小説『π>ψ』
作者:馬頭鬼()

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 〜 伍 〜


 ……正直に言おう。
 この学校でやって行けそうな気がしていたのは、間違いなく錯覚だったと。
 あの決闘から一週間が経過した今ならそう断言出来てしまう。

「あ、亜由美、おはよう」

「……ふんっ」

 どうやらまだ怒っているらしい。
 朝食を取りに寮内で亜由美にばったり出会ったというのに、挨拶一つ返してくれない。

「あ、奈美ちゃん」

「……ごめんなさい」

 今度は奈美ちゃんにまで逃げられる俺。
 正直、彼女の逃げ方が一番辛い。
 何しろ、泣きそうな顔をしているから。告白して断られた時みたいだ。
 ……告白なんて一度くらいしかしたことないけど。

 ──あの時もこんな顔されたっけ。

 女の子の泣きそうな顔で連想してしまたのか、俺は自らの黒歴史の中でもかなり上位の経験を思い出してしまった。

「あ、エロ師匠やないか」

「近づくと胸揉まれますね」

「逃げる」

 と、三人娘もさっさと俺から離れて行ってしまう。

 ──誰もAカップ以下なんて揉まねぇよ!

 ってな叫びをあげたいのだが、多分、それをやっても逆効果だと分かっているので、叫びを必死で堪える俺。
 兎に角、この一週間一年二組の教室内では、俺は足フェチでパンチラ好きで胸を揉むセクハラ魔人であるとの評判が飛び交っていたのだ。
 正直に言って……俺は自分について回る、この間違った風評を否定したてしょうがなかった。

 ──だって、そうだろう?

 間違ったままの噂を流れたままにしておくのは、間接的に嘘を吐いているのと変わりない訳だ。
 それは、正直者を目指す俺にとって許せない行為だった。
 だが生憎と、女子たちは誰も俺に話しかけてくれず、正直者であろうとする機会すら与えられないのが現実だったが。

「あ、エロい人だ」

「セクハラされるとイヤだから逃げましょ」

 そう言って去って行ったのは、吉良光と由布結の二人だった。

「あ、雷香さん、おはよう……」

「……」

 残った一人のPSY能力者である稲本雷香に至っては、俺から逃げることはないものの、そもそもの会話すら成立しない始末で。
 と、まぁ、そんな訳で俺はあの決闘から一週間の間、ずっと女子から避けられている訳だった。
 ……何が辛いって……PSY能力者と普通人の差別問題っぽい雰囲気だった一週間前よりも、俺を避ける相手が多いってのが辛い。
 あの時はまだ親しかった相手……亜由美も奈美ちゃんも俺とは普通に喋ってくれた訳だから……今の状況はちょっと心がへし折れそうで。

「……自業自得」

 と、俺の背後にはおっぱい様がいつの間にか忍び寄っていた。
 出会ってから二週間以上が経過したというのに、未だにこの絶景を眺める感動は薄れることなく……

「……やめて」

 俺の視線か、それとも思考を読んだのか。おっぱい様は上がってきた二つの腕によってお隠れあそばされた。

「……ずっと思っていたけど、和人の敬語、変」

 いや、そりゃ、まぁ、あんまり敬語なんて使う機会なかった訳で。
 武道では礼に始まり礼に終わるとかいうらしいけど、曾祖父の教えてくれる「礼」はあくまで対戦相手や神棚に向かう敬意であり、曾祖父は敬語という口先だけの礼なんて教えてくれなかったのだ。

「……それより、おはよう」

「あ、ああ。おはよう、な、奈々、さん」

「何度も言うけど、『さん』は要らない」

 少しだけ遅れたものの、いつも通りに朝の挨拶を交わす俺たち。
 ちなみに彼女だけは今までと同じように話しかけてくれていた。
 その胸囲とカップサイズはまさに心の余裕の表れ、精神的な豊かさの象徴と言うべきなのだろう。

