小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

  第三十章  青と黒のテスタメント

 山道を全斎と共に駆け上がるも、自分は後に付いて行く事すらままならなかった。
 全斎は腕力だけでなく脚力も尋常ではなかった。自分を置いて、目を見張るほどの速度でぐんぐんと駆け上がって行く。端からこちらを待つつもりなどないのか、距離は見る見る内に開いて行く。
「――遅ぇぞっ!? 鳥子の力になるんじゃなかったのかっ!?」
 時折前方から怒声が聞こえて来る。その声を聞くと、不思議と負けん気が出て来る。足にも力が入った。
 ようやく斜面が終わり、なだらかな地帯へと辿り着いた。ここより更に少し先へ行けば、野営地にしている川辺へと辿り着く。
 息を荒らげながらも、どうにか全斎の後に追い着いた。そして、すぐにそれに気付く。本来であれば追い着くわけがなかった。今は緊急事態なのだから、もっと先に行っているはずだった。
 ガクガクになった膝を押さえながら、まるで腰の曲がった老人の様に腰を曲げ、顔を上げるのもやっとの状態で歩く。そんな調子で全斎の横を通り過ぎ様とした時だった。
 全斎の腕がこちらの体を塞き止める形で差し伸べられた。次いで、すぐ様手肩を掴まれて、がっちりと肩を掴まれた。その手の平から、有無を言わせぬ気迫が伝わって来た。
「……待て。落ち着いて前を見てみろ」
 腰を上げ、額と口元の汗を拭いながら前方を見据えた。すると、月光の下、木陰から生じるかの様にして、人影が一つ、ユラリと現れた。傀儡だった。三度笠に袈裟服姿の行者の姿だった。
 それを確認すると、全斎は右腕をぐるぐると振り回しながら前進し、肩をほぐし始めた。傀儡に近付きながら、次いで、頭を左右に傾けて首の骨をゴキゴキと鳴らし、最後に両手の拳の骨もボキボキと鳴らした。その姿は、どう見てもその手の人種が喧嘩する前兆にしか見えなかった。
「俺はな……法力、陰陽道、言霊……その手のもんから見放された人間だ……だからこうする以外無ぇんだわ!」
 全斎は両の拳を胸の前に上げて、八の字に見える構えをした。右拳の方がやや上、やや前方に出ていた。ボクシングの構えにも、空手の構えにもどこか似ていた。
「青羽……俺があいつを一撃で仕留めるから、お前は怯まず俺の横に並んで全力で駆け続けろ。俺の事は気にせずひたすら前に進め――行くぞ!」
 躊躇や確認、ましてや覚悟する暇すら与えられなかった。言われた通り、すぐ様走り出す他無かった。全斎の言葉には有無を言わせぬ迫力があった。
 全斎の横を駆け抜けるか、あるいは並ぶのと同時、全斎の足下でズドンッと言う地鳴りが上がった。まるで爆発したかの如き、豪快なスタートダッシュだった。全斎の体は微かに宙に浮き上がっており、足を動かす事無く、前方にスライドしていた。走るのではなく、跳躍していた。その飛距離は尋常ではなかった。とんでもない跳躍力だった。
 その跳躍の反動により、背後から砂利や砂埃が飛んで来た。それが背中にビシビシと当たって痛かった。
 この僧侶、本当に何者なのであろうか。とことん得体が知れなかった。
 まさか二人同時に向かって来るとは思わなかったのか、傀儡はずっと仁王立ちしたままだった。戸惑っているのか、放心しているのか、あるいは落ち着き払っているのか、淡々と棒立ちしているその様からは、その真意をはかる事は出来なかった。
 だが、後五メートル程で肉薄する距離に差し迫って、ようやく傀儡は動きを見せた。手早く、音も無く、輪の付いた杖を両手で掲げ、前方に差し向けた。通路を封鎖する積もりの様だった。恐らくこの傀儡は足止めが役割なのであろう。そうするのは正しかった。少なくとも“一般人”が相手であればの話だが……
「――馬鹿めえええええええええええええ!!!!! やっぱオツムが足りてねぇぞおおおおおおおおおおうう!?!?!?!?!?」
 全斎はそう叫ぶなり、並走していた自分を一馬身ほど追い抜いて行った。その際、歯を剥き出しにしてニタニタと笑っている横顔が見えた。まるで悪鬼の様だった。
「――これだから木偶の坊はよぉおおおおおおおおおおお!?!?!?!?!?」
 鬼の様な形相をした全斎が、横向きに掲げられた杖に正拳突きを繰り出した!
「――破ァッ!」
 ――カッ!――と。一際激しく、火花の閃光が散った。杖は小枝が踏み折られるが如く、ボキンッと音を立てて、一撃で叩き折られていた。しかも拳の勢いはそれだけでは止まらず、次の瞬間には傀儡のがら空きの胴体へと叩き込まれていた。
 ――ドゴォンッッ……!!!!!
 やけに腹に響いて来る音だった。間近で聞くだけで胃液が込み上げて来る重低音だった。
 全斎は拳を傀儡に接触させるのと同時、それをグルリと半回転させていた。その刹那――信じられない事が起こった。
 傀儡の胴体に、大口径弾の直撃を喰らったかの様な、大きな風穴が空いていた。背中から放射状にどす黒い体液が飛び散るのと同時、それだけでは飽き足らず、その体は垂直に空高く打ち上げられていた。あろう事か、更に空中で首が弾け飛び、次いで四肢も弾け飛び、五体全てが吹き飛んでいた。
「えっ……えええええええええええええええええええ!?!?!?!?!?――こ……殺したっ!?」
 何の躊躇も無く、一撃で、完膚なきまでに息の根を止めていた。
「――殺してねぇよっ! 人聞きの悪い事言うなっ! 傀儡は再生するから別に良いんだよっ!」
 こんな話を聞いた事があった。達人の拳は受けると、後方に飛ばされるのではなく、真上に飛ばされるのだと……。それは嘘ではなかった。
「――けっ……! 雑魚がっ! お前等如きに法力なんて使うまでも無ぇんだよっ!」
 この男と初めて会った日の事を思い出す。鳥子に説教していた時もそうだった。腹立ち紛れに叩き付けられた畳が恐ろしい事になっていた。殴られた箇所は禿げ上がり、焦げ付いてすらいた。思えば、その時からこの男は何かがおかしかった。この男は本当に僧侶なのであろうか。ましてや、人間ですらあるのだろうか。訂正しよう。あの家の主は色ではなく、間違いなくこの男であった。
 今後、この男には逆らうまいと固く決意した。
「――この調子で行くぞっ!? 奴等二人同時に襲い掛かられると馬鹿の一つ覚えで防御するはずだ! そこを俺が一撃で仕留める!」
 これが格闘ゲームであれば防御するのは正しいのだが、防御すら意味を成さない攻撃力を持つ相手では話が違った。さっき折られた杖の様に、ガードを突き破ったその上で拳を叩き込まれるのがオチだった。この男は最早存在そのものが反則だった。
「――向こうには鳥子が居るから少しは持つはずだっ! 急ぐぞっ!」
 前方から、更なる傀儡が現れた。次いで、野営地の方角から鳥子の悲鳴が聞こえて来た。

