小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十七章  水色のサマーバケーション17

 あの話を色にしても、彼女は何も変わらなかった。無表情な少女だからか、その表情からは心情を汲み取る事は出来なかった。けれども、彼女が直接言ってくれた言葉によって、自分はもう一段階救われる事になった。
「――過ちを犯した事を悔いているのならばそれでよろしいのではないでしょうか。過ちを犯した事の無い綺麗事だけを言う方よりも、過ちを犯した事があるのにそれを姑息に隠し通そうとする方よりも、ずっと好感が持てます。そういう方の方が、これから先の人生を真面目に生きて行こうとするのではないでしょうか。その様な方であれば鳥子様の傍に居ても何ら問題ありません。むしろそういう方であるからこそ何か出来る事があるはずです。どうかこのまま鳥子様の傍に居て下さい。そして……青羽様は絶対に悪くありません。その時はきっと誰かがそうしなければならなかったのです。そうでなければ御家族はもっと悲惨な事になっていたはずです。今の御家族があるのは青羽様の御陰です。きっと御姉様もそう思われているはずです」
 何も言わず受け止めてくれた鳥子に引き続いて、言葉でもって色は受け止めてくれた。
 金銭、時間、勉学的な意味では失うものの多い逃避行であったが、それでも余りあるほどのものを得られた気がした。これからの先の人生を、前向きに生きて行けそうな気がした。金銭などよりもよっぽど価値のある、かけがえのないものを得られた気がした。
 あの時鳥子に付いて行って良かった。鳥子と出会えて良かった。色や全斎と出会えた事もそうだ。そして、巴と八鳥と言う人物の話を聞けた事も貴重な経験だった。
 こんなにも良い出会いを運んで来てくれた鳥子に対し、自分は心の底から感謝した。

 それから三日間、色と協力して鳥子の看病をした。
 男の自分では色々と手が出せない部分があったので、女性が居てくれて助かる場面がたくさんあった。鳥子が夜中に咳き込んだ時も、鳥子と一緒に寝ていた色が呼びに起こしに来てくれるのでとても助かった。
 朝と昼の食事はどちらかが担当し、夕食は二人で協力して作った。料理の仕方や味付け等、色から学ぶ事は多かった。向こうも興味深そうにこちらの料理を見ていた。お互い学ぶ部分があったのだろうと思う。
 三日目には、鳥子はいつもの調子を取り戻していた。咳の方も止まっていた。病弱と虚弱の呪いを受けたにも関わらず、こんなにも早く治ったのは幸運だった。恐らく、本当ならば全く大した事のない風邪であったのだろう。たまたま呪いによって悪化して、それが表面化してしまっただけなのだろう。それは不幸中の幸いだった。
 もう元気になったからと言って、勝手に動き回ろうとする鳥子を二人で押し留めた。その際に発せられた文句をなだめながらも厳しく言い返して説得し、四日目も安静にさせた。
 渋々ながらそれに従う鳥子を見届けてから、色は四日目の朝には寺へと帰って行った。
「明日からは当初の予定通り、一日最低一回はこちらの方へ参ります。御邪魔でなければ夕方まで御一緒させて頂く事もあるかと思われます。その際はよろしくお願いします」
 自分達は歳の近い貴重な遊び相手なのだろう。もちろん断るつもりはなかった。
「うん。そうしてよ。また料理の仕方とか教えて」
「一日一回と言わず、何回来てくれてもいいのよ。それに夏休みの宿題なら、高校生のわたし達が教えて上げられるわ。中学三年生の内容なら御安い御用よ。貴方もそれ位出来るわよね?」
 鳥子がこちらに同意を求めて来た。
「うん。それなら教えられると思う。遠慮しないでいいから、宿題する時はこっちに来てよ。何なら、明日からすぐに始めてもいいよ。それはそうと、色ってまだ中学生だったんだね。気付かなかったよ」
 どうやら色は自分よりも一歳だけ年下だった様だ。初めて知った。小柄な外観相応の年齢であった様だ。やけにしっかりとしている所があるから、高校生であるかもしれないとも思っていた。
 色はしばらく思案していたかと思うと、やがて一度だけコクリと頷いてから言った。
「確かにここの所、少々ばた付いておりましたので課題の方は手付かずでした。そうして頂けると助かります。では、明日からはその用件で御邪魔させて頂こうと思います」
 そう言い残して、ペコリと頭を下げて色は山を下ろうとし始めた。
