小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

  第三十六章  幻色のサマーバケーション2

 贄の儀を行った後、鳥子は伏せってしまった。呪いが帰って来なかった事が余程ショックだったのであろう。
「――青羽様。最後に鳥子様に御会いにはなられないのですか?」
 寺を出て行く用意を進めていると、背後から声をかけられた。
 いつの間に立っていたのだろう。やはり、物音一つ聞こえなかった。それもまたいつもの事なので、振り返る事も無く、可能な限り、淡々と答えた。
「――行かない。行っても顔を合わせてくれないと思う。口も利いてくれないと思う。だから行かない」
 見当違いな事を言っていると、自分自身でもわかっていた。鳥子は事実そうするだろう。けれども、それだけで会いに行かないわけではなかった。恐らくそこは色にも理解出来ているはずだった。
「鳥子様の御力になってくれると仰ったではありませんか……」
 ただでさえいつも棒読み口調なのに、その声は最早、完全に渇いていた。
「僕は鳥子さんを見捨てたりしないよ。これで最後だとも言わない。この先、例え鳥子さんが僕の事を嫌ってしまっても、僕の鳥子さんに対する態度は変わらないよ……ずっとね」
 振り返って、色に微笑みかけた。ここに来てようやくその境地が訪れていた。他人に対し、無防備に笑いかける事が出来た。
 色はこちらの顔を見詰めてはいなかった。こちらよりやや手前の畳の上を、ただ、見据えていた。
「青羽様は……鳥子様の事が御好きではないのですか?」
 その質問には簡単に答える事が出来た。
「うん……好きだよ」
 あまりにすんなりと言ったので、色は怒った様だった。
「…………っ!」
 すぐに口を噤むも、それでも不機嫌そうに、眉間に皺を寄せていた。その仕草、その態度は、鳥子にそっくりだった。さすが姉妹だった。
 今の言葉の真意は、例え色であっても、はっきりとは伝えないつもりだった。これからの事は全て、鳥子達に委ねるつもりだったから。
 僕はこれより、呪いを抱えて生きて行く。鳥子を恨まず、一族を恨まず、この呪いはあくまで自分のものとして抱えて生きて行く。
 だからこそ、向こうから接触を持たぬ限りは、こちらからは今後一切の接触を持たないつもりだった。鳥子、色、全斎、あるいは一族達が、こちらに対し、何かを求めない限りは、何かをして来ない限りは、一切関わらないつもりだった。
 情に流されてはいけないのだから……たった一夏、偶然、距離が近付いただけの話なのだから。居心地の良い場所を、ただ一時、得られただけの話なのだから。
 これ以上は新参者である自分が引っかき回して良い問題ではなかった。感情のままに動いても良い問題ではなかった。これ以上は向こうから求めて来ぬ限り、何もしないつもりだった。そして、そのまま何も音沙汰が無ければ……――自分達の関係はその程度のものだったのだろう。それならそれで構わなかった。
「――あの空間の中で鳥子さんに言われたんだ」
 荷物をまとめ上げるなり、立ち上がる。その次に、色へと向き直る。
「――“一人の時間はもう終わり。後は貴方次第。歩み寄るも、拒むも、今まで通り生きるも、貴方が決める事”――」
 色は顔を上げるなり、目を見開いた。もしかすればその言葉は、色にも聞き覚えのあるものなのかもしれなかった。
「僕はこれからしばらくは、家族に専念するつもりだ。家族のために時間を割くつもりだ。だから、しばらくは他人に関わる余裕なんて無いかもしれない。それでも……これだけは忘れないでほしい。それでも鳥子さんの事は忘れない。色の事も忘れない。全斎さんの事も忘れない。呪いの事も忘れない」
 荷物を詰め終えた学生鞄を持ち上げて、廊下へと出る。ゆっくりと、数歩だけ歩みを進め、すぐに立ち止まる。庭を見渡しながら、色に背を向けたまま、話し続ける。
「……僕はいつだって君達の力になるつもりだよ。見捨てるつもりなんて無い。僕を求めてくれる限り、僕を拒まない限り、今まで通り、僕は誰かを助けるために生きて行く」
