小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第六章  茜色のプレリュード

 目を覚ますと――そこは夕焼け色に染まる空間だった。何処か、病院の寝室を思わせる場所……窓から吹き込んで来る風が、さわさわと、さらさらと、カーテンを揺らしている。
 部屋を見渡すと、薬品棚と体重計、身長測定器、視力検査に使う表が見えた。それだけで、ここは保健室なのだと悟る事が出来た。
 そうしていると、肩からタオルケットがずり落ちた。それを見下ろすと、そこには一糸纏わぬ姿の……正確には、下の下着以外が全て取り払われたわたしの裸体が見えた。
 ――誰かに体を見られた……?
 裸を他人に見られるのは恥ずかしい事だ。それは当然だ。けれどもわたしの場合はそれだけの問題では済まなかった。この体は首筋から下にかけ、ほぼ全身に斑状の黒い傷痕が走っている。それは炎のゆらめきの様な、あるいは歪な木の枝の様な、醜い模様を描いている。
 これのせいで、公衆浴場やプールを利用した事は一度も無い。学生の集団合宿等においてすら、一人個室を与えてもらい、一人で入浴をしなければならなかった。
 その傷痕は火傷の痕の様でいて、鉤裂きの傷の様にも見える、とても歪なものだった。それは赤黒く、薄気味悪く、見ているだけで人を不快にさせる代物だった。生理的嫌悪感を抱いてしまう程に醜悪な代物だった。
 そんな醜い体をしている者と、ましてや度々開いては出血する事すらある傷を持つ者と、誰が一緒に入浴をしたがるであろうか。不衛生さを覚え、忌避するのは当然の事であった。このおぞましい傷と傷痕を見れば、誰もが感染を恐れるのは道理だった。事実感染する様な事は無くとも、疎ましく思われるのは当然だった。人の血と言うものは、他人にとって、取り分け不浄に感じられる性質のものなのだから。
 この傷の一部を教職員達に見せるだけで、集団行動の一部を拒否する免罪符としては十分だった。幼稚舎、小学校、中学校、高校まで通し、免除が許されなかった事は一度も無い。
 これすらも持病の一部として、わたしは今日まで抱えて来たのだ。必要があれば、周囲にそれを吐露して来たのだ。学び舎が変わる度、それを一つの通過儀礼とし、そこに居る者達に知らしめて来たのだ。
 それに慣れる事は無かった。その傷を見せる度、事情を語る度、わたしの中で何かが悲鳴を上げ……そして、砕け散って行った……
 慣れない理由は精神的な要因以外にもあった。その傷は例え塞がっても、なおも鈍痛を与え続ける代物だった。時折、塞がっているはずなのに、じわじわと出血する事すらあった。治らないのだ。永遠に。
 それは斑の傷痕がその範囲を広めているが故に生じる症状であった。その傷が治る事は、わたしが“贄”である限り永久に無い。消える事も無い。むしろ拡大して行く。それは何とも忌まわしきスティグマだった。
 早く服を纏いたいと、周囲を見回していると、すぐ近くの棚の上にそれを見付けた。それは丁寧に畳まれていた。それこそがわたしの服だった。
 即座に手を伸ばす。先ずは黒いブラを身に付け、次いで、すぐに残りを着込む。少しでも黒い傷痕が目立たぬ様に、わたしが身に纏う物は全て黒に統一していた。取り分け、白は絶対に身に付けない様にしていた。
 最後にタイツを履こうしてそれに気付く――……破れてしまっていた。
「…………っ」
 それでも構わない。少しでも傷痕が目立たぬのなら履くしかなかった。指先で穴が開いた所を引っ張って、可能な限り白い肌の部分へと持って行く。そうすれば、少しでも傷は無くなるのだと言わんばかりに。
 昔……わたしのこの傷を偶然見てしまった第三者が居た。わたしが家庭で虐待を受けているものと勘違いされた事があった。その時は本家に、施設の職員と警察が訪ねて来る騒ぎになってしまった。
 一概に、虐待ではないとは言い切れない部分があるのは皮肉ではあったが、その手の虐待は事実されていなかった。珍しい病気の一種だと言えば解放された。
 それとまた同じ事が起こるかもしれない。それは避けるべきだった。そうなってはどう転がろうと、本家に連れ戻されてしまう事になる。
