小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第十八章  水色のサマーバケーション8

 次の日には雨は上がっていた。
 昨日寺に着いたばかりなのに、これからすぐに出て行かなければならない。
 もし昨日、鳥子が寺への保護を訴えていたのなら、全斎がそれを認めたのなら、自分は今日家に帰る事になっていたのかもしれない。けれどもそうはならなかった。『帰さない合戦』は今日も続く。
「――青羽、お前今幾ら持ってる?」
 全斎はこちらの部屋を訪ねて来るなりそう言った。歯ブラシ、タオル、石鹸とシャンプー、着替え――等、生活用品が入ったビニール袋を目前にぶら下げられていなければ、カツアゲされていると思った事だろう。
 手渡された袋の中を確認すると、男物しか入っていなかった。どうやらこれは自分の生活用品であるらしい。と言う事は、別の部屋で出て行く用意をしている鳥子の方も、今頃色から同じ様に生活用品を手渡されているのかもしれない。
「申し訳ないが金は取るぞ。この寺にある金は、鳥子やその先代の呪巫女達が呪いを受ける事で得た金だ。部外者のお前には一切使う事は出来ん。呪いに苦しむ一族の為だけに使わねばならん」
 不服は無かった。それでいいと思った。自分は五千円札を財布から取り出して、それを全斎に渡した。
「これだと多いな……後でまた細々と入れてやるから、すぐに出て行くなよ?」
 お金を払う事で遠慮なく使わせてもらおうと思った。何より、鳥子やその母親が文字通り身を削って稼いだ金だ。自分がそれによって利益を得る事はためらわれた。
「よし、じゃあ次だ。呪われた箇所を見せてみろ」
 自分は左腕の袖をまくり、それを全斎に見せた。
 全斎はこちらの左手首を掴み取って、それを厳しい目付きで見詰めた。
「…………確かにこれは呪いだな。しかも“あの鳥”の呪いだな。よりによって一番厄介な奴から付けられたな。生まれた時から呪いと共にあった鳥子が言うんだから間違い無いとは思っていたが、やっぱりそうだったか……」
 鳥子だけでなく、全斎にとってもその呪いは何かの間違いであって欲しかったのであろう。
 あの異形の鴉は、それほど恐ろしいものであったのだろうか。自分には今一つ、その実感が湧かなかった。
 しかし、本職の彼にそう言われた事で、いよいよ現実的なものとして、自分は呪いの重みを感じる事が出来た。少しだけ、体全体が重くなった様な気がした。
「少なくとも……僕は鳥子さんのせいにはしません。絶対に。これは誰のせいでもありません」
 ポツリと、そう呟いていた。それは、決して鳥子を恨む事はしないと言う決意表明であった。この厳しくも恐ろしくもある男、全斎の前でそう誓う事で、退路を断ったつもりだった。
「……そうか。そこはお前の人間性や価値観に委ねる。ただな、中には鳥子のせいにする奴もいるんだ。お前はたまたまそういう奴じゃなかったと言うだけの話だ。一族にはな、何もかも全て、鳥子――呪巫女のせいだと決め付ける輩もいるんだ。時代の変化によって、色々な考えを抱く奴が今の時代にはいる。それは一般人だけでなく、一族であっても変わらん」
 全斎は昨日自分が言った事について、何かを補足しようとしているのだと気付いた。彼の話は続く。
「昨日お前が言った通り、その時代毎に合わせた呪いとの接し方と言うのを、これから模索して行かないとならん。鳥子は既にそれを始めている。鳥子は、今の時代の一族と、今の時代の一般人、そして、今も昔も変わらず在り続ける呪いと言うものの狭間に立たされている人間だ」
 全斎はそこで指を三本立ててから、その内の一本を下ろし、自分に二本の指だけを見せ付けた。
「さっき言った三つの内、お前は二つを抱える事になる。それでも大分生き辛いはずだ」
