小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二章  枯葉色のエピクロス

 学生服を着た集団の中に、私服を着た同世代の若者が歩いていると人目を引くものなのかもしれない。周囲の学生達は、こちらの顔をチラチラと振り返っては見る。時折指でこちらを指して、こそこそと話したりもする。
 彼等はこちらがそれをされて、気付かない、気にしない、不快に思わないとでも思っているのだろうか。大抵の場合、された側は実はそれに気付いているものである。それに気付けないと言う事は、彼等はまだまだ子どもなのだろう。
 こちらとて子どもではあるが、だからと言って声を荒らげたり、露骨に睨み返したりしてはそれこそ大人気ないとも自覚している。
 だから、せめて眉をしかめて周囲を見渡すくらいの行為は許してもらいたかった。願わくは、それでこちらの心情を察してもらいたいとも思うのだが……
 直射日光のきつさから、元より表情は険しくなっていた。眩しさから目も自然と細めている為、まるで“睨んでいる様な表情”に見えなくもない。こういう条件が重なってしまった場合、人は事実睨んでいるのだと気付かれ難いものだ。
「………………はぁ……」
 小さく、それと気付かれない程度に溜息を吐く。だからなのね――と、わたしはそれに思い当たった。不機嫌な態度を取っていても、周囲はそれを日差しの強さから“一見不機嫌な表情にも見える眩しそうにしている表情”として捉えてしまうのだろう。
 人の中にわたしを隠す事は出来ずとも、日差しの中に不機嫌さを隠す事は出来ると言うのが何とも皮肉だった。
 汗をあまりかけない体質からか、体が熱を帯びているのが分かる。この体質すらも、数ある内の呪いの一つであった。さっきのコンビニで、何か飲み物を買っておくべきだったかもしれない。
 一度体の変調を自覚してしまうと不思議な事に、途端に体が重く感じられ始める。そして、本格的に具合悪くなり始める。
 病は気からとはよく言うが、それはいささか時代遅れの精神論だとわたしは思えた。逃亡を始めて一ヶ月余り。その間に蓄積された疲労も無関係ではないだろう。気力だけで病に抗えるのならば、わたしはとっくに呪いによって得た持病の数々を跳ね除けられていたはずだ。
「……体が熱い」
 思ったままを呟いてしまう。それだけ意識が朦朧としていた。“暑い”のではなく、事実“熱い”のだ。どこか日陰で体を休めなければならない。
 今はただ、ゆっくりと体を休めたかった。清潔な寝床で、布団の上で、心地良いまどろみに浸かっていたかった。
 ふらふらと、上半身が左右に揺れる。それに合わせて、頭がくらくらと、がんがんとする。
 ゆらゆらと、景色が歪んで見える。元より陽炎が立ち昇っていて、視界はこれ以上無く揺れていた。
 ガードレールにもたれ掛かり、しばししゃがみ込んでいると――はっとした。ほんの一瞬、鳥の影が頭上を過ぎった。
 半ば太陽を直視するかの様にして、しゃがみ込んで両膝を付いた姿勢からそれを見上げる……夥しいほどの烏の群れ。それが見えた。電線の端から端に、一杯に留まっていた。
 ――あの凶鳥の姿は見当たらない。意識が朦朧としている為、単に見逃している可能性もあった。
 烏達はただの一声すら鳴きもせず、ただの一羽とて飛び立ちもせず、ただこちらを見下ろしていた。
 ――強い日差しを浴びている最中ですら、薄ら寒さを通り越し、冷気の様な悪寒が走った。
 本来は奔放そのもので、人間には無頓着なはずのその鳥達は、一つの意志を共通して抱いていた。群れであるはずのそれらは、今は“個”と化していた。
「――…………追い着かれちゃったの…………そう」
 両膝すら立てる事を止めて、いよいよその場にへたり込んでしまう。タイツに包まれた両足が、焼けたアスファルトの上に投げ出された。
 すぐに痛みが襲うが、それでも力が入らない。正座を崩した、しなだれかかっているかの様にも見える姿勢のまま、脱力し続ける。脛と、太腿の裏側に掛けて、布地越しでも肌が焼けて行くのが分かる――このまま焼き尽くされてしまえば良い……そう思った。
 今の今まで、それなりに上手く逃げ果せていると思っていたのだが、その考えは甘かった様だ。わたしの代まで連綿と受け継がれて来た“数多の呪い”は、距離を離した程度で逃げ果せるものではなかったのだ。
 周囲を見渡せば――通学する学生達の姿は完全に消えていた。今わたしを囲うのは、黒い鳥達だった。
 意識が混濁としている為、どこか遠くの方で鳴っているかの様に聞こえる始業開始のチャイムが、それこそ、事実、人事の様に聞こえて来る。
 気付けば……それでも体は自然と動いていた。ゆるりと立ち上がっていた。体の何処にそんな力が残っていたのか、自分でも不思議だった。