 かっこ付け過ぎだった。それでも嘘偽り無い言葉だった。揺るぎない決意表明だった。だから恥ずかしいとは思わなかった。堂々と胸を張る事が出来た。
 色が息を呑んだのがわかった。
 振り返って、色に頭を直角に下げた。
「――七栄色さん。今日までお世話になりました。僕の悩みを聞いてくれてありがとうございました。鳥子さんの事、どうかよろしくお願いします。鳥子さんには今、家族の力が必要なんです。だから、どうか、よろしくお願いします」
 震えながら、色は口を開いた。
「……以前、御伝えした、はずです……」
 声すらも震えていた。
「私では無理なんです……鳥子様の身に触れられない私では……――」
 顔を上げて、色の顔を真っ直ぐに見詰めた。
「色……例え家族でも、出来ない事は確かにあるよ。遠慮して、気恥ずかしくて、出来ない事もあると思う。そして、それ以外にも、特別な理由があって出来ない事も確かにある。それでも……そこは頑張らないとだめなんだ。歯を食い縛って、向き合わないとならないんだ。僕もこれからそうするつもりだ。家に帰ったらそうするつもりだ。なかなか難しい事かもしれないけれど、それでも逃げ出さず、投げ出さず、頑張ってみようと思う。だから色も頑張ってほしい。僕も家族のために頑張るから、色も家族のために頑張ってほしい――お姉さんの事、どうかよろしくお願いします」
 そう言って、再び頭を下げた。
 色は何も言わなかった。ただうつむいたまま、緋袴の裾を握り締めていた。その仕草はやはり、彼女に似ていた。
 そのまま、彼女に背を向けて歩き出した。

 玄関で靴を履いていると、今度は全斎から声をかけられた。
「――正直不安だった。あのまま、いつまでも家に帰ろうとしないんじゃないかと思っていたんだが、そこはきちんとけじめを付けてくれたな。帰る時は自分の意思で決めたな」
 皮肉気に笑って、全斎はそう言った。
「最後になってすいません。全斎さん。この夏の間、本当にお世話になりました」
 色に続いて、全斎にも頭を下げた。
「俺は御前に何もしてねぇぞ? 御前には一切、金や手間なんて掛けた覚えは無ぇ」
 そんなわけ無いのだが、特に言い返すつもりは無かった。
「そうですか……なら、精神的な意味でのお礼と解釈して下さい」
 腕を組んで、横目になって、しばらく思案にふける全斎。そうしながら、彼は話を続ける。
「まぁ……こっちから叩き出す前に出て行ってくれるってんだからありがたい話だ。ここへ来たばかりの頃の御前だと、いつまでも鳥子の傍に引っ付いて離れそうになかったからな……」
 やはり、この男には見抜かれていたのか。
「その通りです……鳥子さんを助けたいと言い訳して、家に帰らない口実にしようとしていました」
「まぁ、若い内は色々あるだろうよ。自分で自分の悪い部分に気付いて、それを清算出来る様に動けるってんなら大したもんだ。これからも精進しろよ」
 もしかすれば、この男は色から自分の事情を幾らか聞いているのかもしれない。けれども、それをここで確認しようとは思えなかった。
「そう言ってもらえて恐縮です。でも、僕は本当に大した事無い人間です……」
「当たり前だバカ。じゃねぇと、ここまで答えを出すのが遅くなる訳無ぇだろ!」
 それについてもその通りだった。鳥子に呪いを帰すか決めるのに、こんなにも時間をかけてしまった。しかも途中からは遊びほうけてすらいた。そこは本当に反省せねばなるまい。
「傀儡達が来るまで、馬鹿な事してたもんです……ほんとに」
 それはあらゆる責任から逃れ続けようとしたツケだった。そのお陰で、鳥子と色が苦しむ姿と、赤子が泣く姿、そして、あの恐ろしい存在を垣間見る事になってしまった。今思い返しても、それは胸に響いた。ズキリと、心臓が軋んだ。体中が震えた。
 やはりそうだったのだ。それらの出来事に対し、自分は、酷く堪えていたのだった……。
