小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第七章  青きセレナーデ

 ――夢を見ていた気がする。けれどもその内容は覚えていない。
 深い眠りから覚め、のそりと上半身を起こす。頭がスッキリとしていた。
「……ここは?」
 つい先程まで、誰かに……“母親”に頭を撫でられていた気がした。そっと温もりを伝えるかの様に、柔らかい手の平が額に優しく触れていた気がしたのだが……やはりそこに母はいなかった。
 周囲を見渡すと、そこは保健室だった。敷居のカーテン越しの向こう、そこには養護教諭らしき影が机の前に座っているのが見えた。
 のそのそと起き上がり、床の上に揃えて置かれていた上靴の上に降り立って、そのまま履く。その動作をしているだけで、向こうはこちらに気付いた様だった。
「――おはようさん。よく眠っていたわね」
 上靴を履き終えて、顔を上げると、眼鏡の養護教諭がカーテンを開いて立っていた。
「あの娘は無事目を覚ましたわよ。急いでいる様だったから、もうここにはいないけれど。手紙を預かっているから。はいこれ」
 養護教諭はこちらに一枚の紙片を手渡した。それを開いて見ると――

 ――御世話になりました。感謝しています。――

 簡潔な文章だった。そして、それはとても綺麗な字だった。一目だけ見た時に抱いた彼女の印象と同様に、飾り気が無いのにどこか目を引く文字だった。
「あの娘、後日改めて御礼を言いに窺いますって言ってたわよ。家に電話して、お姉さんに住所と電話番号を教えても良いって了解は得られたから後日来ると思うから」
 それを聞いて、スルスルと体から力が抜けて行く……自分はやり遂げたのだと、ようやく気付いた。
 助けた後の事は何も考えていなかった。そして、特に何も期待していなかった。人を助けても、何かをやり遂げても、劇的に何かが変わる事なんてありえないのだから。
 それでも良かった。今この時だけは、この満足感だけで十分だった。
「――先生、お世話になりました。今日は本当にありがとうございました」
 養護教諭に対し、その場で深く頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ。こちらも助かりました。お陰様で“保険医”ではなく“養護教諭”としての仕事をする事が出来ました」
 ふふっと、抑え気味に笑いを漏らしながら、養護教諭も頭を下げ返してくれる。
 意外と知られていないが、保険医とは保健室の先生とは全く別の職業である。自分は、実はその事は知っていた。だからこそ、あの時“先生”と呼んだのだ。
「守野青羽君ね。覚えたから。守野君も早く私の名前を覚えてね?」
 ギクリとした。
「あ……はい……すいません」
 名前を知らない事に気付かれていたのか。顔が赤くなるのを自覚する。誤魔化す様に、そのままうつむいていた。けれどもすぐに思い当たり、言い返す。一番恥ずかしいのは、それを挽回しようとしない事だと気付いたからだ。
「――すいません……実は先生の名前をまだ覚えていません。良ければ教えて下さい」
 言い訳するだけ無駄だ。この手の性格の女性に対しては、取り分け目上の女性に対しては、素直に謝って、非を認めるのが一番良い。結果的に、それが一番早く許される事に結び付くのだと、“自分の姉”を通してよく知っていた。
「そうよね――」
 今度はクスクスと笑いながら、“保険医”ではなく、“養護教諭”は口を開いた。
「――入学式の自己紹介一回だけじゃ覚えらんないよね。しかも一度も利用した事が無いならなおさらそうよね。では改めまして、私は養護教諭の芹沢ひばりと申します。以後、お見知りおきを。とはいえ、医者や保険の先生とは一度も顔を合わせない方が良い事ではあるんだけどね」
 その通りだった。出来る事ならば、保健室のお世話になる事は一度も無い方が良いのだ。
 自分は改めて彼女――芹沢ひばり先生にお礼を言い直す。
「芹沢先生、今日は本当にありがとうございました。次に学校へ来た時は、改めてお礼を言いにうかがいます」
 少しだけ、最後に言った言葉に矛盾を覚えなくもない。けれども、どうしてもまたお礼が言いたかったのだ。日を跨いでからも、改めて今日のお礼が言いたかったのだ。あの人は……自分だけじゃ助けられなかったのだから。
 それは、どこか仲間意識に近い感覚だった。教師に対して抱く感情としては相応しくないかもしれないが、それでもこの場合だけは、それが許される気がしたのだ。