 今の時代の一般人と、呪いによって生じる軋轢。自分はそれをこれから先の人生で抱え続けるのだ。呪いと言うものは、広く世の中に知れ渡っているものではない。一般社会の中で生きて行くと言うだけでも大変なのに、そこに呪いと言うものまで加わってしまった。
 全斎は、これから自分がその板挟みに苦しむ時が来ると言っているのであろう。
「お前もまた……一族側へと足を踏み入れるのか、あくまで一般人として呪いと在り続けるのか、よく考えておけ。前以って言っておくが、一族と一般人の間に立つ事は諦めた方が良い。確実に“身を滅ぼす”事になる。いや、違うな。確実に“精神を病む”事になると言えばいいか……」
 全斎は睨むのとは別の意味で、厳しい眼光を宿す。その目で、自分をじっと見下ろしていた。
「一族と一般人とでは考え方や価値観が大きく違う。一般人の中だけであってすら、考え方や価値観の違いに人は翻弄されるものだ。極端な話、戦争が起こるのはそう言う事だ。鳥子が一番苦労しているのはそう言う部分だ。その二つのしがらみに加え、呪いを抱えた上で鳥子は生きているんだ」
 目の前に暗闇が広がった――それはあくまで錯覚だったが、今しがた感じたその暗闇は、もしかすれば、今日まで鳥子が抱え続けて来た絶望の片鱗だったのかもしれない。自分は今、遅ればせながらにそれを垣間見たのかもしれない。一族と一般社会のしがらみ。それらすらも、もしかすれば、呪いの一端なのかもしれなかった。
 全斎のこちらを見詰める目が、今度は細くなった。いよいよ睨んで見える目付きになった。ここからが本題なのだろう。
「鳥子が一月前に家を飛び出した時の事をお前に話しておく。あいつは母親の喪に服す事すらせず、ただ恐怖に駆られるままここまで来たんだ――と、最初は俺も思っていたんだが、実はそれだけではなかったらしい」
 呪いに対する恐怖以外に、逃げ出そうとした理由があったと言うのは初耳だった。
「あいつはな……一度籠の外へと出てしまっていたんだ。去年、一年間だけ学生を経験してしまったんだ。けれども二年生になってから呪いを受けなければならない頻度が増した。これはハ鳥が鳥子の代わりに呪いを受ける事が出来なくなった為だ。もう限界一杯まで、八鳥は鳥子の代わりに呪いを受けていた。それでもハ鳥は鳥子の代わりに呪いを受け様としていた。そうなると鳥子はどうすると思う? それ以上呪いをハ鳥に移せば死んでしまうと思うわな。泣く泣く鳥子は受け入れるしかなかったんだ。そして、鳥子は二年生になってから、まともに学校に通えなくなってしまった」
「………………」
 それを聞いて、自分も目付きが鋭くなっていた。怒りや絶望で、体が震えていた。
「……やっぱり鳥子さんは不当な扱いを受けているじゃないですか。なんで保護してくれないんですか……」
 全斎は頭を振って、それには答えなかった。代わりに、全く別の事を話し始めた。
「鳥子が逃げている間に、一族の中で犠牲者が出た。死んだのは生後間もない赤ん坊だ。死因こそ、呪いが直接的な原因ではないが、それでも死を早めた一要因である事は確かだ。その赤ん坊は心臓に欠陥を抱えて生まれた。それとは別に、呪いも抱えて生まれていた。ただでさえ脆かった命だ……呪いがどれだけ負担になった事か……。その赤ん坊の親は、死んだのは全て鳥子のせいだと喚いている。呪いを移せるのに移させなかったから死んだのだと言っているんだ」
 自分でも気付かぬ内に拳を握り締めていた。爪が手の平に食い込んでも、それを止める事は出来なかった。
「それは違う……鳥子さんのせいなんかじゃない」
 全斎は頷いた。
「その通りだ。元々その赤ん坊は将来が無いと見放されていた。呪いを鳥子に移す権利は与えられていなかった。だってそうだろ……呪いを移す儀式は、未来のある人間にこそ施すべきだ。呪いさえ無ければ健康に生きられる者と、呪いが無かったとしても先行きが無い者、どちらを優先的に助けるべきか、判るよな?」