「――止めなさい!」
 ズキズキと痛む後頭部が、正常な思考を妨げていた。
 傀儡は色の首を絞めていた。それも“贄の儀”の一環だった。
 色を拘束する傀儡はやがて、袈裟服を肌蹴て、その腹を露わにした。その肌は全て真っ黒だった。夜の闇に紛れて込んでしまう程、純粋に黒かった。やがてその腹は不気味にボコリと、まるで妊婦の腹の様に大きく膨らんだ。
 その腹の中で、何かおぞましい物が目ま苦しく蠢いていた。ボコリッ、ボコリッと膨らんでは、時折葡萄の房の様な形にもなった。膨らみの中から更なる膨らみが生じては落ち着き、生じては落ち着き……と、繰り返した。
 やがて、破裂寸前の水風船の様に一際盛大に膨らんだかと思うと、それは遂に“顔”を出した。傀儡の腹から、巨大な“人面”が現れていた。
 色はそれを間近で見て、パニック症状を起こしていた。目を見開いて、いよいよ呼吸が危うくなる。けれども、悲鳴を上げたくとも口元が押さえられているのでそれもままならず、宙吊りにされているので逃げる事もままならず、それを間近で凝視するより他無かった。
 その黒い人面は、人面瘡、または人面疽とも言える、呪いによって生じた傷痕の一種だった。そんなおぞましい呪いの傷痕もあるのだど初めて知った。それは恐らく色にとってもそうだったのであろう。
 その人面疽は、事実人の様に、意志を持ってすらいた。目、鼻、口を、傀儡とは違ってちゃんと持っていた。けれども、それはやはり黒一色であった。開かれているその口中は黒く澱んだ闇が広がっており、その瞳にも白目の部分は全く無く、ただ、ただ、黒かった……
 その口から、生れ落ちたばかりの赤子の泣き声と、断末魔の悲鳴とを掛け合わせたかの様な、雄叫びが発せられた。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!――――