 服を着て、ようやく人心地つく事が出来た。ほっと胸を撫で下ろす。そして、今度はすぐにそれに思い当たる――誰がわたしを介抱してくれたのであろうか?
 感謝の念を抱くよりも先ず、どうしてもそちらが気になった。誤解をされぬ様に、その人と話をしなければならない。そして、すぐに立ち去らねばならなかった。
 窓の外を見ると、もう夕暮れの時間帯であった。夏は日が落ちるのが遅い。この暮れ様だと、確実に放課後であろう。だが不思議な事に、そんな時間だと言うのに、人通りがやけに多かった。
「…………?」
 別の意味でまた慌てそうになるも、よくよく見れば、それは追っ手ではなかった。夜になると“奴ら”が活発化する。呪いの力も活性化する。それに合わせて追っ手も動き出す。だから、まだ彼等は動いていないだろう。
 次に疑問に思った事。それは――誰がわたしをここへ運んだのか。そして、わたしを運んで、その人は無事に済んだのであろうか?
 あの凶鳥の姿が脳裏を過ぎる……自然とそちらに顔が動いていた。病院等でよく見る、天井から吊り下げられたカーテンで敷居がされている一角。それはわたしの寝台の隣にある場所だった。
 今日は全国的に多くの教育機関が夏季休暇に入るはずである。なので、午前中にはほとんどの生徒が下校しているはずだ。それなのに、そこにはまだ誰かがいる様だった。
 床に降り立ち、そっとカーテンを除けてそちらを覗き見ると……――そこには一人の少年が眠っていた。青白い肌をした少年が、スヤスヤと、安らかな寝息を立てていた。その表情から、彼が酷く疲労している事が窺い知れた。そして、その左頬には擦り傷があった。そこに塗られた黄色い消毒液の乾いた跡が、その傷をより痛々しく見せていた。その部分は、血と黄色い液とが混じり合って、微かに琥珀色に輝いていた。それは、少しだけわたしの体にある傷に似ていた。
 けれども、わたしの持つそれとは違い、その傷は何処か眩しく見えた。醜さなんてこれっぽっちも感じなかった。
「…………」
 思わず……笑顔になっていた。彼が怪我しているのを、不謹慎に喜んでいるわけではない。ただ、おかしかったのだ。大人しそうな少年であるのに、そんな所を怪我しているのだから。それが何だか意外だったのだ。微笑ましかったのだ。もしかして、誰かと喧嘩でもしたのであろうか?
「…………」
 自然と、笑顔が深まっていた。わたしはしばらく少年の寝顔を見詰め続ける。気付けば……自然と、彼の頭を撫ぜていた。
 無防備な少年の寝顔と言うのは、こんなにも見ていて癒されるものなのであろうか。女子校にしか通った事の無いわたしには、それがとても新鮮に思えたのだった。
 次いで、それにも気付いた。彼の左腕には、仰々しく包帯が巻かれていた。その時――胸の中でまた……何かが音を立てて砕け散った。
 わたしはそれを確信していた。もう何度目になるのかわからないが、わたしは慌てていた。悲鳴を上げそうになるのを堪えながら、引きつりそうになる頬に軽く爪を立てながら、ゆっくりと頭を振る。
 どうか違います様に……――そう願わずにはいられなかった。次の瞬間、わたしはその腕を取って、巻かれた包帯を解いていた。白いガーゼをそっと取り外し………………そこに“それ”を確認した。
「…………っ」
 下唇を噛み締める。それはスティグマだった。わたしの家系に連綿と受け継がれて来た“呪い”の一端であった。それは本家にまつわる一族が、代々“贄”に押し付けて来た“負の表象”だった。
 わたしの身に刻まれているものと同じ“烙印”が、初対面のはずの少年の左腕にはっきりと刻まれていた。
彼は恐らく、それは極めて珍しい事に、それを受け入れてしまう気質の人間であったのだろう。かつて、わたしの為に、呪いの一部を引き受けて死んだ者達の様に。
 わたしはそれを、かつて失った友の件と、ついこの間亡くなった母の件でよく知っていた。彼女達はわたしを守ろうと、自己犠牲の果てに死んだのだった……
 その事を思い出した事で、記憶が目まぐるしく蘇る。先程見ていた夢の内容が、鮮明にぶり返して来た。

