小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第三十九章  幻色のサマーバケーション5

「――鳥子さん」
 何と声をかければよいのかわからなかった……頭の中が真っ白になっていた。
 まだ一週間しか経っていないのに、もう随分長い事会っていない気がした。
 鳥子は麦藁帽子を目深に被っているため、その表情は口元だけしかうかがい知る事が出来ない。そんな彼女の口元は、薄い唇は、微かに震えていた。
 鳥子の美しさに感嘆して、溜息を吐く様にして、もう一度呟いた。
「――鳥子さん……」

 何故彼がここに居るのであろうか――きっと庵さんの差し金だった。
 ここに来て、わたしはまだ彼の事を名前で呼んだ事が一度も無い事に気付いた。
「あ……お……」
 そして、気恥ずかしくて、彼を名前で呼べない事にも気付いてしまった。うつむいて、顔の赤みが引くのを待つしか出来なかった――

 鳥子は何も言わず、うつむいてしまった。もしかすれば、一週間前に何も言わずに出て行ってしまった事を恨んでいるのかもしれない。
 鳥子はうつむいたまま所在無げにしていた。どう見ても居辛そうにしていた。女性からこの様な態度を取られると、男は本当に困ってしまう。どうしたものかと、自分も足元を見下ろした。
 するとそれに気付いた。手に持っていたペットボトルから、水滴がポタポタと石の上に滴り落ちていた。ほんの一時だけ、白灰色の石の表面を黒灰色に湿らせる。それは日射と石が帯びた熱によってすぐに蒸発してしまう。
「――鳥子さん……元気にしてた?」
 顔を上げてもらいたくて、話をしてもらいたくて、こちらを見てもらいたくて、声を張り上げていた。それでもかすれた声しか出せないのがもどかしかった。まるで初対面の女性にそうするかの様に緊張していた。
「暑かったでしょ?……どっちが良い?」
 ペットボトルの片方は十種類以上のがお茶がブレンドされた物で、もう片方はコーヒー牛乳だった。
 鳥子ならば、きっと後者を選ぶと思っていた――

 わたしは彼の気迫に押される形で顔を上げていた。帽子のつばを持ち上げて、ようやく初めて彼の顔をはっきりと見た。
 そこには、一週間前よりも幾らか垢抜けた、穏やかな表情をした守野青羽が立っていた。それでも、その視線は相変わらず強い意志を伴っていた。気弱で頼り無さげな外観と印象とは裏腹に、背筋は真っ直ぐと伸びていた。
 それを見て、すぐに顔を反らしてしまった。彼の顔を直視する事が出来なかった。慌てて、見当違いな事を口にしていた。
「……お茶を頂戴、お金、払うわ」
 しどろもどろになりながら、ポケットから財布を取り出すと、彼は渡り石を飛び移って来た。ほんの一瞬、微かに、彼とわたしの体の前面が密着した。そして、そのまま、彼はわたしの手をやんわりと掴み取っていた。
「――何言ってんだか。そんな事しないでいいよ。姉が一緒に飲みなさいって渡してくれた物なんだ。だからお金なんて要らないよ」
 向こうの石の上にペットボトルを置いて、わざわざわたしの行為を止める為だけに飛び移って来たらしい。
 彼はわたしが財布を収めると、ペットボトルを取りに、また向こうの石へと飛び移って行った。今度は石の縁に立って、ペットボトルをこちらに差し出した。
「はい、鳥子さん。鳥子さん甘い物好きでしょ? 女の子だからね」
 お茶が良いと言ったのに、彼はコーヒー牛乳を差し出していた。白と黒が混じった物なんて今は見たくなかった。だからお茶を選んだのに……彼はこんな時ですら強引だった。そして、わたしの事をよく理解してくれていた。
「……だから、お茶が良いって言ってるじゃないっ!」
 ほんの少しだけ癇癪混じりに言って、腕を伸ばす。差し向けられたのとは別の方のペットボトルに手を伸ばした。
 その言葉に、仕草に、彼は些か怯んだ様だった。そうして、また……彼を傷付けてしまった。