「そうでした。最後にもう一度だけ御聞きしますが、本当に青羽様の洗濯物は御預かりしないでもよろしいのですか?」
 色の背負っているリュックサックには、この数日間で鳥子が出した洗濯物が収められていた。色からは自分の分も洗うので出してくれと言われたのだが、自分はそれを丁重にお断りしていた。今度山を下った時に寺にお邪魔して、洗濯機を貸してもらうと言って納得してもらった。
「いいです! 自分で洗います!」
「別に気にしないでいいのにね」
「鳥子様の仰る通りです」
 クスクスと笑いながら言う鳥子。相槌を打つ色。こうして見ると、二人は本当の姉妹に見えた。
「そうだった。お寺に自転車があれば貸してもらいたいんだけど、あるかな?」
「自転車であれば一台籠付きの物がございます。全斎様がよく使われている物です。私も買い物に行く際はよく利用しております。貸すのは問題無いかと思われます。ですが、何か御入り用でしたら私が代わりに買いに行きますので、わざわざ青羽様が出向く必要は無いかと思われます」
「実はお寺に来る前にお世話になったお婆さんがいるんだ。ここへ来る途中で立ち寄った商店のお婆さんに良くしてもらったんだ。そのお返しにまた何か買いに行くって約束してるんだ」
「ああ、あの御店ですか。そこは私もよく利用しています。通販で買うのが面倒な時は、いつもそこで買う様にしています。辺鄙な場所にある御店なのに、それでも良心的な値段で売ってくれるので重宝しています。あの御婆様に御用があるのでしたら、確かに御本人が行かれるべきですね。わかりました。全斎様にもその旨伝えておきます。使いたい時は、使う前の日に私に言付けて下さい」
「わかった。そうする」
 色とそうして話していると、鳥子が口を挟んで来た。
「もしかして一人で行く積もり?」
「うん。鳥子さんも行くと、また日射病で倒れちゃうからね。僕だけ行くつもり」
 鳥子の身を案じてそう言ったのだが。
「嫌よ。わたしも行きたい。ラムネがまた飲みたいの。かき氷だって今度は違う味のが食べたいの」
 わがまま鳥子復活の瞬間だった。
「鳥子様、それでしたら今度私が――」
「――あのお店のが食べたいの! あのお店で食べたいの!」
 すっかり外食に味を占めた鳥子だった。世俗に染まるのも考えものだった。
「ねぇ、色。その自転車は二人乗りは出来ないの?」
 鳥子は意地でも付いて来るつもりの様だ。体力に自信は無いが、可能ならば鳥子を後ろに乗せて行くのは悪くないとも思えた。その方がきっとあのお婆さんも喜ぶだろうし。
「後ろに座布団を付ければ大丈夫かと思われます。私もよくそこに乗せてもらっていました。昔はよくそうして姉とあの商店まで駄菓子を買いに行っていましたので」
 それを聞いて自分は何も言えなくなった。鳥子の方を見やると、彼女も同様に表情を曇らせていた。
「……三人で行かないとフェアじゃないわ。二人だけが行くのは狡いわ」
 鳥子は手を立てて、こちらの耳にそう囁きかけた。その発言を胸の中で吟味している内に気付いたのだが、鳥子が付いて来るのは最早確定事項であるらしい。自分の意見がずるずると流されて行っているのに気付いた。
「……じゃあ歩いて行くの?」
 それではどの道鳥子がダウンしてしまうだろうと言うニュアンスを込めて言い返した。
「何言ってるの? 二人ずつで行けばいいじゃない。貴方とわたし、貴方と色で、別々に行けばいいのよ。色を自転車の後ろに乗せて連れて行って上げて。巴が昔そうして上げた様に、今の色にもそうして上げて欲しいの。わたしの代わりにして上げてくれる? 一日ぐらいなら留守番ぐらい我慢して上げるわ。だから――」
 最後の方の言い分はまるで『浮気一回なら許してあげるわ』と恋人から言われているかの様な感覚を覚えた。それは抜きにしても、前半の言い分に関しては了承せざるを得なかった。
「――その時は御土産よろしくね」
 鳥子はニコリと満面の笑みになってそう締めくくった。どうやらそちらが本題であったらしい。あの商店に行くだけでは飽き足らず、留守番する時のお土産までたかるとは底知れない。
「色、今度この人が自転車に乗せて連れて行ってくれるって。どっちが先に行くのかじゃんけんで決めましょう」
「……?」
“この人”と言われたのは初めてだった。いつもの鳥子なら“この子”と言うはずなのに。どうしたのであろうか。
