小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第三章  青と黒のコントラスト

 靴入れのロッカーが立ち並ぶ玄関へと足を踏み入れると、すぐにこんな会話が聞こえて来た。
 ――凄い美人だったね。背も高くて、スラッとしててさ!
 ――モデル体型で羨ましいなぁ……幾つくらいの人なんだろう? 凄く大人っぽかったね。
 女子の、よく通る、ほんの少しだけかん高く聞こえる話し声が耳に入って来る。通学中に、誰か綺麗な人でも見たのだろうか。
 ――凄い美人だったな!
 ――でもこんな暑いのに変な格好だったな。まぁ、似合ってたけど。
 次いで、男子の、はっきり言えば少し馬鹿っぽく聞こえる調子の話し声が耳に入って来る。通学中に、変な格好の美人が歩いていたのだろうか。
「――変な格好の美人が歩いていたのかな?」
 三森水穂はこちらを見てそう言った。
 思わず、吹き出してしまいそうになる。自分と彼女は性格が違うのに、それでも同じ事を考えていたのだ。それが何だか無性におかしかった。
「なぁ〜に笑ってんのさ? 人の顔を見て笑うのは失礼だぞ!」
 一瞬だけブスッとした表情を取るも、すぐ様ケラケラと笑い出し、特に気にした風も無く、三森水穂は下駄箱から登下校用の学校指定の革靴を取り出す。それをぽいっと軽く放る様にして足元に落とした。靴は裏返ったり、見当違いな方向へ転がって行ったりせず、綺麗に二足共揃って、彼女の足元に着地を決めた。
 その仕草は男子っぽく見えたが、それでもどこか女子特有の柔らかさと愛嬌が感じられた。仕草全体にまろやかさがあるとでも言えば良いだろうか。
 こちらも同じく革靴をぽいっと足元に落とす。慣れたもので、狙い違わず足元に着地を決める革靴――うん。着地の音もそうだけど、やはり男子がすると硬い感じがするだけだ。
 男子と女子では、同じ事をしてもここまで印象が変わるものなのだ。
 人生十六年も生きていれば、意識せずとも手馴れた仕草の一つや二つは身に付いているものだ。衣類のボタンを直接見もせず留められる事。箸を持つ事……等々。足元に上手く靴を落とすのもその内の一つであろう。思えば、昔はそれらすらも満足に出来ない頃があったのを思い出す。
 箸の持ち方は物心付いてすぐに姉から厳しく教え込まれたのを覚えている。その御陰で、今ではかなり器用に扱える。
 どうせなら十六年の間に、恋にも器用になりたかったと今更ながらに思う。さすがに姉も恋愛については教えてくれなかった。姉自身もまた、苦手な分野だからであろうか。
 誰かから指南されるでもなく、何かを参考にするでもなく、先日、人生初の告白に臨んだ。そして……玉砕した。
 夏休みは独り身が確定。何も身を入れる事が無い。今からでも何か部活に入ってみようか。そうすれば、また新しい出会いだってあるかもしれない。
 それはもちろん本気の言葉ではない。傷心から吐いて出た、自嘲混じりの、あくまで冗談である。
 部活動とは、特に運動系の部活動は、本気で真面目に打ち込むべきものである。何より、それが好きでなければ続けられない。体をしごき上げ、技術を身に付けて、遊ぶ時間を削って、大会と言う実戦に備える。それは非常に禁欲的な世界だ。
 出会いを求めて入部するなど、色々な意味で駄目だろうと思う。本気で打ち込んでいる人に対して失礼だし、元よりその活動に対して、何らかの強い希望があるわけでもないのだし。
 それに……求める人がそこにいなければ意味が無い。三森水穂は剣道部にいて、自分はその剣道をする気が全く無かった。何より、入る意味はもう無かった。そして、振られた後に入部するなど嫌がらせもよい所だ。ストーカーと思われても仕方が無い行為であろう。
 そう。あくまでその程度の事なのだ。部活動に対しては、自分は本気になれない。
 思えば……自分は何に対してなら、思う存分に打ち込めるのであろうか。
