小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第三十七章  幻色のサマーバケーション3

 今日は夏休み最後の日だった。明日からまた学校が始まる。
 今日は日曜日なので、家には紅羽も居た。姉は居間のソファにゆったりと腰掛けて、のんびりテレビを見ていた。黄羽の方は朝食を食べ終えるなり、すぐに友達と一緒に遊びに行ってしまった。ちなみに宿題はちゃんと全部終わらせてある。だから思い切り遊んで来れば良い。
 逃避行から帰って来て一週間が経っていた。鳥子と過ごす事が半ば通常化していた矢先、あの事件は起きた。それを機に、自分達はそのままではいけないのだと気付き、こうしてまた本来あるべき日常へと戻っていた。
 これがいつもの自分。そしていつもの日常だった。鳥子の方は今頃どうしているのだろうか。もしかすればまだあの寺に居るのかもしれない。けれども、電話をする気にはなれなかった。
 ただ、身を委ねようと思った。向こうが自分を求めてくれるまで、ただ、待ち続けるつもりだった――
「――?」
 ふと、背後を見やる。何となくそうしていた。台所の角から覗いて数メートルほど先には居間がある。
 先ほどとさして変わらない様子で、紅羽がソファに座ってまったりとくつろいでいた。CMの度、チャンネルをポチポチと押しては番組を変えている。それは無駄な時間が嫌いな姉の癖だった。
「……気のせいか」
 姉と自分以外、家には誰も居ないはずだった。他に誰かが近くに居る気配がしたのだが、どうやら気のせいだった様だ。
 皿洗いを再開する。鼻歌混じりに、次から次へと変わる番組の音を聞き流していると、唐突にチャイムが鳴った。
「――お姉ちゃ??ん! お客さぁ??ん!」
 さっきの気配の正体はこれだったのかもしれない。時計を見れば午前の十時だった。十時と言うのは、世間一般的には、他人の家を訪ねても良い時間だった。十時丁度に来るなんて、なんとも律儀な来訪者だった。
「お姉ちゃぁ?ん? 聞いてる?? 代わりに出てくれる??」
「うん。わかってる」
 素っ気無くも、素直に応じてくれる紅羽。休みの日とは言え、だらしない格好をしていないのはさすがだった。ピシッとした、ちゃんとした服を着ていた。下はワイン色のロングスカート。上には薄桃色の半袖のシャツを着ていた。その姿は何となく鳥子を連想させた。髪が肩を過ぎた辺りまでの長さしかない点を除けば、そのシルエットは鳥子と重なって見えたのだった。
 しばらくすると、ガチャリと玄関扉が開かれる音が聞こえた。玄関からボソボソとした会話が聞こえ始める。来訪者はどうやら若い男性の様だった。声の質でわかった。ただし、会話の内容まではよく聞こえない。
 五分も経たない内に来訪者は出て行った。どうやら新聞の勧誘か何かだった様だ。家の姉が相手では契約を取り付けるなんて無理なはずだ。新聞の勧誘員に心の中で同情しておいた。
 それ以上は特に気にする事も無く、無心に皿洗いを続けていると、姉はすぐに居間へと戻って来た。そして、今度は真っ直ぐにこちらへとやって来て、声をかけられた。
「――青羽。あんたにお客さんよ。居間に行ってなさい。それは私がしておくから。今お客さんには車を家の敷地内に動かしてもらってる所。だからまたすぐに戻って来られるはずよ」
 予想外の事だった。家の前からも、確かに車の駆動音が聞こえて来た。
「え?……誰?」
 振り返ると、姉は大きな包みを両腕に抱えていた。抹茶色から橙色へと、端から端へと到るまでに、徐々に色彩を緩やかに変化させている、春と秋が混在したかの様に見える、何とも上品な色合いの包みだった。一目見て高価な物だと知れた。
「天羽庵さんと言う方よ」
『あもう・いおり』。初めて聞く名前だった。少なくとも、そんな珍しい苗字と名前の男性には会った事が無いはずだ。
「人違いじゃないの? そんな人知らないよ」
 紅羽はすぐに補足してくれた。
「灰羽さんの従兄妹の方らしいわ。あんたにお世話になったからって、わざわざ挨拶に来られたらしいの。お礼を言いに来たんだって」