「いえ。鳥子様がお先にどうぞ。私は後で良いです」
 さすが色だった。彼女の方が大人だった。そして、すぐにそれに思い当たる。それ以前に、色の中でも自転車で、二人乗りで買い物に行く事は決定事項の様だった。断られなかったのは意外だった。
「――それよりも鳥子様……私が青羽様の後に乗っても問題は無いのでしょうか?」
「?」
 色が鳥子に何かを囁きかけた。小声だったので、よく聞き取れなかった。
「何も問題なんて無いわ……“今”はね」
 澄ました表情で鳥子はそう言った。何の質問に対する答えだったのだろう。気になった。
「…………そうですか。確かに“今”ならば問題は無いかもしれません。今後、この様な機会はもう無いかもしれませんので、鳥子様がそう仰るのであればそれに甘えさせて頂きます」
 鳥子はそれを聞くと、嬉しそうに微笑んで頷いたのだった。
「ええ、そうしなさい。それよりも色……わたしが先に行くと、あの御店の駄菓子が全部無くなってしまうかもしれないわよ? 駄菓子なんて久し振りだから、とても楽しみだわ」
 その瞬間、二人の間の空気がひび割れて、パリンと砕け散る音がした。
「鳥子様…………やはりじゃんけんしましょう。本気で行かせて頂きます」
 色はそう言うと、鳥子の顔を真っ直ぐに見上げた。口元を引き結んで、真剣な視線を向けている。急にどうしたのであろうか。
「この様な田舎ではたまに食べる駄菓子はとても貴重な娯楽なんです」
「わたしもよ。本家だとそういうの食べられないからとても貴重なの」
 ふと思い付いたので提案してみた。
「なら二人で行けば良いんじゃない? 色なら鳥子さんを後ろに乗せて自転車をこぐ事ぐらい出来るだろうし」
 二人は同時にこちらを振り向いた。その表情は冷たく、感情が全く伴っていなかった。能面だった。『あなたは一体何を言ってるのですか?』と言う表情だった。色ならともかく、鳥子までそんな表情をするとは思わなかった。どうやら今の発言は失言だった様だ。
「はぁ……訳のわからない事を言わないで頂戴」
「私だって女性です。なのに青羽様は私に人一人乗せて、しかも私より背の高い鳥子様を乗せて行けと仰るのですか? それは逆説的な意味での女性蔑視です」
「色の言う通りよ。女性は男性よりも体力面では弱いものなのよ。それなのに男性と同じ事を求めるのは不当よ」
 何かがおかしかった。今この場に流れている法則は、どれも男性にとって不利なものばかりだった。雲行きが完全におかしくなっていた。
「あの……それなら僕だって鳥子さんより背低いし、色より体力無いんですけど……」
 それならばこちらとて事実を突き付けるまでだった。認めたくないが、女子よりも弱い男子だっているのだ。現にここに一人……。自分で言ってて恥ずかしくなった。
「だから何よ? 女性と同列に並ぶ積もり? 女性はいつも男性より一歩引いた立ち位置で居る事を強制されるのに、男性である貴方もそこに並びたいですって? そんな事言って恥ずかしくないの?」
「鳥子様の仰る通りです。女性は常々、影ながら男性を立てていると言う事を男性は察するべきです」
 どちらの言い分も一見正論だったが、その真理をよくよく読み解いてみれば、とどのつまりは逆差別だった。今自分は女性二人から遠回しに『男性ならば女性よりも大変な目に遭って当然だ』と言われたのだ。
「ずるい! 男女平等! 性差別反対!」
 自分で言っておいて何だが、これは普通女性が言う言葉なのではないだろうか。女性は、特に女子は、都合の良い時だけ性別的特権を悪用する事があるから性質が悪かった。いつから世の中は、男性にとってこんなにも過ごしにくくなったのであろうか。
「話は着いたわね。本題はこっちよ!」
「鳥子様……御覚悟を」
 色はそう言うと、白衣の袖をまくった。まるでそこに念を込めるかの様にして、握り拳を作る。気合は十分の様だった。
 鳥子も黒い手袋の生地が引き締まって音を立てるほどに力を込め、握り拳を作っている。それにハァ?と息を吐きかけてすらいた。やってる事は色と変わらなかった。
 二人はさっきの言い分でこちらを論破したものと思い込んでいる様だった。こちらの言い分なんて何も通っちゃいないのだった。
「もう勝手にすればいいよ!」
 今年の夏は体を鍛える事も出来そうだった。

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