 ――なんだよそれ……
 そう言う事だったのか。それは正に、一般の問題と、一族の問題と、呪いによって生じる三重苦だった。板挟みの葛藤だった。鳥子は今まで、そんなものと戦って来たのだ。
「そんな先行きの無い者の呪いを、許容量に限界のある、大切な呪巫女に移すなんて無駄な事は出来ん。早い話が、勿体無いんだ」
 言葉こそ悪いかもしれないが、その真意はわかる気がした。
 昔見た、とあるドキュメンタリー番組で、ドナー提供を待つ者の話があった。それは、自分を含めて対象が二人以上いた際に、いつまでも後回しにされ続ける患者の話だった。
 その人物は、そのドナー提供を待つ内臓以外にも疾患を抱えていた。移植した所で、いつ死んでもおかしくない別の病をも抱えていたのだ。そう言った者は、それ一つ提供されさえすれば健康になれる者と秤にかけられた際、選ばれぬものだ。
 呪いとは、なんて恐ろしいものなのであろう……鳥子が二日前に自分に泣き付いて、何度も謝った理由がようやくわかった。
「呪いと言うものの数、そしてその性質は多岐に渡る。今回その赤ん坊に顕れたのは病系の呪いだった。虚弱と衰弱の相の子の呪いだった。それは感覚喪失や不随の呪い等と同様、呪巫女に移す前には必ず一族総出で話し合わねばならない類の呪いだった。下手な呪いを移せば、呪巫女の意識が無くなってしまうんだからな。だからどの道、そんな呪いは鳥子には移せなかった。けどな、それでも鳥子に無理矢理それを移そうと動いていた奴らが一族の中にいたんだ。もし鳥子が、一月前に偶然逃げ出していなければ、今頃もっと悲惨な事態になっていたかもしれん。その理由は――」
 そこまで言わずともわかった。それは既に二日前に鳥子から聞いていた。
「――呪いの受け皿となった者の意識が無くなれば、呪いは全て、元あった人の所へと帰ってしまうからですね?」
「……そうだ。もう鳥子から聞いていたのか。なら話は早い」
 ならば、鳥子を追っていた者達と言うのは恐らく――
「――鳥子さんを連れ戻して、そんな呪いを移そうと動いていた人達って言うのは……さっきの――」
「――赤ん坊の両親とその関係者だ。今そいつらは、一族内で執り行われる裁判にかけられているはずだ。鳥子に不当な使いをしたと言う名目で、何らかの罰を与えられるはずだ。それは大抵の場合、呪いを移す権利がその家系にはしばらく回って来ないと言う形で取られる事になる」
 それは、自分が想像する以上に重たい罰則だと思われた。
「その赤ん坊が死んだのはいつなんですか?」
「二日前の八時半頃だ。追っ手の烏が鳥子を見付けたのは二日前の八時半頃。もう間に合わないと見たんだろうな。奴らは無謀にも儀式を始めやがった。本来ならば呪巫女を直接その場所に連れて行って儀式はするべきなんだが、奴らは採集していた鳥子の髪の毛や血液を拠り代にして、遠方から“贄の儀”を行いやがった。そのせいで中途半端に呪いが鳥子に移ってしまった。それでも赤ん坊は助からなかった。だから追っ手は引いたんだ。鳥子の呪いが暴走するのに巻き込まれたくなくて、奴らは逃げ出したんだ。赤ん坊が死んでいなければ、あるいは後もう少し鳥子が逃げ果せていなければ、鳥子は昨日の内に連れ戻されていたはずだ」
 もしかすれば、自分を含めた学校関係者達はあの日、極めて危うい状態だったのではないのだろうか。もしかすれば、大勢の人が呪われる危険があったのではないだろうか。
「ニュースと新聞で確認した。お前、この学校の生徒だろ?」
 全斎はそこで朝刊をこちらに渡した。その朝刊を見ると、日付は昨日だった。その紙面には、自分の通う高校の校舎の写真と、見覚えのある景色の写真が載っていた。それを見て、思わず目を見開いた。
「……え、これって――」
 しばし、紙面を読む――その概要は以下の通りだった。
