小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十四章  水色のサマーバケーション14

 鳥子に朝食を食べさせた後、再び眠りに就くまで待ってから山を下りた。
 まだ朝早い時間帯だが、鳥子の病気も一応は緊急の用事の内に入ると思うので、すぐに寺を訪ねる事にした。
 寺へ行くには、境内へと通じる例の階段をその都度上り下りしなければならないのが不便だった。山道を下りた後に、今度はその階段を上らなければならないのは堪える。息を切らしながら赤い鳥居を潜り抜けると、すぐそこに色は居た。先日訪ねた時もそうしていた様に、境内の掃き掃除をしていた。すると、これもあの時同様に、色はすぐにこちらに気付いた。
「――青羽様? どうかなされましたか?」
 色に歩み寄りながら、呼吸を軽く整えてから、単刀直入に言った。
「鳥子さんが風邪を引いたみたい。風邪薬があれば分けて下さい」
 そこまで一息で言い終えると、改めて息を整え始める。
「それは大変です。例の呪いが移された後では大事に到る可能性がございます。私もこれからすぐに上へ向かいます。一足先に戻られていて下さい。すぐに追い駆けます。私を待つ必要はございません」
 色はそう言うと、昨日同様、箒をその場で放り出して、離れの住まいの方へと駆けて行った。
 どうやら色の耳にも鳥子に移された赤子の呪いの話は入っていた様だ。恐らく全斎が話したのだろう。
 境内へ通じる階段を下りて、今度は山道を登り直していると、予告通り色はすぐに追い着いて来た。さすが山暮らしで慣らしているだけの事はある。汗一つかいていなかった。
 彼女はこちらに追い着くと、そのまま追い抜いては行かず、わざわざ歩調を合わせてくれた。こちらは呼吸するのもやっとの状態だった。
「全斎様にも話をしておきました。いざと言う時は大丈夫です。すぐに駆け付けて下さるはずです。あの方は簡単な医学の心得も御座いますので」
「そうなんだ。それは助かるな。ところで……全斎さん怒ってなかった? 鳥子さんが風邪を引いたのは僕のせいだから……」
「青羽様のせいではございません。私の口からは鳥子様が風邪を引かれたとだけ伝えてあります。すると全斎様は『風邪ぐらいでギャーギャー騒ぐなよ』と申されました。頭に来ました。愛想が尽きたので、三日程暇を貰って来ました。よくある事なので御気になさらず」
「そ、そう……」
 なぜだろう。寺の方から自分に向けて怨念が発せられている気がした。今度全斎に会った時は、とりあえず謝っておこうと思った。
「全斎様にはカップ麺の買い置きを渡しておきましたので大丈夫です。御湯で戻せるドライベジタブルも一緒に渡してあるので栄養面も問題ありません。冷蔵庫にも刻んだネギを密閉容器に入れて保管してあります。後は卵を落とせば十分です」
 地味な心配りだった。何とも微妙な優しさ、そして情けだった。
「全斎さん……色が出て行く時何か言ってなかった?」
「いつも通りでした。『俺が悪かった。出て行かないでくれ。家中の掃除もしばらく俺がするから。だから許して下さい』――と、玄関の前まで付いて来て仰られていました」
 どれだけあの男はあの家でのヒエラルキーが下なのであろうか。あの家の真の主は色だった様だ。認識を改めなければならない。
「そういえばあの広い家の掃除って、もしかして色が一人でやってるの?」
「はい。姉が動けなくなってからは全部私がしております。それ以外の家事も全部私がしております。最初の頃は大変でしたが今はもう慣れました」
 毎日往復二十キロの通学をしつつ、勉学に励みつつ、その上あの家の家事まで全てこなしているとは。
 自分なんかとは基礎体力と勤労さが違い過ぎた。自分は本当に恵まれていたのだとつくづく思う。自分は良い姉を持って幸せ者だった。
「色は偉いね」
 家事が出来て、その上働き者とくれば、学校の男子からはそれなりにもてるのではないだろうか。もし自分の学校の男子生徒達が色の事を聞けば、きっと彼氏になりたがるであろう。
 愛想が無いのがネックになるかもしれないが、それも人によりけりだろう。少なくとも自分は気にならなかった。それに、冷たくされる方が喜ぶ男子だっているのだし。
「家事で思い出しました。青羽様にこれを御返ししておきます」
 そう言うなり、色は歩きながら器用にリュックを両肩から外して胸の前へと持って来る。その中から何かが入れられたビニール袋を取り出して、それをこちらに手渡した。
「御召し物を洗っておきました。もう乾いています」
 中を開くと、制服のズボンにポロシャツ、靴下、そして下着が入っていた。全部昨日自分が着ていた物だった。見た所、全部アイロンがかけられていた。細かい埃も一切付いておらず、丁寧にブラッシングされていた。しかも下着は丁寧に折り畳まれており、まるで新品の様だった。それを見て、顔が赤くなってしまう。体が震え始める。
「あ、ありがとう……も、もしかして、これ、し、色が洗ってくれたの?」
「いえ。洗ったのは洗濯機です」
 当たり前だ。そういう意味じゃない。手洗いなんてされてたまるか!