 わたしは何て醜いのだろう……。何て嫌な女なのだろう……。これでは人から嫌われてしまっても仕方が無かった。けれども、今この時はそれでも良かった。このまま嫌われてしまう方が好都合だった。
 そうすれば……彼の呪いはわたしに帰って来るはずだから……――

 鳥子は機嫌が悪い様だった。寂しがり屋な彼女の事だから、やはり一週間前の事を恨んでいるのかもしれなかった。やはり、最後くらいはきちんと挨拶をして別れるべきだったのかもしれない。
 けれども、帽子の下に隠れた鳥子の顔を覗き見た事で、それは見当違いだったと気付いた。
「……そんな程度じゃ鳥子さんの事嫌わないよ?」
 また彼女は自分から嫌われようとしていた。本当は嫌われたくないくせに、自分のために嫌われようとしてくれていた。

「――そんな程度じゃ鳥子さんの事嫌わないよ?」
 彼はそう言った。全てを見透かしたかの様な目をしていた。
 いよいよわたしは自分自身に対し、嫌気が差していた。無性に、このまま消えて無くなってしまいたいと思った。
「何で……何でここに来たの?」
 かすれた声で、棒読みな調子で呟いていた。
「天羽さんから教えてもらった」
「そういう意味じゃなくて、何故あの人がここへ行く様に貴方に言ったのか訊いてるの……貴方、あの人に何を言ったの?」
 庵さんは守野青羽の事を良く思っていなかったはずだ。だから彼がこんな御節介を焼くはずはなかった。
「何も言ってないよ。普通に話しただけ」
 彼には自覚が無いのかも知れない。きっと庵さんも守野青羽の事が気に入ったのだろう。だからわたしの居場所を彼に教えたのだ。
「嘘……貴方の事だから、きっと気に入られたのよ。本当に、誰にでも優しいんだから……外面が良いんだから……」
 不貞腐れた様にして、グチグチと呟いていた。わたしは守野青羽に嫉妬していた。
「は?……それは鳥子さんの方でしょ? 二面性があるのは鳥子さんの方だ」
 そう言われてカチンと来た。
「貴方ね……久し振りに会って何なのその態度?」
「まだ一週間しか経っていないよ? それに……それはお互い様だよ。鳥子さん僕の事恨んでるでしょ? だからそんな態度取るんだ」
 わたしはそう言われた瞬間、愕然としていた。
 ――守野青羽を恨んでいるから呪いが帰って来ない――そう言われた気がした。
「恨んでない……」
「恨んでるよ」
「恨んでないっ!」
「恨んでるよ」
「恨んでないってば……!!!!!」
 感情の余り、声を張り上げていた。気付かぬ内に涙腺が緩んでしまっていたのか、ツツツと、涙が頬を伝い落ちた。二つの筋は留まる事を知らず、しばらく、ずっと、流れ続けた……
 わたしが泣き出したので、彼は慌て始めた。
「ご……ごめん! 泣かせるつもりなんて無かったんだ!」
 本当に、何もかも、上手く行かなかった。何もかも、空回りしていた――

 鳥子が泣き止むのを待ってから話を再開した。
「鳥子さん……どうして泣いたの? 意味もわからず謝るんじゃなく、きちんと悪い部分について謝りたい」
 この夏中、もう何度目になるのであろうか。色、全斎と引き続いて、今度はいよいよ鳥子にまで頭を下げていた。
「……わたしっ、貴方の事っ、恨んでないもんっ……! 呪ってなんてないもんっ……!」
 そう言われて、鳥子が取り乱した理由がようやくわかった。確かにさっきの言葉は失言だった。
「……それはごめん。鳥子さんが僕を恨んでるなんて言えば、それは呪ってるんだって言っているのと一緒だよね。ごめんなさい。あれは誰のせいでもない、ただの偶然なんだから」
 鳥子は頭を振った。
「違う……わたしのせい! わたしが本家から逃げ出したせいで貴方は――」
「――だから鳥子さんのせいじゃないって!」
 二人揃って、全く進歩していなかった。あの一夏の交流は何だったのであろうか。振り出しに戻った気分だった。
「……怒鳴らないでよっ!」
