小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第三十四章  青と黒のララバイ

 ――あの日の光景が、脳裏に改めて蘇っていた。床に放り出されて、泣き叫ぶ弟の姿とそれは重なった。
 桜の木にぶら下がった血塗れの生首達が笑っているのはその赤子だった。そうして悪意を向ける事で、自分達の一部として取り込もうとしていた。
 赤子も本能的にそれを理解しているのであろう。自分が悪意を向けられていると言う事を。そして、自分が孤独であると言う事を……
「あのまま放っておいたら……あの子もあいつらの様になってしまう……呪いに取り込まれてしまう……」
 気付かぬ内に鳥子と繋いでいた手を離し、一人で進み始めていた。
「――待って!」
 数歩進んだ所で、鳥子が呼び止めた。それは半ば悲鳴にも近い叫び声だった。
「……鳥子さんはそこで待っててっ……!」
 振り返って、厳しい顔をして、激しく言い付けた。そうすると、鳥子は怯んだ様にして一歩後退した。それでも、こちらを厳しく凝視して、頭を振りながら近付いて来た。
「貴方はこんな時でも誰かを助けようとするのね……」
 頭を振りながら近付いて来る鳥子に対し、こちらも頭を振りながら、憑り付かれた様にして呟く。
「僕は大丈夫……大丈夫だから……だから行かないと……」
 これは意地なのか、強迫観念なのか、最早区別がつかなくなっていた。本当はとても怖いはずなのに、体の震えだって止まらないのに、それでも体は突き動かされる様に動こうとしていた。
「誰かを助ける事でしか僕の罪は償えないんだ……あの日、人を刺してしまった罪は、人を助ける事でしか清算されないんだ……そうじゃないと、お母さんとの約束が果たせないんだ……」
 自分は狂った様に呟いていた。つい先ほど鳥子から救われたばかりだと言うのに、もうこんなにも危うい状態に戻っていた。
「貴方は……誰かを助ける事で、自分自身が死ぬかもしれない事が恐ろしくないの?」
 自分は鳥子に対し、肯定とも否定とも取れる頭を振った。
「死は恐ろしい……自分の死はもちろん……人の死は取り分け……僕は自分の死よりも、あの子があのまま取り込まれて終わりを迎えられない事の方が恐ろしい……」
 そう呟くと、鳥子は目を見開いた。
「死ぬ事は救いだ……全てを感じなくさせてくれるから……孤独も、罪悪感も……全ての苦しみを抱えなくて済むから」
 見方によっては、馬鹿みたいな事を、気が狂った様な事を言っているのに、それでも鳥子は頷いてくれた。理解してくれた。肯定してくれた。真摯な顔をして、言葉を返してくれた。
「その通りよ……だから約束して。ここから帰れたら、貴方の左腕の呪いをわたしに帰して」
 思わず、頭を振ってしまった。今度は完全に否定の意味を込めて。
「わたしだって自分の死や苦しみよりも、他人の死や苦しみの方が恐ろしいの。だからそれを押し付けないで。貴方が一番辛い事はわたしにとっても一番辛い事なの」
 ぐうの音も出なかった……その通りだった。少なくとも、鳥子にとってはそうだった。自分は今の今まで、鳥子に一番辛いものを押し付けていたのだ。自分がこれ以上傷付かないで済む様に、一番苦しいものを押し付けていたのだ。
「そっか……呪いを帰さないと言うのは僕のエゴだったんだ……。鳥子さんにとっては呪いを帰してくれる事が幸せだったんだ……あの唄は、虚勢でも、綺麗事でもなかったんだ……」
 鳥子はニッコリと笑って、頷いて見せた。
「……ええ。貴方と一緒……」
 もう何度目になるのであろう。自分は鳥子の前で涙を流していた。手の平で何度もそれを拭うも、とても拭い切れなかった。後から後から、止めどなく溢れて来るそれを、抑え切る事は出来なかった。
 鳥子は背の低い自分を、その長身でそっと包み込んでくれた。