 それは紛れもなく、赤子が狂おしく泣き叫ぶ姿だった。母が恋しくて、一心に泣き叫ぶ声だった。それは、悲壮感を伴った絶叫だった。聞いているだけで、頭を掻き毟りたくなる、狂気そのものだった。
 腹にそれを抱える傀儡は、色にそれを押し付けようとしていた。その赤子の顔をした傷痕を、色へと“移そう”としていた。それこそが肝要だった――
「――わたしが……わたしがその呪いを引き受けるからっ……!――だから止めてええええええええええええええええええええ!!!!!」
 そんな……見るも無残な、おぞましい呪いを身に宿すなど、正直、嫌だった……。それは、見も知らぬ男に体を舐め回される程におぞましい事だった。いつも、いつも……そう思いながら、それでも受け入れて来た。今、この時もまた……
 ――それを、大切な人に移される方がわたしは嫌だったから……

「――ひとを呪わばあなふたつ……

 ――ひとつ帰せばあなひとつ……

 ――ひとり呪えばひとりが幸せ……

 ――ひとり呪いつづければみなが幸せ……

 ――だから呪われるわたしはみなの幸せ……」

 その唄を持って――その言葉を持って――“契約”は成された。
“贄の儀”が始まった。あの凶鳥の羽である、鴉の羽が突き立った手の甲から、得体の知れない何かが、体内を這い回るかの様にして、食い荒らすかの様にして、蠢いて、腕越しに迫り上がって来た。
 次の瞬間、冷気を伴う電極が直接神経に突き刺されたかの様な痛みが全身を駆け巡る。みみずの様な、百足の様な、得体の知れない蟲に体内を這い回られているかの様な、そんな錯覚を得た。
 目の前に、無垢な、黒い赤子の泣き顔が迫っていた。それは赤子の顔であってなお、酷くおぞましく、酷く醜い、黒い傷だった。それが迫り来る。
 ――わたしは絶叫した。