 鳥子は怯んだのか、涙目になって身を縮こまらせた。今日の鳥子は神経過敏で、とても危うかった。それに元来、女性は男性から怒鳴られる事に極端に弱い。そんな事してはいけなかった。
「ごめん。わかった。もう絶対に怒鳴らない」
 頭を下げる。そうすると、しゃくり上げている鳥子の声がよく聞こえた。頭を上げて、再び鳥子に向き直る。
「それはそうと……何で家まで来てくれなかったの?」
「貴方の家族にどう顔向けすれば良いのかわからなかったの……何て謝れば良いのか、どう説明すれば良いのか、わからなかったの……」
 それはまるで、家族を車で跳ねてしまった加害者の様な心境だった。それだけ鳥子はまだ呪いの件を重たく捉えていたのだ。
「そうなんだ……別に、呪いの事はまだ言わなくても良いと思うよ? 先ずは普通に挨拶するだけでも良いじゃない?」
 姉は面倒臭い人だから――と、胸中で付け加えておく。
「……下手をすれば、貴方の家族の記憶が消される事になるかもしれない……わたしの意志とは無関係に、一族達が勝手にそうする事だってあるの……」
 鳥子は疑心暗鬼に駆られている様だった。それは無理も無いだろう。長い事、そんな環境で生きて来たのだから。
「……だから言わなくて良いよ。僕は家族の記憶が消されるのが嫌だから、その代わり呪いの事は黙っておきますって事で良いじゃない?」
 あっけらかんと、軽々しく言ったのがいけなかったのかもしれない。ただ、もっと気楽に考えてほしくてそう言っただけなのだが、鳥子はその言葉がいたく気に入らなかったらしい。
「何それ……!? まるでわたしが脅してるみたいじゃないっ!」
 鳥子は今度は涙ではなく、火を噴いたのだった。
「だから考え過ぎだって! なんでそう解釈するかなぁ……もうちょっとポジティブに考えてよ」
「そんなの無理よ! 今までそれで何度も辛い目に遭って来たんだから!」
 その通りだった。そこはもっと慎重に言葉を選ぶべきだった。
「……そうだね。また失言だったね……ごめんなさい」

 彼はそうして、また謝ると、一度長く息を吐き出した後、途端に笑顔になった。その笑顔を見ていると、何だか無性に馬鹿にされている気がした。
「何で笑ってるの?……まさか馬鹿にしているの?」
 拳を握り締めると、手袋の生地がギリリと軋んで音を立てた。
「違うってば! なんか今日の鳥子さん可愛いなって――」
「――やっぱり馬鹿にしてるじゃない!」
 癇癪の余り、両の拳を握って、上から下へと振り下ろしていた。そうした事で、被っていた麦藁帽子が脱げて、頭の後ろにぶら下がってしまった。首元で結んでいた紐が無ければ、川に落ちて流れて行ってしまっていた所だ。
「帰って! 馬鹿にするなら帰ってよ!」
 指を突き付けて、彼を真っ向から睨み付けた。
「はいはい……用事が済んだら帰りますから、それまで我慢して下さい」
 彼と話していると、またすぐにでも泣き出してしまいそうだった。用事があると言うのであれば早く終わらせるべきだった。そうして、少しでも早く別れるべきだった。そうでなければわたしの心は持ちそうになかった。
「……用事って何?」
「先ずは飲み物を飲んで下さい。全部飲むまで帰りませんので……はい」
 そう言うなり、彼は今度こそお茶のペットボトルを差し出した。
 そして、わたしはそれとは逆の方に手を伸ばした。
「――……甘い方が良い」
 それを聞くなり、彼は声を上げ、再び笑い始めたのだった――

 一つ向こうの石の上で、鳥子が体育座りをしてこちらと向かい合っていた。そうしていると、スカートの内側が、タイツで覆われている足が覗き見えてしまう。精神衛生上、それは極めて悪かった。
 鳥子は飲み物を受け取るなり、一気にゴクゴクと半分ほど飲み干してしまった。そして、またすぐに口を付けるなり、二口目には完全に空にされてしまった。
「……足りた?」
 まだ蓋を開けていないお茶のペットボトルを、鳥子に対し、恐る恐る、軽く揺らして示して見せた。