「干したのは私です」
「――うわぁあああああ! ごめんなさい! すいません! ほんとすいません!」
 嫁入り前の少女に何て事をさせてしまったのだろうか。その場でへこへこと頭を下げていた。本当なら土下座したい所だった。
「御気になさらないで下さい。普段から全斎様のお召し物も私が洗っておりますので慣れています」
 もうこの娘はさっさとお嫁に行けば良いと思う。絶対に貰い手が見付かるはずだ。引く手数多のはずだ。

 野営地へと戻って来た。今度は色も居る。
 テントを覗くと、鳥子はまだ眠っていた。スヤスヤと、穏やかな寝息を立てている。それを確認してから、そっとその場を後にした。
 次に足を運んだのは、焚き火跡の前で突っ立っている色の方だった。近くまで来ると、彼女は顔を鍋から反らさずに言った。
「――こちらは青羽様が作られたのですか?」
 すっかり冷えてしまった雑炊を色は見下ろしていた。蓋を片手に、ジーッと凝視している。何となくだが、その雑炊に対し興味を示している事だけはわかった。
「うん。消化に良い物をと思ってね。本当は残りも鳥子さん用に置いておきたいんだけど、今は夏だからすぐダメになっちゃうからね。帰って来てから食べようと思ってたんだ」
「そうですか……」
 色が蓋を持ったまま、あまりにそれを見詰め続けるので、ようやくそれを察した。
「……色は朝ご飯食べた?」
「いえ。まだです」
 なら丁度良い。二人で分けよう。そうすると量が少なくなるので、足りない分はバケツの中に泳いでいる魚を焼けば良いだろう。
「じゃあ一緒に食べようか。魚焼いて来るから、その鍋の雑炊温めておいてくれる? 色は魚の内臓も食べれるタイプ?」
 川魚の内臓ならばそれほど抵抗無く食べられる人もいるはずだ。色ははたしてどちらだろうか。
「鮎ならば苔しか食べないので平気ですが、山女は虫を食べますので内臓を取り出さないと無理です。虫には触れますが、さすがに食べる事は出来ません」
「同感。なら山女だけ内臓を取り出しておくね」
 色にライターを手渡して、鍋の番を任せる。自分はバケツを持って、川の近くで魚をさばきに行く。
 魚達は一晩流れの無い水の中を泳がせていた事である程度弱っていたが、それでも活きは良かった。死んだ魚以外今までさばいた事が無かったので大分手こずったが、それでもどうにか二匹のヤマメをさばく事に成功した。アユの方も、串に刺す時に抵抗されたら面倒なので絞めておいた。心の中で魚達に謝まりつつ、感謝しつつ、鉄製の串に突き刺して行く。最後に石鹸で手を洗って作業を終える。
 後は向こうの方に置いてある塩を振りかけて、串を焚き火の周りに刺すだけだった。
 焚き火の方まで戻って来ると、ぐつぐつと鍋が言っていた。何とも良い香りがする。
「すいません。少々焦がしてしまいました」
「いいよ。オコゲ大好きなんだ」
 串で刺した魚に塩を振ってから、火の周りに刺しておく。後十分もすれば食べられるだろう。
 その後、色と二人で朝食を食べていると、恨めしそうな顔をしてテントの入り口から顔を半分だけ覗かせて立っている鳥子に気付いた。それを見て自分は雑炊を噴き出してしまった。
 色もどうしたものかと、テントの方へと振り返った。色が振り返ると同時、鳥子はサッと身を引いて隠れてしまった。
 慌てて焼けた魚をテントまで持って行くと、鳥子は背を向けて横になっていた。拗ねているのか、こんな事を言って来た。
「……別に要らないわよ。二人で食べれば良いじゃない」
 そう言って、一度も顔を合わせてくれなかった。仕方ないので魚だけ皿の上に置いて立ち去る事にした。
「はいはい……じゃあここに置いておくからね? 要らないんだったら後で取りに来るからそのままにしておいてね」
 後でその皿を取りに来ると、皿の上には骨と尻尾だけになった魚と串が置かれていた。
 鳥子の寝顔へと視線を向けると、満ち足りた表情をして寝息を立てていた。それを見て、自然と笑顔になってしまう。これならば早く良くなりそうだ。

 お昼を色と用意して、今度はちゃんと三人でテントの中で食べた後、色と川の上流へとやって来た。魚の調達に来たのだった。さすがに今日は色も昨晩の様に手掴みで魚を捕まえる様な真似はしなかった。
