小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第三十二章  暗黒のサンクチュアリ2

 良い思い出を思い返そうとしても、思い返していても、頭上から聞こえて来る嘲り声が妨げる。思い描いていた光景は、呆気なく霧散してしまう。
 やがて嘲笑だけでなく、至極直接的な言葉すら発せられる様になっていた。

 ――お前に近付く者は皆、お前の顔だけを見て近付いているに過ぎない。お前の体の傷を見れば手の平を返すに決まってる――

 その通りだった。今まで何人もの人がそれで立ち去って行った。級友達とて、もしわたしの体を見れば考えが変わるかもしれない。

 ――まるで性病にかかった人みたい。本当は呪いなんかじゃなくて、病気でももらったんじゃないの?――

 やましい事なんてしていないのに……わたしの事なんて何も知らないくせに……どうしてそんな酷い事が言えるの……わたしは皆の為に呪いを肩代わりしているのに……

 ――どうしてこいつを隔離しないんだ? こいつのせいでまた人が死ぬかもしれないのに――

 母が死んだのも、色が家族を失ったのも、全て、わたしのせいなのかもしれない……わたしは鳥籠の中に居るべきなのかもしれない。そうすれば、もう誰も……

 ――次はその男の番か。あの姉妹の様に飼い慣らして、いつか呪いを移すつもりなのだろう?――

“あの人”の事まで“奴等”は口にする様になっていた。それだけは止めて欲しかった……
 今までわたしが生きて来た中で一族から言われて来た事、一般人から言われて来た事関係無く、次から次へと降り注いで行く。
 その数は圧倒的に悪意ある内容の方が多く、善意ある言葉はあっと言う間に覆い尽くされてしまった。級友達の姿も、声も、記憶の中の母と巴の姿も、声も、全て、闇の中に埋もれてしまった。
 そして、遂に悪意だけしか見えなくなった瞬間、狂って叫び出しそうになった瞬間、目を見開いたその瞬間――それを見て、思わず、放心してしまった。
 ――………………え?
 眼前に“あの人”が立っていた。左手に“輝く石”を持って、うずくまって泣いているわたしを見下ろしていた。

(――どうしたの?)

 彼が一歩を踏み出すと、わたしは頭を振って後退した。わたしに近付けば、この人まで中傷されてしまう。そして、今度はこの人が死ぬ事になるかもしれない。
 先程浴びせられた言葉の数々が、わたしをすっかり臆病にさせていた。

(――……ごめん。わかった……これ以上は近付かない。だから怖がらないで……)

 拒絶した事で彼を傷付けてしまっていた。違うのに……違うのに……。言葉にならない。ただ、頭を振るしかなかった。
 ――わたしに近付けば、貴方まで笑われてしまうかもしれないから、嫌われてしまうかもしれないから……もしかすれば、呪われてしまうかもしれないから……だから離れたのだ。決して、貴方が嫌いだから離れた訳じゃない……
 けれども言葉には出来なかった。何故だか語彙力が低下していて、言葉を発する事すら出来なくなっていたた。
 それでも彼は――

(――そっか。僕も呪われるかもしれないから、近付いては駄目だと言ってくれているんだね?)

 ――わかってくれた。わたしはそれが嬉しくて、涙を堪える事も忘れ、ただ、頷いた。わたしの事を理解してくれる人が現れて、とても嬉しかった……
 そうしていると、彼は困った様な顔をして、その内笑い出してしまった。
 わたしは何かおかしな事をしたのであろうか。怪訝に思って彼の顔を見上げていると……

(――笑ったりしてごめん。君がある人にとても似てたから、思わず笑っちゃったんだ……)