 その仕草にムッとしたのか、鳥子は眉間に皺を寄せ、プイッと顔を背けてしまった。
「要らない……ちょっと御腹が空いてただけよ」
「お腹減ってるの? なら何か買って来ようか? あ……でも財布持って来てないや。ごめん」
 財布を持って出なかったのは失敗だった。鳥子と会う以上は必須アイテムだった。
「別にたかろうなんて思ってないわよ! それよりも用事って何なの!?」
「あのお菓子の詰め合わせありがとう。物凄く良い物だったから、僕も姉もびっくりしたよ」
 先ずは社交辞令から始めた。
「それが用事? そんな事はどうでもいいから、早く用件を言って!」
 その通りだった。いつまでも切り出さないでいるわけには行かなかった。
「天羽さんから聞いたよ。鳥子さんは呪巫女をずっと続けるつもりだって……次の呪巫女になる子どもを作らないで、鳥子さんだけが呪いを受け続けるつもりだって」
「…………あの人はそんな事まであの人は貴方に話したのね」
 鳥子は顔をうつむけて、恨めしそうに漏らしていたかと思うと、すぐに顔を上げた。
「――その通りよ。でも……貴方には関係無い話よ。それがどうかしたの?」
 それもその通りだった。だからこそ、ここへ来たのだ。
「でも、それだといつか潰れてしまうって聞いた……」
「そんなの貴方には関係無いわ。これはわたしの問題よ。それに、潰れるかどうかなんてわからないわ」
 一族でもない、ただの他人である自分には、確かに無関係な事なのかもしれない。それでも放っておけなかった。鳥子がこちらを求めてくれるのを待つなんて、そんな悠長な事はもう出来なかった。
 天羽庵からあの話を聞かされた後では考えが変わってしまっていた。待つなんてやり方では、鳥子を助ける事はおろか、その間に鳥子が更に深みにはまって行くだけだった。そんな事は見過ごす事が出来なかった。
 そして、今ここに、目の前に、手を伸ばせば助けられる者が居るのであれば――するべき事は一つだった。
「――関係無くなんてない!」
 精一杯、声を張り上げたつもりだったのだが、口の中が渇いていたためか、その声はかすれていた。
「鳥子さん……僕じゃだめかな?」
 それは、この夏二度目の告白だった。そして、二度目の告白は本気だった。
 一度目の時とは何もかもが違っていた。一度目の時ですらそれなりに本気であったはずなのだが、それでもその思いの強さは、必死さは、二度目の方が圧倒的だった。
「――僕は……鳥子さんの恋人になりたい。鳥子さんのそばに居たい。そうして、鳥子さんを支えて上げたい……」
 鳥子は視線を下に向けるも、それでも顔は反らさずに居てくれた。こんな時でも彼女は誠実だった。こんな人だからこそ、好きになったのだった……
 あの日、泣きながら自分に謝って来た姿を見た時からずっと、惹かれていた。こんな優しい人、他にはいない。こんなに素敵な人を手放す事なんて出来なかった。
「無理よ……わたしには許婚が居るの……」
 それは初耳だった。
「……誰?」
「……庵さんよ。医者の家系で、蓄えも十分にあるから、将来病に侵された呪巫女を養うのにも都合が良いの……」
「あの人が……鳥子さんの……許婚?」
 頭が真っ白になっていた。そんなの……勝てるわけが無かった。家柄も、財力も、顔も、身長も、能力も、何一つとして勝てる要素が見当たらなかった。それらは男女が付き合う絶対条件ではないと言うのもわかってはいるのだが、それでも、現実的には厳しい問題だった。
 鳥子を守ると言う意味において、自分はまだ何もそれを保障するものを持っていなかった。お金も、知識も、経験も無かった。あるのは心意気だけだった。
 心意気だけはあるなんて、そんな事、もし人に言えば、鼻で笑われてしまう。確固たるものを持たない者が、どれだけ綺麗事を述べたとしても、有言実行出来ないのであれば、その発言には価値なんて無い。それが世の中と言うものだ。それが現実と言うものだ。
