小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十九章  漆黒のマリオネット

 昼食を食べてから一時間ほど宿題をした後、お菓子と飲み物を買って来ると言って青羽が出て行ったのは一時半位の事だった。
 青羽が買い物に行ってから四時間あまり経つ。自転車であれば、あの商店まで行って帰るだけであれば、山道があるとは言え、三時間もかからないはずであった。
「遅いわね……もしかして道に迷っているのかしら?」
 食べ物プラス、青羽が帰って来ないので、鳥子はいつもより三割り増しで眉間に皺を寄せていた。
「もう何度もあの御店までは行かれているので、迷う事はさすがに無いかと思われます。御優しい青羽様の事です。もしかすれば道中で人助けでもなされているのかもしれません」
「ああ……きっとそれね。あの人らしいわ」
 不機嫌な表情から一転、途端に晴れやかな笑顔へと変わる鳥子。
「鳥子様。青羽様が帰って来る前に、私達で御夕飯を先に作っておくと言うのはどうでしょうか? 青羽様もきっと御喜びになられると思います。鳥子様が御作りになったと聞けば、喜んで食べて下さるはずです」
 後三十分もすれば六時になる。作り始めるにはまだ少しばかり早いかもしれないが、早く始めればその分手の込んだ料理が出来るので異論は無かった。
「料理はあまりした事が無いから、色が色々教えてね? 後、火の番もお願いね」
 鳥子は手料理に挑戦するのは満更でもない様子だった。しかし、料理をするのにも結構な体力を使うものである。なので、この山の上での日々の中で、彼女が料理をした事はまだ一度も無かった。特に夏場だと、火の前にいるだけでも暑さでダウンしてしまうのだから仕方が無かった。
「心得ております。火を扱う時は御任せ下さい」
 ふと、鳥子はそれに思い当たる。
「そういえば……今日はお寺には帰らないで良いの?」
 腰を上げて、テントから出ながら鳥子は色に問い掛ける。
「今日はあの家には帰りません。また鳥子様のテントに御厄介なろうと思います……今朝起きたら、全斎様が家の裏の勝手口の前で寝ていたんです。勝手口の近くにある物干し竿に干してあったはずのシーツに包まって、盛大にいびきをかきながら、大の字になっておられました。どうやらまた御酒を飲んで来られた様です。お陰でシーツをまた洗わなくてはならなくなりました。今度からは夜に洗濯物は干さないでおこうと思います。今の季節であれば夜間に干しても十分乾くとは言え、これでは二度手間になるだけです」
 あの家では夏場であれば洗濯物を夜に干しておく事もあるのだろう。それは田舎だからこそ出来る事だった。
「勝手口の鍵は開けていなかったの?」
 靴の爪先をとんとんとして、履き心地を整えながら鳥子は言った。
「鳥子様は御存知ないのですか? 人の目が無い分、都会よりも田舎の方が凶悪犯罪は起こり易いのです。田舎だからこそ、鍵はきちんとかけておかねばならないのです」
 正論だった。
「その通りね。それに、あの男に見付かっては犯人の命が危ないしね……」
 一見的外れにも思える鳥子の発言に対し、色ははっきりと頷いて見せた。
「その通りです。しかもです。玄関から入って下さいといつも言っているのに、また勝手口から入ろうとした上、シーツまで泥塗れにされたんです。これが怒られずに居られますか?」
 勝手口の裏で寝ていた以上は、恐らく色の言う通りなのであろう。その上、洗ったシーツまで泥塗れにされたのでは怒るのも当然だった。
 色もそこで草履を履き終えた。それを見届けると、鳥子は振り返って、一足先に焚き火跡の方へと歩み始めた。話はそれで終わりかと思いきや、色の話はまだ終わっていなかった。鳥子の後を追いながら、その背中へと語り続ける。