 普通ならば不気味と思えるはずの存在なのに。それでも彼はわたしを蔑視する事無く向き合ってくれていた。今目の前に居るこの少年は、幻であってさえ、心優しかった。自身が呪われてもなお、わたしが醜い傷を持つ身でありながらもなお、それでもわたしを受け入れてくれた。
 その時だった――再びあの嘲り声と、わたしを蔑視する言葉が降り注ぎ始めた。わたしは顔を押さえて、再び泣き始めてしまった。彼にだけはそんな場面を見られたくなかったのに……
 わたしが虐げられる姿を見て、彼のわたしに対する評価が変わるかもしれなかった。そのまま嫌われてしまうかもしれない事を、わたしは何よりも恐れていた。
 その刹那――彼が左手に持つ石が弾けた気がした。
 彼はわたしの手を引いて、前を見据え、わたしを雨風から庇う様にして前に立ち、力強く、進み始めた。
 石が砕けて見えたのは見間違えだった様だ。それは彼が勢い良く手を振りかぶった為に見えた錯覚だったのかもしれない。ほんの一瞬、青い翼が広がった様に見えたのだ。
 やがて……声は聞こえなくなった。暗い空間には、わたしと彼だけが立っていた。彼はそれに気付くと立ち止まり、振り返って、わたしを見下ろした。
 安堵して、わたしは思わず彼に縋り付いてしまった。そのまま泣き始めてしまった。巴や母からも、何度も庇ってもらった事があった。今またそれをしてくれる人が現れた事で、ほっとしてしまっていた。
 けれども、わたしはそれが何故だか悔しくも思えていた。本当はわたしも彼ににそうして上げたいのに、今の幼いわたしではそれが叶わなかったから……
 ――そんな思考が、頭の片隅で、微かに過ぎのと同時。わたしの体に変化が起こり始めた。わたしの体は急速に成長を始めていた。けれども、十歳程の大きさでそれは止まってしまう。
 急激な変化の為か、あるいは年を追う毎に身に刻んだ呪いが増えていた為か、わたしは体調不良を起こしてしまう。ふらついて、しゃがみ込んでしまった。
 そうしていると、彼は当然の様にしゃがみ込んで、背を向けて、右手でおいで、おいでと言ってくれた。この人は醜い体を持つわたしに触れる事すら厭わずそうしてくれていた。
 恐る恐る、けれども吸い寄せられる様に、その背にこの身を預けた。心なしか、彼が嬉しそうに微笑んでいるのがわかった。
 彼は立ち上がる。そうされる事で、視野が広がって見えた。遠くの方まで見渡せた。そのお陰で、暗闇の中に、一筋の道が見えた。何となく、そこを進めばまた成長出来る気がした。
 わたしは彼にそちらへ行く様、腕を伸ばして指し示した。
 彼は頷くと、仄かな光を放つ石をポケットに収めて、わたしの言う通りの方角へと進み始めてくれた。
 そうすると、やはりと言うべきか。進んだ先からは、わたしが今日まで経験して来たあらゆる出来事が走馬灯の様に流れて来た。その光景の中から現れる人々は皆、わたしを指差しては、しきりに悪意を向けていた。
 そうされる度、わたしは身を縮こまらせた。こんな場面を彼に見られたくなかった。彼と居る事に対し、段々と罪悪感が芽生え始めていた。彼に触れている事に対し、罪悪感を覚え始めていた。
 しばしそれに耐え続けるも、もう限界だった。鬱屈として、ただ俯くしか出来なくなった。このまま、闇の中に消えてしまいたいと思った……――

(――大丈夫だから。僕はそんなことで君のことを嫌ったりしないよ。だから……もう少しだけ進んでみよう?)

 わたしは頭を振った。そんな人はもう居ないのだと。いずれは死んでしまうのだと……いずれは自分の元から立ち去ってしまうのだと……
 直接声に出しているわけでもないのに、その意味が、その思いが、彼にはちゃんと伝わっていた。

(――そうだね…………大切な人は、いつかは居なくなってしまう。人は、いつかは必ず死んでしまうものだから……)

 そう呟く彼の背中は、微かに震えていた……

(――それでも……忘れちゃいけない。真面目に生きていれば……いつか、また新しく、君の事を思ってくれる人が現れるから。大切な人が死んでしまっても、また、そんな人が現れるはずだから……)

 彼はわたしにそう言い聞かせながら、涙を流していた。本当は自分も誰かから同じ事を言ってもらいたいはずなのに。彼はそれでも自分の為などではなく、わたしの為にそれを言ってくれていた。背中越しでも、その表情を見ずとも、それがわかった。
 それを理解した瞬間――不思議と気が楽になっていた。過去の事なんて、もうどうでも良くなっていた。今だけを見据えていようと思えた。死んだ人ではなく、今生きている、今目の前にいる人だけを見据えていようと思えた。