 灰羽は鳥子の苗字だ。そして、鳥子には医大生である従兄妹がいるとも聞いていた。ようやくそこで合点が行った。恐らくその従兄妹が家に来たのだろう。
「これ……物凄く良いもじゃない」
 姉は包みを開き、包装紙を剥がして箱の中を見るなり感嘆の声をもらした。
 それは和菓子と洋菓子がセンス良く、彩り良く、和洋折衷で詰め合わされた菓子折りだった。羊羹、ゼリー等の生菓子から、おかき、クッキー等の焼き菓子、そして、チョコやキャンディーに到るまで、思い付く限りの菓子がその箱の中にはぎっしりと詰まっていた。無いのはスナック菓子や駄菓子等の、庶民派の菓子類だけだった。そんなの当たり前だった。
「これ……銀座の、それも老舗の一流品よ……少なくとも数万はするんじゃないの?」
「……こんなの貰っちゃっていいのかな?」
 姉と一緒になって冷や汗をかいていると、その時、改めてチャイムが鳴った。
「青羽行きなさい。私がお茶の用意するから、今度はあんたが出なさい。ほら、早く行って!」
 姉はそう言うと、紅茶と緑茶、どちらを淹れるべきか迷い始めた。
 その姿を見届けてから、自分は慌てて玄関へと足を運んだ。
 玄関扉を開き、出迎えると、そこにはスーツ姿の、銀縁眼鏡をかけた長身の青年が立っていた。細く、そして鋭い目付きをしているため、銀縁の眼鏡がよく似合っていた。怜悧な風貌の青年だった。そして、かなりの美青年だった。冷たげな風貌と、眼鏡をかけている点は、姉の紅羽に通ずるものがあった。銀縁眼鏡の光沢が、一層青年の美貌を引き立てていた。何もかもが場違いだった。この人とは住む世界が違っていた。
 おまけに天羽庵は背が高かった。鳥子よりも更に高かった。恐らく百九十センチ前後はあるであろう。その代わり、体付きはがっしりとはしておらず、まるでマネキン人形の様にスラリとしていた。そのたたずまいはどこか鳥子と重なって見えた。
「――君が守野青羽君だね?」
 見た目こそ冷たげではあるもの、声も冷たげではあるものの、それでも優しげな微笑だった。柔らかく、慈愛に満ちた表情だった。
「初めまして。私は天羽庵と申します。先日は従兄妹の灰羽鳥子が大変御世話になりました。どれだけ鳥子が君から御世話になったのかは聞き及んでいます。この度は本当にありがとうございました」
 見た目や学歴、そして恐らく、生まれすらも守野家なんかでは遠く及ばないはずの青年が、自分なんかに頭を下げていた。思わず、一歩退いてしまった。
「い、いえ……とんでもないです……こちらこそ鳥子さんには大変お世話になりました」
「それは本当かい?」
 ニヤリと笑って、それでも憎めない口調で彼は言った。こんな顔も出来るのは意外だった。やはりと言うべきか。従兄妹なだけあって、やはり鳥子と似ていた。
「ほ、本当です!」
「鳥子は君に一方的に迷惑を掛けてしまったと言っていたよ?」
 苦笑して、青年はからかう様にして言った。
 こちらも思わず笑ってしまった。頭を振って、青年に答えた。
「いえ。それは違います……鳥子さんには確かにお世話になりました」
 あの日の事が……今一度、脳裏に蘇る。鳥子に泣き付いて、過去の罪を吐露した時の事が、ほんの一瞬だけ過ぎった。
「……そうか。それならば良かった」
 天羽庵は穏やかな表情をして自分を見下ろしていた。その表情は心なしか、どこか切なげに見えた。
「どうぞ。上がって下さい」
 スリッパを青年の足元に用意して、手の平で示した。
「それでは御邪魔します」
 彼は改めて頭を下げると、スリッパに足を通した。
 そのまま家内へと招き入れる。居間へと通した後は、ソファに座ってもらった。自分はその対面に座った。
 しばらく、向かい合うだけの、無言の時間を過ごした。姉はなかなかお茶を持って来ない。カチッ、カチッと、時計の秒針が立てる音だけがやけに部屋の中に響いた。
 チラッと、何度か台所の方を見やるも、なぜか物音一つ聞こえて来ない。姉はお茶の用意をする前に、化粧をしに行ったのか、あるいはトイレにでも行ってしまったのであろうか。これでは間が持たなかった。仕方なく、自分達だけで話を始める事にした。
「あの……その内姉がお茶を持って来ると思いますので、しばらくお待ち下さい」