 釣竿を垂らし、岩場で腰を下ろしていた。人二人分程の隙間を開けて、色は左の方に座っていた。しばらくじっと水面を見詰めていたかと思うと、やがて色は口を開いた。
「――御二人は恋人同士ではないのですか?」
 それは昨日も訊かれた事だった。そして、それには今日も変わらぬ答えを返すしかなかった。
「うん。だって、僕達は出会ってまだ一週間も経っていないんだよ? 僕と鳥子さんが出会ったのは、あの寺に着く一日前だったんだから」
 胸の奥がチクリと痛んだ。その痛みの正体は、つい数日前に振られたばかりであると言う事も含めた、複雑な葛藤と罪悪感とが入り混じったものだった。好きな女性から振られてすぐに別の相手を作ると言うのは不義理に思えたし、それ以前に自分達はそんな関係ではなかった。けれども、少なくとももう他人ではなかった。友人以上の関係ではあった。
「それは本当ですか?」
 先日、ずっと鳥子と寄り添っていたのを色には見られていた。だからこそ、彼女はここまで喰らい付いて来るのだろう。そうされても文句は言えなかった。彼女は鳥子の知人として、極普通の態度を取っているだけなのだから。
「こればかりは本当。嘘吐いてもしょうがないし」
「青羽様は鳥子様の事をどう思われているのですが?」
「……優しい人だなって思ってるよ」
「青羽様。普通ならば、綺麗な人だと鳥子様の事を言い表すはずです」
 その通りだった。
「多分、友情以上の気持ちは抱いていると思う。でも、性別が違うから、家族でもないから、そして恋人でもないから、どこまで踏み込んで良いのかわからないんだ。それでも、可能な限り鳥子さんの力にはなりたいと思ってる」
「それでは中途半端です。けじめを付けるべきではないのですか?」
 手痛い指摘だった。そして正論だった。自分は他人であるにも関わらず、鳥子に近付き過ぎていた。昨日だって、鳥子を感情のはけ口にしてしまった。鳥子は優しいからそれを受け止めてくれたが……あの話を聞いて、鳥子が自分の事を内心どう思っているのかが不安だった。もし嫌われてしまっていても、怖がられていても、文句は言えなかった。
 両手を見下ろして、そこに遠い日の幻想を重ねる。両手が赤色に染まった瞬間――それをすぐに振り払う様にして、頭を振って、呟いた。
「――鳥子さんと僕じゃ釣り合わないよ……あんな綺麗な人なんだもん。背だって僕の方が低いし。僕なんかと付き合ったら鳥子さんが笑われてしまう。それに、鳥子さんにはもっと相応しい人がいるはずだ……」
 クラスメイトの女子からすら振られてしまう様な男では釣り合わないだろう……
「御言葉ですが、外的要因を理由に挙げるのは理由になりません。それならば鳥子様にだって同様の事が言えます。鳥子様は体中に醜い傷痕を持っています。青羽様は外的要因だけで人を判断する様な御方だったのですか?」
 そこで改めて色の方へと顔を向けた。彼女は先ほどと変わらず、ただじっと水面を見詰めていた。しばしその横顔を見詰めてから、再び前方へと視線を戻し、呟いた。
「それは違う。これだけははっきり言えるけど、僕は外観だけで人を好きになったりは絶対しない。鳥子さんは確かに凄く美人だけど、それだけで好きになったりはしないよ。もしそうなら、それはとても失礼な事だ。そんなの僕も嫌だ。僕自身がそれを許せない」
 もしそうであったのならば、今自分はここには居ないはずだった。
「仮に鳥子さんの体中の傷を見た所で、何も変わらないと思う。ただ事実として受け止めるだけだと思う。実際に鳥子さんの足の傷を少しだけ見た事があるけれど、何も思わなかったよ……――いや、ごめん。正確には同情はしちゃったよ? 女性なのに、そんな傷痕があって大変だろうな、可哀想だなとかは思ってしまったよ。わかってるよ……そう思ってしまうのはとても失礼な事なんだって。相手を傷付ける行為なんだってわかってるよ。それはごめんなさい……」
「それは謝る必要の無い事です。それは普通の事です。誰だってそれは自然に思う事です。私とて鳥子様の体を見る度に思っている事です。私が言っているのはそういう意味ではありません」
「うん……ごめん。それもわかってるよ。今のままだと、今のままの関係だと、鳥子さんを助けられない時が来るって言いたいんでしょ?」
「はい」
 そのたった一言が、ずしりと重たく、胸に響いた。