 ──と言うより、他の連中がそのバストのサイズに比例するかのように、不毛の荒野とも言えるほどに心が貧しいのが悪いんだよな。

 俺はそう心の中で貧乳連中に苛立ちを向けると、真正面のおっぱい様をしっかりと見据え、心の中でその素晴らしき二柱の神々が与えてくれる、俺の心に安らぎを与えてくれるというご利益に、感謝の気持ちを込めて拝む。

「私は最初から和人の本性を知ってるだけ。
 別に今更幻滅する必要もないし」

「……そう言うなよ、な、奈々」

 ちなみに、俺はこのおっぱい様と普通に会話は出来ても、未だに正面向いて「数奇屋奈々」の名前を呼び捨てにすることに慣れていなかったりする。
 はっきり言って、おっぱい様を軽んじるような態度は苦手なのだ。

「……その割には鷲掴みにした」

「……うぐ」

 そんなおっぱい様の言葉に俺は何も言い返せない。
 実際のところ、今までの俺ならDで十分だったし、どんな経緯があろうとも、どれだけ殴られようとも……檜菜先輩に交際を申し込むくらいはしただろう。
 それで、中学時代には痛い目にあった訳だし。
 ま、今から考えると「その乳が気に入った。俺と付き合ってくれ」と堂々と教室のど真ん中で宣言したら、そりゃ嫌われて当然だったのだろう。
 いや、男子一同からは勇者扱いされたけどさ。
 しかし、この女子一同に嫌悪されているこの状況……暗黒の中学時代が戻ってきたようだった。

「……で、何で交際を申し込むのが鷲掴みになった訳?」

 二人並んで食堂へ向かい始めた頃、いきなりおっぱい様に尋ねられた。

 ──えっと、何の話、あ、檜菜先輩のDか。

 実際、考えるまでもなく、その理由は極々簡単なことだった。
 ……世界の中心にあるという、まさに須弥山とも言うべき絶景を見たからだ。
 人類がそこまで到達できると、その可能性を示すが如く、素晴らしい景色。
 まるで月面にニール・アームストロング船長が踏み出したという第一歩に匹敵する。
 そう、目の前で歩くリズムに合わせて揺れているソレは……まさに奇跡そのものなのだ。
 ……え? 並んで歩いているのに、何故目の前かって?
 隣に国宝級の宝があるというのに、俺が前なんて見て歩く訳ないだろう?
 そして、奇跡を見た以上、檜菜先輩のDの価値は俺の中で相対的に大暴落。
 石油が流通し始めた後の、石炭のような状況だった。
 そういう訳で、今までの俺の価値観は崩れ去り……Dは不可侵領域ではなくて、触れたい禁断の果実レベルに下がってしまった訳だ。
 だから、ま、つい、その、出来心だったのだ。
 ちなみに、新たに不可侵領域に認定された神器は、今目の前にある。
 流石に触れるのは恐れ多く、こうやって眺めるだけでお腹いっぱいである。
 ……そう。
 まるで、世界遺産や国宝を目の前にした観光客のように、見るだけで精一杯。
 触れようなんて恐れ多くて考えられない気分だ。
 世界遺産や国宝なんかを落書きとか窃盗とか、よくそんな行動を取れると逆に感心してしまう。その神経が信じられない。

「……はぁ、相変わらず」

 おっぱい様がため息に併せて微かにたわむ。
 それだけで精神的にはお腹一杯なのだが、肉体的にはそうはいかない。
 揃って食堂に着く。着いた途端に、食堂中から放たれる冷たい視線。

 ──キツいなぁ、やっぱ。

 こういう時、女子が殆どの学校というのを辛く感じてしまう。
 何しろ、女子を敵に回したということは、全校生徒が敵に回ったに等しいのだ。
 ま、本当に全校生徒の全てが敵に回った訳じゃない。
 例外として後ろのおっぱい様と……