 ――わたしの中に、一つの光明が生じていた。

 そうすると、不思議と、嘲り声が聞こえなくなっていた。辺りはシンと静まり返っていた。そして、それは起こった。
“奴等”はわたしが乗り切ったと見るや、今度はその矛先を彼に変えた様であった。前方から、新たに光景が流れて来る。その光景が何なのか、わたしにはわかった。
 それは彼の抱える“呪い”とも言える、凄惨な過去だった。話に聞いているだけのわたしでは、全ての人がシルエットとしてしか認識出来なかった。それでも、誰が誰で、どれが貴方なのか、それだけはわかった。
 横たわる誰かの隣に寄り添って、介抱しているシルエットから幾らか離れた場所に……幼い影が立っていた。世界に絶望し、立ち尽くしている、まだ十にも満たない少年のシルエットだった。
 そのシルエットは、その胸に黒い赤子のシルエットを抱いて立ち尽くしていた。それは彼が守った存在だった。そして、彼が守ったのはそれだけではなかった。彼の姉も、義理の父も、別の意味で守られていた。
 少年が血に塗れた事で、父が傷を負った事で、その家族は本来あるべき人間らしい在り方を取り戻していた。最後の一線を越えてしまう寸での所で、それは辛うじて、繋ぎ止められていた。
 誰かが命を落とす前に……“彼”が自らを犠牲にする事で、それは守られていた。

 ――家族であれば、時に誰かが全力で止めてやらねばならぬ事だってあるのだから……

 ――家族であれば、時に誰かが身代わりにならねばならぬ事だってあるのだから……

 そんな貴方の姿を見て、わたしはいつしか顔を押さえて泣いていた……。
 かつて巴や母から身代わりになってもらった時の事と、その光景が、何故だか重なって見えたのだった。
 やがて、父親らしきシルエットが、数人のシルエットによって運ばれて行く。家族の中で二番目に背の高いシルエットもそれに付いて行く。
 赤子を抱く少年のシルエットだけがその場に取り残され、立ち尽くしていた……。彼は放心しているのか、ただ、下を俯いていた……

 ――頼むから……誰かお願い……この子を救って上げて……!

 そう願うと、驚いた事に、二番目に背の高いシルエットはその場へと戻って来てくれた。父に連れ添うのではなく、彼女もまた、それを選び取っていた。赤子を抱いて放心する少年を、彼女は抱き締めてくれた。

 ――ありがとうございます……ありがとうございます……ありがとうございます……ありが――
 わたしは何度も胸中でそう呟いた。

 しばらくして、目まぐるしく、沢山のシルエット達が入れ替わり、立ち代わり、残された姉弟の元へと訪れた。そして、最後に訪れたのは、その姉弟の親族らしき者達のシルエットだった。
 その者達は少年を指差して、罵声らしきものを浴びせていた。
 それを見て、胸が痛くなった……苦しくなった。そうされて辛い事はわたしが一番理解していた。
 けれども、姉らしきシルエットはそれに敢然と立ち向かっていた。そうしていると、姉の胸倉を掴んで、張り手をする者まで現れた。それでも彼女は怯まず、何かを言い返していた。最後まで逃げ出さず、弟を守り続けていた。
 少し離れた所で、耳を塞いで、震えながらその物音を聞いている少年が居た。自分が罵倒されるのならまだましなのかもしれない。きっと、家族がそうされる事の方が彼にはずっと堪える事だったのだろう……傷付く事だったのだろう……
 姉が中傷され、時に手を上げられ、ボロボロになって行く姿を目の当たりにして、少年もまた同様に、ボロボロになって行った……
 姉はそれでも活き活きとしていた。黒いのっぺらぼうにしか見えないはずのその表情は、何故だか輝いて見えたのだった。彼女は誰かを守る事に生き甲斐を見出している様だった。その姿が巴と重なって見えた。
 けれども、幼い少年にはそれが伝わらない様だった。家族が自分のせいで傷付けられた。その事実だけが、色濃く記憶に刻まれてしまっていた。

