小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第十三章  水色のサマーバケーション3

 上の部分が潰れていない丸いタイプの麦藁帽子(一つ千円。値引きしてくれたから五百円になったけど)と、ペットボトル飲料を何本か。そして幾らかの食べ物を更に買い求めてから雑貨屋を後にした。
 これから向かう先は、向こうの方に薄らと見える山。その上にあるお寺だった。この距離では、さすがにそのお寺までは見えなかった。
 その山の麓までは数キロはあるだろう。直線距離で進めない徒歩であれば、着くのにはそれなりに時間がかかるだろうと見た。まともに炎天下の中を進んでいては効率が悪い。なので、自分達は川沿いを進んでいた。
「――この川の水はね、あのお寺のある山から湧いているのよ。だからこの川沿いに行けば迷う事は無いわ」
 新品の麦藁帽子を被った鳥子は、しきりにそのつばを掴んでは整えていた。澄ました顔こそしているものの、内心はしゃいでいるのが丸わかりだった。
 両手でつばを掴みながら、度々こちらを振り返るその姿は、何と言うか……上手く言葉に出来ないが、見ているだけで癒された。
 川沿いをそうして歩いていると、水気を含んだ清涼な風が吹いて来る。川のせせらぎの音を聞いていると、疲労感もあいまって、眠気が襲って来る事もあった。
 一時間か、二時間ほど。そうして歩いていると、橋が架かっている場所を見付けた。その橋の下で昼食を摂る事にした。
 靴下を脱いで、川に漬け込む。こちらのその姿を見て、鳥子は何やら逡巡していた。
「……鳥子さんもしたら? 傷口に沁みるなら無理強いはしないけど」
 足にもあの黒い傷痕があるのは、昨日初めて彼女を見た時に確認していた。歩いている際も、破れてしまっているタイツの穴からそれが時折見える事があった。失言だったかもしれない。
「――その発言はセクハラよ?」
 あくまで冗談な調子で鳥子はそう言った。どうやらこちらの真意は伝わっていた様だ。
 こちらも彼女の言葉の裏に隠された真意を汲み取りつつ、あえてその言葉通りに解釈して言い返した。
「そういうつもりじゃないんだけどね……上手く言えないけど、気にしないでいいよ。僕の目が気になるなら違う方を向いておくし……」
 女性であれば、体に傷があると言うのは悩ましい事であるはずだ。取り分け、醜い傷痕だとなおさら。それだけで、大分生き辛いであろう。これもまた“呪い”の一つの形なのであろうか。
「…………そうね。折角田舎に来たんだし、わたしもしてみようかしら。水に漬けていると、ほとんど見えないでしょうしね」
 傷の事なのか、あるいは肌の事なのか、それはわからないが、鳥子はそう言うと、靴を脱ぎ捨てた。そして、タイツをその場で脱ぎ始めた。思わず――視線を川の方へと戻していた。
(――物凄い罪悪感がする……)
 女性が着衣を脱いでいる光景。そしてその衣擦れの音と言うものは、健全な男子にとってはとても危ういものだ。しばらく鳥子の顔を見る事が出来そうになかった。
 誤魔化す様にして、しばらく水面を見詰めていると、やがて隣に彼女が座って来た。チャプンと、足を水に漬ける音が続けて聞こえた。その際、ほんの一瞬、こちらの肩に彼女の肩がぶつかった。そして、こちらの鼻先を、彼女の長い髪がかすめて行った――
「………………」
 ――頭がカーッとなっていた。恐らく今の自分は顔を真っ赤にしている事だろう。橋の下、日影にいなければ、その赤くなった顔を彼女に認識されていた事だろう。
「――ねぇ、貴方はどれを食べるの?」
 鳥子はビニール袋に入っているおにぎりを幾つか取り出して、目の前に持ち上げて見せた。どの味も一つずつしか買っていない。
「鳥子さんが好きなの食べて良いよ。僕はどれでも良い」
 こちらがそう言うと、彼女は膝の上に一度全ての食べ物を取り出して見せた。彼女の膝の上には、具がそれぞれ違うおにぎりが四つに、これもまた種類の違う菓子パンが二つ。そして、ポテトサラダと唐揚げが一パックずつ、それと割り箸が二膳あった。
「……悩ましいわね」
 素足になる時よりも本気で悩んでいる鳥子がそこにいた。
 それを見て――デジャヴュの様なものを覚えた。何だろう。今の彼女の姿を見ていると、彼女もまた、学校の女子達とそう変わらない、極普通の少女に思えるのだった。苛酷な呪いを抱えているとはとても思えないのだった。
(女の子のこういう所、好きなんだよな……)
 目をつぶって、そっと吐息を漏らす。
「――ねぇ、どうせだから全部半分個しましょうよ。そうすれば全部試す事が出来るじゃない」
 どうだ、良い案だろと言わんばかりに、笑顔になる鳥子。
「なら、から揚げはどうします? 五つ入ってますけど?」
 鳥子は当然だと言わんばかりに――
「――じゃんけんで決めましょう!」
 彼女は挑む様な目付きをし、不敵に笑ってみせた。
「…………っ――」
 それを見て――自分はついに笑いが堪えられなくなった。そのまま、笑いながら言い返していた。
「ふっ……ふふっ……良いですよっ、別に……三つ上げます。その代わり、僕の分はレモンかけないで下さいね」
「あら、意外ね? 好き嫌いなんて無さそうに見えるのに」
 確かに好き嫌いは無かった。余程極端な物や、食べ慣れない物でない限りは、一通り何でも無難に食べる事が出来た。
「僕は素材の味を大事にするタイプなんです。餃子とか、お好み焼きとか、焼肉とかでも、一口目は何も付けないで食べるのが好きなんです。その次からは、塩とか、タレとか、色々付けて食べますけどね」
「ああ……なるほどね。そうすれば何種類もの味が楽しめるものね。わたしも今度からそうしてみるわ。貴方も食にはうるさい所があるのね? 食いしん坊なのね」
 ――いや、そういうわけじゃないんだけど!
 まるでこちらの食い意地が張っている様に言わないでほしい。鳥子にそれを言われたらおしまいだった。