 守野家は車を持たない。だからわざわざ誰かが車で迎えに来てくれるなんて事はありえない。まして、歩いてほんの十数分の距離である。タクシーを使う事も先ず持ってありえなかった。タクシーを探すか、あるいは呼んで待っているかする内に、歩いて帰っていれば家に着いてしまうからだ。
 ガラスの玄関扉の向こうを見れば、もうすっかり暗くなってしまっていた。下足入れのロッカーが立ち並ぶ玄関も灯りが落とされて、同様に真っ暗だった。
 感覚的にそれを探す……大体この辺か。横を向いて、ロッカーに向き直る。するとそこには『守野』と書かれた下足入れの蓋があった。
(――体は覚えているんだよな……)
 今自分が思考した言葉を引き金に、ふと、それを思い出す。額に触れて、前髪を摘まみ上げる。寝ている時に頭を撫でてくれたのは、もしかして芹沢先生であったのだろうか?
 ――多分違う気がした。
 ロッカーを開くと、何かが乾いた音を立てて足元にカサリと落ちた――デジャヴュだった。昨日、自分はこれと同じ事をした。手紙を差し込んだのは三森水穂のロッカー。呼び出した場所は校舎裏。
 その紙を拾い上げ、開くと――

 ――屋上で待っています。大切な御話があります。必ず来て下さい。貴方に助けられた者より。――

 ほんの少しの寒気が走るのと同時、興奮が生じた。それとは別に、あらぬ期待感を抱いてしまう事に、自己嫌悪感を抱いてしまう。……男って最低だ。つくづくそう思う。
 その時だった――左腕が、確かに、ドクンと鼓動を打った。次いで、すぐに引きつる様な痛みと、こそばゆさと、おぞましさを感じる冷気が走った。
 包帯が赤黒く染まり始めていた。ジクジクと傷口が膿んでいるかの様な痛みが新たに走るのと同時、それに同調するかの様に、ジワジワと包帯が血に染まって行く……気付けば、額に脂汗をかいていた。
 ――これは……何だ?
 得体の知れない恐怖感と焦燥感とが、思考を支配していた。ただ、何故か、その時すぐに、次いで思った事は――手紙の主の事だった。
 彼女はわざわざ自分にお礼を言うために待ってくれていた。あんなに具合悪そうにしていたのに。きっとまだ本調子ではないだろうに、それでも自分と話をしようとしてくれている。
 自分はそれに応えねばならない。傷の調子が悪くとも、体の調子が悪くとも、彼女を残して帰る事は出来なかった。
 そう思えば、体は勝手に動いていた。再び廊下へと戻り、左右を見渡す。今朝そうした様に、彼女を探す時に選んだ時同様、右を選んだ。
 右の端まで歩き、曲がる。そこにある階段を一つ、二つと上って行く。三年生の階、二年生の階、一年生の階を更に越え――ようやくそこに行き当たる。
 本来であれば、施錠されているはずのそこ。けれどもそこは開けっ放しであった。ドアノブが取り外されて、近くに転がっていた。それを見ても、不思議と怪訝には思わなかった。
 招かれる様に、誘われる様に、魅入られる様にして、自分はそこへ足を踏み出していた。
 そこには――無音の強風が吹いていた。
 フェンスで囲われている屋上。そこから夜景が見えた。
 屋上の中心まで歩みを進め、立ち止まる。そこで周囲を見渡した。誰もいない。ふとそれに思い当たり――背後を振り返り、仰ぎ見た。
 自分が今出て来た、屋上へと通ずる扉のその真上。そこには、給水タンクに片手を付いて、月を背にして、こちらを見下ろす黒い服装の女性が立っていた。
 その時自分は思ったのだ――ああ、こういうシーンってよくあるよね。物語のお約束と言うか――と。
「――はじめまして」
 彼女はそこから飛び降りた。ストンと音を立て、片膝を付いて、しばし衝撃に耐え、すっくと立ち上がる。それは体重を感じさせない、何とも軽やかな着地だった。
 先ず自分が言った言葉は――
「……そんな所から飛び降りたら危ないですよ?」
