小説『アイドル 北条明良(4) ?告白?』
作者:ラベンダー()

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久美さんがソファーに座っている僕に、赤ワインの入ったグラスを差し出した。

「今日は本当に来てくれてうれしいわ。」

僕はどぎまぎしながらグラスを受け取り、言った。

「…どうしても…会いたくて…」

そう答えて、僕はぐっとワインを飲みほしてしまった。

「ワインはそんな飲み方をするものじゃないわ。」
「…ごめんなさい…」

僕は怒られたかと思い、グラスをあわてて前にあるテーブルに置いた。

「んふ…可愛い…」

久美さんが僕に顔を寄せてきた。僕はどきどきしながら、久美さんの方を見た。

「…あの…」

と、口を開いた途端、僕は久美さんに唇を奪われそうになって、あわてて身を引いてしまった。

……

「カーーーーーット!」

その声に、僕はすぐに立ちあがって「ごめんなさい!」と頭を下げた。
離れてみていたマネージャーが「あちゃー」というように、額に手のひらを乗せている。

「明良(あきら)君…頼むよ…これで3度目じゃないか。」

監督が呆れている。久美さんを見ると、久美さんはくすくすと笑っていた。

「こんなに嫌われたの、初めてだわ。」

そう笑いながら言った。

「いえ!…違います!嫌ったんじゃなくて…」
「あなたって本当にうぶなのね。」

僕は顔がかーーーっと赤くなるのを感じた。

「10分休憩しよう!…明良君、次は頼むよ!」
「ごめんなさい!」

僕はあちこちに頭を下げて謝った。

……

自動販売機の前の椅子に座り、僕は頭を抱えていた。

「無理だよ…こんなの…」

そう呟くと、マネージャーが隣に座った。

「明良君、大丈夫かい?ちょっとは気が落ち着いたかい?」

そう言って、僕の顔を覗き込んだ。マネージャーはどんな時も僕を怒ったりしない。それだけに迷惑をかけたくないんだが、今回だけはどうしても体が勝手に拒否反応を起こしてしまう。

「すいません…僕…本当にキスシーンなんて…初めてで…」
「それはわかっているけど…ねぇ、おかしなことを聞くけど、君ファーストキスはいつ?」
「えっ!?」

僕はマネージャーの顔を見た。

「…ファーストキス…は…その…まだです。」
「えっ!?まだなのかい!?」

マネージャーが思わずそう叫んだ。僕は慌てて人差し指を口にあてた。

「そ、そんな大声出さないでください!」
「ごめん…悪かった…。そうとわかっていたら、この仕事受けなかったのに…ごめんよ。」

そう言うマネージャーに首を振った時、女優の野田久美さんがニコニコしながら近寄ってきた。

「ちょっといいかしら、明良君。」

僕とマネージャーは椅子から跳ねるように立ち上がった。

「はい!」

異口同音にそう言うと、久美さんはくすくすと笑いながら、

「緊張しないでいいわ。座って。」

と椅子を指差した。マネージャーが立ったまま「この度は本当にご迷惑をおかけして…」と言うと、久美さんは首を振って「気にしないで」と言った。そして、

「ごめんなさい、マネージャーさん。ちょっと明良君と2人でお話したいんだけど…いい?」

と、言った。一緒に立っていた僕はその場に固まってしまった。

「あっ!はっはい!」

マネージャーは慌てて立ち去って行った。僕は独り残されて冷や汗が脇から流れ落ちるのを感じた。
野田久美さんは、最近はあまり活躍されていないとはいえ、大女優だ。怒らせると撮影中でもどこかへ行ってしまうという噂を聞いたことがある。それだけに、監督もスタッフもマネージャーも、もちろん僕も気を使って撮影をしていた。…なのに…僕は…。