「――ひとを呪わばあなふたつ――

 ――ひとつ帰せばあなひとつ――

 ――ひとり呪えばひとりが幸せ――

 ――ひとり呪いつづければみなが幸せ――

 ――だから呪われるわたしはみなの幸せ……――

 ――だから呪われたわたしは幸せ――」

 言い聞かせる様にして、鳥子は耳元であの唄を歌ってくれた……
「――貴方の為ならば呪われても構わない。それがわたしの幸せ……」
 そうしてもらって――これからどうすれば良いのかがわかった。
「……わかった。帰ったらその儀式をしよう。逃げ出したり、抵抗したり、約束を反故にしたりもしない。約束する」
 やんわりと、鳥子から体を離し、微笑みかけた。きっと、不器用でぎこちない笑みになっていたはずだ。
 不思議と――震えは完全に収まっていた。鳥子も同様だった。
「だから鳥子さん……これからする事を手伝ってくれる? 僕に付いて来てくれる? あの子を助けたいんだ。鳥子さんが居ればそれが出来るはずなんだ」
 それは確信だった。恐れず、彼女にも立ち向かってほしかった。
「わかったわ……わたしにも手伝わせて」
 頷き合って、桜の木の方角へと向き直る。僕達は手を繋いで、再び駆け出していた。二人並んで、桜の巨木の方角へと突き進んだ。
 駆けながら、鳥子に問い掛ける。
「――鳥子さんは泳げる?」
 鳥子は頭を振った。
「――わたし水泳なんてした事無いわ!」
 恐らくそうだろうと思っていた。きっと水泳は見学ばかりだったのだろう。
「なら僕だけが行く……鳥子さんはここで待ってて!」
 水縁に辿り着くなり、鳥子の手を離して、赤い池へと一人、踏み出した。その瞬間、足中の神経を通し、全身へと、体の髄から凍り付くほどの寒気が押し寄せて来た。それは物理的なものではなく、あくまで精神的な感覚であった。だからこそ、なおの事性質が悪かった。それでも心臓が縮まり、急速な眠気が押し寄せて来る。
 数歩進んだだけで足取りはふらふらとし、頭もくらくらとし始めていた。そのまま、倒れ込んでしまいそうになる。意識が遠退きそうになる……
 自分が再び戻って来た事で、頭上から降り注いで来る嘲笑の大きさが跳ね上がった。露骨に、直接的な言葉すら聞こえ始める様になった。
 ――莫迦な奴だ!……ギャハハハハハハハハハハハハ!!!!!――
 聞いているだけでおぞましい、絶望感が生じそうな声音だった。なのに、その時は不思議と絶望しなかった。
 自分は今――ただそれだけを見据えていた。だからこそ踏み止まれた。意識を正常に保つ事が出来た。気持ちのぶれ様など無かった。かえって、罵られる事で反骨精神に火が付く形となった。
 その瞬間、あの日の光景が脳裏に弾けた――蘇ったのは姉の姿だった。かつての姉もまた、そんな表情をしていた事があった。親戚中から誹りを受けてなお、胸を張っていた。一切怯まなかった。
 罵られれば罵られるほど、むしろその力強さは増して行った。そのまま、最後まで、敢然と大人達に立ち向かっていた。
 そうして……自分を守り抜いてくれたのだ……母の言葉だけではなく、姉もまた、その行動でもって、生き様によって、自分の中に確固たる指針を示してくれていた。
 降り注ぐ悪意による苛立ちと、思う様に前へと進めない苛立ちによって生じる腹立ちを、今一度、己が奮起する為の激情として、癇癪として発露する――体に活を入れる!
「――お前達には渡さない!!!!! その子は僕達が連れて行く!!!!!」
 そう叫ぶと、確かに、全ての笑い声が一時止んだ。それと同時に、寒気からも一瞬だけ解放されていた。それを切欠として、全身に力を込め、進み始める。そのまま、赤い水を蹴立て、ひたすら前へと突き進む。
 胸の上の部分まで浸水してようやく、赤子の元へと辿り着いた。
 黒く染まったのっぺらぼうの赤子。それでも、発せられる泣き声は、生きとし生ける赤子のそれと変わらない。この赤子は、ただ生きたいだけなのだ。ただ寂しいだけなのだ。誰かに愛してもらいたくて泣いているのだ。その為だけに泣いているのだ。
 すぐに両腕を伸ばし、水に浸からぬ様に、胸の前まで持って来る。力強く、それでもそっと、優しく、赤子を抱き締めた……
 父親を刺してしまって絶望した時、救い上げてくれたのは、姉の抱擁と、そして――弟の温もりだった。
 自分はあの時、小さな、無垢なる存在からも救われていたのだと、それをようやく思い出した。

