第四十章 青のパフォーム
夏休みが終わった。今日からまた退屈な授業が始まる。
私は一月振りに守野青羽の姿を見た。夏休みの半ばにあった登校日に彼は欠席していたので、会うのは本当に久し振りだった。
登校するなり、級友達からこんな話を聞かされた――守野青羽は夏休みの間、一度も夏期講習に来なかった。
生徒達の間では、彼は夏休みの間、家出をしていたのだと噂されていた。嘘か真か。それはわからない。
なぜなら、二学期に見た彼の様子は何も変わっていなかったからだ。遅刻もせず、居眠りもせず、品行方正な模範生のままだった。ヤンキーになったようには見えなかった。
そして、これも奇妙なところだった。まだ暑いのに、彼は長袖の学校指定シャツを着ていた。袖を捲くるようなこともなく、普通に着こなしていた。
登校初日の放課後、彼は一度だけ職員室に呼び出された。教師達の目立ったリアクションはそれっきりだった。それ以上は特に何も起こらなかった。
教師と守野青羽が何を話し合ったのか、それはわからない。彼は処罰されるようなこともなく、次の日からも普通に学校に通っていた。守野青羽は、あくまで真面目な生徒のままであった。
そして、彼はその日から何かに奔走し始めた――ように見えた。少なくとも私にはそう思えたのだった。
彼が何をしようとしているのか、それはわからない。彼はもう私を見てはいなかった。何か別のものを見すえていた。
彼は学校の裏庭へとよく足を運ぶようになった。
そこには何も無い、寂れた庭園が広がっていた。学校の裏庭の木や花は、夏季休暇が始まる前に枯れてしまった時のままだった。枯れた木は、腐って倒れてしまう前に、夏休み中に切り倒されてしまっていた。そこだけ一足早く、木枯らしの吹く季節が訪れているかのようだった。
守野青羽は昼休みをそこで一人で過ごすようになった。
一度だけ、私も一緒に行きたいとお願いしたことがあったのだが――
「――ごめん……一人で行きたいんだ」
その言葉を聞いて、なぜだか振られてしまったような気がした。告白したわけでもないのに、それが無性に悲しかった。
夏休みの前と後では、守野青羽の私に対する態度は一変していた。
別に冷たくなったわけではないし、嫌われたわけでもないようだった。彼は優しいままだった。むしろ、以前よりもずっと優しくなっていた。それどころか、人とよく話すようになり、よく笑うようになり、人当たりが良くなっていた。
守野青羽は時折、私含めたクラスメイトの女子の姿を見ては、目を細めて、誰かと重ねて見ている時があった。少なくとも、私はそれを察していた。
それから少しばかり時が流れた頃。彼はある日“それ”に気付いたのだった。“それ”が何なのかはわからないし、上手く言葉にもできない。きっとそれは、守野青羽にだけわかることなのだ。守野青羽はようやく“それ”を見つけたようだった。
彼が“それ”を見つけたのはある日の朝のことだった。ホームルーム前の教室で、登校風景が見渡せる窓から、何かをじっと見つめていた。彼が見ていたのは、足を骨折して、松葉杖を突いて登校している生徒の姿だった。
休み明けに骨折をして登校して来る生徒の数はそれなりに多いものだ。その大半は運動部の生徒だった。私の所属する剣道部でも、一人、手の骨折をした生徒がいた。
彼はそれを見て、何かを、あるいは自分を責めていた。口をぼそぼそと動かして、こう呟いていた。
「――このままじゃだめだ……こんな程度の事も出来ないんじゃだめだ……」
その日から、守野青羽は帰宅部であるにも関わらず、遅くまで校内に残るようになった。夏休み明けから、どこか精気が抜けて感じられていたのが一変していた。彼の顔には覇気が満ち満ちていた。
剣道部の活動に勤しむかたわら、私は度々、守野青羽の奇異な行動の数々を見た。
一つ。学校中のトイレを行ったり来たりして、何かをメモしている姿を見た。
二つ。メジャーを持って、階段を上り下りしている姿を見た。
三つ。何度も職員室に行って、教師に何かを訴えている姿を見た。