「今、聞くともなしに聞いちゃったんだけど…あなた…本当にキスが初めてなの?」
「…はい。」
「もう!ちゃんと座って。」

僕は慌てて久美さんの横に座った。

「だったら、可哀相だったわね。こんな年の離れたおばさんとキスシーンだなんて…」
「そっそんなことはないです。…姉が生きていたら…久美さんと同い年だし…その…」
「まぁ…」

久美さんは少し眉を曇らせた。

「お姉さんが、いたの…。」
「はい。」
「私と同い年ということは、10歳くらい違うことになるわね。」
「は、はぁ…」
「じゃぁ、大丈夫よ!」
「?」

僕は意味がわからず、久美さんの顔を見た。

「あなたのファーストキスは、たぶんお姉さんよ。」
「!?」

僕はまた自分の顔が紅潮するのがわかった。

「それかお母さんね。」
「えっ…そ、そうでしょうか。」
「きっとそうよ。私だって、小さい時に、妹とチューなんてやってたわよ。」
「え、い、妹さん?」
「そう。小さいころってそんなものよ。きっとあなたも、お姉さんとキスしているはずだわ。」

姉と血がつながっていないことを知らない久美さんは、自信ありげにそう言うが…。僕は本当にそうだろうか…と思った。…でも、そうであれば…正直…嬉しいが…。

「だからね。私は2度目か、3度目。安心してキスシーンしなさい。大丈夫、軽く唇を重ねるだけだから。」

僕はその言葉だけで、もう目の前がチカチカしている。

「あ、もう時間みたいよ。行きましょう。」
「はっはい!」

僕は、久美さんに手を取られ、スタジオに向かった。

……

夜?

メッセンジャーの向こうで、相澤先輩がニヤニヤしていた。

「で?キスシーン、どうだったんだよ。」
「…なんとか…無事に…というか…なんと言うか…」

僕の顔はまだ火照っている。

「でも、明良さ…。お酒大丈夫なの?」
「え?」
「ワイン飲んだのか?」
「飲んでないですよ。監督に説明して、ジュースにしてもらいました。」
「だよな…。びっくりした…。お前、特異体質って言ってたから。」

実は僕はアルコールを少し(検査では10cc以上)でも飲むと、極度のアルコール中毒を起こしてしまう。あまり他に例がないそうだが、実の父が持っていた体質だった。アルコールの他にも眠気をさそう風邪薬も同じだった。もちろん睡眠薬なんて飲んだら、普通の人が大量に飲んだのと同じで、冗談抜きで永眠してしまう。

「…先輩も大丈夫ですか?」
「うん?睡眠障害か?」
「ええ。」

先輩は逆に睡眠薬が効かないのだそうだ。元々睡眠障害を持っていて、いろんな薬を飲むそうだが、寝たい時に寝られないのに、寝たらだめな時に寝てしまうそうで、とても悩んでいた。

「薬…まだ効かないんですか。」
「ハルシオンって奴をもらっているけど、最近は効かないなぁ…。」

その薬の名前を聞いて、ぎくりとした。父親の死の原因になった薬の名だ。
その薬が効かないなんて…。

「睡眠薬の中でも結構きついやつですよね。僕が飲んだら死にますよ。」
「俺たち、たして2で割れたらいいのにな。」

僕はその先輩の言葉で笑った。

「でもいいなぁ…野田久美とキスシーンか…」
「先輩は年上好みでしたね。」
「うん。僕がやりたかったなぁ…。」
「こんな端役、先輩には回って来ませんよ。」

僕は今回限りの出演者だった。その場のシナリオしかもらっていないので、正直、どういうドラマなのか全く知らない。

「でも、ネットとかでは話題になっているじゃない。北条明良が出るって。」
「こういう時だけです。僕の名前を載せてもらうのは。」

そう…先輩とのユニット以外では、僕は最近、全く仕事がない状態だった。だからマネージャーがこの話を持ってきてくれたのだ。

「俺にも来ないかなぁ…役者の仕事。」
「きっと来ますよ。…あ、そう言えば、久美さんが僕たちのことを知っていて、一度先輩に会いたいって言ってましたよ。」
「えっ!?本当か!?」
「ええ。」

