小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十五章  水色のサマーバケーション15

 七栄巴が灰羽鳥子の呪いをどうにかしようと決意したのは十八の時だった。彼女は高校卒業後、自らの人生を歩み始めるのではなく、家族の為に生きて行く事を望んだ。
 周囲の者達は、唯一の血縁である妹の色を連れて寺を出て行くものだとばかり思っていた。もうこの頃には一族の者達も二人の姉妹の事を忘れかけていた。誰もが七栄巴は再び外の世界で生きて行くものだとばかり考えていた。
 しかし当の巴は、実の娘同様に愛してくれる八鳥の為に、実の姉同様に慕ってくれる鳥子の為に、一族の出ではない身でありながらも籠の中に留まる事を選んだ。自らも呪いの受け皿となる事を望んだのだった。それは少しでも愛する二人の負担を減らしたいが故……
 強い思いを呪巫女に対して抱かなければ、他人に呪いが移る事は決して無い。その上、素人が形だけ真似て“贄の儀”を執り行った所で成功した試しはなかった。
 そこで巴は全斎に弟子入りする事にした。そして、当然ながら彼はそれを許さなかった。巴は畳に額を付け、指折り揃えて、その場を動かなかった。全斎が何処かへ行ってしまってもそうし続けた。
 ――姉が畳みの上で土下座をし始めて数時間が経つ。
『お姉ちゃん……ごはん食べないの?』
 巴は畳に額を当てたまま頭を振った。
 姉が誰の為に、何の為にそこまでするのか、幼心にも色は理解していた。時折ここへ訪ねて来てくれるあの二人の為だ。
 八鳥は美人でとても優しい人だった。優しいと言う言葉だけでは足りないほど、本当に優しい人だった。八鳥は実の娘である鳥子と分け隔てなく、七栄姉妹にも愛情を注いでくれていた。会う度、まるで幼子にそうするかの様に、実の娘にそうするかの様に、その胸で何度も抱き締めてくれた。その回数は最早数え切れない――その人の為ならば姉がそこまでするのも頷けた。
 それとは別に、もう一人助けたいと思っている人が巴にはいた。それは巴の事を実の姉の様に慕ってくれる少女。鳥子だった。彼女は八鳥の実の娘で、そして、現呪巫女であった。
 鳥子は十に満たない歳でありながらも、既に大人びた落ち着きと美貌を備えていた。そして、その幼い身体には不釣合いなほどの夥しい傷痕を、既にその身に刻んでいた。その白い肌には、無数の黒い傷痕が斑模様を描く様にして走っていた。
 色はそれを見て、内心怖いと思った。気持ち悪いと思った。触れるのも、見るのも、嫌だと思った。
 しかし姉の巴は平気な顔をして鳥子に触れていた。鳥子の事をよく抱き上げては可愛がっていた。その表情、仕草は、芝居でもなんでもなかった。それ以外にも、頭を撫でてやったり、髪を梳いてやったり、一緒に風呂に浸かってやる事すらあった。そして、鳥子の身に新たな呪いが刻まれる度、彼女がその痛みに苦しむ度、巴は鳥子の痛む箇所に直に触れ、擦ってやる事すらあった。
 幼心にも色は外観的要因で人を差別してはならないと言う事をよく理解していた。姉のその姿を見続けていた事でそれを学んでいた。身近に模範となる例が在った事もあり、色もまた、可能な限り鳥子に偏見を持たない様に努めていた。
 それでも最初の頃はぎこちなかった。時折、思わず拒否反応を示してしまう事があった。当人の前で失言や失態をする事が度々あった。
 けれども、そうされても鳥子は決して怒らなかった。内心傷付いているのだろうに、それでも嫌な顔一つせず、色に笑い掛けてくれた。
『無理をしないでいいのよ。それでもここまでしてくれてありがとう。後は一人でできるからだいじょうぶよ』
 そう言うと、鳥子はその場を立ち去って行った。
 そんな二人のやり取りを、離れた所から見ていたのか、鳥子と入れ替わる様にして巴が色の方へと近付いて来た。てっきり怒られるものだとばかり思っていたのだが――
『――今は無理しないでいいんだよ。小さい頃はそれが普通なんだから。私だって最初の頃はそうだった。でもね、時が経てば、本当の意味で大人になれば、その内そんな事気にならなくなるんだ。人を差別しないのって難しいよね。それってさ、実は大人でも難しい事なんだよ。だからお姉ちゃんはあんたを怒らないよ。大人でも難しい事を、まだ子どものあんたには強いたりしないよ。それでも、まだ子どもなのに、あんたは鳥子を差別しない様に努めてくれているね。ありがとう。偉いぞ!』
 巴はそう言うと、いつも鳥子に対してそうするのと同様に、色の頭を撫でた後は抱き締めてくれた。幾度もギュッ、ギュッと、力強く抱き締めてくれた。それはとても心地良かった。母親がいなくなってからそうしてくれる人は専ら姉だった。離れて暮らしている八鳥よりも、巴からそうされる事の方が多かった。
 ――早く姉の様になりたい。いつか鳥子と本当の姉妹の様になりたい。
 そう思った。
 
