小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第十四章  水色のサマーバケーション4

 一時間ほど前にした口論が、どう終わりを迎えたのか、はっきりと覚えていない。ただでさえ、疲労と暑さとでばてていて、意識も半ば朦朧としているのだ。
 そうだ……多分それだ。うだる様な熱気にさらされながら言い合った。その内どちらからともなく言葉が続かなくなり、あの喧嘩は終わったのだ。
 夏は正午から午後二時辺りにかけてが一日の内で一番暑くなる。それは日差しも一番強くなる時間帯であった。
 数歩先を行く鳥子の足取りは鈍かった。もう少し早く歩いて欲しいと思うも、それは決して文句などではなく、願いだった。恐らく彼女も自分同様に疲れているのだろう。彼女は女性だ。男とは勝手が違う。何より、呪いによって体が弱いのだから仕方が無い。
 こうしている間にも、鳥子の足取りは目に見えて遅くなっている。その姿はまるで、昨日初めて遠目に見た時の――その時が訪れた。
 鳥子が前のめりに近い形で転びかけた。咄嗟に付いた膝と左手とで、辛うじて転倒は免れたものの、そのまま力無く、しなだれかかる様にして、その場にしゃがみ込んでしまう。その際に、ビリリと、彼女の履くタイツが新たに破けた音が聞こえた。
 自分は言葉をかける余裕が無くて、それでも歯を食い縛って歩み寄り、彼女の左腕に手をかけた。そのまま彼女の脇の下に右肩をあてがい、立ち上がった。
 何も言わず、抵抗すらせず、鳥子は付き従う。気まずさを通り越して、夏の気だるさだけが二人の間を取り巻いていた。
 もうじき目的地である寺のある山の麓に辿り着く。山道に入れば、木陰でゆっくりとする事も出来るはずだった。気温だって幾らか低いかもしれない。
「鳥子さん……もう少しだから頑張って」
 喧嘩の余韻なんてもう何も残っていなかった。今はただ、彼女が心配だった。
「………………」
 けれども、彼女はそのままへたり込んでしまった。それに対し、文句は言えない。彼女の着ている服は、不自然なほどに渇いていた。彼女の体は汗をかく事が出来ないのだ。こんな炎天下の中、そんな体質ではばててしまうのは当然だった。
 買っていたペットボトル飲料はまだ二本ほど残っているが、今はそれすらも邪魔に思えた。この程度ですら重たく感じるのだ。
 生憎、周囲には物陰が見当たらない。だだっ広い田園風景が広がっているだけだった。
「――車が一台も走ってないなんて、どれだけ田舎なんだよ……」
 毒吐いた所で何も変わらない。鳥子をその場に座らせて、自分が彼女の日除けになる位置に立ってから、蓋を開けたペットボトル飲料を彼女の手に握らせた。
(……昨日の今日で何やってんだよ。病み上がりで無理させちゃいけないだろ……)
 今となっては、さっきの喧嘩も余計な事だったと気付けた。こんな炎天下の中で喚くなど、無駄にエネルギーを消費する行為以外のなにものでもなかった。
 見下ろすと、ちびちびと、口の中に垂らす様にして飲んでいる鳥子の姿が見えた。その姿には、昼食時の快活さなど欠片も残っていなかった。ペットボトルを持つその両手すらも、半ば震えていた。そんな程度の力も、もうろくに残っていないのかもしれない。
 彼女のそんな様子を見てから、次いで、山を見上げた。
「………………」
 学生鞄は肩掛け用のベルトがあるから置いて行かなくても良いであろう。それに、その中には大切な飲み物も入っている。
「鳥子さん……ちょっとごめんね――」
 これから先は自分だけが歩く。そうするしかなかった。

 こんな時、長身である事になおさら憧れる。軽々と、颯爽と、人を抱える事が出来れば、それはどれだけ素晴らしい事であろうか。
 もし人を、本当の意味で助けたいのであれば、学よりも体力の方が重要だと言う事を思い出していた。
(どれだけ勉強が出来たって、結局は体力のある人には勝てないんだ。運動が出来る人が、体力のある人が、実は一番凄いんだ。それが一番……大切な事なんだ)
 一言に“人を助ける”と言う行為の中にも、様々な意味と手段がある。

 ――医者の様に、知識や技術的な面から救う方法。

 ――レスキュー隊や消防隊員の様に、危険な場所に身を置いて、体を張って救う方法。

 ――普通に生活している中で、たまに出会う困っている人を、自分に出来る範囲で助ける事。

 その三つ。それらに共通して言える点は、どれも体力が資本となると言う事だった。
 体を鍛えると言う事を、自分は今までおざなりにしながら生きて来た。運動しない分は勉強していれば良いのだと、自分自身に対し、言い訳しながら生きて来た。
 実際に勉強しながらも、それだけでは駄目だと、度々湧いて来る自己反論を誤魔化しながら生きて来た。そうする事で、事実良い成績を修める事で、その優越感に浸りながら、体力を付ける事はそっちのけで、そうして生きて来た。
 自分はその時、自身の不甲斐なさに気付いてしまった。自分でもそうだと気付かぬ内に、泣いてしまっていた。ぼたぼたと、涙を流しながら、歩いていたのだった。
 
 ――背中に圧し掛かる人一人の重さとは、こんなにも重たく感じるものなのか?
 