 木々が生い茂った山道から躍り出ると、自分達はその光景を目の当たりにした。
 鳥子が四体の傀儡に囲まれて、まるでギロチンにかけられる受刑者の様な姿勢を取らされていた。彼女は意識が朦朧としているのか、その首は力無くだらりと垂れ下がっていた。
 そんな状態の鳥子の手の甲に向けて、色を捕まえている傀儡の腹から放出されている、粘着質の何かが吸い寄せられる様にして流れ込んでいた。
 それにともない、鳥子の全身には黒い瘴気が纏わり付いていた。その瘴気もまた、少しずつ、少しずつ……鳥子の体内へと吸収されて行く。その都度痛みが走るのだろう。事実、体にも新たな傷痕が刻まれているのであろう……。鳥子の意識は朦朧としていながらも、それでもその苦痛によって、幾度も、幾度も……くぐもった悲鳴を、嗚咽するかの様にして漏らしていた。
 その更に向こうには、口元を押さえ付けられて、首を絞められてもがいている色の姿が見えた。
「――なっ……!」
 そんな光景を目の当たりにして、頭にカッと血が上っていた。そのまま突っ込んで行こうとする自分を、全斎が後ろの首根っこを引っ掴んで背後に放り投げた。
「馬鹿野郎っ! 今近付くんじゃねぇ! 儀式が始まっちまってる……今儀式を止めると呪いが暴走する! そうなると何が起こるかわからん!」
 そう言いながらも、全斎は足元に落ちていた拳大の大きさの石を拾い上げるなり、色を捕まえている傀儡へと投げ付けた。一見適当に投げただけの様に見えたが、その実、それは精確無比な剛速球であった。投じられた石は狙い違わず傀儡の頭部に直撃し、次の瞬間には頭部を木っ端微塵に粉砕していた。それでもその傀儡の腹からは得体の知れないものが放出され続けていた。それはなおも鳥子へと吸収されて行く……
 色はそこでようやく解放され、その場で力尽きた。遠目に見ると、痙攣している事がうかがえた。
 自分達は鳥子達の居る場所を迂回して、先ずは色の元へと移動した。
 全斎が色を抱え起こし、その頬を軽く、何度も叩いた。けれども色の痙攣は止まらない。瞳孔は開きっ放しで、その瞳には何も映していなかった。ただガクガクと震え、歯をガチガチと鳴らし続けるだけだった。このままでは舌を噛み切りかねなかった。
「クソッ!……傀儡に触れられたせいでショック症状を起こしてやがる……」
 全斎は色の首の裏側を、手刀で、一見すると軽く、二度ほど叩いた。すると、色はガクリと首を垂らして、そのまま気絶した。ようやく彼女が落ち着きを取り戻したのも束の間、それに気付いた。色の胸は呼吸により上下していなかった。息は完全に止まっている様だった。
「……息してないですよっ!?」
「大丈夫だ。一時的に呼吸を止めただけだ。すぐに吹き返す」
 十秒か、十五秒ほどか。ジワリと汗が滲んで、それが肌を滑り落ちて行くほどの時間が過ぎた頃……色の呼吸がようやく戻った。その表情も、汗ばんでこそいるものの、落ち着きを取り戻していた。
 色の肌には、はっきり見てわかるほど、鳥肌が立っていた。鳥子の様に近しい間柄であるわけでもない者に、それも、呪いの塊とも言える傀儡に触れられていたのだから無理は無かった。
「全斎さん……鳥子さんの方はどうにかならないんですか?」
 残るは、向こうの方で呪いを移されている鳥子だった。今はもう、悲鳴すら聞こえなくなっていた。彼女はいつもあんな苦しみを一族から強制されていたのかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。
「……もうじきあいつが来るはずだ。あいつならあの場所に近付いても問題は無いだろう……どちらにしろ、あいつが来れば呪いは落ち着くはずだ……」
 全斎は夜空を見据えて言った。
「……あいつ?」
「――前に言ったろ。“奴”は呪巫女に付き纏う習性があると――」
 その時、上空から聞き覚えのある鳴き声が、辺り一面に響き渡った。

 ――――――――――――!!!!!

 それはまるで、怒っているかの様な……断末魔の悲鳴とも、絶叫とも取れる、狂気の雄叫びだった……
 聞く者の精神を磨耗させ、肉体すらも事実疲労させる、神経が磨り減らされる怪音波とも言える、そんな代物だった。
 バサバサと黒い翼を羽ばたかせ、それは今一度、鳥の名を持つ少女の元へと舞い降りた。
 あの日――鳥子と初めて出会った時の様に……その凶鳥は、鳥子の左肩へと降り立った。
 そして、改めて――絶叫した。

 ――――――――――――!!!!!

