小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

  第三十三章  暗黒のサンクチュアリ3

 あの日、自分の罪を告白した時の様に、貴方はわたしの膝に縋り付く様にして顔を埋めていた。

「――本当は甘えられる人が欲しかったんだ……」

「……うん」
 それは恥ずかしい事ではないのだと、肯定する意味でわたしは頷いた。
 子どもであれば、母親を早くに亡くしたのであれば、誰かに甘えたいのは当たり前だった。

「――それは誰でも良かったのかもしれない……」
「……うん」
 罪悪感がある為か、あるいは遠慮がある為か、義理の姉にはそれを求める事が出来なかったのであろう。

「――ただ、話を聞いてくれるだけで良かったんだ……」

「……うん」
 話をした後で、その話を聞いてくれた者から何を言われる事になるのか、それはわからない。
 もしかすれば、そのまま嫌われてしまう事にもなるかもしれない。
 それでも、人は話さずにはおれない程追い込まれる事があるのだ……
 大丈夫、わたしがそれを受け止めて上げる。貴方がわたしの呪いを受け入れてくれた様に。

「――この人なら、自分よりも苦しんでいるこの人なら、わかってくれるかもしれないって思ったんだ……」

「……うん」
 光栄だった。貴方からそう言われて、本当に、嬉しかった……。
 他人を羨んで、嫉妬してしまう様な、そんな人間なのに……それでも、そう思ってくれる人がいて、本当に、嬉しかった。