 中学の三年間で成長のピークは終えており、今は下り坂の伸び具合。高さは百六十五センチ前後と言う所。恵まれた体格とは言えない。平均より少しばかり低めの、小柄な部類に入る身長。それにともなって、非力な方だし、肩幅もそれ程あるわけではない。
 ならば、頭はどうなのだろうか。自分は頭が良いのか悪いのか、それすらよくわからなかった。“この高校”に来ている時点で良くないと言えばそれまでだが、ここに通う事になった“経緯”から、自分の実力、つまりは“可能性”すら曖昧になってしまった。
 もし去年、公立高校の試験を受けられていたのならば、その答は自ずと出ていたはずだ。
 夏休み前の期末考査とその前にあった中間考査ではそれなりの点数を取ったが、所詮、初めての試験である。それなりに肩の力を抜いて、様子見感覚で受けた覚えがある。どの程度の力の入れ具合で、どの程度の点数が取れるのか試した。つまり、本気ではなかった。それでも良い点は取れた。
 そんな調子でもそれなりの点が取れた事実。そうなると、総じて周りの生徒達の点数だって高い事になる。入学したてだと、生徒達の学業のレベルは比較的足並みが揃っている。
 教師達だって、先ずは生徒達の実力を計るため、特別試験問題を難しくしたりはしない。むしろ簡単な内容にしたはずだ。二回受けたテストで、それが何となくわかった。
 きっと、これから少しずつ、その差も出て来るのであろう。勉強に本腰を入れるのは二学期以降に置いておくとして……――だからこそ夏休みを迎える前に、自分の可能性、あるいは夢を見つけておきたかった。
 唯一受けて合格する事の出来たこの学校に、必然的に通う事になった。それはしょうがない事だと諦めもついている。
 家の近くにあって歩いて通える距離だと言う事で、それはそれで姉もほっとしてくれていた。私学ならではの高目の学費も、公立校の通学にかかるお金を考慮すればとどっこいどっこいな出費であっただろう。
 ただ……この学校へ来て確実に無くなった“可能性”があった。この学校で授業を受けていても“一部の大学受験”の対策にはならない。
 でも授業は受けないといけない。毎日通わねばならない。出席しなければならない。一つでも赤点の科目があり、一つでも出席日数が足りない科目があれば、進級は出来ないのだから。
 中学までの義務教育であれば、どれだけ学校を休もうとも自動的に進級と卒業は出来る。
 けれども高校からは別だ。私立だろうと、公立だろうと、偏差値が高かろうと、低かろうと――どのレベルの学校に通うにしても、その学校が全日制である限りは、三年間の内の大半をそこで過ごさねばならない。
 この高校のレベルでは、上の大学や、一部の学部を目指す事は取り分け難しいはずだ。幼い頃より密かに抱いていた、とある夢。それは誰でも一度はなりたいと思う職業だった。
 自分は既に、そのレールから大きく反れてしまっていた。元より特別頭が良いわけではないし、理系の科目が特別得意なわけでもない。苦手な部分は暗記で誤魔化すタイプなので、自ずと限界が近いのもわかっていた。けれども、もし今からでも“それ”を目指したとして、この新たに与えられた環境の中では難しかった。
 金銭的にも、学力的にも――何より……精神的にもだ。本当に助けたい人――母は、既に亡くなってしまっているのだから。
 もう難しい事は考えないで、肩の力を抜いて、適度に自堕落に過ごせば良いのかもしれない。そうなると、いよいよもって“その道”は遠ざかる事になるが、どの道もうほとんど諦めている道だった。
「――あのさー……さっきからなんで何も喋らないの?」
 少なくともこの高校へ来て良かった事は一つある。“良い出会い”があった事だ――玉砕したけど。
 鼻からそっと息を出してから、こちらを振り返っている少女に微笑みかける。
「――将来の事を考えてたんだ」
 冗談として、露骨に澄ました顔をしてそう答えた。
「うっわぁ〜〜! 嫌味〜〜!――っと……うあ、あっつ!」