 ――“一人の時間はもう終わり。後は貴女次第。歩み寄るも、拒むも、今まで通り生きるも、貴女が決める事”――

 それは夢の中で、巴の姿を借りた“何者かが”わたしに語り掛けていた言葉だった。
「――冗談じゃないわ……!」
 本当に冗談ではなかった。“この呪い”を抱えるのは、この世でわたし一人で十分だった。
 わたしは決めているのだから……

 ――“子供”を作らず。

 ――誰にも体を許す事無く。

 ――この苦しみを他者に押し付ける事は絶対にすまいと決めているのだから!!!!!

 自身が呪いの苦しみから逃れる為に、我が子を生む事は出来ない。それだけの為に子を生す事は絶対にしてはならない。何より、子が親の呪いを受け継いでしまうのが必然であれば、元より子を生す行為はすまい。故に“男”に肌を許す事も永遠に無い。そして、それをそれ以外の誰かに荷負わせる事もしないと決めている。
 きっとこの少年は……普通の人よりも幾らか優しい心根の持ち主なのであろう。あるいは、今日、たまたまそういう精神状態であったのだろう。だからこそ、偶然にも“それ”が刻まれてしまったのだ。
 そうでなければ“烙印”が刻まれる事は無かったはずだ。
 そうでなければ、傷がそこに付くだけで、黒い斑模様までもが刻まれる事は無かったはずだ。
 何か強い思い入れがわたしに対して無ければ、それはそこには無いはずだった。出会ったばかりのわたしに対し、この少年はどれだけの思いを傾けてくれたのであろうか?
「…………ごめんなさい」
 ――当初の予定通り、あの場所に行くしかなくなった。追っ手と“奴ら”をやり過ごしながら、孤独に向かうはずだったあの場所へ……彼も連れて行かねばならなくなった。
 その時――ガラリと戸が開く音がした。
 わたしはそれだけで、無実の少年を巻き込んだ咎を責める者が現れたのかと、半ばそう思ってしまった。ビクリと肩を震わせ、恐る恐るそちらを返り見た。
 そこには白衣を纏った女性が立っていた。それは巫女が纏う白衣とは違う物だった。研究者や医療関係者が纏う白衣であった。
「――おや? どうやら目が覚めたようね。もう起きても大丈夫なの?」
 ニコリと彼女はこちらに笑いかける。少しきつい目付きをしているが、それでもその表情は柔らかかった。恐らく、事実、厳しさも合わせ持っている人なのであろう。ハキハキとした物言いからもそれが何となくわかった。銀縁の眼鏡が印象的な女性だった。
「初めまして。私はこの高校の養護教諭を務めております、芹沢ひばりと申します」
 ひばり……それは鳥の名前だった。
「……わたしは、その……」
 名乗られて、名乗り返せないもどかしさと言うのはこういう感じなのかと悟る。いつまでも名乗らずにいると、芹沢ひばりはいつの間にかわたしの目の前に立っていた。こちらが驚く間も無く、手を伸ばされ、額に触れられていた。
 彼女の方が、わたしよりも頭半分程背が低いのだが、その仕草は堂々としたものだった。長身のわたしに物怖じする事も無く、診断を続ける。
「ん??……ちょっと熱あるけど、まぁ良いでしょ。一応病院へ行く事をお勧めするけど、そこは自由意志にお任せします。もう子どもじゃないんだしね。行く行かないは自分で決めなさい」
 芹沢は腰に片手を当てながらそう言うと、クルッと向きを変え、そのまま冷蔵庫の方へと歩いて行ってしまった。そして、その冷蔵庫の中から麦茶の入った容器を取り出しながら、改めて口を開いた。
「とりあえず、これ飲んでゆっくりしてなさい。塩もあるから、ちょっと舐めときなさい。後で御家族に電話して上げるから――あ……もしかして一人暮らし? と言うか、あなた幾つ? 私よりは若いでしょうけど」
 長身である事と、この容姿から、わたしは二十歳以上に見られる事がよくあった。わたしの外観は、十代と言っても、二十代と言っても、どちらでも通じるものだった。
 電話をするべき場所があるとすれば、それは本家以外にありえなかった。それは今のわたしには望まぬ事だった。
「……電話は良いです。一人で帰れますから」
 話を掘り下げる事はせず、可能な限りこちらの事を語るのを避ける――わたしが選んだのはそれだった。
 ペコリとお辞儀して、わたしは少年の眠る寝台から離れた。その際に、素早く包帯を巻き直してから。
 歩みを進めて、窓際にあるスチール机の方へと赴く。その上には、その窓際には、花が植えられた鉢が沢山置かれていた。
「――綺麗でしょ? 保健室に来たら、少しでも生徒が癒される様にと思ってね……今日全部家に持って帰って、休み明けにまた持って来るつもりなの。今日から夏休みだからね」
「はい……綺麗ですね」
 けれども、わたしの目的は花ではなかった。
「すいません。これ貸して下さい。紙も何枚か使わせて下さい」
 スチール机の上にあるペンとメモ紙を借りて、文章をしたためる。