 下着も見えますよ――とは口にはしない。どの道、暗くてよく見えなかったのだし。だから自分は無罪のはずだ。見えた所で、罪悪感の方が勝るのだし、見えなくて良かったと思う。多分……
「……格好付けていた訳じゃないわ。もし貴方がここへは来ずに帰ってしまっていたら、すぐに後を追える様に、高い所から校門の方を見ていただけよ」
 彼女はそう言うと、顔を反らしてうつむいてしまう。そして、モジモジと、右手で左の二の腕をさすり始めた。照れているのか、恥ずかしがっているのか、あるいはその両方か。何とも判り易い仕草だった。
 それを見て、自分も居辛さを覚える。
 ――……どうすればいいんだこれ?
 彼女は潔癖で淑やかそうな印象とは裏腹に、行動的な人だった様だ。スカートなのに、まさかあの高さから颯爽と飛び降りて見せるとは。とても意外だった。
 今目の前にいる彼女には、朝の弱々しさは微塵も感じられなかった。だが、不思議と、枯葉に覆われて眠りに就いている時に感じた儚げな印象だけは、今も変わらず持ち続けていた。
「すいません。もしかして怒らせちゃいましたか?」
 それを聞くなり、彼女はすぐ様顔を上げる。今初めてそうなりましたと言わんばかりに、はっきりと眉間に皺を寄せ、こちらを睨み付けて来た。
(――あれ? こっちが失言だったかな……)
 そうだったのかと、それに思い当たる。彼女の不機嫌そうに見える目付きは、もしかすれば、素なのかもしれない。長い睫と、切れ長の目尻がそう見せていただけなのかもしれない。
「わたしは元からこういう顔よっ!」
 ――ああ、本当にどうすればいいのか教えてくれ。誰でもいい。頼むから解答を教えてくれ。ノートの端に書いて、それとなく教えてくれ。
「貴方、初対面の人間に喧嘩売ってるの?」
 そこまで聞いて――何故だか、そうしてしまっていた。
「ふっ……ふふふ……」
 これ以上声に出して笑っては失礼だと思い、口元を押さえて、彼女から顔を反らす。けれども、再び彼女が口を開いて怒りの声を上げ様とする前に、自分は口を開いていた。
「――元気になって良かった。安心した」
 左腕の痛みは、最早完全に消えていた。あるいは、感じなくなってしまっていた。体が軽い。今なら幾らでも走れる気がした。
 元気な女性の姿と言うのは、見ているとそれだけで癒されるものなのだ。力が湧いて来るものなのだ――隣の席の少女から、いつも元気をもらっている様に。
 彼女は一瞬驚いた様な顔をして、次いで、また顔を反らしてしまった。やっぱり、左の二の腕を右手でまたさすっている。どうやらそれは、彼女の癖の様だった。
 その時、彼女の濡れ羽色の長髪が、夏の夜風をはらんで広がった。それにより、一瞬だけ彼女の全貌が隠れてしまう。
 風は更に吹き抜けて行く。時折、彼女の、目や、口や、鼻が、髪の隙間から覗いて見えた。そんな最中、口元だけがそっと動いていた。風音に掻き消されないギリギリの音量が、そっとこちらの耳元に届いた。
「――ごめんなさい……」
 次の瞬間には、深く、彼女は頭を下げていた。それは全力の謝罪だった。少なくとも、自分にはそれがそうだと判った。先程声を荒らげてしまった事とは別に、彼女は何かについて、こちらに酷く詫びていた――あの時の三森水穂の様に。
「あの……よく分からないけれど、気にしてませんから。さっきは自分も失礼しました。お姉さんが元気なら、それで良いんです」
 本当に何とも思っていないという事が少しでも伝わる様に、自分は口元を綻ばせ、歯を見せて微笑んでみた。その笑い方もまた、三森水穂から学んだものだった。
 彼女はふるふると、ゆっくりと頭を振る。
「……違うの、そういう事じゃないの……本当にごめんなさい――」
 自分は――呆気に取られると同時、戸惑ってもいた。初対面の女性から、しかも助けた女性から、礼ではなく、謝罪をされる事態に。
 それは、生まれて初めての経験だった。



