小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十六章  水色のサマーバケーション16

 最後まで語り終えた色は、こちらを真っ直ぐに見詰め、問いを発した。
「呪いと言うものはどうしようもないものなんです。私の姉ですら、八鳥様ですら、鳥子様ですら、全斎様であってすら……持て余すものなのです。青羽様はそんなものからどの様にして鳥子様を救うと言うのですか?」
 数日前、鳥子が学校の屋上で取り乱して泣き付いて来た時の光景が蘇る。あそこまで彼女が取り乱した理由がようやく理解出来た。そんな辛い出来事があったからこそ、鳥子はあの日、あの時、ああして叫んだのだろう――今一度思い返したその悲鳴は、何とも痛々しかった。
『――それをわたしに返してっ!!!!! わたしと一緒に来て!!!!!……そうじゃないと貴方もお母さんみたいに死んじゃう! 巴みたいに死んじゃうのっ! だからお願いっ……! もう嫌なのよ……わたしのせいで人が死ぬのはもう嫌なのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!』
 ――胸が痛かった、苦しかった……
 しばし胸を押さえていると、やがて、色の話は再開された。
「もし姉や八鳥様の様な方法で鳥子様の力になろうと考えておられるのなら……それは御止め下さい。そんな人がまた現れれば、今度こそ鳥子様は潰れてしまいます。その方法では誰も幸せにはなれません。皆が余計に傷付くだけです。青羽様が無駄に命を落とすだけです。そして……新たに青羽様の御家族が心を痛める事になるだけです。これ以上、外へ呪いの苦しみを広げてはなりません」
 深い絶望を経験した上で、呪いの恐ろしさをよく理解した上で、色は自分に言い聞かせていた。それは淡々とした口調でこそあったものの、その言葉の一つ一つは、血反吐を吐きながら、なおも言い聞かせてくれているかの様だった。
 その目を真っ直ぐに見詰めて――言った。
「――僕は死ぬつもりは無いよ。鳥子さんを傷付けるつもりも無い。僕の家族を悲しませる様な事もしない」
 それは想定外の言葉だったのか、色は怪訝気に眉をしかめ、小首を傾げた。その時、穏やかな風が二人の間を取り巻いて行った。その風に、色の前髪がさらさらと揺れている。
「……お陰でわかったよ。どうすれば鳥子さんの“力になれない”のかがわかった。少なくとも、呪いを肩代わりする方法じゃだめだと言う事はわかった。それなら、それ以外の方法を考えるだけだ」
 色はそれを聞いて、微かに目を見開いた。口元も微かに震えていた。そのまま彼女はうつむいてしまう。そうした事で、前髪が垂れて表情が隠れてしまう。前髪が風に煽られても、その表情はうかがえない。
「何処に……何処にそんな方法があると言うのですか……そんな方法があると言うのなら教えて下さい……」
 かすれた声音で、搾り出す様にして色は呟いた。彼女の上半身は、微かに震えていた。
 前方の水面を、目を細めて見詰めながら、自分の考えている事を噛み砕く様にして、自分自身にも言い聞かせる様にして、ゆっくりと言葉にしてゆく。
「……それはまだわからない。でも、それを見付けようと思う。可能な限り早く、それを見付けようと思う。鳥子さんのお母さんや巴さんがした方法とは違う方法で、全斎さんが今まで試して来た方法とは違う方法で、僕は鳥子さんを救おうと思う。呪いに抗おうと思う」
 次の瞬間、色は顔を上げて、声を張り上げていた。
「――そんな方法はありません!」
 激しく身動ぎする音に驚いて左を見上げて見れば――色が立ち上がって、こちらを厳しい目で見下ろしていた。彼女の握り締めた両の拳が、寒さとは違う理由で震えていた。
「そんな方法なんて無いんです! あればとっくに誰かが見付けています! さっきの話を聞いて呪いの恐ろしさが理解出来なかったのですか!? 呪いを持つ者に近付けば青羽様もいつか心を病んでしまうんです! そうなる前に諦めて鳥子様の前から立ち去るべきです! そうでなければ……そうでなければ……青羽様もいつか私の様になってしまいます……!」
 表情こそ無表情のままであったが、それでもその言葉の激しさと真意は伝わった。頬に、色の気迫がビシビシと叩き付けられている錯覚がした。
「今ならば……まだ出会って間もない今ならば……青羽様が諦めて帰ってしまっても、誰もそれを責めません。鳥子様の心の傷も浅く済みます……。御二人の距離がまだ遠い内であれば傷は浅く澄みます。それならばそうするべきなんです……!」
 色は自身の左胸を鷲掴むかの様にして握り締めながら、一言一句、苦しそうに吐き出して行く。その言葉を、重たく沈んだ思いを、鬱屈とした思いの丈を、その小さな口で紡いで行く。
 こちらも痛む胸を押さえながら、口の中に広がる苦い味を飲み下しながら、自分も色と向かい合うために立ち上がった。
「ありがとう……僕が苦しまないで済む様に、そんな事を言ってくれたんだね……辛い過去を話してくれたんだね」
 鳥子もそうだった。先程された話の中で聞いた八鳥と巴もそうだった。全斎もそうだった。そして、今目の前にいるこの少女もまた、心優しい人だった。