 玄関を出ると、思わず後じさる程の熱気が肌を取り巻いた。建物の内側と外では、まるで世界が違っていた。庇の下の影の中にいても、その熱気までは防げない。
「三森さん……帰って良いかな?」
 半分だけ冗談で、もう半分は本気で囁きかける。
「私が代わりに帰ってあげる!」
 満面の笑顔で三森水穂は言った。本当に意味不明だった。三森水穂が望むあり様は、いつも百パーセント彼女に得しかない場合が多い。きっとそれも冗談の内なのであろうが、幾らか本気でもあるのだろう。つまり、彼女もまた冗談半分、本気半分で言っているのであろう。
「はいはい……一緒に行きましょうね。付いてって上げるから」
 そんな時だった。それが聞こえたのは。思えば……それこそが引き金だったと、後になって気付く。
 ――あの人大丈夫かな?
 カチャリと、心の中にあった歯車や金具が、音を立てて噛み合わさったのを感じる。
 ――こんな暑い中、あんな服着てたし大丈夫かな? 具合も悪そうにしてたし……
 また姉に怒られるかもしれない。そう思いながらも……やはり今回も止められなかった。
 ――多分大丈夫だよ。まだ人通りも多いし。
「――――――」
 胸の中に、ほんの微かな……けれども、決して無視できない、明確な何かが生じた。それは、無数の感情の波紋だった。疑問、焦り、違和感、不安、心配、悲しみ、罪悪感、万が一の可能性――そう言った言葉で言い表せられる感情だった。それらが複雑に入り混じった感情だった。
「――三森さん……僕が代わりに全部持って行くよ。だから先生にはこう伝えておいて」
 これから自分がしようとしている事は、他人を巻き込んだり、助力を強制しても良い問題ではなかった。あくまで自己責任で、自分の力だけでやるべき事だった。
「あれぇ〜? どうしたのさ? 今日はやけに格好いいじゃん!」
 ケラケラと、肘で小突いて来る三森水穂。
 あくまで過去の事として、自嘲気味に――昨日振ったくせにと、そう思った。それは彼女を恨んだ事で生じた言葉ではなく、自然と湧いて出た反射的な思考だ。それは淡々とした事実確認だった。そこに悪意は込めていなかった。
 もちろん口には出さない。このタイミングで言うと、どう聞いても嫌味に聞こえてしまうから。何より、本意は別の所にあった。色恋や勉学、学校生活よりも優先すべき事がたった今見付かったのだから。
 それは今日この日だけで終わってしまう程、些細な事であったとしても……それでも、全力で打ち込みたいと思える事だった。
「――守野は保健室に行ってますって伝えておいて」
 そう微笑みかけて、彼女の荷物を取り上げる。そこまでしてようやく、彼女はこちらが本気で言っているのだと理解した。
「え、なんで? ちょっ、どうしたの!? 具合でも悪いの? ちょっと待って! あのさ、昨日の事だけど――」
 今は時間が惜しい――少しでも早く行きたい。
 彼女が何かを言っているが、その内容までは頭に入らなかった。意識が既に別の方角に向いていた。その時の自分は、それこそが、自分が夢中になれるものの正体だと気付いていなかった。
 頭を真っ白にして、全力で駆け出していた。登校中の生徒達が、怪訝な表情でこちらを見ている。そんな事すら全く気にならなかった。
 日影を通ったりせず、グランドの真っ只中を最短距離で突っ切って、開かれた格技場の正面玄関へと辿り着く。靴を脱ぐのもまどろっこしくて、土足で上がり込んだ。いつもなら絶対にそんな事はしないのに、不思議と気にならなかった。
 素早く周囲を見渡して、既に幾つか旅行鞄がまとめて置かれている場所を見つける。駆け寄って、荷物をその近くに寄せて置いておく。義務は果たした――ここから先は好きに動かせてもらう!
 きっと……誰かは笑うかもしれない。姉さんだって、もしこの事を話せば、いつもの様に小言を言って来るはずだ。
 疑問、焦り、違和感、不安、心配、悲しみ、罪悪感、万が一の可能性――それら感情が、自分の勘違い、早とちり、思い過ごしであっても構わない。むしろそうであってくれた方が良いとも思えた。