 ――コツン、コツンと、階段を上って来る足音が聞こえて来た。やがてその足音の主は姿を見せた。わたしの足下。開かれた扉から屋上へと出て来た。
 彼は一度屋上の中央辺りまで歩を進め、周囲を見渡した。感の良い事に、すぐに振り返り、こちらを仰ぎ見た。
 彼と目が合うと同時、わたしは反射的に口を開いていた。
「――はじめまして」
 そして、胸の中に湧き上がった未知の衝動を抑えられなくて、思わずその場から飛び降りていた。
 頭が真っ白だった。言葉がそれ以上出て来ない。わたしはこれから彼に謝罪をしなければならないのに。それに、何だって飛び降りてしまったのだ。もしかすれば、今ので下着が見えてしまったかもしれない。
 目まぐるしく思考しているわたしに対し、彼が先ず言った言葉は――
「……そんな所から飛び降りたら危ないですよ?」
 何だろう。癇に障る言葉だった。プライドを傷付けられた気がした。自分よりも年下の相手から、諭される様な口調で言われてムッとしない人間はおるまい。
「……格好付けていた訳じゃないわ。もし貴方がここへは来ずに帰ってしまっていたら、すぐに後を追える様に、高い所から校門の方を見ていただけよ」
 それは本当だった。もし来てくれなければどうしようかと思っていた。それでも彼は来てくれた。それが嬉しかった。
 まだわたしの頭は真っ白だった。何故だか少年の顔を直視出来なかった。顔を反らしてうつむいてしまう。縋る様にして、わたしは右手で左の二の腕をさすっていた。
 けれども、彼は意外な事を口にした。それはおよそ、想定していない返答だった。
「すいません。もしかして怒らせちゃいましたか?」
 それを聞くなり、わたしはしばしポカンとしていた。だが、すぐ様顔を上げ、彼を睨み付けた。今度こそ、本当に。
 確かにわたしは人を睨んでいる様な目付きをしている。けれどもそれは、元からそういう顔付きなのだから仕方ないではないか。
「わたしは元からこういう顔よっ!」
 ――ああ、どうしましょう……本当にどうすればいいの? 誰かわたしに男子との話し方を教えて。
「貴方、初対面の人間に喧嘩売ってるの?」
 わたしは誤魔化す様に、なおもそう言ってしまっていた。どんどん深みにはまって行くのが分かる。けれども止められなかった。またも失言をしてしまった。もう自分ではどうしようもなかった。
 そう思っていると、彼は突然笑い出した。
「ふっ……ふふふ……」
 笑いを堪えようとしているのは分かるのだが、それは露骨に笑うよりも失礼な笑い方だった。口元を隠して、顔を反らして笑うなんて、最高の侮辱だった。
 けれども、その一言を聞いて――あっさりとわたしの毒気は抜かれてしまった。
「――元気になって良かった。安心した」
 違う――彼は端から悪意なんて滲ませていなかった。浅ましい思いを抱いていたのは、わたしだけだった。
 散々怒鳴られてなお、彼はこちらに笑い掛けてくれる。こちらの体を案じてくれている。
 わたしはその時、胸の中で、たった一度だけ――トクン……と、鼓動が鳴ったのを確かに感じた。彼の表情は眩しかった。わたしを助けてくれた時に付いたのであろう左頬の傷は、醜くもなお、勲章の様に輝いていた。
 彼の、何もかもが眩しかった。誠実さが。言葉が。表情が。傷痕が。男子とは、例え背が低くとも、年下であろうとも、ここまで眩しく見えるものであったのか……それに比べ、わたしは……
 ――その時、わたしの髪が、温かい夜風をはらんで広がった。それにより、彼の姿が一時の間、幾度も見えなくなってしまう。
 風はなおも吹き抜けて行く。それは救いだった。わたしの罪悪感や羞恥心を隠すには好都合だった。風が吹く事で、髪がわたしの表情を隠してくれる。
 彼を直視しないでも許される今だからこそ、それを切っ掛けとした。わたしはそっと、呟いていた。風音に掻き消されそうな程に小さく、ボソリと、か細い声音で、そっと囁いていた。
「――ごめんなさい……」
 わたしは、深く、頭を下げた。それは全身全霊を掛けた謝罪だった。
 彼が息を呑むのがわかった。すぐに言い繕って来る。
「あの……よく分からないけれど、気にしてませんから。さっきは自分も失礼しました。お姉さんが元気なら、それで良いんです」
 本当に何とも思っていないという事が少しでもこちらに伝わる様にと、彼は口元を綻ばせ、歯を見せて微笑んでくれる。その笑顔は……太陽の様だった。
 暑い日差しを放つギラ付いた太陽などではなく、それは温もりだけを与えてくれる太陽だった。
 わたしはそれを見て、自分との違いに、その対比に、ショックを受けていた。気付けば、頭を振っていた。
「……違うの、そういう事じゃないの……本当にごめんなさい――」
 それは――夏の日差しよりもなお、眩しく見える太陽であった。

 セレナーデと言う言葉の意味を、わたしはふと、思い出していた……
 セレナーデ――その意味は小夜曲。それとは別に、もう一つの意味がある。
 それは、女性を讃える曲、あるいは、その様。
 醜く喚くわたしを前にして、なおもこちらを真っ直ぐに見詰め、真っ直ぐな言葉を向けてくれる少年……まさかこんなわたしに、そんな言葉を傾けてくれる者が現れるなんて……
 それは――青きセレナーデだった。

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