それ以外にも、私は守野青羽のこんな姿を見ていた――
クラスの中に一人、夏休み中に骨折をした野球部の男子生徒がいた。彼の名前は石津隼と言った。坊主頭で、身長が高くて、勉強は私以上にからっきし。お調子者で、クラスの大半の男子と仲が良い。いわゆる、典型的な運動バカだった。
石津隼は足を骨折していた。トイレに行く度、とても不便そうにしていた。時には授業開始に遅れることもあった。教師も事情を理解しているためか、特に彼を責めるようなことはなかった。
なぜなら、この学校の生徒用のトイレは全て、座って用の足せるタイプの物ではなく、和式だったからだ。男女共に、この高校では和式のトイレしか設備されていなかった。
石津隼人曰く――
「――大も小もやりにきぃ……どこにも支えになるものなんて付いてねえから大変だよ」
その言葉を聞いたその日から、守野青羽は石津隼のトイレに付き添うようになった。
恥ずかしさがあるためか、それ以外の理由もあるためか、石津隼は初めは守野青羽の事を邪険にしていた。露骨に顔をしかめて、睨み付けすらした。
実は石津隼人は、真面目で成績の良い、クラスから浮いた守野青羽の事を良く思っていなかった。彼を第一印象だけで疎んじていた人間の一人だった。更には、夏休み明けに噂された話もまだ耳に新しかったので、なおさら守野青羽には辛く当たっていた。
「――男に連れ添われてもキモイだけだ……いいから向こう行けよ」
なかなかに酷い事を言う。私の中で、石津隼人の評価が、級友からどうでもいい他人へと降格された瞬間だった。
けれども、驚いたことに、守野青羽はそれでも引かなかった。
根負けしたのか、うんざりしたような顔をして、石津隼人は一日だけ守野青羽の介添えを了承したのだった。
そして、その数日後。石津隼は『すまん! またよろしく頼む!』と、自ら頭を下げて、守野青羽に介添えをお願いしたのだった。
足を骨折している時に、杖を代わりに持って待ってくれている者がいるだけでどれだけ楽になるのか。そして、それがどれほどありがたいことなのか、石津隼は学んだようだった。
石津隼の守野青羽に対する見方は完全に変わっていた。見返りを一切求めず、善意から介添えを引き受けてくれた守野青羽に対し、彼は友情を抱くようになっていた。
かたや、成績不良の運動バカ。
かたや、成績優秀な帰宅部。
背も、性格も、何もかも違う二人だった。それでも二人は仲良くなった。友人となった。
そしてある日、守野青羽がしていた例の奇行を、石津隼人までが手伝うようになっていた。部活に参加できないからと、自分も学校に文句があるからと、そんなことを言っていた。
放課後、二人は担任と一緒に職員室まで行っては、連日他の教師達にしきりに何かを訴えていた。
そうして、長い二学期も、授業と部活に追われる形で、あっと言う間に過ぎ去って行った。
その間、守野青羽は石津隼の足が治るまでずっと介添えをし続けた。最後までやり通したのだった。その姿を見て、特に野球部の中では、守野青羽を馬鹿にする者は一人もいなくなってしまった。
そして、彼は裏庭にも通い続けていた。裏庭に行っては、そこで一人、何かをしていた。
私はそうして、ただ彼の姿を追うばかりで、彼のしていることを手伝うことはなかった。人助けなんて、気恥ずかしくてとてもできなかった。
そして、そのまま、あの日の答えを伝えるのをずっと先延ばしにし続けたのだった。なぜだか、今の彼には近付いてはいけない気がしたのだ。彼の邪魔をしてはいけないと、そう思ったのだった。
冬休みが訪れた。
私は家業の道場の打ち上げ会の手伝いをして過ごしていた。
今この道場には母しかいないから、一人娘である私が手伝わなければならない。
母いわく『来年はバイトを雇わないとこりゃ無理ね♪』と、相変わらずのほほんとのたまってくれた。
その年に母から貰えたお年玉は、予想していた額の二倍だった。
母いわく『手伝いを頑張ってくれたから特別よ?』とのことだった。二万円ももらえた。やったね!