「そんな話……もちろん断ったわ。それでも、あの人がわたしの許婚である事は変わらない……わたしの意志とは関係無く、一族の中ではもう決められている事なの……」
 天羽庵と鳥子の婚約は、どうやら鳥子の決意表明より前にあった話らしい。つまり、鳥子は許婚を解消する事も含めて、次代の呪巫女を産まない事を一族に伝えたと言う事だ。
 それならばまだ希望はあった。鳥子が許婚と結婚するつもりでないのであれば、まだ諦めるわけにはいかなかった。
「鳥子さん……僕じゃだめかな?」
 いずれ……鳥子が望まぬ形で身ごもる事になるのであれば……今ここで、自分のものにしてしまいたかった。
「無理よ……貴方は籠の外で生きるべき人よ。こっち側には来ちゃ駄目、そんな事は絶対にさせない……」
 要点はそこではなかった。自分が聞きたいのは、鳥子が自分の事をどう思っているかだった。
「それでも構わない……鳥子さんのそばにいられるなら構わない」
 もちろん、素直に一族の仲間に入るつもりなんて無かった。それでも、最悪そうなってしまっても構わなかった。鳥子と一緒に居られるのであれば、それでも構わなかった。
「無理よ……それに、わたしは誰にも肌を許すつもりは無いの。どれだけ貴方と付き合っても、仮に結婚したとしても、貴方に肌を許す事は無いわ。貴方はそれに耐えられるの? セックスを許さない女を好きでいられるの?」
 この歳で、まさかそんな事まで問われるとは思わなかった。それは男女が付き合う上で、結婚する上で、とても大切な要素だった。
 少なくとも、鳥子と出会う前までは自分もそう思っていた。自分とて一人の男だ。性欲が無いわけではない。そう言った事に興味が無いわけでもない。むしろ人並以上にある。けれども、自分とて実は問題を抱えていた。まだ鳥子に伝えていない事があった。
「鳥子さん……実は僕ね、将来誰かと結婚しても子どもは作りたくないんだ」
 鳥子ははっとして、顔を上げた。彼女は今一度、自分に対し、悲痛な顔を向けていた。父親を刺したと告白した時と同様の、憐れみの表情を向けてくれていた。
「僕ね……子どもを育てる自身が無いんだ……父親を刺してしまった事があるから……いつか僕も父と同じ様に、子どもに手を上げてしまうんじゃないかって、それが怖いんだ。そして、今度は……僕自身が子どもからそうされる事になるんじゃないかって、そう考えてしまうんだ……」
 それは今この場限りで、適当にでっち上げた話なんかではなかった。もうずっと前から、考え続けていた悩みだった。今ここに来て、まさかそれを口説き文句として使う事になるとは思わなかった。それは今まで聞いて来た中でも、最低最悪の告白だった。
「だから……僕じゃだめかな? 僕は鳥子さんにそんな事求めたりしない。そんな事強制したりもしない。そんな関係が無くたって構わない。だって、子どもなんて欲しくないんだから!」
 世の中には例外がある。性の営みが出来ないとわかった上で、それでも夫婦になる者達だって居るのだ。それでも構わなかった。鳥子と居るだけで幸せになれる自信があった。
 それに、いつか彼女が心を病んで潰れてしまった時に、どこの誰とも知れない男の子どもを身ごもる事になるのであれば……そうならないためにも、彼女のそばに居てやりたかった。その資格が欲しかった。
「無理よ……それに……貴方なら大丈夫よ。貴方は優しいから、きっと良い父親になるわ……だからわたしなんかと一緒になっては駄目――」
 その瞬間――頭の中で何かが弾けた。
「嫌だ!」
「無理よっ!」
 次の瞬間には、二人同時に立ち上がっていた。
「鳥子さんがいいんだ!!」
「無理よっ!!」
 鳥子の方へと手を伸ばすも、払い除けられた。
「僕じゃだめかな!?」
「無理よっ!!!」
 顔を上げ、キッと鳥子を睨み付けた。もしかすれば、半泣きだったかもしれない。
「鳥子さんの力になりたいんだ!!!!」
「無理よっ!!!!」