その時、先輩の後ろに何かの影が映った。

「わっ姉貴!」
「えっ!?」

先輩の姉、百合さんだ。

「おい!思春期の男の部屋に勝手に入ってくるなって、言ってる…」

百合さんにマイクを取り上げられて、先輩の声が切れた。

「何が思春期よ。もう21でしょ。」

百合さんのハスキーな声が聞こえた。僕はこの百合さんの声が好きだった。

「こっこんばんは。百合さん。」
「こんばんは、明良君。…ねぇ…この子をあまり刺激しないでね。うぶな明良君とは違うから、何をするかわからないのよ。」

先輩が隣で、何か抗議している。

「野田久美さんとキスシーンだったんですってね。あの人…気をつけなさいよ。」
「え?」
「最近、若い男の子を食って回ってるらしいから。」
「く、食って…ですか。」
「お酒を大量に飲ませるらしいわよ。明良君だったら死んじゃうから、誘われても行っちゃだめよ。」
「そう…なんですか。…わかりました。」
「明良君て、本当にいい子だわ?。」

僕は百合さんにそう言われて、真っ赤になった。…案外僕も、年上が好みなのかもしれない。

……

翌日、仕事がない僕は、家でぼんやりとテレビを見ていた。
すると携帯が鳴った。開いてみると、なんと久美さんからだった。
『お酒を大量に飲ませるらしいわよ…』
そんな百合さんの言葉が蘇った。僕は電話を取った。

「はい?」
「明良君?」
「はっはい!昨日はありがとうございました!」
「いーえ。うまくいって良かったわ。」
「はい。すいません。」

久美さんがくすくすと笑っている。

「実は昨日の話だけど、相澤君、紹介してほしいのよ。」

僕は自分じゃなくてほっとした反面、ちょっとがっかりした。

「先輩ですか。いい…と思いますけど…。」
「私の携帯の番号を教えてあげて欲しいの。いつでもかけてきてって伝えておいて。」
「わかりました。」
「お願いね。」

久美さんは電話を切った。百合さんの怒り顔が目に浮かんだが、久美さんの頼みを断れるわけがない。僕は先輩に電話をかけてみた。

……

その夜、先輩の携帯から電話があった。

「今から行ってくるよ。」

先輩の声がはずんでいる。

「どこに?」
「久美さんとデートだよ。」
「えっ!?早い展開ですね。」

僕がそう言うと、先輩は嬉しそうにした。

「姉貴には内緒だからな。」
「えっ…あっ…はっはい。」
「じゃ、行ってきまーす!」

先輩の弾んだ声とは逆に、僕は何かぞっとするものを感じてしまった。

……

夜中にパソコンから、電話のベルがなった。
メッセンジャーが開いている。
僕は慌てて起きて、パソコンの画面を見た。先輩からだった。

「先輩!」

電話を取ると、先輩の何か怒ったような顔が映った。

「…夜中にごめんな。」

先輩の様子がおかしい。飲みすぎたのだろうか。

「いえ…いいですけど…どうしたんですか?」
「…あの、久美さんて人…姉貴の言ってた通りだったよ。」
「えっ!?」

先輩は少し頭をかかえた。

「飲みすぎたんですか?」
「それもあるけど…たぶん、睡眠薬を入れられた…。」
「睡眠薬!?ハルシオンですか?」
「わからない…。どっちにしろ俺はもう効かなくなっているから、ふらふらしているだけで済んだけど…。実は久美さんのマンションまで行ったんだ。」
「ええっ!?」
「酔った勢いで、誘われるまま行っちゃったんだけど…それがさ、家でまたビールを出されて、それを飲んだんだよ。そしたら頭がふらふらしだして…。」
「……」
「ビールにしてはふらふらするな…と思ったんだ。そしたら、久美さんがちょっとベッドで休んだら?って言うんだよ。」
「…ベッドに寝たんですか?」
「うん。久美さんがどうするかみたくて、寝たふりをしたんだ。そしたら何をされたと思う?」
「…聞きたくないような気がしますが…どうぞ。」
「…服を勝手に脱がされてさ、ジーパンに手をかけられた時、俺、思わずその手を掴んだんだ。」
「!!」