正月休みも明けて、今度は三学期が始まった。
三学期の登校初日。雪の積もった通学路を進んでいると、少し前の方に、青いマフラーを巻いて、一人歩いている男子生徒の姿を見つけた。守野青羽だった。
「――青羽君! あけましておめでとう!」
竹刀の納められた袋を持ったまま、それを高く掲げ、私は守野青羽に対してぶんぶんと手を振った。
すると、彼はすぐに振り返ってくれた。
「――三森さん?……あ、やっぱり。久し振り! あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
彼は来た道をわざわざ戻って来てくれた。その上、丁寧に頭を下げて新年の挨拶までしてくれた。
「お年玉頂戴! 休みの間はこれでも良い子にしてたんだぞぉう!」
『ねっ? ねっ?』と、しきりにアピールした。甘えてみた。
そんな私の姿を見て、守野青羽は苦笑したのだった。
「はいはい! それじゃあ……学校に着いたら何か暖かい飲み物を買って上げようね?」
そう言うと、彼はそれがさも当たり前のように、私の持っていた面と防具の入ったバックを取り上げたのだった。
「あ……ありが、とう……」
本当に……なんで彼はこんなにも優しいのだろうか。そして、極自然にそんなことができるのであろうか。私はそれがとても羨ましく思えたのだった。
「そんな大荷物じゃ、雪道は歩き辛いでしょ? そういえばさ……前から思ってたんだけど、女子って大変だよね。男より寒さに弱いのに、冬でもスカートで登校しないといけないなんてさ。足、寒そうだよね」
守野青羽は淡々と、あくまで世間話として振ってきた。ギリギリ、セクハラにはならないであろうか。それでも言うべきことは決まっていた。
「言ってることがイヤラシイ〜〜! 足見ないでよ! このスケベッ!」
足周りを覆う学校指定のコートの裾を押さえながら、彼を茶化しながら肘で突ついてやった。
「――――――」
すると、ほんの一瞬、彼はまた誰かと私を重ねて見ているのだった。放心したまま、私ではない誰かを、私を通して見ているのだった。
「………………」
彼のその顔を見ていると、妙に肌があわ立った。なぜだか不安になるのだった。一人だけ取り残されてしまうような、そんな危機感が生じるのだった。
――前みたいに……私のことを見てよ?
まだ彼女でもなんでもないのに、思わずそう口にしかけていた。
やがて、思い出したように、守野青羽は意識を取り戻した。
「――行こう! 早く着いて、一緒に教室で温まろう」
「そのセリフもなんだかひわ〜〜い。言うタイミング間違えたらカンペキにセクハラだよ!」
「うわっ!……三森さん親父臭! その発想からして親父臭!」
彼も言うようになっていた。こんな守野青羽もまた、非常に好ましかった。
「へっ!……こちとら休みの間は、門下生のおっさん達相手に酌して回ってたのよ! 家は剣道場をしているからね! 忙しかったんだぜぇい?」
「それは仕方ないね。それでおっさんが移っちゃったんだ?」
守野青羽は笑いながら言った。
「その通り! だから私は悪くないの! そして、私におっさんを移したおっさん達も悪くなーいのっ! あのおっさん達がいるから家の道場はやってけるんだしね〜。何より! 私にお年玉をくれたから許す!」
それを聞いて、守野青羽は一瞬だけ驚いたような顔をした。しばらくして……穏やかな表情をして、彼は力強く頷いたのだった。
「……そうだね。移されたからって恨んじゃいけないよね」
その時の彼の笑顔は、最高に眩しかった。まるで、春の太陽のようだった。その顔を見ていると、無性に胸が苦しくなった。それを堪えながら、笑顔を貼り付けたまま彼と話をしながら、学校へと向かった。
冬休み明けの学校は、所々変わっていた。玄関前には、車椅子等でも上がれるように、緩やかなスロープが設置されていた。
彼が飲み物を買っている間に寄らせてもらったトイレでも変化が起こっていた。全てのトイレが和式から洋式へと変わっていた。便座タイプになっていた。
これは後で聞いたのだが、男性用の小便器ですら、横に手摺りが取り付けられ、片足が使えなくても用を足しやすいように改良されているらしかった。
そして、一番の変更点はエレベーターが設置されていた事だった。職員室の近くにそれはあった。基本的には教師しか使えないことになっているが、ちゃんとした理由があれば生徒も使って良いとのことだった。