 鳥子のいる石の上へと強引に飛び移っていた。そのまま、彼女の両腕を左右から挟み込む様にして掴んでいた。顔を近付けて、鳥子の目を真っ向から見上げ、叫ぶ。
「鳥子さんのそばに居たいんだ!!!!!」
「無理よっ……!!!!!」
 二人して、涙目になっていた。
「……臆病者!!!!!」
「それは貴方でしょっ……!!!!!」
 鳥子は思い切りこちらを突き飛ばした。鳥子の腕を掴んだままだったので、そのまま、二人して、もつれ合う様にして石の上から転げ落ちてしまった。
 もし川が深ければ鳥子は溺れてしまう。慌てて手を伸ばすも、それはピシャリと払い除けられた。川は深くなんてなく、膝下ほどまでの深さしかなかった。
 安堵するのも束の間、すぐ様次の激情が口から吐いて出た。
「鳥子さんは僕の事嫌いなのっ!? 嫌いならそう言ってよっ!」
 幾度も、幾度も、手を伸ばす度、払い除けられた。それでも引く事は出来なかった。
「わたしっ!……背の高い人が好きなのっ! 結婚するならお金持ちの人が良いのっ!」
 取って付けた様な事を鳥子は言い募り始めた。嫌われるために言っているのだと丸わかりだった。
「身長はこれから頑張って伸ばすからっ!……お金も努力するからっ!」
 二人びしょ濡れになりながら、なおももみ合い続けた。
「無理よっ! それにっ! わたし年上の人が好きなんだからっ……!」
 一週間前の“贄の儀”の時の光景が今一度蘇る。儀式の時は鳥子にされるがままであったが、今は違っていた。鳥子だけでなく、自分も必死だった。お互い、負けるわけには行かなかった。
「僕ならっ! 年下の僕ならっ……! 鳥子さんより先に死ぬ可能性は低いよ!?」
 鳥子には不老不死の呪いがあるのに、それより長く生きようだなんて無理な話だった。それでも何かを言わずにはいられなかった。
「無理よっ! それ以前に貴方呪われてるじゃない!? そんな事言うなら早くそれを帰してよっ!」
「そうしたら考えてくれるのっ!?」
「無理よっ! それでも無理っ……!」
 鳥子は先ほどから自分に対し「無理」としか言っていない。そして、あくまで外的要因だけを並べ立てて拒否していた。それならばまだ引くわけには行かなかった。
 だが、ここに来て、鳥子はようやくそれに思い当たったのか、はっきりとそれを口にした。
「――あんたなんて大っ嫌いよっ……! もう顔も見たくないっ……! 触らないでよっ……!」
 それを聞いて……ようやく自分は手を下ろした。手を上げるのを止めてしまったので、胴体が無防備になってしまっていた。
 鳥子もこちらの様子に咄嗟に気付いていた様だったが、それをすぐには止める事が出来なかった様だ。彼女の両手が、自分のがら空きの胸部を思い切り突き飛ばしていた。そのまま真後ろに、再び川の中へと自分は倒れ込んでしまう。
 すぐに立ち上がって、水に濡れた前髪を払って、鳥子へと向き直った。
「わかった……! 鳥子さんが本当に僕の事が嫌いだって言うのなら諦めるよ!」
 こちらの顔を見るなり、一瞬だけ鳥子は怯んだ様に身を竦ませ、一歩後退した。
「それでも……――それでも僕は鳥子さんの事が好きだっ!!!!!」
 全力で声を張り上げていた。叫び終えた後は、肩で息をしていた。
 鳥子はそれを聞いて、全身を震わせ始めた。そのまま、ザバザバと水を蹴立て、まるで逃げ出す様にして、こちらの横を通り過ぎて行った。そうして、数歩ほど進んでから、鳥子はポツリと漏らしたのだった。
「――呪いが……いつまでもわたしに帰って来ないのであれば…………いつかまた、それを帰してもらいに貴方の前に現れるわ……。貴方の思いが本物であれば……またいつか、会えるわ……」
 そう言うなり、鳥子はそのまま向こう岸の方へと行ってしまった。
 自分は川の中に突っ立ったまま、彼女を背中で見送る事しか出来なかった。
 この夏、二度目の失恋だった……――

 川岸に戻って来ると、土手の上から庵さんが見下ろしていた。