あまりの刺激的な話に、僕は目に手を当てた。

「久美さんびっくりしてさ。とっさに「効かなかったの?」って言ったんだ。」
「……」
「…それで…「俺に睡眠薬は効かないよ。」って言ったら、急に怒りだして、今すぐ部屋を出て行けって言われてさ。」
「…やっぱり聞きたくなかったです。」
「まぁ、そう言うなよ。…あー…まだ頭がふらふらする。」

先輩は頭を抱えていた。

「お酒を飲んだ上に睡眠薬を飲まされて、その程度で済んでる先輩がすごいですよ。僕なら本当に死んでいます。」
「そうだと思って電話したんだ。お前も気をつけろよ。」
「…すいません。先輩しんどいのに…」
「いや…じゃぁ寝るわ。おやすみ。」
「おやすみなさい。先輩、朝起きたら、携帯でもいいので、電話もらえますか?」
「うん、わかった。」

メッセンジャーが切れた。

……

僕は自分のベッドの上で、久美さんのことを思い出していた。
とても優しい人だった。

『じゃぁ、大丈夫よ。あなたのファーストキスは、たぶんお姉さんよ。」

そう言って、僕の緊張をほぐしてくれた。そんな人が…。
女性には2つの顔があると言うけど…正直、信じたくなかった。…でも、先輩がそんな嘘をつくわけないだろう。
…僕は寝ることにした。

……

翌日の昼、携帯がなった。
先輩かと思い、携帯を開くと百合さんだった。

「…おはよう…ございます。」
「明良君。励に久美さんの電話を教えたのね。」
「!」

昨夜のことがばれたのだと思った。

「…はい…すいません…その…」
「すいませんじゃ、すまないことになったのよ!」
「え?」
「テレビつけてる?」
「いえ」
「つけて!」

今までにない百合さんの剣幕に、僕はあわててテレビをつけた。みると、先輩と久美さんの写真が並べられた画面が映った。

「!?」

僕は音量を上げてみた。

『相澤君が無理やり家に入り込んだそうですよ。で、乱暴されかけたとか。』
『でも…いきなり訴訟準備なんて、あまりにもヒステリックな…』
「訴訟!?」

僕は顔から血の気がひくのを感じた。

「明良君。…今、励はとにかく家から出さないようにはしているけど、あなたも出ないで。」
「!?…僕もですか?」
「きっと、あなたレポーターに取り囲まれるわ。絶対に出ちゃダメよ。」
「…百合さん…」

百合さんは怒ってはいるものの、僕のことを心配して電話をくれたのだ。

「…ごめんなさい。」

そう言うと、一方的に電話が切られた。

……

その夕方、先輩は謹慎処分となった。事実が明らかになっていないにも関わらずだ。先輩は弁明も何もしていないのだった。
何度も携帯を鳴らしてみたが、電源が切られていた。もしかすると取り上げられているのかもしれない。
パソコンの電源も切ったままらしく、メッセンジャーもずっとオフラインになっていた。

(…僕のせいだ…)

そう思った。僕の軽はずみな行動で、先輩は久美さんの罠にかかってしまった。
きっと先輩は何もできないことに悔しい思いをしているだろう。

先輩が弁明しないのは、元々睡眠障害で睡眠薬を常用している先輩が、久美さんに睡眠薬を入れられたと言っても信じてもらえないからだ。

「…睡眠薬を飲まされたことさえ証明できれば…。」

僕はふとあることを思い付いた。先輩の身の潔白を証明できる方法…。あるいは久美さんに訴訟をやめてもらう方法…。…だが、それは僕にとっては危険な方法だった。

(…やるしかないか…)

僕は携帯を開いた。

……

1時間後?