 ――人を助けると言う事は、こんなにも苦しい事なのか?

 理想論ばかり掲げて生きて来た、成人すらしていない子どもの自分では、それはまだ不可能な事だったのかもしれない。先程鳥子と口論した際に言われた「貴方は子どもだ」と言う言葉が蘇って来る。
 今日まで、死んだ母に対する思いだけを抱えて、それを理由にして、支えにして、指針にして、生きて来た。そして今、一番重要な事から目を背けて生きて来たのだと、それに気付かされてしまった。
 それは、もう大分前からそれだけでは駄目だとわかっていながらも、いつまでも手付かずのままでいたツケだった。

 ――なら、その罰は甘んじて受けなければならない。この程度の体力で、決意で、人を救いたいなどと思っていた自分が浅はかだったのだ。

 ――だから、せめて、それでも、今背負っているこの人だけは見捨てないのだと決意した。決して、投げ出したりはしないと。

 ――非力なままでは彼女を救えないと言うのであれば、今の自分では容易にそれをする事が出来ないと言うのであれば……その足りない分によって生じる苦しみは、甘んじて受けよう。

 意識が朦朧としつつも、それでも歩く事だけは絶対に止めなかった。山道に入っても休憩せず、ひたすら進んだ。もし一度でも腰を落ち着けてしまえば、もう二度と立てない気がしたのだ。
 汗だくになりながら、人一人背負って山道を進む。それの何と苛酷な事か。どれだけ歩いたのか、時間の感覚すら曖昧になっていた。短くも長い苦行を経て……やがて、それが見えた。
 ――赤い鳥居が見えた。
 その鳥居までには、最後の試練だと言わんばかりに、長い階段が続いていた。逡巡する間も無く、一歩を踏み出す。一段、一段、着実に進むしかなかった。
 盲目的に、足元だけ見て、足を進めた。何度かつんのめって、転びそうになるも、膝と脛を幾度も階段に打ち付けるも、どうにか踏み止まった。
 今自分は、人一人の命を背負っていた。どうして倒れる事が出来よう。今転べば、傷付くのは自分一人だけでは済まないのだから。
 もう何度目か知れないが、意識が朦朧とし始めて来た頃――ようやくそこへ辿り着いた。
 鳥居を潜り抜けると、それが目に付いた。それは絵に描いた様な光景だった。緋袴と白衣を着た巫女装束の少女が、境内に立って、箒で黙々と掃き掃除をしていた。
 少女はすぐに気付いて顔を上げ、こちらを向いた――どこか冷たげな、無感情な、無口そうな……そんな印象の少女だった。
 こちらが負ぶっている女性の姿を見て、ほんの少しだけ少女は目を見開いて見せた。
「――鳥子様?」
 少女の手から箒が手放される。それにより、パーン……!――と、甲高く、竹を叩く音が境内中に鳴り響いた。
 少女は、走りはせずとも、それでも大分素早くこちらに歩み寄って来た。
「どうぞこちらへ」
 感情が一切込められていない、淡々とした声音だった。慌てている様にも、焦っている様にも見えない口振りだった。
 次いで、サッと、少女は素早くこちらに右手を差し出した。その手をどうしたものかと考えあぐねていると、少女と目が合った。
 彼女は何も言わず、一度だけコクリと頷いた。
 それを見て確信した。その手に、こちらの手を乗せる。すると、少女はぎゅっとそれを握り締め、そのままこちらを先導して歩み始めた。
 境内より少し奥、参拝用の本尊のある建物とは別に、更に奥、木造の和風建築の離れが数十メートル先にあった。
 そこに続く道には、綺麗な白い砂利が敷き詰められていた。その中に、苔の生えた飛び石が等間隔に、何とも風情のある感じで埋め込まれていた。それは建物の方まで来訪者を導く様に、ずっと続いていた。
 ――ここが鳥子さんの友人が住んでいた所……
 少女は砂利を蹴散らす事も無く、それでも静かに、音をそれほど立てる事も無く、素早く進んでいた。
 自分の方は最早、付いて行くだけで精一杯だった。砂利だって沢山蹴飛ばしたし、飛び石の苔だって思い切り踏み付けて剥いでしまっていた。
 その時、これでは罰が当たりそうだと、無神論者なのに、そう思ってしまったのだった。

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