 両足の所々から、火傷の痛みが走る。それは今一度意識を保つ為の、貴重な拠り所となる。痛みは否応にも覚醒を促してくれる。むしろその痛みは、心地良さすらも、幾らかの快感すらも与えてくれるものだった。
「――誰か助けて……」
 かすれた声で、そう言った。それは自然と吐いて出た言葉だった。咄嗟に恐怖を感じた時に、幼子が迷子になった時に、自然と母親を呼んでしまうのと同様の行為だった。
「――お母さん……ごめんなさい……」
 今になって、無性に罪悪感が押し寄せて来た。喪に服する事も無く、我が身可愛さにこんな所まで来てしまった。
 力の入らない両足に、くの字に曲がりそうになる両膝に、それぞれの手で爪を立てながら、押さえ付けながら、じりじりと、まるで片足を引き摺るかの様にして進む。何故だか、ここで諦めてはいけないと、誰かからそう言われている気がした。
 無人の校門を通り抜け、そのまま校舎裏へと、日陰を目指して歩んで行く。進むべき方角に、何故そこを選んだのか、それは分からない。ただ、何かを求めて、そこへ入り込んでいた。
 今この時ばかりは、日の差す場所にいてはいけない。今この時ばかりは、暗闇の中でそっと、安息を得たかった。わたしの体中から、まるで陽炎の様に、黒い瘴気が立ち昇っていた。
 ――新たな呪いが、体に刻まれ始めていた。
 体のどこかで新たな“澱み”が生じたのが分かる。それは“濁り”とも言えた。また一つ、体が不自由になったのだろう。今度は何が“奪われた”のだろうか。あるいは“与えられた”のだろうか。
 曲がって進む力、それを判断する気力すら最早無く、惰性の様にして真っ直ぐ進んだその先に偶然立ちはだかった一本の木。その下に辿り着いて、わたしはようやく、その木の根元に腰を下ろした。それは、力尽きたとも言えるであろうか。
 校舎の裏手に生えた木々の枝葉から、無数の蝉の亡骸が、枯れ葉と共に落ちて来る。それは私が腰を下ろした木においても例外ではなかった。
 それらはわたしの体に刻まれた呪いが発する瘴気に当てられ、死滅したのであろう。本当に忌まわしい体だった……
 日の差す地上に上がれば、蝉は僅か数日から数週間程の儚い命である。それが目まぐるしい速度で生滅して行く。呪いが“贄”を生かす為、周囲に存在する弱い生物から順に、死を肩代わりさせて行く。
 これもまた、わたしの抱えるおぞましい呪いの一つであった。それはわたしが新たな“贄”を――子を生すまで続く“不老不死の呪い”であった。
 わたしはその呪いによって生じるおぞましい現象を、久方振りに見た。目を瞑ると、目蓋の裏に、かつてこの呪いの犠牲となった友の――“彼女”の後ろ姿が映る。
「――ごめんなさい……」
 目を開くと……瑞々しく茂っていた木々の葉はすっかり枯れ果てて、散り始めていた。ここだけ、秋の終わりが訪れていた。色彩の無い、死骸だらけの、灰色の森が広がっていた。
 ここは夏の盛りにあってすら、蝉の鳴き声も、枝葉の木擦れの音すらもしない、生きとし生けるものは全て息絶えた、無音の世界であった。
 これがわたしの世界――色の無い、彩の無い、無音の……孤独な世界。それはまるで、死の世界そのものだ。
 わたしはその世界の住人だったのだ。わたしは外へ出てはいけなかったのだ。鳥籠から出てはいけなかったのだ。そこに自由は無くとも、そこは飛び立てぬほどに羽がついばまれる環境であろうとも、与えられた場所から、籠の鳥は逃げ出すべきではなかったのだ。
 日の差す場所を求め、自由を求め、羽を休められる場所を求め、一ヶ月が経った。それだけ経ってようやく、わたしはそれに気付く事が出来た。わたしの居場所は日の差す世界には無いのだと。
 ――涙がこぼれた。“子供”の様に泣きじゃくるでもない、自然と漏れた、静かなる慟哭の涙であった。あまりに漠然とした悲しみに、あまりに深い悲しみに、感情が着いて行かないが故の泣き様だった。
 仰向けになって空を仰ぐ――落ち葉がわたしの上に、深々と降り積もって行く。それは夏の日差しを浴びて暖かく、心地良かった……
 このまま、落ち葉と蝉の亡骸と共に、わたしも朽ち果てて土となれたならばと……そう願わずにはいられなかった。

 ――死は恐怖ではない。救いだ。死は苦しむと言う感覚すらも無くしてくれるものなのだから。平静な心を持てば、死は恐れるものではない。
 次に目を覚ました時には、どうか、こんな“死がない”わたしでも招き入れてくれる、エピクロスの園が広がっていてくれたならばと、そう願わずにはいられなかった……

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