僕は久美さんのマンションのベルを鳴らした。

「いらっしゃい!」

久美さんが上機嫌で僕を迎え入れてくれた。
僕は、久美さんに「いますぐ会いたい」と言って、電話をした。
久美さんは驚いたようだったが「じゃぁ、セカンドマンションに来て。」と言った。たぶん、先輩もそこに連れて行かれたのだろう。
住所と部屋番号を教えてもらった僕は、久美さんの言うとおり、変装して訪れた。

「明良君が来てくれるなんて…うれしいわ。」
「…どうしても…会いたくて…」

…僕はどこかで聞いたような言葉を言った。ちょっと舌を噛みそうになった。

「まぁ…」

久美さんは頬を染めた。

「ソファーに座ってて。飲み物持ってくるから。」
「すいません。」

僕は言われるままにソファーに座った。
しばらくして、久美さんは赤ワインの入ったグラスを持ってきた。

(…ドラマと同じだ…)

僕は思った。久美さんは意識してそうしているのか、ドラマの時と同じように、優雅な手つきでグラスを差し出した。

「本当に嬉しいわ。はい、乾杯。」

そう言って、久美さんがグラスを軽く重ねた。ここちよい音がした。
僕はグラスに口をつけかけたが、すぐに離した。まだ飲むわけには行かなかった。

「あの…」
「なぁに?」

ちょっと眉をしかめて久美さんが言った。

「…先輩を訴えたのはどうしてですか?」
「ああ…あれね。…だって、本当に乱暴されそうになったんだもの…。ああいうことは黙っていると、他にも被害者が出るでしょう?だから私が訴えて、こらしめてやらないと。」
「…なるほど…。」

僕はそう言って、またグラスに口をつけようとしてやめた。久美さんがまた眉を少しひそめた。その表情を見て、僕はこのグラスの中に睡眠薬が入っていることを確信した。

「男の人…嫌いなんですか?」
「え?」

久美さんは驚いた顔で僕を見た。

「…どうして…そんなことを聞くの?」
「僕が先輩から何も聞いていないとでも?」
「!…」
「先輩のビールに睡眠薬を入れていたそうですね。」

僕はそう言って、グラスを前のテーブルに置いた。手の震えを悟られそうだからだ。

「それを聞いて…母と同じなんじゃないかと思ったんです。」
「?」
「…僕の母親は…僕が8歳の時に死んだんですが…その前に、僕が生まれてからすぐに父親が死んでいるんです。」

久美さんは黙って僕の話を聞いてくれていた。

「…実は母が父を殺したんです。」
「!?」
「母は毎日のように父から暴力を受けていました。でも自身で体が弱いため、離婚して働くことはできなかった。ずっと耐えるうち、母は睡眠薬を父親の食事に少しだけ入れるようになった…。」

久美さんの目が見開かれた。

「ほんの少量の睡眠薬でも、父親は朝までぐっすりと寝たんだそうです。…その時、母は知ったんです。父が睡眠薬が効きすぎる体質だと。」

僕もその体質を受け継いでいる。だがそのことは言わなかった。

「保険は大分前からかけていました。そして僕が生まれてから実行に移しました。母は、父の食事に普通の人が飲む程度の睡眠薬を入れた…。父は…眠ったまま死にました。ある意味楽な死に方だったのかもしれません。警察にも調べられましたが、睡眠薬が常人には適量だったので事故として済まされました。」
「……」
「久美さんも、もしかして母と同じような経験をしたのではないかと僕は思いました。…男性から暴力か何かを。」