「赤ん坊の呪いが浄化されたからと言って、鳥子が無事に帰って来られたからと言って、手放しでお前を褒められる訳じゃない。そこは鳥子が本家から逃げ出した件と一緒だ。たまたま運良く、物事が綺麗に収まったってだけの話だ。あの呪いの象徴と対峙して無事に済んだと言うのも、ただ運が良かっただけの話だ……」
 恐らく全斎は、改めて本家に連絡を入れたはずだった。傀儡の襲来と、赤子の件について、本家に対し、何かを言ったはずだった。
「僕が事態をややこしくした部分もあると思います……そこはすいませんでした」
 改めて、頭を下げる。
「そこは鳥子の気が晴れたから良しとしてやる。それにな、今回の一連の騒動に関しては、どちらかと言うと、お前が居てくれた御陰で助かった部分の方が大きい様だ。鳥子もそう言っていた。そこは俺も感謝している」
 頭を上げると、真剣な表情をしている全斎と目が合った。
「もう何年も……鳥子のあんな明るい表情を見た事は無かった。そして、鳥子の前にそんな奴が現れる事も無かった……鳥子が潰れる前に、御前みたいな奴が現れてくれて感謝している」
 全斎は目をつぶって、唸る様な表情をして、そう呟いた。それはあらゆる感情が込められた、痛切な、苦悶の表情、そして、言葉だった。
 恐らく、一番多くの絶望を抱えているのは、鳥子でもなく、色でもなく、もちろん自分でもなく、この男だった。それを悟った。呪いと一族に一番身近な所に身を置くこの男だからこそ、その分、より深い絶望を知っているはずだった。
 かけるべき言葉が見付からなかった。この男にはどんな言葉をかけても、付け焼刃の言葉となってしまう気がした。
 一分ほど、そうしてお互い黙っていただろうか。やがて、全斎は再び口を開いた。
「……これから駅まで歩いて行くのか?」
 視線を上げると、全斎は再び目を開いて、いつもの表情をしてそこに立っていた。
「はい。途中で商店もありますし、問題無いです。お金もまだ十分にありますから大丈夫です」
「申し訳無いな……まぁ、そこは自己責任ってやつだ。自分の我侭でここへ来た以上は自分で責任持てや」
 この寺にある金は、代々の呪巫女達がその身に呪いを刻む事で得た金だと聞いている。それを自分なんかのために使って良いわけがなかった。
「もちろんです。僕のわがままでここまで来たんです。だからそんな事期待してません」
 ニッコリと笑って、そう言い返した。
 すると――不意の一撃が来た。
「鳥子の事……頼んだぞ?」
 目を見開いた。そこには、全斎の厳しい表情があった。取り分け目付きは真剣だった。揺るぎない、確固たる気迫が込められていた。
「…………はいっ!」
 気を引き締める。目付きを鋭くし、可能な限り、声を張り上げた。
「それじゃあ……気を付けて帰れよ? 今度ここへ来る時は、普通に遊びに来れば良い。色の遊び相手になってやってくれ。呪いの事もその時にまた教えてやる。金さえ払えば、寝泊り位はここでさせてやるし、金が無ければまた上の水場で野営でもすれば良い。また鳥子と一緒にここへ来れば良い」
 もし、またそうする事が出来たのならば……それはどんなに素晴らしい事であろうか。鳥子から嫌われてしまった今となっては、それはもう、遠い幻の様に思えた……――

 少しでも早く帰りたくて、特急の電車に乗る事にした。大きな駅に着くなり、ATMでお金を下ろして、そのための切符を買った。
 その際、ダメ元でカードを入れてみたのだが、口座が凍結されている様な事は無かった。それ所か、残金が増えてすらいた。数万円ほどのお金が振り込まれていた。
「……お姉ちゃん」
 厳しい姉の事だから、口座から金を下ろせなくされていてもおかしくないと思っていた。それでも、やはり自分の事が心配だったのであろう。本当にありがたかった。それを見た後は、更に家に帰りたくなった。
 数時間経って、ようやく家の最寄の駅まで辿り着いた。あの日、鳥子と逃避行を始めた、牛問屋が近くにある駅へと戻って来ていた。途中、お昼を食べる時間すら惜しんで、真っ直ぐにここまでやって来た。