 ――もしそれが……手の届く場所での出来事ならば……
 
 ――もしそれが……しがない自分でも助けられる存在ならば……
 
 ――もしそれが……空回りした余計なお節介であったとしても……

 ――その時は……恥をかいても構わない!

「――はぁっ! はぁっ! はぁっ!……はぁっ……はぁっ……はぁ…………」
 ――気付けば息が切れていた。ダラダラと、額から滝の様に汗が滴り落ちる。手の甲で目に入る汗を拭い去る。それだけでビチャビチャと激しい水音がした。それに次いで、ジュワッと蒸発音がした。まだ午前中であるにも関わらず、アスファルトは恐ろしい程の熱を帯びていた。
 校門を通り抜け、左右の通りを見渡す。その人は左右どちらの方角にいるのだろう。考えていても始まらない――右を選んで駆け出す。校舎を一周すればきっと見付かるだろう。
 ――暑い……息が苦しい……!
 頭の片隅で、どこか冷静に毒吐いた。
 体を鍛えるのも、案外良い事かもしれない。今更ながら、やはり部活に入ろうかなどと、半ば本気で思ってしまう。
 角を曲がる――ここから先は上り坂だ。人は見当たらない。そろそろ通学時間は終わりを迎えるのだから当然だ。再び全力疾走を開始する。
 角を曲がる――遠く、次に曲がるべき角の先までを見渡す。立ち昇る陽炎の中には、人っ子一人いない。電柱の影、日影にもいない。左右の様子を窺いながら、とにかく走るしかなかった。
 三つ目の曲がり角を曲がって、最後の一踏ん張りだと決意し、無人の通学路を走る。
 その時――予鈴が鳴った。
 教室から出て、ここへ来るまでに費やした時間は体感的に二十分程。時刻は朝のホームルームが始まる五分前。もうどう足掻いても遅刻は確定だ。
 最後の壁を曲がり、再び学校の正面の通りへと舞い戻って来た。すると――その姿を見付けた。百から二百メートル位先の正門前に彼女はいた。
 歯を食い縛りながら立ち上がり、両の足を手で押さえながら、果敢に進もうとしている黒い姿の女性だった。陽炎が立ち昇る中、その姿は酷く曖昧に見えていたはずだ。けれども、それでもその時の自分は、彼女の姿をはっきりと捉えていた。
 声を掛けようとするも、息が上がって、何より暑さで、こちらも意識が朦朧としていた。それはこんな猛暑の中を全力疾走したツケだった。
 それでも自分を奮い立たせた感情。それは――きっとあの人の方が苦しんでる! こんな程度で弱音を吐くな!――スパートをかける!
 彼女はよろめきながらも、助けを求めているのか、うわ言の様に何かを小さく呟きながら、敷地内へと進んで行く。
 その人の姿が見えなくなって十数秒後、遅れて自分も校門前へと辿り着く。
 最初に左を選んでいれば良かったとか、そんな事を頭の片隅で思いながらも、頭は冷静だった。とにかく今は少しでもそれを埋め合わせなければならない――彼女の姿を探した。
 校舎の正面から大きく反れて、建物裏へと通じる、陽炎の立ち昇る通りに彼女は立っていた。陽炎以外の何かが、黒い何かが、彼女の身を取り巻いて見えた。
 その先は裏庭だった。恐らく彼女は日影を目指しているのかもしれない。こんな時くらい、校舎の中に入って助けを求めても構わないのに……――そう思った。
 とにかく今は少しでも早くその距離を縮めたかったが、咄嗟に足を突いて転んでしまった。煉瓦道の隙間につま先を引っ掛けてしまい、仰向けに倒れてしまう。
「……っ!」
 顔と、咄嗟に付いた右の手の平を擦過してしまう。痛みが走る。目玉焼きが出来るほどの熱を帯びた道は、それだけで凶器だった。
 その痛みを介して、今一度奮起する。きっと彼女も、この暑さを、この痛みを、抱えているはずだと言い聞かせ、立ち上がる。裏庭へと続く通りの前へと駆け付け、周囲を見渡した。先ず、それが目に入った。
 ――ユラユラと舞い散って行く、季節外れの枯葉。そこは蝉の声すらしない。夏の盛りにあってすら、寒気を通り越し、冷気を感じかねない程に空虚な空間……彼女はそこにいた。
 無数の蝉の亡骸に囲まれて、更にその亡骸を啄ばむ無数の烏の中に存在した。そして、降り積もった枯れ葉に覆われて、木の下で静かに眠りに就いていた。
 幾羽かの烏が、彼女の身を啄ばもうとしているのが見えた。その内の一羽が、嘴で彼女の目を突こうとしているのが見えた。
 それに気付いて、駆け出そうとした時――その刹那だった。
 一羽の大きな烏が……一本足の、一つだけある眼を額に掲げた異形の鴉が、彼女の肩に舞い降りた。それだけで、彼女の身を啄ばもうとしていた全ての烏が羽を散らし、慌てて離れて行った。
 その鉤爪は、獣の牙と猛禽の鉤爪とを掛け合せたかの様な禍々しいものであった。御伽噺で出てくる魔女が住まう森に生える、黒く歪に縮れた木々の枝の様にも見えた。それが彼女の肩に食い込んでいる。
 その鴉は、まるで怒っているかの様な鳴き声を、たった一声、上げた。