久美さんの体が震えている。持っているグラスの赤ワインが揺らいでいるのがわかった。

「昨日先輩がとっさにあなたの手首をつかんだと言っていました。先輩にとっては大した力じゃないつもりでも、あなたはかなりの恐怖を感じた…そうではありませんか?」

久美さんは唇を噛んで、黙っている。

「それと同時に…先輩に睡眠薬を飲ませたことを公にされることを恐れた…。だから訴訟という極端な形で先輩の口を封じる必要があった。…先輩に睡眠薬を飲ませたのは、母と同じように、男性への恐怖から久美さん自身の癖になってしまっていたのではないでしょうか?」

久美さんの目から涙がこぼれた。

「その通りよ。」

久美さんはグラスを置いて言った。

「ずっと小さいころから父親から暴力を受けてたの。高校を卒業して独り暮らしを始めるまでね。…ずっと男の人が怖かった。でも人並みに恋はしてしまうの。そのたびに、私はぐっすり眠らない程度の睡眠薬を飲み物に入れて、男の人がふらふらした状態、つまり、暴力を振るえない状態にしてからベッドに入ってた。そうすることで男の人を征服しているつもりになっていたのかもしれないわね…。」

僕はふと自分のワイングラスを見た。ここにはワインと睡眠薬が入っている。少量だとしても僕にとっては爆弾のようなものだ。…このグラスはどうだろう?昨日久美さんは先輩で失敗をしている。母と同じ心境ならば少量ではないかもしれない。僕は久美さんがエスカレートして、いつか母のように人を殺してしまうかもしれないことを恐れていた。
久美さんが、思いついたように僕の顔を見た。

「…でも…どうして生まれてすぐのあなたが、お母さんのことを知ったの?」
「僕がこの話を聞いたのは、姉が死んでからでした。姉の葬式の時に、母の友人が教えてくれたんです。その友人が母に睡眠薬をあげたんだそうです。」
「!!」
「まさか、そんな使い方をされると思っていなかったそうだったんですが、父の死に疑問を感じ、母に尋ねたそうです。そして正直に母は告白したんですが、そのことがばれると、その友人も殺人を助けたことになるかもしれない。それでずっと黙っていてくれました。」
「でも、あなたに言うことないじゃない…。そんな…母親が父親を殺したなんて…話…」
「きっと母の友人は、成長した僕が父親に似ているのを見て、自分の胸だけに収めておくことができなくなったんでしょう。父に懺悔する気持ちで言ってくれたのかもしれない…。」

久美さんは涙ぐんでいる。本当は優しい人なんだ…と思った。僕は久美さんに尋ねた。

「…先輩への訴訟をやめてもらえますか?」
「!?」

久美さんは、ためらった表情を見せた。

「訴訟をやめて、先輩のグラスに睡眠薬を入れたことを公表してもらえますか?」
「…それはできないわ。」
「…じゃぁ…今後、睡眠薬を使わないという約束は?」

久美さんは強く頭を振った。

「絶対にできない!」

それを聞いた僕は、そっと自分のグラスを取り上げた。

「…では、ちょっと荒っぽい方法を使わねばなりませんね。」
「!?…何?」
「僕がこれを飲めば、先輩の疑いを晴らせる…。」
「!?…」
「そして…今回限りであなたがこんなことをやめることを願って…」

僕は、グラスを少し持ち上げた。

「…乾杯…」

僕はワインを飲みほした。

「!?明良君!…もしかして…あなた…」

ワインの苦みが喉を通って行った。
…一瞬何ともないように思えて、空のグラスをテーブルに置いた。だがすぐに、頭がぐらりと揺れるような衝動があり、そのうちに体中にしびれのようなものが走った。僕は両腕を抱くようにしてソファーに崩れた。

「明良君!」

走馬灯のように今までの記憶が蘇った。動悸が激しくなり、息苦しくなった。これはまだアルコール中毒の症状だ…と僕は冷静に思った。早く睡眠薬が効いてくれれば、この苦しさも終わるのに…と思った。僕はソファーに手を突こうとしたが、そのまま床に倒れ込んだ。息苦しさに意識がなくなりかけた時、僕は先輩の声を聞いた。

(…先輩…?)