「――何書いてるの?」
 すると、芹沢はわたしの肩越しにヒョコッと顔を出して来た。思わず身を仰け反らし、慌てて紙面を隠す。「ごめんごめん。盗み読むつもりはないから。そうそう……あなたをここに連れて来たのはそこで寝ている子よ。もしかして、もう話した?」
「いいえ、まだです。ついさっき目が覚めたばかりなので……」
「あ、一応言っておくけど、服を脱がしたのは私だから勘違いしないでね? あと、手紙書くくらいなら、直接言いなさいな!」
 ――パンッ!
「――きゃっ!?」
 臀部を叩かれた。まさかこの歳になってお尻を叩かれる事があるとは思わなかった。びっくりして、目を瞬いてしまう。
「あなたみたいな美人からお礼を言われるとさ、それだけでこの年頃の男子は幸せなんだから。出来ればそうしてやって欲しいな」
 ふふんと吐息を漏らし、気さくな感じで芹沢ひばりはそう言った。
「はい……だから“そうする為に手紙を書いている”んです」
 わたしはそれに思い当たり、話を反らす為に、新たな話題を振った。
「そういえば……人が多いですね。何かあったんですか?」
 窓の外を忙しく行き来する大人達を見据えながら、わたしはそう言った。
「――あ?……とりあえず何も無かったんだけどさ。学校の裏にある庭の植物が一斉に枯れちゃったのよ。蝉の死骸もゴロゴロ転がっていてさ。カラスも沢山倒れてた。今日は凄く暑かったでしょ? それのせいじゃないかってさっき結果が出たところなの。たまに植物って、おかしな時期に咲いたりするじゃない? 逆の話は初めて聞いたけどね。毒ガスでも発生したのかって思ったもんだから、保健所とマスコミが来る大騒ぎになっちゃってね……こりゃ明日の朝刊が楽しみだわ」
 最後の方は冗談の様に言い終えてから、芹沢ひばりは手紙をしたためているわたしの横に麦茶の入ったコップをそっと置いてくれた。
「…………」
 わたしはそれを聞いて、何も言い返せなかった。その原因は間違いなくわたしだったからだ。それを誤魔化す様に、別の話題を振る。
「あの……わたしの体の事ですが……」
「ん? 大丈夫よ。軽い日射病って所ね。発見が早かったから問題無しよ。良かったわね。彼の御陰よ」
 そういう意味で訊いたのではない。その返答を聞いて、わたしは頭に血が上っていた。振り返って、続けようと、口を大きく開きかけると――
「――そういう意味ではなくて!――」
 わたしは癇癪を起こしかけていた。他人にこの話をするのは、正直疲れるのだ。もう何度目だろう……あと何度この話をすれば良いのであろう……けれども、それを見て、わたしは押し黙る事しかなかった。
 芹沢は口の前に人差し指を立て、ただじっとこちらを見詰めているだけだった。
「……病人が寝ているから静かにしてね?」
 そうだった……わたしはまた、我が身の事ばかり考えてしまっていた。反省せねばなるまい。苦しんでいる人間はわたしだけではないのだから。本当にわたしは……醜く、浅ましい人間であった。
 芹沢の先の返答には、悪意や忌避は微塵も含まれていなかったのだと、今更ながら気付く。
「……ごめんなさい」
 それは、たった今騒いでしまった事以外に対しての意味合いも込めた謝罪だった。それが伝わるはずも無いのに、わたしは誤魔化す様に、ただそう言うしかなかった。そのまま、顔を反らして、俯いてしまう。
 しばし間を空けてから、芹沢はこちらの肩に手を置いて、口をこちらの耳元に寄せて、そっと語り掛けて来た。
「……悩みがあるのなら相談に乗るけど……痣とはどうも違う感じだからね。一応確認しておくけど、あなたは家族から虐待されているの?」
 彼女の言葉は真剣だった。興味本位で尋ねているのではない事は明白だった。
「いいえ……違います。わたしは病気なんです。あの傷や傷痕は病気が原因なんです」
 確かに、それは納得の行く形で得た傷痕ではなかった。そういう意味では、ある意味それは虐待痕とも言えた。だが、それは言えなかった。言えば、一族の多くの者が困る事になる。そうなればわたしもただでは済むまい。何より、呪いと言う非科学的なものが原因だと言った所で、誰が信じてくれようか。
「……ごめんなさいね。例えこっちが幾ら普通に接しているつもりでも、それだけで傷付けてしまう場合もあるからね。そこは謝らせて」
 彼女は最初から一切の差別感など交えず接してくれていた。わたしはようやくそれを理解した。
「……いいえ。助けて頂いて、感謝します……」
 少なくとも、この言葉には他意は無かった。純粋に沸いて出た、心からの言葉の積もりだった。

 もうじき茜色の時間が終わってしまう。そうすれば夜が訪れてしまう……それは、何もかもが望まぬ形のプレリュードだった……――

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