「兄貴! 席、取っておきました!」

 食堂中に響き渡る声。女性っぽいけど、女性じゃない。
 この学校で俺を除く唯一の男。鶴来舞斗だ。
 アレ以来、コイツは俺に話しかけてくれる友人の一人になっている。

「だから、兄貴は辞めろって」

「いえ、あの檜菜さんの乳を鷲掴みにする勇気、尊敬しています!」

 ……そういう事を大声で言うなよな。
 食堂中の視線の温度がまた下がった気がする。
 尤も、コイツはコイツで、あの騒動でクラス内の地位を完全に失ったらしいから、俺と話したがるのも分からなくはないのだが……そういう勇気を尊敬されても嬉しくない。

「うわ、委員長、大丈夫かい!」

「また、食堂で委員長が倒れました!」

「衛生兵!」

 遠くでそんな叫びが聞こえてきた。
 どうやらまた委員長が倒れたみたいだ。これでこの一週間の内に三度目である。
 どうやら舞斗のヤツが使う「兄貴」ってフレーズに弱いらしい。
 でも、食堂で血まみれになるのは止めて欲しい。流石に食欲が失せる。
 ……女性陣は意外と平気に食べているみたいなんだけど。
 ちなみに、俺の今日の朝食はA定食。
 朝は和食しか受け付けない。朝に米を食べないと力が入らない気がする……ってのは曽祖父の言葉だけど、何故か俺もそんな気がしているのだ。
 


「……久しぶりだな」

「あら、舞斗、元気でしたか?」

 食堂から出た俺たちに、声がかかる。
 振り返ると、舞奈さんと、彼女に車椅子を押される檜菜先輩の姿。
 二人とももう制服に着替えている。
 尤も、一年生は大体の生徒が食堂を利用する際には制服に着替えているんだけど。
 これが、二年生くらいになると、寝巻きのままで食堂に来る剛の者が現れ始めるとか……そういう意味じゃ、先輩達が制服姿ってのは珍しいとも言える。
 つまり、これは、俺たちを待ち構えていた可能性が高いということだ。

「う、あ、おはよう、ございます」

「あ、ああ。うん、おはよう」

 ぎこちない挨拶を交わす俺たち。
 何しろあの決闘……もとい、彼女のそれを揉んで以来、言葉を交わすのは初めてなのだ。
 そして、彼女のD……もとい、顔を見る度に手のひらに残っている感触を思い出してしまう。

 ──柔らかかったな〜。 

 そう俺が内心で呟いた、その瞬間だった。

 ──っ? 痛い!

 いきなり脚を踏まれる感触に俺が振り返ると、そこにはDによる追随を許さないほどたわわに実った、素晴らしきおっぱい様が。
 俺はD以上の存在を目の当たりにすることで何とか正気に返る。

 ──危ない危ない。

 正直、あの二つのDをアレ以上眺めていたら、下手すると繪菜先輩にプロポーズしていたかもしれない。
 それほどの引力がその二つの乳房には存在していた。

 ──D程度に目が眩むようではまだ未熟。

 背後のおっぱい様を目に焼き付けながら、俺は内心で静かに自戒する。

「で、何か用か?」

 Dに一瞬でも眩んだ自分を戒めるかのように、落ち着いた声を出したつもりが、どうも他人行儀っぽい声になってしまう。
 でも、一度殴りあった相手に向けて、先輩とは言え今さら敬語を使うのも変で、どうもこの先輩とはどう話せば良いのか、今一つ距離感が掴めない。

「ああ。ちょっと、な。これから、屋上へ来て貰いたいが、大丈夫か?」

 檜菜先輩は俺のタメ口を気にした様子もなく、そう告げる。

 ──えっと、まだ朝一だけど、授業はどうするんだろう?