ふと意識が戻り、体を抱き起こされるような浮遊感を感じた。

「明良!しっかりしろ!明良!」

先輩の顔がぼんやりと見え、先輩の手が僕の頬に触れたのを感じた。

「…先輩…」

それ以上言えないまま、僕は暗い闇の中にひきずられていった。

……

僕は川辺に座っていた。

「また来たの。」

姉の声がした。僕は振り返った。

「姉さん。」

姉も僕の隣に座った。

「姉さんに、聞きたいことがあってさ。」
「なぁに?」
「僕、姉さんとキス…したことある?」
「ま、何を言い出すのかしら、この子ったら。」
「ねぇ…ある?」

姉は「んふふ」と笑った。

「あるわよ。小さい時にね。」
「ほんと!?」

僕は嬉しかった。久美さんの言う通りだった。

「ねぇ…もう戻りなさい。」
「戻っても…仕方ないよ。」
「そんなことはないでしょう?」

僕は姉の顔を見た。

「あなたは、もう独りじゃないわ。あなたを大事に思っている人がいるじゃない。」
「…先輩のこと?」
「他にもよ。ファンの人達…あなたが助けた人たち…助けてくれる人たち…たくさんよ。」
「…姉さん。」
「これからも助けたり助けられたりして、あなたは生きていかなきゃならないの。そして人並みに恋して…人並みに家族を持って…。お母さんと私が叶わなかった分、あなたが幸せになってくれなきゃならないの。わかった?」

僕はためらったが、しばらく考えてから「うん」と答えた。

「でも、その前に…」
「?なあに?」

僕は意を決して言った。

「…お別れに…キスして…」
「ええ?」
「キスしてくれたら、帰る。」
「困った子ね…」

僕はじっと待った。姉は涙に潤んだ目で、僕に向いた。

「いいわよ。」

僕は目を見開いた。

「本当に?」
「ええ。…でも、もう戻って来ちゃだめよ。」
「…わかった…」

姉が目を閉じて、僕に顔を向けた。僕は姉の背に手を乗せて、ゆっくりと顔を近づけた。そして言った。

「姉さん…ずっと…愛してる…」

言って、唇を重ねた。姉の温もりが僕に伝わった。

……

僕は目を覚ました。

ふと右手に温もりを感じた。
見ると、先輩が僕の手を握ったまま、ベッドに伏せて寝ていた。
僕はそっとその手を抜いて、先輩の頭に手を滑らせた。
左手側には百合さんが寝ている。部屋の奥にあるソファーにはマネージャーが座ったまま眠っていた。

「明良?」

先輩の頭が動いたのを感じて、僕は先輩に顔を向けた。

「先輩…おはようございます…」
「明良!…」

先輩の顔がくしゃくしゃになって、僕の手を抱いた。その先輩の声に、百合さんとマネージャーが飛び起きたのがわかった。

「明良君!!」

マネージャーはこけそうになりながら、ベッドに走り寄ってきている。

「よかった…。」

百合さんが左手を握ってくれた。

「私…看護婦さん呼んできます!」

マネージャーがそう言って、部屋を飛び出して行った。

「誰がここまでやれって頼んだんだよ!勝手なことするな!」

先輩が怒鳴った。百合さんが「そんなこと言わないの!」と先輩に怒った。

「だって…こいつ…こいつ…いつか本当に…死んじまう…。」

先輩はそう言って、僕の手を握ったまま、ベッドに伏せて泣いてしまった。それを聞いた百合さんも涙ぐんでくれている。

「ごめんなさい…先輩。」

僕はそう言って、先輩の手を握り返した。

……

僕が助かった経緯は百合さんが教えてくれた。

久美さんに訴えられたあの朝、携帯電話もパソコンも電源を切って、先輩はずっと独りで悩んでいたらしい。そして夜になって、僕に電話するという約束をふと思い出したそうだ。あわてて僕の携帯に電話してみたが、電源を切っているようなメッセージが返ってきた(たぶん僕が、久美さんのマンションに向かうため、携帯の電源を切った直後だと思う。)ため、パソコンの電源をつけて連絡してくれようとした。でも僕がオフラインになっているのを見た時、先輩にぞっとするような悪い予感が走ったんだそうだ。