 ――あの時、自分は、姉からも、弟からも、救われていたのだ。

「もう大丈夫。君は一人じゃない……僕がそばにいて上げるから」
 この数週間で、ニ度、三度と、鳥子からそうしてもらっていた。
 息を吸い込み……そして――吐き出した。

「眠れ よい子よ
 庭や牧場に 鳥も羊も
 みんな眠れば
 月は窓から 銀の光を
 そそぐこの夜
 眠れ よい子よ 眠れや――」

 ――わたしは目を見開いていた。
 口ずさみながら、赤子に微笑みかけながら、彼はこちらへと振り返った。
 その姿の、何と神々しい事か……惹き付けられる事か……
 彼はそれを覚えていてくれたのだ。眠っている間に、わたしが歌っていた子守唄を覚えていてくれたのだ。
 赤い水に浸かりながらも、わたしに笑いかけながら、赤子に笑い掛けながら、来た道を戻りながら、なおも彼は歌い続けた。
 澄んだ声で、声高々と、堂々と、歌い続けた……

「家の うちそと
 音はしずまり たなのねずみも
 みんな眠れば
 奥の部屋から 声の秘かに
 響くばかりよ
 眠れ よい子よ 眠れや――」

 保健室で眠りに就いている時は鼻唄だった。本人でもそうと気付かぬ内に、何気無く口ずさんでいた唄だった。実際にその歌声を聞けたのは寺に着いた後だった。
 疲れ果てて眠りに就いていた時、鳥子は自分の頭を撫ぜながら、この子守唄を、自分の為に口ずさんでくれたのだった……

 ――あの時、僕は救われていたんだよ。

「いつも 楽しい
 しあわせな子よ おもちやいろいろ
 あまいおかしも
 みんなそろって 朝を待つゆえ
 夢に今宵も
 眠れ よい子よ 眠れや……」

 ――眼前に、慈愛に満ちた表情をして立っている貴方がいた。

 ――眼前に、慈愛に満ちた表情をして立っている鳥子がいた。

 今まで見て来た中で、彼女は一番綺麗な顔をしていた。こんな綺麗な人を、自分は未だかつて、見た事が無かった。
 彼女の腕に、そっと、赤子を託した。二人一緒になって、その赤子を抱き締めた。
 打ちひしがれていた僕を救ってくれた君だからこそ、そんな君だからこそ、そんな君が歌う唄だからこそ、救えるものがある。