それを見て、守野青羽は満ち足りたような顔をして微笑んだのだった。
その顔を見て、私の胸の中で、いよいよ何かが強く、弾けた――
朝のホームルームで、学校の設備が一新された旨が担任教師の口から説明された。
足を骨折した生徒だけでなく、車椅子利用者でも校内を自由に行き来できるように、随所でバリアフリー化が施されたとのことだった。
私は隣の席に座る守野青羽の顔を覗き見た。彼はその話を聞いていても、どこか上の空だった。既に、何か別のことを考え始めていた。
守野青羽はその件での功労者であるはずなのに、肘を突いて窓の外を見ていた。教師も彼を労う事は無く、そのまま話を終えてしまった。
ホームルーム後、全校集会が始まった。いつも通り、校長の説教が始まった。それもようやく終わりを迎えた。これで後は教室へ戻って、掃除をして帰るだけだった。今日は部活が無いから楽だった。
そして、集会の終わる間際にそれは起こった。
『――石津隼。守野青羽。壇上に上がりなさい』
司会進行を勤める教師の声が、厳かに、二名の男子生徒の名を読み上げた。
一人目は、二学期に骨折をして登校した例の男子生徒。野球部の石津隼だった。そして二人目は、あの守野青羽だった。
私はもう予想がついていた。すぐに彼へと視線を移した。男子にしては背が低めの守野青羽は、私のすぐ近く、斜め前に立っていた。彼は何事かと、周囲をキョロキョロと見渡していた。
後ろで並んでいた石津隼が、生徒の隙間を縫って、前へと進んで来て、守野青羽と合流した。もうすっかり足の方は治っていた。
「――守野、何で俺達呼ばれたんだ?」
「――さぁ?」
そんな話し声が聞こえた。
二人はそのまま、ゆっくりと全校生徒の前に出て行った。壇上に上がる階段の前へとやって来て、所在無げにしていた。ここから見ても、二人がかなり緊張しているのがわかった。一年生から三年生までの全校生徒の視線と、全職員の視線が一斉に集まっているのだから無理も無かった。
石津隼に関しては、野球部のメンツから無数の冷やかしを受けていた。その分目立っていた。一方、普段から目立たない守野青羽は、やはりこんな時でもあまり目立たないのだった。私はそれに納得が行かなかった。一番の功労者である彼が一番目立ってしかるべきだからだ。
壇上に立つ校長は、そこで初めて、全校生徒の前で気さくに微笑んだのだった。そのまま、まるで友人にそうするかのように、二人を手招きしたのだった。
校長は、普段はムスッとした表情を貼り付けている老人だった。厳しく、無愛想な人物だとばかり思っていた。だから意外だった。こんな顔もできる人だったのかと知って、驚いた。
二人は恐る恐ると言った感じで、階段を上がり、壇上へと、演説台の前へと進んで行った。
すると、校長は演説台の引き出しの中に用意されていた賞状を二枚取り出して読み上げ始めた。
「――石津隼。守野青羽。両名をここに表彰します。君達は我が校の設備に対し、鋭く、的確な意見を訴えてくれました。人を思いやる、素晴らしい意見を述べてくれました。この学校を利用する職員、現生徒だけでなく、いずれ新たに入学して来るであろう無数の新入生達の為になる事をしてくれました。我が校に、計り知れない恩恵を与えてくれました。君達が我が校の為に、貴重な意見を訴えてくれた事、努力してくれた事を、今ここに、深く、感謝申し上げます。その証明として、君達二人をここに表彰します――ありがとう! 皆さん、御二人に拍手を御願いします!」
校長は声高々にそう言った。
その威勢の良い掛け声に触発される形で、体育館中で拍手が鳴り響いた。
校長はそのまま演説台を自ら迂回して、二人に歩み寄って行った。二人の手を取って『ありがとう! ありがとう!』と言いながら、交互に、固く、両手で握手を交わしたのだった。
守野青羽はそこでようやく合点が行ったのか、慌ててへこへこと頭を下げ始めた。私は彼のその姿を見て、思わず吹き出してしまった。そして、そのまま……真っ直ぐに彼の姿を見つめたのだった。朝一緒に登校した時に見た、学校の様変わりを見て微笑んでいる彼の表情を思い出す。
まさか自分が言ったことが、したことが、ここまで学校側に受け入れられるとは予想していなかったのであろう。守野青羽のお節介ぶりは、学校レベルで浸透していた。
それは……彼がこの学校で最も有名な男子生徒となる、最初の兆しだった……――