闇から出てきた。フリッツが逃げるべき方向へ指をさすと、モールたちは滞りなく進んで行った。ティアラが人を引きつけておいてくれるので、咎める者は居ない。
フリッツがそっと非常口を開けると、モールたちは列をなして滑りこんだ。全部が外に出たのを見届けると、フリッツは自分も店外へと出た。そこは舗装されておらず、芝生が敷いてあるだけなのでモールたちは容易に逃げることが出来そうだった。
「じゃあね。元気でやるんだよ」
フリッツは微笑んで手を振った。モールたちは一声鳴くと、すぐさま穴を掘って地中深く潜った。フリッツはその穴の上に軽く土を被せてカモフラージュした。
「これでもう安心」
フリッツはほっと胸を撫で下ろす。背後に迫る人影にはまるで気がついていなかった。
「なにがですかな?」
フリッツの後ろには仁王立ちするゲーム店の支配人が立ちはだかっていた。
「まったく! 近頃の若者ときたら!」
「それはこちらのセリフです。なんです、あの非人道的なものは! よくもあのようなむごいものを考えられましたね」
フリッツとティアラは場所を変え、ゲーム屋の支配人室に呼び出されていた。商売を邪魔されて憤る店長に、ティアラも負けてはいなかった。支配人の机を挟んで両者とも立ち上がり、叫ぶような調子で口論がなされている。
「別にいいだろう、たかが雑魚モンスターの一匹や二匹」
「二匹じゃありません! 全部で八匹です!」
「…数の話じゃないよ」
フリッツは小さな声で呟いた。
ティアラがあまりに必死になって訴えてくるので、自分も思うところがあり、ついつい手を貸してしまった。いや、加担してしまったといったほうが正しい。モールたちは確かに可哀想だったが、ティアラの熱の入った訴えに言い負かされてしまったのかもしれなかった。
モールたちをゲームの的にするのは確かに非人道的だが、自分たちが営業妨害をしてしまったことも、また事実である。フリッツは時計をちらりと見た。もうかなりの時間こうして言い合っている。これ以上長引いたらまたルーウィンとラクトスに怒られてしまう。そんな事情と自分の非も認めたこともあって、フリッツは謝罪の言葉を切り出した。
「すみません、ぼくたちも悪かったです」
支配人はフリッツの言葉を無視した。
「そうそう、きみたちには弁償してもらわなければならないね」
「べ、弁償!」
鍵をこじ開けたわけでも、何かを壊したわけでもない。思い当たることがなく、フリッツは思わず声を上げた。支配人は内ポケットから葉巻を取り出して咥えた。
「新しいモールを発注するための金だよ。そうだな、ざっと十万ラーバルかな」
「…そんな」
せっかくこんなに嫌な思いをしてまでモールを逃がしたというのに、これでは元の木阿弥だ。また別のモールが捕らわれてしまう。そして財布係のラクトスが怒るのを想像して、フリッツの顔から血の気が引いた。
「そんなもへったくれもない。いいか、金を返すまでこの街からは出られないと思え。ゲートに人相書きを回したからな」
「まあ! それではまるで犯罪者のようではありません?」
ティアラが思い切り机を叩きつけて抗議した。
支配人はティアラの相手をするのは疲れたらしく、指をパチンと鳴らして警備の男を呼び出した。フリッツは言われるままに、ティアラは抗いながら支配人室からつまみ出された。