 鮭のおにぎりを半分に割って、鳥子に手渡そうと横を向けば、鳥子もおかかのおにぎりを丁度割った所だった。ただし、上手く半分に割れていなかった。相変わらず彼女は不器用だった。
 彼女が何か言う前に、不機嫌になる前に、あるいはおにぎりを更に解体しようとする前に、自分は小さい方のおにぎりを取り上げていた。その代わり、そこに鮭おにぎりの半分を置いた。
 自分は何も言わず、そのまますぐにおかかのおにぎりを口に入れてしまった。醤油で味付けされたおかかの塩辛さが口中に広がる。パリッとした海苔と、ふっくらとした御飯とが合わさって、何と言うか……美味い。
 鳥子はこちらのそんな態度に、しばし呆然としていた。あまりにもこちらの顔を見詰め続けるので、自分は今それに気付いたと言わんばかりに眉を上げ、彼女に向き直った。
「ん? どうしたんですか? 食べないんですか?」
「……食べるわよ」
 ふんと言って、鳥子はおかかのおにぎりを頬張った。
「美味しいね」
 そう言うと、鳥子はコクコクと頷いた。
 自分も続けて、鮭の方のおにぎりを頬張った。さすがにこちらは一口では食べ切れなかった。
 おにぎりはあと二つある。鳥子は今度こそ上手く割れるであろうか。