「――更にです。そのシーツは私の物でした。お気に入りのピンクの花柄模様の物でした。御自分の物ではなく、よりによって私のシーツを使われていたのです。昨晩どれだけ飲まれたのか知りませんが、シーツには御酒の臭いが濃厚に移ってしまっていました。御陰で消臭用の洗濯用洗剤まで買う羽目になりました。頭来ました。愛想が尽きたので、向こう二日程は帰りません」
 あの男は愚かにも、家中の家事を取り仕切る者(のシーツ)に、文字通り泥を塗った訳だ。
「それは怒って当然ね」
 焚き火の前に着くなり屈み込んで、焚き火周りの石の配置を整えながら相槌を打つ鳥子。
「はい。もうじきカップ麺のストックも尽きそうだったので、今回はコーンフレークも渡しておきました。冷蔵庫には牛乳も備えてあるので大丈夫なはずです」
 消毒用スプレーを噴き掛けた布巾で、中華鍋を丁寧に拭きながら色は言った。
「優しいのね。わたしなら怒るだけ怒って、さっさと家を出て行ってしまうと思うわ」
 鳥子は石の配置を整えた後、今度はクーラーボックスを開いて食材を見繕い始めた。
「全斎様は食べる物が無いと外食に行ってしまわれるんです。そこでまた御酒を飲んで来るのです。不健康、不経済極まりないです。そうしてまた酔っ払って帰って来ては、家でまた同じ事を繰り返すのです。改善される所か、事態は更に悪化するだけなのです。そうなるといつまで経っても私はあの家に帰れなくなってしまいます。最初怒って家を出た時の事を今でも覚えています。三日後あの家に帰って来ると、あの家の中は悲惨な状態になっていました。全斎様の肝臓の為にも、家計の為にも、出て行く前には何か食べ物を渡しておいた方が良いのです。その方が結果的に安上がりですし、飲まれる御酒の量も減るんです」
 色は本当に主婦の鏡だった。そして、さっさとあの家を出るべきだった。
「もしわたしが男だったら色と結婚するのに。女に生まれて残念だわ」
 鳥子はトウモロコシを取り出して、その皮を丁寧に剥きながら言った。醤油のボトルも取り出している所を見るに、焼きトウモロコシでも作ろうとしているのであろう。
「恐縮です。所で鳥子様。本日の夕食のメインは御魚と御肉のどちらになさるのですか?」
 鳥子はトウモロコシの隣に、お肉のパックと川魚の入ったバケツを並べて置いていた。
「え?……両方食べるに決まってるじゃない」
 振り返るなり、怪訝気に眉をしかめて見せる鳥子。その表情を見るに、本気でそうする積もりの様だった。
「……すいません。訊いた私が馬鹿でした」
 道理でクーラーボックスの中の食材の減りが早いわけだ。鳥子が居ると、少なくとも一日分にはなるであろう肉と魚が、たったの一食で消費されてしまうのだった。
「それでは私はあちらの方で魚をさばいて参ります。御野菜の方は御任せします」
 疑問符を浮かべる鳥子に対し、色はそう言い残して川辺へと歩いて行った。鳥子と色は背を向け合って離れる形となった。
 川へと辿り着き、しゃがむと、ふと、色の目にそれが映った。水面に人の姿が反射していた。
 顔を上げるとそこには――川の中に足を浸け、背中に輪が幾つか付いた杖を斜めに背負い、三度笠を被って仁王立ちしている何者かが立って居た。
 袈裟の服を着ていたので、もしかすれば全斎がここまで来たのではないかと思うのと、その人物の顔を確認したのは同時だった。
「――え?」
 それは、目も……口も……鼻も……何も無い顔だった。まるで、黒いマネキン人形の様な顔をしていた。そして、その光沢の無い、醜い黒色には見覚えがあった。
 色の全身に緊張が走った。
 彼女が目を見開くのと、袈裟服の人物が音も無く近付いて来たのは同時だった。水音すら立てず、無音のまま、色の眼前にそれは肉薄していた。三度笠の影に隠れたその顔には、やはり目も口も鼻も無かった。生物としての息遣いすら感じられなかった。
「っ……――」