 天羽庵は再び穏やかな微笑を浮かべ、言った。
「どうぞ御構い無く。折角の休日に訪ねてしまって申し訳無かったね」
「いいえ、そんな事無いです。休み明けだときっと簡単にはお会いする事が出来ませんでしたから、こうして休みの間に訪ねて頂けて助かりました――」
 社交辞令を終えた後は、すぐにこの質問をする事にしていた。
「あの……鳥子さんは元気にしていますか?」
 最後に見た鳥子の姿を思い出す。最後に見た彼女の表情は泣き顔だった。それを思い出すと、胸がチクリと痛んだ。
「元気だよ。物凄くね。家を飛び出してから明るくなった。正直驚いているよ」
 ほっと胸を撫で下ろした。あのままずっと塞ぎ込んでいたのならどうしようかと思っていた。
「鳥子さんは……あのお寺から家にはもう帰られたんですか?」
「帰ったよ。君が帰った次の日、私が迎えに行ったからね」
 後一日帰るのが遅ければ、この人とはもっと早くに会えていたのかもしれない。
 気になっていた事はそれが全てだった。これ以上はこの青年から聞きたい事は無かった。
 すると、今度はこちらの番だと言わんばかりに、天羽庵は口を開いた。
「単刀直入に訊くよ――君はその腕の傷の事を家族には話したのかい?」
 天羽庵は膝の上で組み合わせていた両手を解いて、右手ではっきりとこちらの左腕を指し示して見せた。
 思わず、長袖のシャツの袖で隠されている左腕を押さえてしまった。
 皿洗いをしている時であってすら袖を捲くる様な事はしなかった。ゴム手袋をして洗う事で、そこは誤魔化していた。素手でやっても問題無いにも関わらず、袖を捲くれば良いにも関わらず、そうしなければならない理由があった。
 弟と風呂に入る時も、それは極力見せない様にしていた。見られても大した事無い傷だと、その内治るから心配ないと言い聞かせていた。
「――いいえ……まだです。家族には話していません」
 家族にはまだ話せなかった。話すわけには行かなかった。
「そうか……なら今日はすぐにこのまま帰れそうにないね。これから君のお姉さんにその話をしなければならない」
 青年は真剣な表情をしていた。先ほどまで見せていた気さくな印象がすっかりと払拭されていた。その目付きはまるで、こちらを睨み付けているかの様にも見えた。当人は睨んでいるつもりなど無いのであろう。あくまで真剣なだけなのであろう。その目付きは鳥子とそっくりだった。やはりと言うべきか、この人は鳥子の血縁なのだった。
「……僕は誰も恨んでません。誰にも責任を求めません。たまたま偶然怪我をしてしまっただけです。この傷を負ったのは誰のせいでもないです。これはあくまで僕だけの問題です」
 青年は鋭い目付きをしたまま、口を開いた。
「なるほど……そう言われては鳥子も困ったはずだ。そんな事言う者は今まで居なかったからね。かなり戸惑った事だろうと思うよ……」
 無愛想な顔は姉で見慣れていたので、天羽庵のそんな表情を見ても特別怖いとは思わなかった。そして、もしかすれば自分は嫌われているのかもしれないと、誤解する様な事も無かった。その表情はあくまで、彼の地なのだろう。
「家族に……姉に話すつもりですか?」
 紅羽に呪いの事が知られたからと言って、何かが変わるとは思えなかった。ただ、少しばかり面倒臭い事になるのは予想がついた。
「これは義務だからね。一族の中で一番重要な役職――現呪巫女である者からの御達しだからね。それ抜きにしても、可愛い従兄妹から御願いされた事なら断る事は出来ないよ」
「……それは嘘ですね。今日はただ、僕が呪いの事を家族に話していないかどうか確認に来た。それが目的なんじゃないですか?」
 青年はそこで苦笑して見せた。あっさりと頷いて見せた。
「その通りだ。簡単に見抜かれてしまった様だね……ごめん。悪い冗談だったね。それはそうと、どうしてわかったんだい?」
 青年は再び穏やかな表情に戻っていた。
「鳥子さんは僕に呪いが移った時も、その後も、とても心を痛めてくれていました。責任を感じ続けてくれていました」
 彼の言った事は、ある意味で鳥子に対する侮辱だった。今度は自分が青年を厳しく見据える番だった。