 学校の裏庭の植物か一斉に枯れ果て、無数の蝉の死骸が転がっていたのを守衛が見付けたのが事の発端であった。守衛はこれをすぐに職員達に伝えた。それを見た職員達は毒ガスの発生を疑い、即生徒達を下校させ、保健所の職員を呼んだ。けれどもそれは毒ガスの発生などではなく、猛暑による突発的な自然現象だと専門家によって解明された――と言うものだった。
「鳥子はあの日、最善の選択をした。何故人の多い学校敷地内へと入って行ったんだって思うかもしれないが、勘違いするなよ。あの住宅地のど真ん中じゃ、人がほとんどいない開けた場所なんて学校の敷地内以外には無かったんだ。その上でお前達に被害が及ばない様、鳥子は人のいない場所を目指したんだ。人間以外の生物がいる場所を目指したんだ。鳥子に送られた呪いは、赤ん坊の死と言う概念と同化した凶悪な代物だった。これは無理矢理儀式を行った事で起きた不測の事態だ。恐らく鳥子はその呪いが刻まれ始めた時に、その呪いの本質を感じ取ったんだろうな。だから人気の無い裏庭に行ったんだ」
 二日前、日射病であるにも関わらず、鳥子は校舎に入って助けを求めようとはしなかった。なぜ人気の無い裏庭を目指したのか、その理由が今ようやくわかった。
「そうだったのか……」
 呪いと付き合うと言う事は、思った以上に難しい事だった。鳥子はあの時もそれと戦っていたのだ。
「鳥子は一般人に被害が及ばない様、呪巫女として正しい選択をした。だが、逃げ出した事は鳥子の落ち度だ。だから手放しで称賛は出来ん。しかし、鳥子は一部の一族から不当な扱いを受けそうになっていたのも事実だ。この二つの出来事が重なって起きたのは偶然だ。この偶然を活かして、昨日電話口で赤ん坊の親族から逃げ続けていたって事にしておいた。奴ら慌ててたぜ? 久し振りに思いっっっっっきり!――説教をしてやったぜ……へっ」
 最後の方は冗談っぽく言っているにも関わらず、全斎の目は全く笑っていなかった。真顔のままだった。
 自分も同様だった。笑い返すなんて事出来なかった。胸がキリキリと痛んで、かきむしりたい衝動に駆られていた。あの少女は、こんなにも多くの絶望――“呪い”を抱えているのか。
「そう言う訳だ。向こうでのいざこざが解決するまでは、鳥子が安全な環境の中に帰れる様になるまでは、しばらくこっちで保護するって事に一応はなっている。けどな、けじめは付けんといかん。鳥子が我侭でここへ来たと認めた以上は、寺には置いて置く事は出来ん。その代わり、この山の敷地内には居ても構わん。あくまで寺で保護する事は出来んと言うだけの話だ。言葉の綾ってヤツだな!」
 全斎はそこで今日初めて笑顔になった。こちらの肩を何度か叩いてから掴むなり――言った。
「と言う訳でだ小僧……二人切りになったからと言って嫌がる鳥子に無理矢理手を出して見ろ。そん時ゃ、お前の顔をボコボコになるまで殴ってやるからな?」
 なんとも爽やかな顔をして、全斎は白い前歯を見せてそう言ったのだった。肩を掴んでいる手から、尋常じゃない握撃が伝わって来る。肩の骨が粉々になりそうなほどに痛かった。
 もしかすればこの人は破戒僧ですらないのかもしれない。“破壊僧”なのかもしれなかった。
「御互いの合意の下でなら数発で許してやるが、もしそうした場合、そん時ゃ、すぐに籍を入れさせるからな? きちんと責任取れよ? いいな?」
 口端を吊り上げて、血走った目をして、全斎はそう締めくくった。
「……な、何もしませんからっ!」
 この男に殴られては、例え一発でも致命的だった。
 自分はその時、今日まで清く正しく育ててくれた姉に対して深く感謝していた。もしチャラ男にでも育っていたのなら、自分はこの男に今頃殺されていたのかもしれない。
 こめかみから、なんとも嫌な汗が流れ落ちた。

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