 色が悲鳴を上げる寸前、袈裟服の黒いのっぺらぼうの腕が持ち上がって、色の口を封じていた。そのまま、まるで吊るし上げる様にして色の体を持ち上げた。
 そうされると、首だけで全身を支える事となる。息苦しさと痛みで色は身をよじった。反射的に相手の手首を掴んで引き離そうとするも、すぐにそれに気付いてしまう……
 その手も、手首も、腕も、その先も……。全てが、全て……――黒だった。おぞましく、醜い、黒だった。それは呪いの傷痕と同様の色だった。
 それを認識した瞬間、カタカタと、色の全身が震え始めた。震えながら、その両手は力無く下ろされた。
 色は口元を掴まれたまま、何か物を適当に引っ掴んで持って行く要領そのものの形で、テントのある方角へと引き摺られて行った……

 バーベキュー用の鉄串にトウモロコシやその他の野菜を突き刺していると、背後に何者かが立つのを感じた。
 色であろうか。魚をさばくにしては早い帰りだった。忘れ物でもしたのであろうか。あるいは彼が帰って来たのかもしれない。
「どうしたの?――」
 背後を振り返ると、袈裟の服が眼前にあった。それを見て、全斎が色に謝りにでも来たのであろうかと思った。次いで顔を上げると……その瞬間――顔が引きつった。
 そこには黒い顔があった。三度笠の下からこちらを見下ろしていたのは、黒いのっぺらぼうだった。
「――……嫌ぁあああああああああああああああああああああ!!!!!」
 反射的に、右手でそいつの腹を思い切り殴り付けていた。
 ――バズン!
 ノイズの様な音と、火花が散るかの様な音とが入り混じった、何とも耳障りな爆発音がした。
 腹を殴られた袈裟服を着た黒いのっぺらぼうは、後方に大きく弾き飛ばされていた。
 それに遅れ、わたしの右手からは、まるで帯電するかの様にして、激しく、黒い瘴気がバチバチと弾けていた。それは事実、電気の様に、わたしの腕の周りを取り巻いて走っていた。それは黒い稲妻とも言える代物であった。
 やがてそれも落ち着き、今は陽炎の様にたゆたう、気体の様な状態へと変化していた。それはわたしの呪いの制御が安定している証拠であった。
 吹き飛ばされたのっぺらぼうの方を、片膝を付いたままの体勢で見やる。
 すると、わたしの目の前で、そいつは何の痛手も被っていないかの様に立ち上がって見せた。その腹の部分にあったはずの袈裟服は腐敗して、まるで焦げて穴が空いたかの様な状態になっていた。やがて、その穴から何かがドロドロと溢れ出て来た。
 中から出て来た物はタール状の黒い液体だった。それは地面にぶち撒けられるのと同時、まるで蝿の様な物へと瞬時に変じて、事実大量の蝿が飛ぶかの様な耳障りな音を立てて、そのまま大気中に霧散して行った。後にはおぞましいほどの吐き気がする臭気以外、何も残らなかった。それは呪いに侵された液体特有の、蒸発とも言える現象であった。
「傀儡が何でこんな所に……」
 一連の現象を見て、その正体にようやく気付いた。それは数週間前までわたしを追っていた追っ手だった。けれどもあの日、遠隔から呪いが移された事で、以後は命令を遂行する必要が無くなり、彼等はてっきり本家に帰ったものだとばかり思っていた。
 だが、それは今、こうして目前に現れていた。
 立ち上がった傀儡は、腹に文字通り風穴を空けていた。そうなってなお、何事も無かったかの様に、そこに突っ立っていた。
 一体だけだと思っていた傀儡の背後から、左右同時に、新たに二体の傀儡が現れた。三体の傀儡は鏡写しの様に、あるいは分身の様に、並列した。
「――……っ!」
 こちらも立ち上がって、改めて向き直る。
 瘴気を纏った右手を差し出し、牽制する。そうすると、手を動かした分、それに合わせて一定の距離だけ後方へと下がる。瘴気から必ず一定の距離を置く様にプログラムされている事が窺えた。
 数十秒程か――そんな睨み合いが続けられた……