 そこで色は初めてこちらを向いた。こちらの目を真っ直ぐと見て、視線を合わせた。その表情は、無表情でありながらも、とても綺麗だった。強い意思を秘めた眼差しだった。彼女には鳥子とは違った魅力があった。
「今のままならば……これ以上鳥子様には近付かない方がよろしいです。身を滅ぼします。青羽様がイタズラに不幸にされるだけです」
 それは色の口から初めて聞く、鳥子に対する蔑視的発言であった。
「それはどういう意味?」
 何か意味があって彼女はそう言っているのだろう。鳥子が気を許せる人が、そんな事を言うはずが無かった。その言葉の真意は、きっと別の所にあるはずだった。
「言葉通りの意味です。鳥子様の傍に居ると青羽様は不幸になるだけだと言っているのです。私の姉は鳥子様に近付き過ぎたあまり死んでしまいました」
 それを色の口から直接聞いて、自分は彼女が鳥子に対して複雑な感情を抱いているのだとようやく理解した。
「そういえば……巴さんっていつ亡くなったの?」
「今から五年程前です。亡くなったのは二十二の時でした」
 今生きていれば、姉の紅羽と同い年のはずだった。あまりに早過ぎる死だった。
「昔……ついこの前起こったばかりの例の事件の様に、一部の一族達が暴走した事がありました。そのせいで一般人であったある家族がその巻き添えに遭いました。その際流れ出た呪いによって、その家族の両親は姉妹二人を残して死んでしまいました」
 そこまで聞いて自分は息を呑んでいた。色を凝視していた。この話は恐らく――
「――ですが……引き取り手となる親戚は皆記憶を消されてしまいました。そうしなければ、呪いの事が世間に広がってしまうからです。そうして姉妹の親族達は、彼女達家族の記憶を全て消されてしまいました。その御陰で残された姉妹は引き取り手を失ってしまいました。法的に血縁があると訴えかけて引き取ってもらった所で、そうなると今度は記憶を消した者達の記憶が蘇ってしまう可能性があったのでそれは出来ませんでした。否応無く姉妹は一族に引き取られる事になりました。その責任を負わされたのは一連の騒動を起こした者達でした。ですが、誰がそんな者達に引き取られたいと思うでしょうか。姉はそれを拒否しました。当時幼かった妹も、幼心にも、姉に同意を示しました。姉妹は一族に頼らず、外で生きて行くと言ったのです」
 全斎と先日話をした際に、一族に対して説教をしたと聞かされていた。その時の全斎は全く笑っていなかった。確かに愉快な話ではなかった。つい数日前に起こったあの事件で、この事を思い出していたのだろう……
「――しかし、それも無理な話でした。疑心暗鬼に駆られている一族達はそれを許しませんでした。外へ出るなり、姉妹が自分達の事を社会に公表するかもしれない事を恐れたのです。そうなると今度は姉妹の記憶が消されかねませんでした。自分達の事しか考えない一族達に姉妹が翻弄されていると、その方はそこへ訪ねて来ました。それは初めて率先して引き取り手として名乗り上げてくれた方でした。その方こそ、鳥子様の御母様であられる八鳥様でした。ですが八鳥様は当時既に体が不自由な状態でした。養母である事はおろか、後見人すら勤められる様な状態ではありませんでした。法的手続きに則っても、跳ね除けられるのは目に見えていました。そこで更に引き取り手として現れたのが全斎様でした。全斎様は出会い頭に姉妹にこう言いました――『お前達の親族の記憶を消したのはこの俺だ。俺がお前達の全責任を取る。恨み辛みがあるなら全部俺に言え』――そう申されました。そうして、生活費等は八鳥様が出資し、私達の身元を引き受けるのは全斎様が担う事になりました。一族はその一件で、ただでさえ全斎様に多大な迷惑をかけており、その上、身寄りの無い子どもを二人も引き取らせる事にもなり、また、先代の呪巫女である八鳥様の財を奪う形ともなった事で、いよいよ発言力を失ってしまいました。その対価として、しばらくは“贄の儀”が執り行われる事も無く、灰羽家に平和な一時が訪れました。八鳥様も、鳥子様も、全斎様も、姉も、私も……その頃が一番幸せでした――」

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