「どうにかしてみせる……もちろん、確固たる保障なんて出来ないけれど、それでも、最後まで投げ出さずにやり通してみようと思う。こんな程度の答えしか今は出せないけれど、それでも、いつか、呪いに苦しむ人全ての心が晴れる様な方法を見付け出そうと思う。鳥子さんだけじゃなく、色の事も……それ以外の人も……いつか救いたいと思う。そのためならば、僕に出来る事なら何だってしようと思う」
 色はそこで力尽きた様にして両膝を付いて、そのまま項垂れてしまう。涙を流すでもなく、嗚咽するでもなく、ただくず折れて、その場で鬱屈とし続ける。それでも色は、最後までこちらに言い聞かせる。
「鳥子様と全斎様と私が……今一番恐れているのはそれです。どうか、数ある選択肢の中から、自己犠牲を選ぶ事だけは御止め下さい。どうか御自愛下さい……。救いたい者の中に、どうか、青羽様御自身の事も含めて下さい。二度と立ち直れない程に深い心の傷を刻む要因の中には、青羽様の苦しみや死も含まれているのだと言う事を御理解下さい――もし……次にその様な方が現れてしまえば、私達はもう、立ち直る事は出来ません。どうか、その事を心に留めて置いて下さい」
 色のその言葉には鬼気迫る迫力があった。頷かずにはいられなかった。
「わかった……自分の命を投げ出す様な真似は絶対にしない。それと……この夏休みが終わるまでに、鳥子さんとの関係にどうけじめを付けるのかも答えを出しておく。だから、もう少しだけ時間を下さい」
 昨日全斎からもそうされた様に、今度頭を下げるべきは自分だった。そして、その頭を下げるべき人物は色だった。自分は今、多くの人の意志を汲み取らねばならない境地に立たされていた。
 色はポツリ、ポツリと呟いた。
「……鳥子様の身に触れられない私では、男である全斎様では、いざと言う時に鳥子様の御力になれません……八鳥様を亡くした今、鳥子様にはそれが出来る方が必要なんです。鳥子様の身に触れても許される御方が必要なんです……それは、今の私では無理なんです。だから、どうか……」
 くず折れたままの色に歩み寄り、その肩に右手だけを置いた。
「覚えてるかな……僕達が初めて会った時、色が僕に手を差し出した時の事を。僕はその時“左手”を差し出したのを」
 左の袖を巻くって、色に“それ”を見せた。色はそれを見て、目を見開いた。それ以上見せ付ければパニックを起こすかもしれないと気付き、その傷をすぐに袖で覆い隠した。
「ごめん。決して嫌がらせのつもりじゃないんだ。ただ、確認したかったんだ……あの時、色が鳥子さんを背負うのを代わらなかったからずっと不思議に思ってたんだ。色の体力ならそれが出来るのに、なんでそうしなかったのか疑問に思ってたんだ」
 色はこちらの顔を見上げていた。相変わらずの無表情だった。
「色は……呪いを持つ僕が怖い? 気持ち悪い? 見方が変わった?」
 色は頭を振った。いつもの落ち着きを取り戻していた。
「いいえ……何も変わりません。青羽様は青羽様です。あの……その腕に、触れさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
 頷く事で同意を示した。
 色も頷き返すと、こちらの左腕を取って、袖を捲くった。しばし、そこにある傷を見詰めていた。その内、恐る恐る、触れようか、どうしようか、傷の近くを手が逡巡し始める。やがて、その手は下に下ろされた。
「申し訳ありません……今はこれが限界の様です」
「そっか……。無理はしないで良いと思うよ。普通なら、女子は男子に触れるのも嫌なはずだしね」
「いいえ。それは大丈夫です。あの……また御付き合い下さいますか? 私がその傷に触れられるまで、鳥子様に触れられる様になるまで……」
 やはりそうだったのだ。色もまた、鳥子が気の許せる人だった。今度こそ、それを確信した。
「うん。わかった。協力する。さっきも言ったけど、鳥子さんだけじゃなく、呪いに苦しむ人みんなを救いたいって思ってるから。その中には、色の事も含めてるから」
 先ほど色が『救いたい者の中に自分自身も含める様に』と言った様に、自分もそれを真似て言ってみた。
「青羽様……ありがとうございます」
 その場で頭を下げる色に対し、自分も下げ返した。
 やがて、二人同時に顔を上げて、ただ向かい合うだけの時が訪れた。
 先に顔を反らしてしまったのは自分の方だった。恥ずかしさを誤魔化すために、それを思い出したので訊いてみた。
「昨日……僕が鳥子さんにした話、もしかして聞いていた? あの時の事なんだけど……」
 色は頭を振った。
「いいえ。私が御二人の元へ向かったのは日が暮れてからの事です。御二人を見付けた時は何も話されておりませんでした」
「そっか……それじゃあ、左腕の呪いのついでにこれも話しておくね。色がさっきそうしてくれた様に、僕も昔の事を話しておくよ。もしかしたら、この腕の傷の呪いなんかよりずっと嫌な話かもしれない。それでも話しておこうと思う。聞いてもらえるかな?……いや、聞いてほしい。鳥子さんのそばにいる事を許してもらうためにも、この事は正直に話しておこうと思う」
 あの話をすれば、色はどの様な反応を示すのだろうか。次から自分をどの様な目で見るのだろうか。正直怖かった。それでも、これも鳥子の力になるための一歩として、けじめの一つとして、彼女には伝えておきたいと思った。
「今から八年前の事なんだけれど――」
 ――今日も“坊主”になりそうだった。

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