 昔の事を思い返していると――我に帰った。
 目の前には、未だうつぶせたままでいる姉の背中があった。
『………………』
 色は自分の意思でそうしていた。姉に引き続いて、その横に並んで、一緒に土下座をした。
 しばらくして、それに気付いた全斎が怒鳴り始めた。慌てているのと、嘆いているのと、苛立っているのとが合わさった怒声だった。恐らく、泣きたい気持ちも幾らか含まれていたと思う。
 全斎はしばらくそうして喚いていたかと思うと、やがてそれも尻切れになり、ようやくその言葉を口にした。
『――ちっ…………ったくよ……。姉妹揃って頼み込むとか汚ねぇぞ……おい、巴、顔を上げろ』
 そう言われても巴は顔を上げなかった。
『はいはい……わかったわかった。ったく、頑固なんだからよ……。そのままでいいから聞けや。お前に俺の知っている事を幾らか教えてやる。そん代わり厳しく行くぞ。見た所、お前には呪術的な方面の才能は無い。お前に身に付けてやれるのは知識と技術の方面だけだ。その二つだけなら俺でもお前に幾らか身に付けさせてやる事が出来るだろうよ』
 それを聞くなり、巴は顔を上げた。満面の笑みだった。そして、隣に居た色を抱き締めてはしゃぎ始めた。
『ありがとう色!』
 頬を摺り寄せて、良い子良い子と頭を撫で回す。
『あんたみたいな妹が居てくれて良かった! 私は幸せ者だ!』
 これ程嬉しそうな姉の顔を見たのは初めてだった。

 次の日から巴の修行が始まった。正しくは『姉妹』の修行が始まった。
 それは早朝の事だった。山の上の水場に行こうとしていた二人の後に、巴と同様の白衣姿をした色が無言で付いて来ていた。
 全斎はそれを見てポカンと口を開けていたかと思うと、巴に向き直って言った。
『――なぁ……おかしくね? 俺、お前にしか許可出してないよな?』
 色は離れた所で突っ立ったまま、ぶんぶんと頭を振った。
 それを見て巴は言った。
『いえ。はっきりとは言ってませんでした。色が勘違いするのも無理はないです。いいじゃないですか。それに、ここで追い返す事は私には出来ません。色には恩がありますので。どうか色の意志を汲んでやって下さい』
 その場で巴は、膝に頭を付けるほど深く頭を下げた。
『……わかったわかった! ったくよぉ……! 姉妹揃ってしつこいったらありゃしねぇよ!』
『すいません。そこは“親”に似たんですよ』
 巴はニッコリとし、全斎にそう言い返した。

 二年後、巴は一通りの技術を習得していた。彼女はまっさらな極普通の人間であった為、その方面の力を持つ事は無かった。法力や言霊等の、霊的な異能力が身に付く事は無かった。
 それ以前に、そんな力は実は存在しないのかもしれない。全斎ですらその様な力は持っていないのだから。
 巴に身に付いたのは呪いにまつわる知識と“贄の儀”の作法だけだった。そして、八鳥と鳥子に対する更なる思いだけだった――それだけあれば十分だった。
 ある日それは起こった。鳥子が寺へと遊びに来た時の事だった。その時八鳥は来ていなかった。従兄妹に山の下まで連れられて、鳥子だけがやって来ていた。
 山の下で鳥子を迎えに来た時、巴はそれに気付いた。鳥子の首筋に、新たな呪いが刻まれていた。それはまるで癌細胞が広がるかの様にして、白い肌を浸蝕するかの様にその範囲を広げていた。鳥子の傷痕の数は二年前と比べ、増えていた。
 姉妹が修行をしていた間に、灰羽家もその間に変化を迎えていた。例の事件から幾らかの時が流れた事で、“贄の儀”の猶予期間が消化されてしまっていたのだ。そのせいで、鳥子と八鳥には新たな呪いが移されていた。
 無邪気に巴の胸に顔を埋める鳥子。それを抱き締めながら、巴はこことは違う何処か遠くを見据えていた。その目には、怒り、嘆き、悲しみが混在していた。何かを睨み付けるかの様にして、じっと虚空を見詰めていた。そして、その下にある口は、微かに震えていた。
 色はその顔を、何も言わず見詰めていた。その時……何かを予感した。
 そしてそれは起こった。その日の夕方。巴は山の上の水場で、持てる限りの知識と経験を駆使して“それ”を実行した。巴は鳥子の身に刻まれていた呪いのほとんどをその身に移す事に成功した。“贄の儀”は成功してしまった。巴の覚悟は本気だったのだと証明される形となった。
 鳥子の呪いを移すと言う事は、八鳥の負担を減らすと言う事でもあった。巴は二人の為にそうする事を選び取ったのだった。
 その日の夕暮れ時、あの凶鳥が、山の上で舞っていた……
 巴はその日から寝たきりとなってしまった。
 それにショックを受けて、鳥子は泣き喚いた。
 全斎が慌てて本家と八鳥に連絡を入れている頃、布団の上に寝かされた巴は泣きじゃくる鳥子の頭を、そっと片腕を上げ、弱々しく撫で、あやしていた。
 色は廊下の角からその様子を立ち尽くして見ていた。
『――鳥子……あんたは偉いね。あんたは今までその歳でこんなにも苦しいものを抱えていたんだね……』
 苦しそうなのに、痛そうなのに、疲れ果てた顔をしているのに、巴はそれでも満ち足りた様な表情をしていた。土気色と青白さが混在した肌になっても、ガサガサになった唇をしていても、目だけは何も変わっていなかった。澄んだ目をして、慈しむ様にして鳥子を見詰めていた。
『――なんで巴はこんなことしたの?』
 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら鳥子が言った。
『……これ以上家族を失うのが嫌だったからよ』
 えぐえぐと、えづきながら、しゃっくりを起こしながら、鳥子は続けた。
『巴も家族でしょう?……なんでそうするの?』
 巴は震えながらも、手を差し伸ばし続けて、鳥子の頭を撫で続けた。
『母親である八鳥さんがそうした様に、次は一番お姉さんである私がそうしただけの話。これは普通の事なんだよ。家族が大事だと思う人なら誰だってそうするはず。自分よりも大切な者のために、自分よりも幼い者のために、家族は生きて行くものなんだから……』
 そう言うと、巴はそこで力尽きて眠りに就いた。鳥子もいつしか泣き疲れたのか、巴の胸の上で眠りに就いていた。
 色はずっと、廊下から動かずにその光景を見詰め続けていた。