先輩は部屋から飛び出して、突然百合さんに車を出せと泣きながら言った。まるで気が狂ったようだったと百合さんは笑った。
何もわからず百合さんは車を出し、先輩に指示される通りに走った。その間に先輩は119番にも電話をかけ、久美さんのマンションの住所を言ったという。実際に僕が久美さんのところへいったかどうかわからないのに、先輩には迷った様子はなかったのだそうだ。

マンションにつくと、救急車はまだだったという。ただサイレンは聞こえていたので、すぐ来ることを確信し、久美さんの部屋へ向かった。
そして僕の名前を何度も叫びながらドアを叩くと、泣きながら久美さんが玄関を開けたのだそうだ。その様子ですべてを悟り、先輩は靴のままで部屋に飛び込んだ。

そして、すぐに救急隊員が到着し、素早い処置が施されたおかげで、僕は奇跡的に助かったのだという。

もし、あと数分でも遅れていたら、助からなかったそうだ。パニックを起こしながらも、冷静な判断をした先輩のおかげで、僕は一命を取り留めた。
…結局、僕は先輩を助けるつもりで、助けられたのだ。

……

久美さんは、先輩への訴訟をやめた。そして先輩の疑いもはらしてくれた。警察沙汰にもなりかけたが僕が止めた。殺すつもりはなかったのだし、先輩の疑いが晴れればよかった。そして久美さんが、二度と同じことを繰り返さなければそれでいい。

……

「明良ー。」

先輩が病室に入ってきた。

「先輩。」
「起きてて、しんどくないのか?」
「大丈夫です。それよりも、体がかなりなまってるような気がします。」
「そうだな…。退院したらさ、リハビリがてらに一緒に踊ろう。」
「はい!」

僕は早くその日が来ればいいと思った。

「明良くーん。」

今度は百合さんが入ってきた。

「あらやだ。励、いたの。」
「俺がいたら嫌なのか?」
「二人っきりになりたかったのに。」

僕はそれを聞いて、顔が赤くなった。

「もおっ!本当に明良君って可愛いわねー!」
「あんまり明良を刺激するなよ!こいつ心臓止まっちまうぞ!」

先輩の言葉に「いや、そこまでは」と笑いながら言った。
すると、マネージャーが入ってきた。

「あ、いつもお世話になっています。」

マネージャーは先輩達に挨拶をした。両手に果物かごをいくつも持っていた。
百合さんが「大丈夫ですか?」とかごを取った。マネージャーが「すいません、すいません。」とあたふたしている。先輩も慌ててかごを持つのを手伝っていた。

「えーと…土井さんと由希さんからがこれで、後は相澤君の事務所からね。それからこれが久美さんから。」
「事務所で分けてください。僕こんなに食べられないですから。」
「それはだめだよ。君のために贈ってくれたんだから。」
「はぁ…。」

僕は本当に困ってしまった。

「それから、事務所に花束が入りきらないくらいに来てるよ。もう枯れ始めてるのもあるけど、持ってくるわけにはいかないしなぁ。」
「ありがとうございますと、ブログに書いといてもらえますか?」
「わかったよ。でも早く元気な顔を見せてあげるのが一番じゃないかな。」

マネージャーのその言葉に、先輩達がうなずいている。

僕は姉に「独りじゃない」と言われたことを思い出した。そして姉の唇の温もりを思い出し、そっと唇に指を当てた。
…僕が姉に最後に言った言葉…姉にちゃんと聞こえていたのだろうか…。でも、もうそれを確かめることはないだろう。
戻らないと約束したのだから…。

(終)

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