 ――三度目。それを歌ったのは、貴方が自分の罪を告白した時だった。泣き疲れて眠りに就いた貴方の為に、わたしは、今度は別の子守唄を歌ったのだ――

 ――あの歌声が、凄惨な過去の出来事から救い上げてくれた、僕を慰めてくれたあの唄が、今また、鳥子の口から紡がれる――

「眠れ 眠れ 母の胸に
 眠れ 眠れ 母の手に
 こころよき 歌声に
 むすばずや 楽し夢

 眠れ 眠れ 母の胸に
 眠れ 眠れ 母の手に
 あたたかき その袖に
 つつまれて 眠れよや

 眠れ 眠れ かわいわが子
 一夜寝て さめてみよ
 くれないの ばらの花
 ひらくぞよ まくらべに……――」

 ――あの時、僕は救われていたんだよ。そして……――たった今、この子は救われたんだよ。

 ――子守唄を歌い終えると、赤子の泣き声も、嘲笑も、完全に止んでいた。この場には、この空間には、わたしと貴方しか居らず、ただ静寂だけが広がっていた。

 ――鳥子の胸の中で眠りに就く赤子は、ようやく本当の意味で眠りに就いていた。黒いのっぺらぼうの状態から、本来の姿へと戻っていた。
 赤子はうとうととしながらも、鳥子の両頬に手を伸ばし、最後に「マンマー……」と呟いた……そのまま、あどけなく微笑んだまま、健やかな眠りに就いた……そのまま、最後の眠りに就いたのだった……
 そのまま、赤子は無数の色彩を持つ粒子となって、さらさらと散って行く……
 赤子は呪いの一部として桜の木に取り込まれる事も無く、鳥子の身に呪いを残す事も無く、完全に浄化されていた。その短い生涯を、無垢なまま、純粋なまま、呪いから解き放たれて、終える事が出来たのだった……
 鳥子は慈しんだ表情のまま、目尻に涙を堪えていた。やがてそれは決壊し、いつまでも止まらぬ筋を両の頬に作り出した。彼女は胸元を見下ろしたまま、赤子を抱いていた姿勢のまま、呟いた。
「――赤ちゃんと言うのも良いものね……もし今度生まれて来る事があったならば……その時はわたしが産んで上げる……ごめんね……本当にごめんね……貴方を死なせてしまって」
 それは静かな慟哭だった。聞くだけで胸が張り裂けそうになる、痛切な言葉だった……
「皮肉なものね……失った後でこの体の本当の価値に気付くなんて……」
 その通りだった。人は皆、失ってから、過ちを犯してから、本当に大切なものの価値に気付くのだ。
「知らなかった……呪いを移される事が、呪いを肩代わり出来る事が、こんなにも幸せな事だったなんて。こんなにも満たされる事だったなんて。もっと早くにそれを知りたかった……そうしていれば、あの子は生きていたのかもしれない……」
 もしそれを知っていたのならば、彼女は二ヶ月前に本家から逃げ出していなかったのかもしれない。
 けれども、もしそうしていなければ――

 ――貴方は頭を振った。

「――あの子はどの道病で亡くなるはずだった。それでもあの子は幸せだったはずだ。最後は“お母さん”に抱かれて死ねたんだから……。鳥子さんも見たでしょ? あの寝顔を……あの満ち足りた表情を……あの子がどれだけ幸せだったのか……僕にはそれがよくわかる」
 もしわたしが本家から逃げ出していなければ、わたし達は出会えていなかったはずだ。そして、あの赤子も呪いの一部として取り込まれてしまっていたはずだと、彼はそう言ってくれていた。
「あの子が死んだのは鳥子さんのせいなんかじゃない……」
 それだけは確かだと、自分の中では確かな事なのだと、貴方は確信を込めて、わたしに言い聞かせてくれた。
 かつて、同じ理由で大切なものを失った貴方だからこそ、そんな貴方の口から出た言葉だからこそ、人を救える言葉が紡げるのだ。だからこそ、その言葉はわたしの胸に響いたのだった。

 ――その言葉に、わたしは救われていた。

 いつしか辺りの様相は一変していた。朱色の空間が、純粋な黒へと戻っていた。
 桜の木も、血の池も、髑髏の丘も、全て、完全に消え失せていた。
 けれども。呪いの全てが浄化されたわけではないはずだった。恐らく、この空間が発生する発端となったあの赤子が消えた事で、この空間もまた遅ればせながら消え始めているのであろう。
 次いで、暗闇は黒から灰色へとその色合いを変えて行く。最終的には白い闇とも言える、何も無い、清浄な空間だけが広がった。
 そこは見渡す限りの白――虚無だった。
 やがて、白から今度は光へと変じ始めた。その内、遠くの方から、光の波とも言える何かがわたし達の方へと押し寄せて来た。
 それに気付いた次の瞬間には、二人の全身は光に包まれてしまっていた。
 目を開いては居られない程の眩しさを覚えると同時――二人は同時に意識を失った。

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