 ――――――――――――!!!!!

 それは甲高く……鋭く……酷く神経に障る……断末魔の悲鳴の様な――雄叫びだった。
 体中の力が、そのたった一鳴きで、根こそぎ磨耗されて行く錯覚がした。その鳴き声のあまりのおぞましさに、あまりの狂気に、思わず悲鳴を上げ、両手の爪で頭を掻き毟っていた。
 その鳴き声を聞いた後には……事実、疲労感だけが残った。
 その鳴き声を聞いて、蝉の亡骸を啄ばんでいた烏達が一際高く鳴いて、その場に昏倒して行く。後には蝉の亡骸と、痙攣して悶えている黒い鳥達。そして、その鳥によって散らされた無数の黒い羽と、枯れ果てた落ち葉だけが広がっていた。
 彩の無い、不吉な要素しか見当たらない、朽ちた庭園がそこには広がっていた……それでも、不思議と恐怖は覚えなかった――自分は自然と一歩を踏み出していた。

 ――グシャリ。

 蝉の亡骸が……乾いた音を立てて潰れるのを靴の底越しに、足の裏で感じ取る。

 ――死は恐ろしい。

 今自分を駆り立てているのは恐怖ではなかった。それ以上の“何か”だった。

 ――恐ろしいのは他者の死だ。

 次の瞬間には拳を振り上げ、駆け出していた。
 動揺したのか、一本足に一つ目をした異形の鴉が彼女の肩から飛び上がる。両の翼を広げたその大きさは、鳶や鷹よりもゆうに大きく、そして威圧的であった。その鉤爪の付いた足は、成人の腕程の長さもあった。
 烏は、気絶している人や、捨てられた子猫の目玉を突くと言う話を聞いた事がある。事実、それは先ほど確認した。もしこの場で彼女を放って逃げ出せば――そう考えると、居ても立ってもいられなかった。