「――鳥子さんと出会えて良かった……」

 ――わたしも貴方と出会えて良かった。

「――鳥子さんが居てくれて良かった……」

 ――わたしも貴方が居てくれて良かった。

「――本当にありがとう……」

 ――こちらこそ。

 そう言うと、弱音を吐くのはそれで最後だと言わんばかりに、決然とした表情をして貴方は立ち上がった。
 続けて、正座したままのわたしに、手を差し伸べてすらして見せた。いつもの貴方だった。
 彼の手を介してわたしも立ち上がる。
 そうすると、易々とわたしは貴方の目線を追い越してしまう。わたしの目の高さに貴方の登頂はあった。そんな事はもうどうでも良かった。むしろそうである方が良かった。
 わたしの方が大きければ、その分、母親が我が子に対してそうして上げる様に、全身を使ってそうして上げる事が出来るのだから……
「……こんな所まで来てくれてありがとう。呪いが移されたのが貴方で良かった……貴方が優しい人で良かった……」
 わたしも、貴方も、試練を乗り越えていた。私達の周りからは嘲笑が聞こえなくなっていた。
「早くここを離れましょう。もう大丈夫だとは思うけど、ここに長く居ても良い事なんて無いわ。ここには呪いの源たる、象徴たる、恐ろしい存在が在るから……」
 私達は体を離して、自然とその方角を向いていた。
 黒一色の暗闇の途中から、夥しい程の数の髑髏が織り成す荒野が広がっていた。更にその先には、髑髏で築き上げられた広大な丘があった。
 その丘の上には、天を貫かんばかりに聳え立つ、一本の木があった。それは桜の巨木だった。その桜の花は満開だった。そして、その花弁の色は血の様な朱色だった。美しさよりも、得体の知れなさによる恐怖、おぞましさの方が際立っていた。こんな空間で、髑髏の上で、満開に花を咲き誇らせる様は異常だった。
 その高さは数百メートル以上にも達するであろうか。その外周も、容易に数百メートル以上に達しているだろう。その桜の木の周りを一周するのに、果たしてどれだけの時間がかかるのか、見当も付かなかった。
「……あの木の周りを使えば長距離リレーが出来そうだ……」
 それは何気無い呟きと言うよりも、畏敬の念から生じた嘆息であった。彼もまた、その桜の木から発せられる異常さを感じ取っていた。
「あの桜こそが……わたし達一族の抱える呪いの根源……その象徴とも言える存在……」
 それを聞いて、彼は目を見開いた。
「あまり見ては駄目よ……取り込まれてしまうわ……きっと、その内正体を現すわ。その時は発狂してしまうかもしれない……」
 ついさっきまでわたしはあの桜の木の根に束縛されていた。
 頭上から降り注いでいた悪意ある言葉の数々もまた、あの木の内に潜む“者達”から発せられていた……
 魔性の桜は、今はただ、静かに、血の様な赤い花弁を散らせていた。まるで静寂に満たされた冬の夜に降り積もる雪の様に、深々と……けれどもその花弁が降り積もる事は無い。
 黒い闇の地べたに到達すれば、ただ闇の中へと溶け込んでしまうだけ……
 ――その時、遠くの方から泣き声が聞こえ始めた。
 それは聞いているだけで胸が張り裂けそうになる激情だった。それは人であれば、産まれたばかりの頃であれば、誰もが容易に出来ていたはずの無垢なる感情の発露だった。
 桜の木から、暗闇の中から、再び、無数の嘲笑が聞こえ始めていた。赤子の泣き声と無数の狂笑とが織り成す大合唱が始まった。
 思わず、耳を押さえたくなってしまう。聞いているだけで気が狂いそうだった。
 周囲を見渡すも、赤子の姿は見えず、赤子らしきシルエットが現れる事も無かった。
 すると、遠くの方で聳えるそれに変化が起こり始めた。桜の巨木の枝から、何かが生じていた。それは無数の人頭だった。それが逆さに生え始めていた。それらは皆、一様に、ニヤニヤと、嫌らしく、卑しい笑みを貼り付けていた。
 逆さにぶら下がった人頭達は一斉に口を異常なまでの大きさにカッと開いたかと思うと、甲殻同士が噛み合わさるかの様な、カタカタ、カラカラと、渇いた不気味な笑い声を発し始めた。それは聞いているだけで背筋が凍竦み上がる程におぞましい笑い声だった。
 人頭は更にその数を増やして行く……それに乗じて、狂気の笑い声の数も増えて行く。その笑い声が大きくなるに連れ、逆さ吊りの人頭達は、今度は目や鼻や口から血を流し始めた。
 それはまるで潰れた石榴、あるいは赤い蓮の花――紅蓮の様だった。
 その光景を見て、繋いでいた彼の手がカタカタと震えていた。
「……呪いには意志があるってそういう意味だったんだ。全斎さんから言われていた言葉の意味がようやくわかった……呪いとは人の悪意そのものだったんだ」
 その通りだった。一族の抱える呪いとは即ち、幾百年経ても、流れず、朽ちず、彷徨い、在り続ける、呪いによって苦しめられた者達の怨念の集合体だった。呪いに苦しんだ者達が、新たに呪いに取り込まれる事で、更に呪いの種類は増え、その力も膨れ上がって行くのだった……
 桜の巨木の下の方でも変化が起こっていた。髑髏の織り成す丘にも変化が生じていた。
 髑髏の口蓋と眼窩から、夥しい程の血が垂れ流され始めていた。それは見る見る内にかさを増して行き、あっと言う間に赤い湿原地帯を形成した。そこには赤い広大な池が広がっていた。その中心には血塗られた桜の巨木が鎮座する、髑髏の島があった。
 そこは、闇の聖域とも言える世界だった。
「鳥子さん達はこんなものと戦っていたの……?」
 あんなもの、どうしようも無かった……時を追えば追う毎に、新たな呪いが増え、取り込まれ続けて行くのだ。それは、終わり無き、増殖し続ける、絶望だった。
「ええ……そうよ。あれを初めて見た時は、向こう数ヶ月、毎日夢に見てうなされたわ……」
 それは何度見ても慣れる事は無かった。わたしもいつしか震えを押さえ切れなくなっていた。彼の手をギュッと握り締めるより他無かった。
「……早くここから離れましょう」
 後数十秒、いや、数秒も居れば気が狂ってしまいそうだった。
 闇の世界の空は、いつしか血の様に濁った黄昏色に染まっていた。
 わたし達は震えながら、一緒に振り返り、けれども駆け出す事もままならず、ゆっくりと、ゆっくりと……桜の巨木のある方角とは反対の方向へと進み始めた。
 本能的に、息を潜めて歩いていた。足音を立てない様、慎重に歩いていた。もし少しでも音を立ててしまえば、奴等に気付かれて、一瞬で命を奪われてしまう――そんな脅迫観念に執り付かれていた。
 狂笑いの中で、ただ一つ聞こえて来る、赤子の耳をつんざく様な泣き声が、それを更に後押ししていた。この狂気の空間の中であっては、それすらも恐怖を増長させる要因以外の何ものでもなかった。
 けれども……彼はわたしとは全く違う反応を示していた。カタカタと震えながらも、蒼白になりながらも、彼自身も信じられないかの様な表情をして、俯いて、立ち止まった。呟く様にして、かすれた声を発した。
「は……ははは……僕は狂ってるのかもしれない……こんな時だってのに……また……馬鹿な事しようとしてる……」
 彼は改めて背後へと向き直っていた。わたしも一人になる事が怖くて、彼の手を離す事が出来ず、一緒に向き直る他無かった。
「――今あいつらが笑っているのは……誰?」
 彼は口元を震わせながらも、必死で何かを探していた。恐怖で萎縮していてなお、執り付かれた様に、病的なまでに……なおも何かを救おうとしていた。
「初めは鳥子さんだった……その次は僕……じゃあその次は誰? 奴らは一体誰を笑ってるんだっ!?」
 血走った目をして彼は叫んでいた。そうしても周囲の様子は何も変わらなかった。赤子の泣き声と、桜の木の枝にぶら下がる逆さ吊りの人頭達の笑い声が流れるだけだった。
 やがて……彼はそれを見付けた。桜の巨木のある島の周囲に広がる赤い池の水面上。そこには、全身を黒く染めた赤子が浮かんでいた……

-35-
Copyright ©雪路 歩 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える