「そんな優しい人が……そんな真面目な人が……そんな卑怯な事するわけありません。鳥子さんは僕が呪いを移されてしまった事を人伝に家族に伝えたりする様な人じゃありません。そんな重要な事から逃げ出したりする人じゃありません。もし家族にその事を伝えるのなら、鳥子さん自身がここへ来ているはずです。そうして、家族からの誹りを甘んじて受けようとするはずです……」
「その通りだ……驚いたよ。君は思った以上に鳥子の事を理解してくれている様だ。そして……鳥子の事を信頼してくれている様だ。そんな人が出来て安心したよ。これからも鳥子と仲良くしてやって欲しい」
 青年の表情を見て、こちらもまたほっとした。彼もまた、鳥子の気の許せる数少ない人物であった様だ。色と全斎以外にも、一族の中にもそういう人物が居てくれて良かった。心からそう思った。
「仮の話ですけど……姉にその話をした所で、簡単には信じてくれないと思いますよ? 家の姉は我が家で一番の常識人ですから」
 姉はその話を聞けば、恐らく、まともに相手しないであろう。良くも悪くも現実主義な人だった。
「君も常識のある人に見えるけれど、呪いの存在を信じてくれているじゃないか」
「それは実際に見たからです。あ……でも、信じた一番の理由は、鳥子さんが必死になって僕に謝って来てくれたからです。あの姿を見れば、そりゃあ信じられますよ……」
 その返答が決定打だった様だ。それを聞いた天羽庵は、再び膝の上で手を握り合わせ、言った。
「――君は鳥子の事をどう思ってるんだ?」
 口元をほころばせたまま、それでも目付きは鋭かった。今日見た彼の表情の中で、それは一番厳しい表情だった。下手な事を言えばただじゃおかないと言わんばかりだった。
 全斎、色に引き続いて、まさかこの人からもそんな事を言われるとは思わなかった。
「……どういう意味ですかそれは?」
 正直、放っておいてほしかった。これはあくまで自分だけの問題だった。
「鳥子は数年前……一族達に対し、こう言ったんだ――『わたしが次代の呪巫女を産む事はない』――」
 全斎から聞かされていた話を思い出す。鳥子とどれだけ親しくなっても、あいつが男に肌を許す事は決して無いと、そう聞かされていた。
「――『我が子に呪いを移す位ならば全てわたしが請け負う』――と鳥子は言った。これは一族にとっては忌々しき事態だ。次代の呪巫女が居なければ困るのだからね……。時代が時代であれば、無理矢理子どもを作らされていてもおかしくなかった。そうならなかったのは、鳥子が不老不死の呪いを持っていたからだ。永久的に使える呪巫女が居るのであれば、次の呪巫女が居なくとも問題は無いのだからね。だから今日まで、鳥子はそれなりに自由に生きて来られた……不当に妊娠させられる様な事も起こらなかったんだ」
 庵はそこでそれぞれの膝の上に肘を突き、うつむく事で、口元を組み合わせた手で隠してしまった。そうした事で、彼の銀縁の眼鏡が逆光を反射して、その表情が見えなくなってしまった。
「けれども……そんな事を言っていた鳥子の前に、今ここに来て、気の許せる男が現れた。これは一族にとって看過出来ない問題だ。これから話す事はかなり聞き苦しい内容になる。それでも最後まで聞いて欲しい。鳥子の為に……どうか聞いてくれるかい?」
 自分は頭を振るでもなく、頷くでもなく、ただ天羽庵の顔を見詰め続けた。彼はその反応を肯定と捉えた様だった。それは概ね正解だった。彼はすぐに話し始めた。
「……一族は今、どちらの方針で動くべきか揉めている。いつまでも使える呪巫女を抱え続けるのか、今まで通り世代交代をさせて行くのか、どちらが果たして良いのか、それを話し合っている。どちらにしろ、鳥子が苦しむ事は変わらない。そして、どちらの道を選んだとしても、いずれは鳥子の心は潰れてしまうだろう……そうなれば遅かれ早かれ、代わりの呪巫女が求められる事になる。生きた人形と化した鳥子では、呪巫女として機能しないのだからね。そうなれば鳥子は……次代の呪巫女を産む為の道具として使われる事になるだろう。本人の意思とは無関係にね」