 菓子パンには手を付けずに昼食を終えた。途中でまた休憩した時に食べようと鳥子が言ったので、残しておく事にした。
「――そういえば、そのお寺には何で行くんですか?」
「そのお寺は形だけの、名も無いお寺なんだけれど、一族にとっては曰くのある場所なの。不可侵の聖域とでも言えば良いかしら。わたし以外の呪いを持つ一族の者は、そこに入り込めないの。つまり、そこはわたしが一族から唯一逃げ込める場所なの」
 彼女の話によるとその寺は、一代目の一族達に例の赤子を渡した僧が管理していたものであるらしい。無名の寺でこそあるものの、一族にとっては由緒ある寺であるらしい。
 そして、そこは“贄”を匿うための場所でもあるらしかった。“贄”が一族の者から不当な扱いを受けた時は、そこに逃げ込む様にと伝えられているらしい。
 それと、今は亡き巴と言う人が住んでいた場所でもあるのだとか……
「巴はね、そのお寺に伝わる秘儀を使ってわたしの呪いを肩代わりしてくれたのよ。仏教徒でも、一族の生まれでもないのに、わざわざ巫女の修行までして、そのお寺の住職からその秘儀を教わったのよ。それもこれも、わたしの為に……」
 それは嫌な予感――違う。確信だった。
「――そこに行けば、僕の呪いを鳥子さんに移す方法もあるって考えてるんだ?」
「……何の事かしら?」
 目深に麦藁帽子を被り直して、歩く速度を速めて、数歩先を行ってしまう鳥子。
 自分は彼女の後姿を見て――拳を握り締めた。
「ここまで来たからには帰れないけどさ――」
 こちらが立ち止まったのに気付いたのか、鳥子はこちらを振り返った。相麦藁帽子を目深に被ったままなので、その表情はうかがい知れない。
「もしそれをするのなら覚悟しておいて。僕は全力でそれに抵抗するから。その時は、君に手を上げる事もいとわないから――」
 それを聞いて――鳥子がこちらに歩み寄って来た。早足で近付いて来る。気付けば、彼女は目前に立っていた。そして、その次の瞬間には、鳥子は右手を振り上げていた。彼女がそうして間近に立ってくれた事で、ようやくその素顔が見えた。こちらを涙目になって睨み付けて、唇を噛み締めていた。
 緩慢に時が流れて感じられるその一瞬――それが見えた。
 そして、その時が来た。こちらの左頬に、昨日付いたばかりのかすり傷がある事を思い出した彼女は、張り手をする代わりに、その手をこちらの左肩に落とし――叫んでいた。
「――この偽善者っ! あんたなんて大っ嫌いよ! 反吐が出そうだわ! 綺麗事ばかり並べて気持ち悪いのよ! 格好付けてんじゃないわよっ!」
 空いた左手でこちらの胸倉を掴み、激しく揺する。左肩を掴む彼女の右手の爪が、手袋越しでも突き立っているのがわかった。
「――――――」
 本当に嫌われたいのであれば、さっき、傷のある左頬を思い切り叩いておけば良かったのだ。なのに彼女はそうしなかった。彼女の方こそ、むしろ偽善者ではないのか?――いや……偽悪者ではないのか?
 最後の砦である寺に行った所で、全てが解決するわけではないのだと、鳥子は悟った様だった。あるいは、実は初めからわかっていたのかもしれない。
 今、改めて自分が呪いの返還を拒んだ事で、決意表明をした事で、それは起こってしまったのだった。これはいつか必ず起こる衝突だったのであろう。
 それは自分達が、必ず経なければならない試練。通過儀礼だったのであろう。それならば、早い内に済ませておくべきだった。
 息をゆっくりと吸い込んでから――嵐を呼び起こした。
「――こっちだってうんざりしてるんだよ!? まるで加害者から必要以上に謝罪され続けている被害者の気分だよ! 一度頭を下げてきちんと謝ればそれで十分だろ!? 何度謝るつもりだよ!? ウジウジといつまでも引き摺って馬鹿みたいだ! お前は子どもか!?」
 鳥子は目を見開いていた。初めて見るこちらの怒る姿に唖然としていた。だが、すぐに言い返して来た。感情のままに、言葉を並べて来る。
「――被害者だって自覚があるならそれ相応の態度を取りなさいよ! わたしを責めればいいじゃない!」
「誰が責めるか馬鹿らしい! 故意に起こした事でない以上は恨んだりしないよ! そんな事いつまでも引き摺ったりしないよ!」
「車に跳ねられても同じ事が言えるの!? それで障害を負ったりしても加害者に同じ事が言えるの!?」
「それとこれとは話が別だろ!」
「同じ事よ! 遅かれ早かれ貴方はそうなるのよ!」
「なるわけないだろ! こんな腕に付いた程度の傷で死んでたまるか!」
「まさかわたしの話を信じてなかったの!? 嘘じゃないって言ってるでしょ!」
「何度も聞いたからわかってるよ! 大体、嘘でも本当でもどっちだって良いんだよ! 本当なんでしょ!? それならそれで残りの人生を悔いが残らない様に全うするだけだ!」
「どうせ死ぬ間際になって貴方はわたしに恨み言を言うんでしょ!? 迷惑だからそうなる前に帰してよ!」
「何だ。やっぱり嫌われるのが怖いんだ? 恨まれるのは嫌なんだ? 安心してよ。僕はそこまで子どもじゃないから!」
「わたしより一つ年下の癖に偉そうな事言ってんじゃないわよ!? 貴方は子どもよ!」
「なら鳥子さんも子どもだろ!? 数ヶ月しか違わないのに偉そうな事言わないでよ!」
 ――何やってんだろう……
 少女と口論しながら、頭の片隅でそんな事を考えていた。
 夏期講習をほっぽって、遠く離れた田舎のど真ん中で、同年代の少女と喧嘩している自分が居た。
 ああ、そうかと、自分はそれに思い当たった。
 自分は確かにこれを求めていた。二日前、三森水穂に告白した時――夏の間に、こういう出来事が起こる事を期待していたではないか。

 それはまるで……――絵に描いた様な青春そのものだった。

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