 時刻は既に夕方になっていた。空には橙色が広がっていた。排気ガスのせいか、田舎で見た夕暮れよりもそれは澱んで見えた。それでも安堵を覚えた。
 気が急いて、自然と駆け出していた。途中、高校の正門前を通り過ぎた。中を覗いて見れば、陸上部が集団で、かけ声を出してランニングしているのが見えた。
 更に敷地の奥の方から、校舎の向こう側から、カキーンと、甲高い音が聞こえて来た。それは硬球がバットに当たった音だった。野球部もまた、練習に勤しんでいた。
 立ち止まって、しばらくの間、敷地内の様子を眺めていた。
「………………」
 望まぬ形で通う事になった学校ではあったものの、それでもそこはもうすっかりと自分の一部になっていた。そうでなければ、今こうして穏やかな気持ちを抱けないはずだった。
 休み明けに級友達と会うのが楽しみだった。今までは遠慮がちに、距離を置いて接していた。これからはきちんと歩み寄ってみようと思えた。
 過去の出来事のせいで、あの凄惨な出来事のせいで、自分でも気付かぬ内に、他人と距離を置いていた。けれども、それは今までの話。
 新学期からはもっと積極的になってみようと思えた。人と関わってみようと思えた。不思議と気持ちが晴れ渡っていた。そうする事が正しいと、素直に認める事が出来た。
 ――そうだ。そのままじゃいけないのだ。距離が離れてしまえば、またいつか、あの日と同じ様な事が起こってしまうかもしれない。そうならないためにも、可能な限り、多くの人と歩み寄って、親しくするべきだった。自分と、そして、周囲の人々を守るためにも……
 いつの間にか、また駆け出していた。全力疾走していた。夏の間に体力が幾らか付いていたのか、これだけ走っても息は上がらなかった。
 あっと言う間に家の前に辿り着く。ほんの一瞬、住み慣れた一軒家を見上げてから、門扉を押し開いて、敷地内へと踏み出した。
 玄関扉の前に立って 今一度気を引き締め、開こうとする直前――それは向こうから開かれた。
「――青羽?」
 開かれた扉の向こうには、姉が立っていた。キャリアウーマンの様なスーツ姿だった。どうやらまだ仕事から帰ったばかりの様だった。恐らく、門扉が開く音がして慌てて出て来たのであろう。
 姉の髪は右半分だけ解かれておらず、もう左半分はグシャグシャに跳ねていた。そんな姿、いつもなら絶対に見せないのに……それが申し訳なかった。
 姉はいつも通り、ツンと澄ました表情をしていた。目付きも鋭く、冷たげで、まるで睨んでいるかの様だった。おまけに背も高いため、見下ろされているだけで威圧的に感じられた。それは絵に描いた様な、厳しい、高圧的な女上司像そのものだった。
「――青羽っ……!」
 声もまた、冷たげだった。感情の起伏が無く、凍て付いた様な印象を受ける声質だった。その声で怒鳴られれば、誰でも萎縮してしまうはずだった。なのに、この時ばかりは、その声は酷く消沈していた。
 一見すれば怖い人なのに、それでも自分は迷い無く、真っ直ぐと姉に向き合う事が出来た。いつしか鞄を放り出して、自然と、笑顔になっていた。そして、声を張り上げた――
「――お姉ちゃん!……ただいま!」
 それでも知っている。そんな顔をしていても、冷たげな声をしていても、お姉ちゃんは――守野紅羽は――最高の姉なのだ。
 姉はこちらを抱き寄せてくれた。あの日、あの時同様、力強く、自分を抱き締めてくれた。もう何年も、こんな事をしてもらった事は無かった。ある程度自分が大きくなってからは、血が繋がらないためか、それ以外の理由もあってか、この様な事はお互いした事が無かった。
 家の前だと言うのに、いつもの姉なら絶対そんな事しないのに、それでも、今この時ばかりはそうしてくれた。やっぱりこの人は自分の姉だった。自分が今一番求めているものをわかってくれていた。この人は、どうしようもないぐらい、守野青羽と言う人間の姉なのだった。
「――……心配したのよ! 学校の先生達だって心配されていたし、父さんだって心配していたのよ! しばらくすれば帰って来るから心配するなって、男なら誰でも一度はそう言う事するもんだから気にするなって、信じて待っていてやれって言ってたけど……それでも心配だったのよ!」