 至近距離でそれを浴びた四体の傀儡が、衝撃波に噴き散らかされるかの様にして、事実、弾け飛んだ。五体をバラバラにして四散していた。
 それに引き続いて、鳥子の右手の甲に突き立っていた三枚の黒い羽が抜け落ちて、血の糸を引いて宙を舞った。それは複雑怪奇な円弧を幾度も描き、まるで糸が絡まり合うかの様な軌道を残し……やがてはそこへと辿り着いた。その羽は、元あるべき場所へと舞い戻るかの様にして、凶鳥の翼へと“取り込まれた”。
「やばいな……“鳥込まれた”か」
「取り込まれた?」
 鳥子が居た辺りを中心にして、黒いドーム上の空間が口を空けていた。鳥子は完全にその中に取り込まれていた。
 その球体の上で、凶鳥が羽ばたいている。まるで、何かを待っているかの様に……
「――鳥の名を持つ呪巫女を取り込むから“鳥込む”って言うんだ。あくまで一族間だけで通じる言葉、用語だ。大方、あの呪いは凶鳥に気に入られたんだろうよ。あるいは別の意図があるのか……奴は半ば鳥子に移っていたその呪いを、鳥子ごと、丸ごと“鳥込み”やがった。前にも何度かこう言う事が起こった事がある」
 眼前で、徐々に大きくなって行く半円型の黒い球体を見据えながら、問いかける。
「鳥込まれるとどうなるんですか……? 鳥子さんはどうなるんですか……?」
「鳥込まれた者達の記憶や呪いが創り出した“闇”――“異空間”を彷徨い続ける事になる。出られるかどうかはわからん。その“闇”の中の在り様は、人によって千差万別だ。鳥込まれた人数と呪いの数によっても、その広さと深さは大きく変わる。鳥子とあの凶鳥の持つ記憶と呪いが掛け合わされて出来た“闇”ならば、取り分け厄介なはずだ……俺ですら中に入れば生きて出る事は出来んかもしれん……。今回はどんな“闇”が広がっている事やら……出て来られるかどうかは鳥子次第だ。最早、俺達には見守る事しか出来ん……」
 全斎の言葉を、半ば心あらずと言った感じで聞き流し流し、前方を見据えていると、凶鳥と目が合った――気がした。次の瞬間――左腕の傷が疼いた。ドクンと……心臓が鼓動を打つ様に、一際強く。
 凶鳥もそれに合わせ、一声、ギャアアと鳴いた。
「――おい……? お前、何してる?」
 自分は引き寄せられる様にして、歩み出していた。あの日――学校の裏庭で、蝉の亡骸を踏み締めて歩みを進めた様に。今また、傀儡の破片を踏み締めながら、歩みを進めていた。
「――他人がその闇の中に入り込む事は容易には出来んのだぞ!? 近付けば反発されるだけだ! それにあの鳥には近付くなと言っただろ! 死にてぇのかっ!?」
「……大丈夫です。僕は鳥子さんとあの鳥の呪いの両方か、あるいは、そのどちらかを持っています。だからきっと入れるはずです。あの鳥にだって殺されません……あの日もそうでしたから――」
 そう呟くなり、駆け出していた。全斎に連れ戻される前に辿り着かねばならない。
「――待て!」
「……助けたいんだ!」
 恐怖を上回る“強迫観念”が――自分の心に巣食う“呪い”が、再び発動していた。
 その叫びは全斎に向けて発したものではなかった。それは前方に向けて、空に羽ばたく存在に向けて発したものだった。
 それを聞いて、まるでその叫びに呼応するかの様にして、鴉は一度だけ叫び、飛び上がった。凶鳥はそのまま、こちら目掛けて滑空を始めた。
 自分はそれを“契約”の証として、左袖の傷を露わにして、眼前に掲げた。
 その腕に、凶鳥の一本足が迷い無く喰らい付いた。次の瞬間――血が一際激しく飛び散った。
「退けぇえええええええええええええええ!!!!!」
 あの日……あの時の様に――その足を掴み取って、鴉の体を振り回す。それはあの日よりも更に前……包丁を握り締め、父の体に突き立てた時とも重なる情景だった。
 それを叩き付けるべき場所はそこ――黒い半円形の空間だった。この鳥が中へ入れると言うのならば、これを差し込めばきっと……!
 凶鳥の体を球体の表面へと叩き付けた瞬間――衝撃は訪れなかった。反動も何も無く、空振りしたかの様に、するりと闇の中へと入り込む事に成功していた。
 そこは足場も何も無い空間だった。そのまま、自分は奈落の底へと落ちて行った……

-32-
Copyright ©雪路 歩 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える