 焚き火跡の近くへと強制的に連れ戻されると、色の目にそれが映された。鳥子が立ち上がって、三体の袈裟服ののっぺらぼうと対峙していた。
 鳥子は右手から黒い瘴気を解き放ち、まるでワイングラスを掲げ持つかの様にして、それを突き付けるかの様にして差し向けていた。
 三人の内の一人の腹からは、黒い瘴気が微かに立ち昇っていた。恐らく、鳥子から呪いの瘴気を込めた一撃を喰らったのであろう。
 三体の傀儡の背後から、新たな四体目が現れ、その手には色が引き摺られているのを目の当たりにし、鳥子は目を見開いた。
 色は鳥子に早く逃げる様にと、言葉を発せない代わりに頭を振って示そうとするも、口元をガッチリと押さえ付けられている為、それは叶わなかった。ただ視線を鳥子の方へと向ける事しか出来なかった。
「……色を離しなさい」
 鳥子が声高にそう告げるも、四体の傀儡達は無反応だった。ただ突っ立って、鳥子の方を向いているだけだった。
「貴方達……わたしを追っていた傀儡でしょ? 貴方達の目的は何? 早く色を離しなさい。もう抵抗しないから……」
 けれども四体の傀儡達は動かないし何も言わない。ただその場に立ち尽くすだけだった。
 色はそれに気付いた。鳥子はそう言うものの、彼女の右手からは未だに黒い瘴気が立ち昇っていた。傀儡達はそれを警戒して近付けないのであろう。
 やがて、鳥子の背後に、新たに五体目の傀儡が現れた。一定の速度で、ススッと、まるで滑る様にして近付いて来る。
 色は鳥子にそれを知らせる為、慌てて身を捩じらせるも、今度は口元だけでなく首まで絞められ初め、それ以上何も出来なくなる。
 涙目になりながら、それを見届けるしかなかった……
 五体目の傀儡は鳥子に気付かれぬ内に背後に立ち、そのまま音も無く杖を振りかざした。幾つもの輪が付いているにも関わらず、全く音がしない。洗練された動きだった。そのまま、彼女の後頭部を殴打した。
 ――ゴンッ!
 鈍い音がするのと同時、鳥子は前のめりになって倒れた。
 鳥子がくず折れるのと、並んで立つ三体の傀儡がそれを放ったのは同時だった。
「――っあっつ!……が、あ……あぁっ!……ああああああああああああっ!!!!!」
 激痛に、鳥子が絶叫した。
 投げ出された鳥子の右手の甲には、髪の毛が巻き付けられた鴉の羽が三本突き立っていた。それは鳥子の髪の毛だった。
 奴等はここで“贄の儀”を行おうとしているのだと、色はようやく理解した。
 次いで、三体の傀儡も鳥子の周りに殺到し、鳥子の体をそれぞれの持つ四本の杖で幾度も突き回した。連携して、鳥子の体を幾度も弾いて行く。どうやら鳥子の姿勢を調節している様だった。やがて、鳥子が狙いの姿勢となった瞬間――四本の杖が突き出されていた。それによって、鳥子の体は完全に拘束されていた。
 先ずは脇の下と肘の関節を通る様にして一本の杖が通される。次いで、肩と平行に、首の後ろを一本の杖が押さえ付けた。最後に二本の杖がバツの字に交差して、鳥子の首を左右から挟み込んだ。
 両膝を付いて、両手と首だけが前方に投げ出される姿勢となっていた。それはまるで断頭台にかけられているかの様な姿だった。手と頭部だけが出る拘束具によって拘束されたかの様に、鳥子の体は捕縛されていた。
 正面からその光景を見れば“又”、あるいは“文”、もしくは“女”と言う字にも見えた。真ん中の隙間から鳥子の首が出る形となっていた。
 それは“贄”を拘束する“鳥居の陣”だった。籠を意味する、一族特有の拘束印だった。鳥子はその身を取り囲まれる形で鳥籠に納められていた。鳥を囲むが故の鳥籠であった……
 後頭部を殴られたのと、体中を突き回された痛みと右手の甲の痛みとで、鳥子は意識を朦朧とさせていた……

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