 なぜ彼女はこうも振り回されるのだろう……本人の意思とは無関係に。
「鳥子の前に気の許せる男が現れた事は一族にとって好都合な事なんだ。この点だけは、一族全体の意見は変わらない。恐らく……鳥子にとってもね。鳥子に伴侶が居ると言うのであれば、非人道的な手段でもって次代の呪巫女を生み出す必要が無くなるのだからね。先代の時はそれで一悶着あったんだ。あれから時が流れた今となっては、更に情報化社会が進んだ今となっては、それは可能な限り避けるべき手段なんだ」
 胸の中に、自然と、沸々と湧き上がって来るものがあった……
「あなた達は……鳥子さんの事を……いや……鳥子さんだけじゃない……人の事を何だと思ってるんだ?」
 響かない声で、あくまで小さく、それでも激しい調子で、憎悪を込めて、静かに……糾弾した。
「……君の言う通りだ。私個人もそんな事は許せないと思っているよ……それでもだ……鳥子一人を犠牲にする事で多くの人間が助かると言うのであれば……――それは正義なんだ」
 その時、初めて天羽庵の顔から感情が消えた。彼もまた、複雑な葛藤を抱いて生きている者の一人だった。怒り、憎しみ、絶望――そんなものが複雑に入り混じったものを抱えている一人の人間だった。鳥子、色、全斎に引き続いて、また一人、そんな者が自分の前に現れていた。
 彼の眼鏡が逆光を反射して、その表情が読み取れない。次の瞬間には、彼の口からどの様な言葉が発せられるのであろうかと身構えていると――
「――……そろそろ時間だ。ここで話を終えよう。本題は話し終えた。最後まで聞いてくれてありがとう。そろそろ君の御姉さんも戻って来られるはずだ。……実は御姉さんにはしばらく二人きりで話がしたいと最初に断っておいたんだ。申し訳なかったね」
 その時だった。台所から物音が聞こえ始めた。顔を上げ、そちらを向くと、姉の姿が台所に到る角の向こう側にチラリと見えた。いつの間に戻って来ていたのだろう。姉の姿を見て、思わずほっとしてしまった。
「――もうお茶をお持ちしてもよろしいですか?」
 姉の淡々とした声が聞こえて来た。
「失礼しました。御陰様で青羽君との話は済みました。ありがとうございます」
 彼がそう言うと、姉はお盆を持って台所の角から姿を現した。
「別に構いませんよ。お話が済んだのでしたら何よりです。それじゃあ青羽、今度はあんたが席を外しなさい」
 想定外の事を姉から言われ、顔をしかめていると、今度は天羽庵が続けた。
「青羽君。これから君に御願いしたい事がある。実は今日ここへ来るまでに案内をしてもらった人が実は居るんだ。その人は恥ずかしがり屋でね。ここへ来る途中で車から下りてしまったんだ。我侭だから言う事を聞かなくてね。私も常々困っているんだ。おまけにその人は体が弱いんだ。だからこんな暑い日に一人にしておくのは心配なんだ。しかもその人は女性だからなおさらね……。悪いけど、これからその人の所へ行ってもらえるかな?」
 その話を聞いて、頭が真っ白になっていた。天羽庵はここへ一人で来たわけではなかった。誰かの案内で来ていた。それはもしかして――
「――青羽。早くその人の所に行きなさい。世の中物騒なんだから、男のあんたが傍に居て上げなさい。それと、これを届けて上げなさい」
 次いで、姉から買い置きのペットボトル飲料を二本手渡される。
「その人は暑さに弱いから、少しでも涼める様にと思って川辺の遊歩道の辺りに置いて来た。まだその近くにいるはずだ――」
 天羽庵の言葉をそこまで聞くなり――自分はわき目も振らず、いつの間にか駆け出していた。
 気持ちはもうすっかりと落ち付いていたと思っていたのに。しかし、あれからまだたったの一週間しか経っていないのだった。たったそれだけの期間で、あの身を焦がすほどの思いが消えてしまうわけがなかった。
 あの日、具合を悪そうにしている人がいると聞いて駆け出した、あの時の様に。
 あの日、苦しむ彼女の姿を求めて駆け出した、あの時の様に。
 今一度、炎天下の中を、自分は駆け出していた――

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