 ――後日、八鳥が巴の呪いを自分に移すように全斎に電話で嘆願するも、巴自身がそれを拒否した。そうすれば自らの命を断つと宣言した。
 一族はその話を聞いて喜んでいた。受け皿となる呪巫女の許容量に余裕が出来た為だ。そして、それは部外者が勝手にやった事だと言って、巴に何らかの利益が生じる事はすぐには無かった。一族は巴に金を出す事を渋ったのだった。巴が亡くなるその日まで、責任から逃れ続ける腹積もりだった様だ。
 正直、そんな事は姉妹達にとってはどうでも良かった。ただそっとしておいてほしかった。
 一方、その裏では、怒り狂った全斎が本家に殴り込みをかけていた。彼がそうしてくれた御陰で、七栄姉妹には呪巫女に対する御布施相応の大金が振り込まれる事になった。
 金の重要性はその当時にして、幼心にも色はよく理解していた。けれども、突如降って湧いたその大金を前にしても、色が笑顔になる事は無かった。通帳越しに見たその大金は、ただ酷くおぞましい物に見えた。それはいつか自分の物になるのだと言われても、色の心は一片足りとも満たされなかった。
 人はそれを綺麗事だと言うかもしれない。本当は内心で喜んでいるのだろうと揶揄するかもしれない……誓ってもいい。そんな事は無い。
 この大金を手放せば、姉の健康が帰って来ると言うのであれば、迷い無くそちらを選ぶ積もりだった。
 けれどもそれは叶わないのだと悟っていた。本当に価値があるもの程、お金ではどうしようもないのだと、数年前両親を亡くした時に既に学んでいた。
 色は大切な者を失って得た金の虚しさをよく理解していた。両親が残してくれた保険金とて、同様に思えていたのだから。
 御布施をすれば健康が手に入るのならば、それはとても安い買い物だと言えた。一族達が金を渋る理由がわからなかった。そして、一族達が金を払って呪いを移そうとする心理も理解出来なかった。何故そんな残酷な事が出来るのであろうか。金で済む話じゃないのに。移した所で何も解決なんてしないのに……
 ――狂っている。何もかもが狂っている……
 巴はそれから二年間、呪いに苦しみ続けた。八鳥の様に病系の呪いに免疫があるわけでもなく、鳥子の様に不老不死の身であるわけでもなく、ただの人である彼女ではその呪いの進行を抑える事が出来なかったのだ。
 その間、色は可能な限り姉の傍に居続けた。面倒を見続けた。鳥子の時であれば拒否反応が出たのに、姉だとそれが出来た。今ここに来て、その境地が訪れていた。それが姉のものであれば、醜い黒い傷痕にも触れる事が出来たのだった。
 姉は体を拭かれる度、風呂に入れられる度、いつも申し訳無さそうな顔を色に対してしていた。まるで鳥子の様に。
 色の顔から表情が消えたのはその頃だった。実は色は、呪いに対する嫌悪感を克服出来たわけではなかった。唯一の血縁である姉がその呪いに倒れた事で、むしろそれは悪化していた。色は自らの感情を殺して、生理的嫌悪感を抱く呪いの傷痕に触れ続けていたのだ。日に日に痩せ衰えて行く姉の姿を、姉の体に日に日に増えて行く黒い斑模様を、連日、間近で見続けていたのだ。
 呪いを持つ者に近付き過ぎた巴同様に、その妹である色もまた、違う形で呪いに近付き過ぎていた。
 巴が真っ黒い血反吐を吐いて事切れたその日……色がその血を間近で浴びたその日……色の顔からは“色”が消えてしまった……――

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