小説『月隠-ツキゴモリ-』
作者:Kiss()

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私が其れを耳にしたのは、花牢庵に通うようになって二年程した頃だったろうか。
座敷を離れ厠へ向かったときだった。


『痛いじゃないか!放せ!!』


突如として張り上げられた声に目をやると、二階の端から
男が一人、見世の若い衆につままれて出て来た。
男は頻りに大声を発し、元いたであろう奥へと戻ろうとしては取り押さえられる。

誰かの間夫(マブ)だろうか?
こういった場所にはやはりそういった輩はいるものだな、と私は気にも留めず
用を足し座敷へと戻ろうとした。

花牢庵は一階から二階へと中央が吹き抜け状態になっている。
階段を上がり二階へと戻った私は、何の気なしに先程男が騒いでいた廊下を見た。
然し、吹き抜けを挟んで向かい合ったその場所に座敷等は存在しなかったのだ。
否、正確にはあるのだがどうにも妙な違和感を感じる。

何故そう感じるのか…。

座敷へと戻った後も思案し続ける私に、花魁が困ったように笑いかけた。


『旦那。何をそんなに考え込んでいるんです?』

『いやね、先程其処で暴れていた者がいただろう?あれは誰かの間夫なのかい?』

『嗚呼…。あれはそんなものではありません。近頃此の花牢庵を嗅ぎ回っている犬に御座います。』

『犬…?』

『あい。“吉原細見”、旦那もご存知でしょう?』


【吉原細見】とは此の吉原遊郭をより楽しむ為の本のような物だ。
見世の名を記すだけでなく、其の見世毎の遊女の名や詳細な見世の場所まで詳しく記載されている。
本来なら【細見売り】が遊郭内で売るものだが、中には女達の批評を主として面白可笑しく書かれた物もある。
花魁の口ぶりを聞く限り、あの男はきっと後者なのだろう。


『その通り。立ち入りを禁じられたにも関わらず、ああして忍び込んでは内情を探ろうと嗅ぎ回る…。
 今のご時勢、野良犬だってもう少し品があろうかというもの。』

『此れは随分と手厳しい。』

苦笑いを浮かべる私に、普段は花も綻ぶ笑顔を向ける花魁は視線を落とし
何処か冷たさを孕む声色を漏らした…。


『…知りたいのはわっちらの事ではありんせん。秘め事は暴きたくなるのが世の常ならば、
 見たいのは“花”ではなく“月”でありんしょう。』

『月…?』


問い返した私の言葉に我に返ったのか、花魁は顔に笑顔を貼り付けて酒を勧めてきた。
然し私は気付いてしまったのだ。
此の娘は相当に気位が高く、幼き時分より身に染みた廓詞(クルワコトバ)を嫌う節がある。
故に漏らした言葉は彼女の本性の部分なのだと。

暫し沈黙が続き只酒を流し込んでいると、花魁の方から口を開いた。


『…何も聞かないのですね。』

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