「授業は大丈夫だ。教師に話はつけてある」

 俺の疑問を打ち消すような檜菜先輩の声。
 先輩ってホント察しが良いよな。
 俺の背後でその凄まじい存在感在を誇っていらっしゃるおっぱい様と同じように、精神感応能力でもあるんじゃないだろうか?

「あら、舞斗、何処へ行くのかしら?」

「い、いや、姉さん、ちょっと、授業の準備を……」

「私を見て逃げるような、そんな子に育てた覚えはありませんよ?」

「う、うん」

 あ、見れば舞奈さんが舞斗のヤツを引っ張っていった。

 ──ありゃ、また説教だろうな。

 連れて行かれる子牛……ドナドナのテーマがよく似合うような哀れな瞳だったけど、Dという兵器を持つ繪菜先輩を振り切って舞奈さんに刃向うほどの気力なんて、今の俺にはない。
 哀れな友人に俺は静かに合掌していた。

「じゃ、行くか。押してくれ」

「はいはい。分かりました」

 檜菜先輩の言葉に頷き、素直に車椅子を押す俺。
 彼女の超能力があれば押す必要もない気はするけど、その辺は気分の問題なのだろう。

「……私は、外すわね」

「悪いな、数奇屋奈々」

 ああ、偉大なるおっぱい様が物理的に遠ざかっていっちゃいました。とほほ。
 仕方なく俺は車椅子を挟んだ向こう側にある二つのDに目を向ける。

 ──うむ。立派だ。

 少しだけ感動を覚えながらも、車椅子を押しながら俺はエレベーターに乗り込む。
 利用するのは初めてだが、車椅子を押しながら入っても、そのエレベーターの中は十分に空間的余裕があった。
 バリアフリー完備と言い……今考えると、恐らくこの施設などは全て檜菜先輩のためにある設備なのだろう。

「しかし、お前も変なヤツだな」

「……は?」

 動き始めたエレベーターに揺れるDを眺めていたら、突如、車椅子の先輩がそう呟いていた。

「普通、オレの能力を見たヤツはもっと脅えるもんだぜ?
 手が見えないってことは、いつ殴られるかも分からないってことだからな」

「……と言われてもな」

 繪菜先輩が言うような事態なんて考えもしてなかった俺は、そんな気の抜けた返事しか出来なかった。
 実際、それを言い出すと街の中なんて歩けやしない。
 通行人はいつ殴ってくるか分からないし、自動車はいつ車線をはみ出すか分からない。
 そんな危険が想定され続ける街の中で生活をしようと思ったなら、他の人たちの善意を信じるしか他ないのだ。

「……ったく。変なヤツだな。
 丸一年経った今でも、超能力に慣れてる筈のクラスの連中や教師たちでさえ……この無くなった手足に奇異の目を向けるってのに、お前はそんな様子すらありゃしない」

 中身のない袖を見せつけるように、繪菜先輩は腕を上げながらそう呟く。
 その声は何となく呆れたかのような響きと、何処となく嬉しそうな声が同居しているようだった。

 ──ただ、そんなことを言われても、何と言うか、その返事に困る。

 何か言いかえしてやりたいものの、語彙の少ない俺は上手く言葉を返せない。
 その上、下手な言葉を告げるとこの場の何もかもが全て台無しになるような、そんな空気がエレベーターの中に流れている。

「……別に、手があろうがなかろうが、先輩は先輩だろうが」

 結局、俺はそう返事を返していた。
 実際、そんなことなんて俺にとってはどうでも良かったのだ。
 ただ俺は、失われた手とか足とかに視線を向けたり、彼女の超能力に脅える暇があるくらいなら、目の前にあるDを眺める方が遥かに有益だと本気で考えていただけである。

「……あ、ああ。
 そう、なんだけどな」

 俺の返事を聞いた繪菜先輩は何となく呆けたような、そんな言葉を返すと、それ以上は口を開かなくなった。
 結局、それから屋上に着くまでの間、俺はエレベーターの僅かな振動で弾むDをその背後からじっくり眺めていたのである。

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