 ――自分の目の前で人が苦しむのはもう沢山だった。

 鴉が鉤爪をこちらに向けて飛来する。それを咄嗟に左腕で庇って受け止める。こちらも即座にその足を右手で掴み取る。
「――退けぇえええええええええええええ!!!!!」
 左腕に、通常の痛みとは別に、未知の感覚――不可思議な激痛が駆け巡る。火傷の痛みにも似た痛みと同時に、冷気が走る。そして、鉤裂きによって生じた傷の痛みが遅れて走る。
 左腕を見ると、事実火傷の痕の様な、裂傷痕の様な、黒い斑の傷痕が出来ているのが見えた――その時は単にそう錯覚しただけで、あらかじめ鉤爪に付いていた汚れか何かが付着したからそう見えたのだろうと、そう思っていた。
 その鴉は……いや――“猛禽”は、思った以上の膂力を秘めていた。左肩が脱臼しかねない程の勢いで振り回される。
 こちらも負けじと、右手でその足を握り返し、力を込めて引っ張り、応戦する。いつまでもこうしているわけには行かなかった。
「――退け! 早く助けたいんだ!」
 そう叫ぶと、鴉は不思議と力を緩めた。まるで、こちらの言葉を聞いて動揺しているかの様に。
 その隙を突いて、右手に力を込めて、そのまま思い切り鴉を振り回す。近くにあった木へと即座に叩き付けるなり、手放す。脇目も振らず、木にもたれかかって眠りに就いている女性へと駆け寄る。
 その顔は、通学途中の生徒達が噂するほどに……確かに美しかった。烏の濡れ羽色の光沢をした黒い長髪が、夏の日差しを浴びて、艶やかに、滑らかに、煌いていた。そして、その髪とは対照的な程に白い肌。その対比に、その美しさに、思わず目を見張る。
 破れたタイツ越しに見える彼女の足の素肌には、火傷の痕の様な、斑模様を描く無数の傷痕が走っているのが見えた。それ以外にも、実際に火傷を負っているのが見受けられた。
 夏の盛りだと言うのに、彼女がこんな服装をしている理由の一端を垣間見た気がした……きっと、その傷を隠すために彼女はこんな装いをしているのであろう。
 彼女に降り積もる落ち葉を払い除け、抱え上げようとするも、どうも上手く行かない。どうにかこうにか、不器用に、慣れない手付きでおんぶをする事には成功する。どうせなら、背中と膝裏をもって抱え上げたかったのだが、非力な自分ではこれが精一杯だった。
 彼女の体は、強く持てばそれだけで折れてしまいかねないほどに華奢で細身だった。だからこそ、非力な自分でもどうにか背負う事が出来た。彼女は自分よりも幾らか背が高いであろうにも関わらず、驚く程に軽かった。
 背後を振り返り、校舎を目指そうとすると……それと目があった。木に叩き付けて、もしかすれば殺してしまったかもしれないと思っていたあの鴉が、こちらを真っ直ぐに見詰めていた。
 たった一つだけある、額の中心に据えられた一つ目で、まるでこちらの心を覗き見るかの様にして――
 その時――風が吹き抜けた。
「………………」
 自分と、その異形の鳥との間に、まるで木枯らしの様な風が吹き抜けて行く。
 セピアを通り越し、白、黒、灰色の、モノトーンに染まった庭園。そこで、自分達はしばし見詰め合う。
 鴉は何も言わず、それは当然の事ではあるのだが、いつしかその翼を広げ……――空へと飛び去って行った。
 目で後を追うと――それに気付く。そこだけは鮮やかな色彩を持つ、青い空が広がっていた。それは、青と黒のコントラストだった。
 空の遠く……遠くへと……異形の鳥は飛び去って行く。
「………………っ!」
 呆けている暇は無いと、すぐに思い当たる。頭を振って、前を見据える。次に目指すべきは保健室であった。養護教諭に助けを求めなければならない。ここから先は本職に任せるべきだった。可能ならば病院に連れて行くべきであった。
 それ以外に自分が出来る事があるとすれば……そうだ。彼女は脱水症状を起こしているかもしれない。保健室にいる養護教諭に彼女を託したら、購買に飲み物を買いに行こう――

 今……自分の手の中には、自分でも救える存在が確かにあった。
 ――間に合って良かった。探しに来て良かった。
 その喜びだけで、不思議と力が沸いて来る。疲労困ぱいのはずなのに、その疲労感すらも心地良く思えた。やり遂げた後の、満足感だけが胸を満たしていた。
 足取り軽く、校舎へと駆け出す。今なら空をも飛べそうな気がした。
 何故この場所がこんな状態なのか、それはわからない。ただ、そんな灰色の世界から抜け出したいのならば、青く広がるあの空を目指せばよいのだ……――あの鳥の様に。

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