「――とんだじゃじゃ馬だ……まさかそんな姿で帰って来るなんて思わなかったよ。そのままだと風邪を引いてしまうよ。君も、青羽君も……」
 何度か転びそうになりながらも、腹立ち紛れに、癇癪を起こしながら、土手の上までよじ登った。
 庵さんはわたしが上へと辿り着くなり、わたしの体にスーツの上着を被せてくれた。そのままわたしの肩に腕を回して歩き始めた。
「鳥子……君はもっと幸せになっても良いんだ。今と昔じゃ違うんだ。もっと自分の気持ちに素直になって生きたって良いんだ。呪巫女だって一人の人間だ。普通の人間の様に、幸せになったって構わないんだ」
 わたしはうつむいたま、何も言い返す事が出来なかった。あの一族に囲まれていては、とてもそういう風には思えなかった。
「鳥子……青羽君の事が好きなんだね?」
 はっきりとそう言われた事で、それを皮切りに、両の目尻から生暖かいものが流れ始めた。それは容易に止める事は出来なかった。顔を両手で覆い隠して、ただ俯くしかなかった。
「いいかい、鳥子?……その気持ちを大事に抱えておくんだ。そして、これから少しずつ、身の回りの整理をして行くんだ。……幸い、今の君には沢山の時間がある。そうして行けば、自ずと在るべき形が、取るべき手段が見えて来るはずだ。鳥子……自棄になってはいけないよ? 今一度冷静になるんだ……君は一人じゃない――」
 彼は……わたしを待っていてくれるだろうか――それは余りに希望的観測だった。
「彼の呪いが君へと帰って来ない限り、彼は君を思い続けていると言う事を忘れてはいけない。呪いが君に帰って来るその時まで……希望を持ち続けるんだ」
 もしかすれば、呪いは今日、明日にでも帰って来るのかもしれない。あるいは、もう少し先、一月か、数ヶ月経ってから帰って来るのかもしれない。もしそれ以上経っても彼の呪いがわたしに帰って来る事が無ければ――その時、わたしはどうすれば良いのであろうか。考えがそこに到ると同時、目の前に暗闇が広がった。
 臆病なわたしは、まだその時は彼の事を信じる事が出来なかった。そんな気持ちではどの道、彼と向き合う資格なんて無かった。だからこそ……今のわたしでは身を引くしかなかった。
 今度こそ、彼から、守野青羽から嫌われてしまったかもしれない。下らない事を理由に挙げて、彼を全否定してしまった。
「鳥子……僕も協力する。だから、どうか一人で悩まないでくれ。先ずは……そうだな、君の身の振り方から考えるとしよう。それもみんなで話し合えば良い。君の事を大切に思ってくれている人達と一緒に考えれば良いんだ。一人で悩む必要なんて無いんだ――」
 こんなわたしを引き取り、家族として迎え入れてくれる人なんて、一族の中には居ないはずだった。わたしを管理して、利益を得ようと考える者以外、居ないはずだった……
 涙がまた流れて来た。もう絶望しか無かった……
「もう死にたい……このまま消えてしまいたい……」
 誰かの代わりに呪いを受けると言う事は、尊い事だと、立派な事だと、そう思いながら、言い聞かせながら生きて来た。これはわたしにしか出来ない事なのだと、それを誇りに思って生きて来た。けれども、その思いすら、わたしはあの人に負けてしまった。
 生まれて来てからずっと呪巫女として生きて来たのに、誰かの代わりに呪いを請け負う事を、心の何処かでは自慢に思えていたのに……それすらも失ってしまった。わたしはもうすっかりと自己存在意義を失ってしまっていた。
 守野青羽は、わたしから多くのものを奪っていたのだった。呪い、自信、誇り、それ以外にも、色々なものを奪っていた。今日までわたしを支えて来てくれたものは、全て、彼によって崩されてしまっていた。
 母だけでなく、それ以外にも、多くのものを失った夏だった……――

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