 姉は自分の家出の件を父に相談していた様だった。それは恐らく、離れて暮らし始めてからは初めての事だった。それだけ姉は自分の事を心配してくれていたのだろう、慌てていたのだろう……本当に申し訳なかった。
 きっと真面目な姉の事だから、男親であれば弟の心情を理解出来ると考えたのであろう。そして、それは正解だった。さすが父さんだった。さすが同性だった。息子の気持ちをよく理解してくれていた。
「ごめんなさい。心配かけて……ごめんなさい」
 姉の背に腕を回して、姉の肩に顔を埋めながら、謝罪した。
「黄羽なんてあんたを探しに行くって言って、しばらく目が離せない状態だったのよ」
 物音が玄関の方から聞こえた。姉の肩越しに、開かれた玄関扉の更に向こう側を見やった。
 するとそこには、服の裾を掴んでこちらを見詰めている、まだ十にも満たない少年が立っていた。ただでさえ幼いのに、その上、更に母性本能をくすぐるほどに愛らしい童顔をした少年だった。
 黄色い羽と書いて黄羽。読みは『こうは』。その名前は『紅羽と青羽を繋ぐ架け橋となる様に。血の繋がらぬ姉と兄の間に立って留めてくれる、黄色い信号の様な子になってほしい』――そんな願いが込められた名前だった。
 黄羽と言う名前もまた、母の瑠璃子が付けた名前だった。正直言って、変な名前だった。姉兄弟揃って変な名前だった。
「コウ!……ただいま」
 姉から身を離して、玄関の前で立ち竦んでいる弟へと歩み寄る。
 おずおずと、弟は手を伸ばしてくれる。怯む事無く、手を差し伸ばす。そっとその体を抱き上げると同時、その瞬間、幸せが体中を駆け巡った。全ての疲労が、全ての鬱屈とした思いが、一瞬で霧散していた。
 黄羽は声を上げて泣き始めた。家の前で、姉兄弟揃って何をしているんだろう――そんな事を思ってしまった。弟が泣くのも、姉が無様な姿をしているのも、全部、自分のせいだった。本当に、申し訳なかった……
「――コウ……学校の宿題は終わった?」
 フルフルと、黄羽は頭を振った。
「一緒にやってたゲームは先に進めた?」
 協力してやっていたアクションRPGの事を尋ねてみた。
「……一人じゃ倒せない」
 それを聞いて、思わず笑ってしまった。確かに幼い子ども一人だと、あのボスはまだきついかもしれなかった。
「じゃあ、宿題してから一緒に倒そうか?」
 黄羽は頷いた。弟は勉強があまり好きではない。それでもきちんと真面目にやろうとする性分ではあった。姉に似て、そういう所は律儀だった。
 基本的に弟は素直な性格だった。両親が家には居ないためか、その分、姉と兄を両親の様に慕ってくれていた。しばらく家出していた兄に対しても、何ら態度が変わる事は無かった。そんな所がまた、堪らなく愛おしいと思えた。
 これからする事は、あの寺に居る間に考えておいた。そして、電車に乗っている間に、改めてまとめておいた。
 これから夕飯までは弟の宿題を見るつもりだった。その後は夕飯を姉と弟と自分の三人で食べるのだ。その次は弟と風呂に入って、また少し宿題をして、それからゲームをして、寝るとしよう。
 明日の朝は早く起きて、姉に弁当を作って上げよう。学校が始まるまでは毎日弁当を持たせて上げよう。丁度良かった。たまには姉を労って上げたかったから、良い機会だった。
 そして、他の家事をしながら、弟の勉強を見ながら、空いた時間があれば運動でもしてみよう。ランニングなんか良いかもしれない。この夏の間に付いた体力を落とすのはもったいなかった。
 この数週間で、自分は彼女から色々なものをもらっていた。

 ――ありがとう……鳥子さん――

 黒く、美しい、あの心優しい少女の面影を、今一度……胸の中へと落とし込む。
 そうして、明日へと踏み出す事にした――

-38-
Copyright ©雪路 歩 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える