 ――そうよ……自分が一番不幸だなんて、そんな事、思ってはいけない……

 己の不幸を嘆くよりも、他者の不幸を嘆く者の、何と崇高な事か……
 わたしは恥ずかしくなった。今の今まで、自分の事だけで精一杯だった。他人の事を考える余裕なんてほとんど無かった。他人を省みる事なんて忘れかけていた。
 一見すれば、呪いが移された彼の身を案じていた様に思えて、その実、それすらもまた、わたし自身がまた傷付かないで済む為の予防策に過ぎなかった。
 他者の為に心を砕き続けて来た貴方と、我が身の不幸だけを嘆いていたわたしとでは、その差は歴然としていた。
 人は皆、自分の為に泣くものだとばかり思っていた。けれども貴方は違っていた。
 貴方もまた、自分が再び傷付く事を恐れて、ただそうしていただけなのだと、あくまで偽善なのだと、そう言うのかもしれない。あの日、わたしに付いて来た本当の理由を吐露した時の様に。自分の過去を告白した時の様に……

 違う――それは偽善などではない。もしそれが偽善であるのなら、何故その場を離れなかったのか……貴方の傷が深まる前に、どうしてその場を立ち去ろうとしなかったのか……

 それは――貴方が人の痛みをわかる人だからよ。人の痛みを理解しようとすらせず、見て見ぬ振りして、都合の良い時だけ都合の良い発言をする人なんかではないからよ。

「――虐げられる者が、蔑まされる者が、いつまでもそのままであり続ける事はない。苦しみながらも、なおも方正に生きようとしている者が、孤独であり続ける事はない。時代は移ろい行くものなのだから!」
 母が言った様に、巴が言った様に、その姿を真似て、わたしは言っていた。

 脳裏で、歳の離れた友人が、ニッコリと微笑んでくれた。何処か皮肉めいた、それでも憎めない、少年の様な表情で――

「――もう一頑張りよ。もう少しだけ生きてみなさい」

 ――うずくまっている少年は、微かに、身動ぎした。

「――一人の時間はもう終わり。後は貴方次第。歩み寄るも、拒むも、今まで通り生きるも、貴方が決める事――」
 わたしが貴方の傍に居て上げるから……だから、どうか、応えて欲しい。
 あの日、貴方と出会う前に見た夢の中で、記憶の中に現れた友人から言われた言葉の数々が、今一度、わたしの口から蘇っていた。
 あの言葉は、わたし自身の為ではなく、わたしが誰かの為に言うべき言葉だったのだ。
 それは“わたしの母”が息を引き取る間際に、わたしに託してくれていた言葉でもあった。死ぬ前にも何度となく言い聞かせてくれていた言葉だった。
 その言葉があったからこそ、呪いを理由に、言い訳に、狡い事をしようとは思わないで生きて来れた。
 それは今のわたしを形作る大切な“呪い”だった。その“呪い”もまた、わたしの一部だった。それを抱えて生きるのは正直辛い。それでも手放さない。これは、わたしと言う人間を愛してくれた人が与えてくれた、掛け替えのないものなのだから。
 だから――この“呪い”は一生手放さない。わたしはそれを一生背負い続ける。

 ――白にもなれない。

 ――黒にもなれない。

 ――混ざり合って灰色にもなれない。

 ――斑の鳥の様に。

 ――かつて青い翼を朱に染めた……

 ――守野青羽の様に!

 次の瞬間――わたしの体を束縛していた木の根が音を立てて砕け散っていた。
 突如木の根から解放されたわたしは、そのまま勢い余って、無数の髑髏が織り成す丘を転げ落ちて行く。下まで落ち切って、その勢いが収まるなり、すぐに立ち上がる。
 後ろを振り返らず“そこ”へと駆け出した。一際暗く、何かが蠢いているその場所へと駆け寄っていた。人頭の百足が、人頭の蝉が、人頭の烏が……人頭の魑魅魍魎達が何かに群がっていた。
「――そこを退きなさい!」
 右手を振り上げ――それを解放した!
 黒い翼の形を模した瘴気が、夥しい数の魑魅魍魎の全てを、たったの一薙ぎで吹き飛ばしていた。
 その翼は次いで、ただ一つそこに取り残された地面に突っ伏している少年の身を包み込む。
 例え穢れた翼であっても……飛べない翼であっても……何かを守る事は出来るのだと、わたしはこの夏の間に学んでいた。貴方から学んでいた。
 その翼も、所詮は泡沫、幻……やがては消えてしまうもの。この暗闇の中、残ったのは、わたしと貴方だけだった。
 それだけで……十分だった。

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